2006年の投稿

よいお年を

Sekko · 2006-12-26 08:36:16 UTC+9 · 投稿 #102

ローマでお正月、いいでしょうね。私は、母と石垣島でお正月です。私は沖縄は初めてです。3年前に私の息子が母に那覇での正月をプレゼントしたので、今度はもっとディープなところになったみたいです。
今、聖ヨセフについての本を書いているんですが、聖ヨセフはカトリックで早いうちから「善き死」の守護聖人だったんですよ。死のシーンは福音書には出てこないんですが、聖書外典などを通してすごく有名だったんですね。イエスは彼の実子じゃなさそうだし、妻ともセックスレスの関係だったとされていて、普通に考えたら味気ない人生にも思えるんですが、血縁とか結婚じゃなくても、他者(聖母子)の人生に親密にかかわって他者の命の役に立てたということで、生と死が充実して完結したのかもしれません。イエスの生と死はそれをさらに先鋭化したと言えるのかも。血を分けた子を得て自分の財産を継承させたいなんていう願いの方がよくあることですが、そんな基準をぶっとばしている彼らが「聖家族」としてキリスト教社会のモデルになっていたことって、なんか新鮮だなあとこのごろ思ってます。
いかに生きるかといかに死ぬかは一続きなんでしょうけど、そしてキリスト教の伝統の中には善き死の準備みたいなのがずっとありましたが、事故とか天災で死ぬこともあるし、終わり方はなかなかコントロールできないと思うので、とりあえず生き方にポリシーを持っとくべきだなあ、とか思ってます。

Massimo from Amsterdam

massimo · 2006-12-26 02:26:14 UTC+9 · 投稿 #101

Shu no go-koutan oyobi shin-nen no o-yorokobi moushi agemasu. Watakushi wa ahita kara Roma de shin-nen o sugoshi masu. Takeshita-sama no rainen no go-takou to go-katsuyaku o o-inori moushiage masu.
Koko suujitsu, watakushi wa, "ika ni shinu ka?" to "ika ni ikiru ka?" itsuite kangaete imasu. Kitto sono hutatsu wa onaji koto ka, arui wa sugoku chikai mono dato omoi masu.
Tanoshii kyujitsu o!

これ何ですか?

Sekko · 2006-10-30 05:30:07 UTC+9 · 投稿 #99

下のこれって、「宗教」というキーワードに反応して来るスパムですか?
それとも、善意の警告メール? 「私のような若い者でも」とあるから若い方なんですね。
どうかもう少しリラックスして楽しいことを考えたりしてみてください。「無限の愛」ありがとうございました。

本来の環境保護に目覚めましょう。

聖アシジのフランシスコ(前世) · 2006-10-30 01:38:55 UTC+9 · 投稿 #98

私の独り言2006/最終内容。より多くの人に愛が届きますように!
これから私が話すことは、ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
何が正しくて、何が違っているという内容ではなく、まず私の主観をおつたえします。経済そのものが生きずまり、大変な状況のように思えますが、
景気も回復し大丈夫のように見た目ではそう思います。しかし、地球環境からして考えるに、起こっている社会の実態とスクラップ・アンドビルドは
個々の気づきを促し、それぞれのカルマが刈り取られ成功しているようにみえます。しかし、地球環境=経済の実態は密接な関係にあります。用は
日本国内においては多くの人が無駄に働き(非効率)、環境を破壊しながらエネルギーを生産、それを稼ぐために余分に働いているのが実態です。
神から出た無限のエネルギー(ソーラーパネル)は活用されず、金儲けの手段に成り下がり、豊かな国であるはずなのに、貧乏を好んでいます。
多くの国で稼いだお金は預金され、金が金を生むと金貨極上のごとく信じています。
無限のエネルギーを活用しなかったら、今後必ず、危機を生むことでしょう。
私が思い、涙が出てた内容は、悪の連鎖の行き着く先は、地球の崩壊はもとより宇宙の崩壊にいたることでいす。今の宇宙は7度目の宇宙です。
近隣の惑星の方に迷惑をかけることとなるでしょう。
全人類のカルマを日本人が全て刈り取るか、そのまま見ていて、最後の審判を拡大させ、多くの方の命を消し去るか。地上に天国を作るか、多くの人を本人が気づくまで待つて手遅れになるかです。
多くの富を抱え込んだまま、滅んでいく日本の姿は、世界の7不思議となるでしょう。
地球環境から見てもう時間がありません。お金もうけで地球は救えないのです。
まずは地球あっての、各個人のカルマの刈り取りが可能であり、地球あっての審判です。
スクラップ・アンドビルドとは悪の国アメリカのやり方です。
神の国日本は、創造的・破壊です。言葉の通り受け止めるべきだと思います。
創造が先です。でなければ、悪のエネルギー連鎖反応がおこり、その後は誰にも止められません。
経営上はスクラップ・アンドビルド有効です。
しかし、地球を消し去ってから取り戻せないと思うのです。


私のような若いものでも、財政赤字、北朝鮮核問題、省資源、過労働、殺人、犯罪。これらのすべての原因は一つだとわかります。、神の無限のエネルギーの蛇口をひねれば、地球は救われるのです。自分たちを救う前にまず地球が先です。地球あっての私たちです。ファチマ第3の予言も、因果の理法、エネルギー連鎖反応からして、地球の最後を女性の宇宙人が通告した内容です。
タイムリミットは、マヤ暦が終わる2012年12月22日、このタイムリミット地球崩壊をさすものではありません。
しかし、地球が崩壊しないとも言い切れません。私たちの未来は不確定性理論です。
これらのことは、地球に住まわせてもらっている私たちと宇宙との約束事です。
その約束を果たす時が来たということです。

ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、またある人には、生活には困らない。ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
ですから、人の話は、半分聞いておいてください。全てを信じたらだめです。あなたらいしすばらしい個性が無くなるからです。
あなたの良きインスピレーションにお役立てください。

一消費者より、無限の愛をこめて。

あるジャーナリストの死

Sekko · 2006-10-10 23:57:49 UTC+9 · 投稿 #97

日本では多分北朝鮮の核実験(地震とか誘発しないのですか?)のせいで目だっていないと思いますけど、先週末、チェチェンを支援しプーチンの批判をしていたロシア人女性ジャーナリストが自宅の前で銃弾を4発受けて暗殺されました。都合の悪いことを言われたら力で圧殺、ペンを剣で斬って捨てるというのは、宗教原理主義だけではありません。
「教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。」と古川さんは書いておられますが、これが誰が聞いてもごもっともでないところが問題なんですよ。「隣人は牽制、うちだけが大事」、「民族、宗教が違うと連帯なんて不可能だし、する気もない」、と思う人のほうが多いし、動物としての生存戦略としてもほとんど自然です。
そこを、あえて「不自然」な理想を唱えるのが宗教家だの「左派市民運動の女性」だのだとしたら、それは貴重なのではないかと今は思います。私も「市民運動家」とか風紀委員とか委員長みたいなのって苦手だったのですが、この時代、もしあらゆる宗教のリーダーがそろって「汝の隣人を愛せよ」と信者に言ってくれたら嬉いですよ。ローマ法王、あんたが目を吊り上げて暴力を糾弾し平和を唱えなくてどうする。
清濁併せ呑むキャパばかりが支配すれば、目を吊り上げて清を唱える人はいつの間にやら濁から殺されるのです。
まあ、実際の戦略は、突撃で解決するものではなく、交渉、取引、妥協とか、雌伏とか、いろいろやらざるを得ないのは当然ですが、それこそ、役割分担の妙があってもいいと思います。宗教家と称する人は、神の名で人を殺さず、理性と愛が大事と説けばいいし、感情をむき出しにして市民運動をする人や、ヒューマニズムに駆られて戦地に赴き人質になって国に迷惑をかける人がいてもいいのです。そんな人がまったくいなくなっちゃったら、その方が怖いですよ。だって、「清濁併せ呑む」技は、それこそ微妙なバランス感覚を研ぎ澄ませ続ける必要があって、「清」や「濁」に振れる人あってこその高度な技ですから。そして、「清」に振れる人を揶揄するより、「濁」に振れる人をきっちり批判しましょう。
まあ、古川さんの言ってること(相変わらずわかんないと言ってること)はなんとなく分かりますけど。でもまあこの話題はこの辺ですね。考えるタネに移民と奴隷の話を近くUPしますので、それについてまた感想を聞かせてください。

相変わらずよくわかりません

古川利明 · 2006-10-10 21:53:38 UTC+9 · 投稿 #96

皆さんの書き込みを読みながら、非常に世の中の現実から遊離しているなあと感じます。まあ、竹下さんはジャーナリステックなところもきちんと踏まえているので、たぶん、今度の教皇発言問題が、どういうところで世間を騒がせているかというのはわかっていると思います。教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。すごく私は、とりわけ左派的な市民運動にありがちな独善性と排他性を感じます。「反戦平和」だとか、「憲法改悪反対」だとか、誰の目から見ても文句がつけようのないフレーズを、目を吊り上げて言って、それで満足しきっているっていうのか(そういうのは、案外、女性が多いですよね。でも、別に女性一般がすべてそうだとは全然、思っていませんので、念のため)。たとえ説教のうちの全体のごく一部であれ、あのムハンマドの引用に、どうしてイスラム系の人たちが過敏に反応してしまったのか、そこに目をやって考えてみようとする精神のしなやかさと、想像力が欠けているのではないかと、私は思います。まあ、「マスコミ報道は低劣だ」と言うことで、自己を正当化するしかないんでしょうが、そんな姿勢でいると、より世の中から遊離してしまいますよ。なんていうんですかねえ、もう少し「清濁合わせ呑む」ようなキャパを期待するのは、私のないものねだりというものなのでしょうか(苦笑)

B16がくれたもの

KAORU · 2006-10-10 12:07:27 UTC+9 · 投稿 #95

古川様、あんとに庵さま、竹下先生。B16の発言に関する皆様のやりとり、勉強になります。
しかしながら(古川さんの疑問に答えることになりますが)、ものすごい論客たちを前にして話すべき内容を持ち合わせていないというか。
ただ、古川さんの『教皇として発言は慎重であるべきだった』というところは分かる気がします。どっかの知事が大学などの講演でこんな発言をしてた、というのを批判する記事はよくあるし、それを読んで私たちはいろんなことを判断します。でも、もちろん、皆さんのおっしゃるようにだからといってそれを暴力に結び付けてはいけないと思います。
B16の発言について、新聞などではほとんど詳しい内容は分かりません。たぶん私が読み落としているだけなのだと思うのですが、新聞を軽く読む限りでは『教皇の発言が一部のイスラム教徒に批判されて教皇は遺憾の意を表した』ぐらいにしか読めませんでした。だからマスコミの報道の仕方がおかしいというお話もなんだかピンと来なかったです。ただ、私はマスコミというものについてあまり信用していないので(つまりその報道の仕方は往々にして偏りがあり、世論を煽ろうとする傾向もままあると思っているので)、これがとても興味のある話題であったならいろんな方面から調べただろうなぁとは思います。そして、マスコミを判断する材料をまた増やしたことでしょう。
で、私は、宗教の世界もこの掲示板のようにガシガシ言いたいことが言えたらいいのにと思いました。暴力とかじゃなくて、例えとっかかりは揚げ足取りだったとしも、こんな風な言葉によるバトルはいいことではないかと思います。いろんな立場の人がいていろんな考え方があって、立場を変えればこうなるんだなぁ~って考える想像力ってとても大切で、それがなければ互いに寛容になれはしないですよね。暴力のない平和な世界を築くためのキーワードのひとつは寛容ではないかと思っています。
なんだか、脈絡のない文章でスミマセン。自分で言いたいこともよく分かってないし、それにも増して文章力がないんですけど、私も何か書きたくなっちゃって口を挟みました。
考える機会を与えてくれたB16に感謝です。

教皇職ということ

あんとに庵 · 2006-10-07 05:30:00 UTC+9 · 投稿 #94

sekkoさんと意見が多少異なるのですが、教皇職というのは一神学者ではいられないという厳しい立場であるとは思います。この点に於いて古川さんの仰る「果たして教皇として適切であったか」という問いには、やはり「教皇」として脇が甘かったというしかない。本来は自らの意見を述べる自由があるのは理想なのですが、現実としては人の命に関わるという難しい立場ですね。ですので古川さんの主張もよくわかります。

しかし暴力を前にいうべきことをいえないということは例えば信徒達が人質に取られているかのごとき状況下で暴力化していくナチズムへの批判が出来なかったあの時代へ逆戻りしてしまうといえます。この点に於いてsekkoさんが主張なさっている暴力を否定し、言論の自由を守るべきというご意見に賛同します。

一部の暴力的な人々のせいによって、ムスリムが誤ったイメージをもたれることもまた懸念します。

バイアスがある

あんとに庵 · 2006-10-07 05:12:22 UTC+9 · 投稿 #93

古川さんは、教皇文書を読まれたのでしょうか?
普通に国語力があればあれがイスラム批判が主眼ではないことはわかることです。

尚、私は教皇も当然批判しますよ。「神聖な教皇」なんてチャンチャラおかしいですね。教皇も間違いを犯す人間に決まってます。私の文を読んで教皇批判が出来ない人間だと判断を下すようなそういう感想しか抱かれないというのはきついようですが読解力を疑います。どうして今回の事件に関してマスコミ報道の仕方がおかしいといっただけで、そういうものの見方になるのか不思議です。それこそまさにある種のメディアコントロール下にあるというか、洗脳されたものの見方ではないかと思ってしまいます。

まずもって、イスラムの暴力を引き起こした報道の仕方は果たして正しい為され方だったのか?これは教皇文書をきちんと読むならば、イスラムに関連した文書のみ特化して持ち出し煽った方法論こそ問われるものではあるでしょう。
日本の報道に関してはあまりにも酷いとしかいいようがありませんね。これが逆にイスラムの識者、もしくは無神論者が同じようなシュチュエーションで糾弾されても私はその人をかばうでしょう。問題は「カトリックの教皇が批判された」ことではなく(教皇がくそなことを言えばわたくしも容赦なく叩きます)「発話者の意図を曲解」して反応した原理主義者やマスコミの受け止め方です。発話者がどういう立場であれ、本人の意図と関係なしに物事が一人歩きしてしまい、それが既成事実化するというのはメディアによく見られる現象です。

ですので今回の事件に関してはまさに報道の問題がまずあるでしょうね。
尚、教皇の影響力を大切に考えているのは寧ろ古川さんだという感じなのが面白いです。わたくしは教皇なんぞのいうことは普段はあまりいうこと聞かないほうなので、下らないことをいうならスルーしてしまうから今回も初めは真剣に受け止めませんでしたが、世の中のほうが大騒ぎになったので、真面目に注視してみたという感じです。

私の立ち位置は明快です

Sekko · 2006-10-02 23:18:05 UTC+9 · 投稿 #92

B16発言内容についての解説は、カトリック・ウオッチングに入れるために書いたもので、もともとカトリックの動きやB16の「文脈」に関心を寄せている人のためです。
今回の事件、カリアチュアからルデケールも含めて、私の信ずるところは単純です。なんびとも、その表現が犯罪を構成しない限りは、表現の自由を有するというものです。フランスで言うと、私文書、公文書の偽造や詐欺や誇大広告などはもちろん、人種差別撤廃法に触れるなどもそうです。名誉毀損は親告罪でしょう。しかし、フランスでは、カトリックの力が強かったことと戦ってきたという歴史があるので、宗教についての表現の規制は現在ありません。涜聖罪もありません。つまり、宗教や神や教祖や聖者について、どんなに悪口や偏見を書いてもそれだけでは罪を構成しません。特定の宗教リーダーについての悪口なら、その教祖が名誉毀損で訴えることも可能ですが。
つまり、今のフランスでは、たとえばアラブ人がアラブ人だということを理由に侮辱すれば差別罪に引っかかりますが、ムスリムと原理主義者とテロリストを混同しても、それは信教や思想のグループなので、罪になりません。言論上で議論がなされればいいことです。同時にイエスやマリアやマホメットや仏陀について悪意を持って書いても罪になりません。
保護する対象になるのは、自分で自由に選べないこと(障害者であったり、女であったり、肌の色が違ったり特定民族であったり、など)です。
フランスでも、王や神や教会の悪口や批判を書いて冒涜罪や涜聖罪になった時代がありました。今は違います。
聖書のここがひどいとか、コーランは暴力的だとか言うことは、間違いではありえても罪ではありません。公務員も、哲学教師のルデケールが学校で生徒や学生にイスラムの悪口を言ったら問題ですが、それでも、教育大臣は、内輪の勧告をすればよかっただけです。公に批判すべきではありませんでした。ましてや公務員といえども、一公民として、生徒でなく一般読者に向かい、一般新聞に署名入りで自分の考えを(たとえそれが妥当なものでなくとも)発表する自由はあるし、それがフランスで罪を構成していない限り、そのことで自由や安全をおびやかされてはなりません。
フランスの教育大臣は、その自由の保障こそ、世界に向けて発信すべきでした。世界には、特定権力の押し付ける冒涜罪や涜聖罪のある国がたくさんあり、そのような国で、権力を批判したり、基本的人権や男女平等を主張して投獄されたり殺されたりする人は多く、さらにもっと多くの人が、言論を封じられたり恐れながら生きています。自由と安全を望んでいるそんなサイレント・マジョリティたちは、ヨーロッパで起こっていることをどう見るでしょう。「空気を読む」ことや「原理主義者を刺激しない」ことが、表現の自由(挑発する自由、失言の自由、間違いを犯す自由も含むみます。古川さんの言うように、100パーセント正しい人はいないのですから。)に優先するかのような昨今では、原理主義的な少数者の独裁下で自由を奪われている人たちを絶望させるでしょう。そりゃあ、フランス人は、自国の大使館が焼き討ちにあったり、パリにテロが仕掛けられるのは嫌なので、原理主義者の神経を逆なでするのはよくないと思うでしょう。でもそれは、恐怖に負けたエゴイスティックな保身ですよ。
力がまかり通ると法は引っ込むんです。「法的な罪を構成しない限り表現は表現者の責任において自由である。」この基本に到達するために、キリスト教ヨーロッパは何世紀も血を流してきたんですよ。
だから、私は、その原則に立って、B16には謝罪の必要がないと言っているのです。内輪的には、巻き添えになって焼かれた教会や殺された修道女のためにも反省すればいいと思いますが、彼のように、内容的(イスラムを弾劾するものではなかった)にも文脈的(カトリック神学部内部での講義)にも、本質的な間違いを犯していない場合、彼が保守的宗教人間だからというだけで、その表現の自由と安全が制限されるものではないと思います。ましてや、過去にカトリックが異端審問や火刑や十字軍などいろいろな蛮行を犯してきたという理由で、今のカトリックのリーダーが基本的人権を制限されるべきではありません。それなのに、法王を糾弾しないとカトリック・シンパだからだと思われたり、あるいはルデケールのように、イスラムを糾弾すると狂信的なやつだ、原理主義者と同じ穴の狢で危険人物だと叱責されたりするのはおかしいのではないでしょうか。
宗教の経典がそれを生きる人間の世界と連動していくのは当たり前で、こんなにひどいテキストがあるなどと、外側からや内側から疑問や批判の声が上がることで、自己批判したり、解釈を変えたり、民主主義や基本的人権といった普遍的価値と折り合いをつける試行錯誤がなされていくものでしょう。モーツアルトのオペラでクレタの王がマホメッド(他の賢人もですが)を批判しているので上演禁止とか、シェイクスピアの「ベニスの商人」が反ユダヤ的だから上映禁止とか、歴史的文脈を無視して芸術表現を規制する動きもあります。心と精神を拡張しないと自由はありません。
宗教や軍事やイデオロギー独裁の多くの国で恐怖のうちに生きている多くの人々と連帯するために、今のフランスや日本のように表現の自由を保障されているはずの法治国家の表現者は、恐怖に負けずに正論を唱え続けるべきではないでしょうか。

よくわかりません

古川利明 · 2006-10-02 21:21:03 UTC+9 · 投稿 #91

ひとつは竹下さんの意見も読ましていただいたのですが、あまりにも長すぎて、主張されたいポイントが掴めないのが、まず、あります。「法王の発言の趣旨自体は正しい。しかし、引用等に不適切な部分があったのではないか」ということなのでしょうか? 明快さとわかりやすさを求めようとしている、竹下さんにしては、いつもの歯切れのよさがないように感じます。それはそうと、あんとに庵さんですが、「表現者の意図を曲解し、間違ったイメージをマスコミは流布した」とありますが、これはいったい具体的には何を指すのですか? 要は「マスコミの一連の報道は、ただの揚げ足取りで、そのことにより、神聖なる法王の名誉を傷つけたことは、許せない」という趣旨なのでしょうか。私はこの世に100%正しく、善なる人間はいないし、逆に100%間違っていて、悪い人間もいないと思っています。しかし、あんとに庵さんの考え方を推察するに(竹下さんも、このカトリック問題に関しては、どうも、少しそういう傾向があると思いますが)、「法王の言ってることは100%正しいのだ」という独善性のようなものを感じます。そこには、「批判」を受け入れる寛容性があまり感じられないのです。ひょっとして、今度の問題も「私たちは、いわれのない迫害を受けているのだ」というふうに感じておられるのでしょうか? そして、これだけ世界を巻き込んだアクチュアルな話題だというのに、ほかの竹下さんのファンの方々の書き込みがないのも気になります。賛成、反対、批判等々、いろんな立場から談論風発があっていいように思うのですが……。私自身の立ち位置、そして、意見はありますが、いろんな意見、もちろん「反対意見」を言う権利と自由だけは、絶対に守らなければならないと思っています。私は法王発言の存在まで否定しているのではないんです。でも、その発言を巡って物議を醸した背景にあるものは何なんだろうと、そこについていろいろと意見をぶつけることが大事ではないのか。そういうふうに思っているだけです。

公務員の責任

Sekko · 2006-10-01 06:38:38 UTC+9 · 投稿 #90

前回書いたロベール・ルデケールの話(組合の支援を得られないことについて)をフランス人にしましたら、公務員の発言は中庸で穏健であるべきだという教育大臣の言葉にあるように、公務員だからそういうことを書くべきではなかった、と猛烈に反論されました。国家公務員はある意味でフランスを代表する立場にあるのですから、外国にいる同国人(この場合はイスラム国にいるフランス人)を危険に陥れるような言動は許されなかった、と言うのです。確かに日本でも教員や裁判官はプライヴェートでも風俗に行ったり賭け事をしてはいけない、とかあったのを思い出しますが、それは品位の問題で、危機管理とは違いますね。イスラム原理主義がらみで殺された方は国立大学の先生でした。彼の場合は自分だけの被害でしたが。ルデケールの書いたものは確かにいたずらに原理主義者を刺激する口調でしたが、それが彼の信ずるところだったとしたら、署名記事だったのですから、書く権利はあったと思うし、新聞社が載せたということ自体の責任も大きいと思います。
B16もそうですが、つくづく、テキストとコンテキストということを考えさせられます。文と文脈。文も発言も、どういう時期にどういう場で誰に向かって発させられたのかを抜きにしては存在しません。その意味ではコーランの内容がどうとか言うのも同じで、福音書の中の平和主義者のイエスの言葉だって、文脈を無視して取り出したら、その辺のカルト宗教と変わらないものもありますから。B16がコンテキストを曖昧にしたまま歴史文献を引用したのは不用意であり、その発言をまた、コンテキストを抜きに取上げてプロパガンダに使う原理主義者は卑怯であり、その緊張状態の最中に、危機状況を読まず火に油を注ぐような発言をフランス公務員が書いて、それを載せた新聞も挑発と取られても仕方ないのかもしれません。
先週の月曜、ヴァチカンはヴァティカンにいるイスラム国の外相を全て招いて、対話路線の続行を強調しました。こういう対応を見ると、B16がただの「宗教の長」や「公務員」でなくて独立国の元首であることの強みを感じます。彼がぽかをしても百戦錬磨のスタッフがついてるし、テロに萎縮したり居直ったりしないで、逆に話し合いのきっかけにもって行くのはいい対応でした。B16のトルコ訪問も含めてこれからどう展開するか注目です。
トルコと言えば今日シラクがアルメニアで、アルメニア人のホロコーストを認めないとトルコのEU参加は不可能みたいなニュアンスでしゃべって、アルメニア人を喜ばせていました。ジャック・シラクでJ・C、イエス・キリストと同じイニシャルなので、その気になってすっかり博愛主義になったと揶揄されていました。

いや流石です

あんとに庵 · 2006-09-30 09:44:26 UTC+9 · 投稿 #89

しかしsekkoさんの16発言への所感は流石です。
べね16さんのあの回りくどいうにゃうにゃした文章よりずっと整理されていて判りやすいです。

古川様

あんとに庵 · 2006-09-30 09:40:26 UTC+9 · 投稿 #88

表現の自由を謳うマスコミが、表現者の意図を曲解し間違ったイメージを流布した。そういうマスコミこそ批判されてしかるべき一件でしょう。まぁマスコミ人が国語力がまったくないというか、知性がないというか、哲学思想の知識がかけらもないので理解できるトコに反応しただけかもしれませんが、そうでないなら意図的にそこを切り取って政治の場に教皇を引きずり出そうとしたことになりますね。そういう動きのほうを警戒したくなります。

これが逆転していたらどうだったんでしょうね。イスラム教徒の指導者がキリスト教に関する批判的とも言えることを言ったために西側諸国の人が暴力に出た。という構図だと。日本人なら暴力に出た西側の人間に怒りをぶつけるでしょうねぇ。

教皇発言は批判されてもいいけどそれはその言論、つまりここではあの神学講義に対して為されるべきであって、「周りに気を使え」倫理を持ち出すのは知的放棄の何者でもない。ましてやsekkoさんが仰るとおり言論に暴力を持って応じるはたとえどんなものであっても愚の骨頂です。

ただ。わたくしもブログに書きましたが、古川さんの仰るとおり「教皇職」というのは神学者でいることは赦されない。その辺りどう振舞うかは確かに問われるものではあるでしょう。(ただ、カトリック神学校の講義まで公的な対象者向け的なものとして扱われるってのは学の現場としては激しくつまらないなぁ。)

また、前教皇との比較、ステロタイプな評価等は、チョムスキーのいうまさになんらのコントロール下に置かれているとは言えます。前教皇は現教皇と保守性においてナニも変わりはない。表象に見えるポーズに騙されちゃ駄目です。前教皇はレーガン、もしくは小泉並の演技者です。

命を狙われる言論人

Sekko · 2006-09-29 19:56:50 UTC+9 · 投稿 #87

今朝、ラジオで、イスラミストから家族(妻と娘)もろとも命を狙われる哲学教師Robert Redeker が2日ごとに引越しする潜伏先でインタビューに答えているのを聞きました。B16がらみで、9月19日にFigaro紙の論壇で「イスラミストの脅しに対して自由世界は何をすべきか」という論考を載せたからです。次の日、チュニジアの内務省がこのフィガロを発禁処分にし、続いて、原理主義グループからの弾劾判決ファトワが発せられたのです。
私がショックだったのは、これについて、教職員組合が彼を支援しなかったことです。フランスには「哲学教師=無神論者=反カトリック=左翼=親アラブ」という根強い伝統があり、誰かがカトリックを批判することで教会や保守主義者から弾圧や統制を受けると、すぐに連帯して表現の自由のために戦います。しかし、そういう左翼インテリの伝統のせいでイスラム原理主義には脇が甘く、しかも、攻撃されたのが伝統的に彼らの敵であるローマ法王ということで、そのローマ法王をかばう形になったルデケールの記事に冷たかったということです。この哲学者は2001年の11月、の「ル・モンド」でもイスラム原理主義の批判をして、普通なら9・11の後でもあり無難だったはずが、やはり「イスラム嫌い」ということで哲学教師組合から追放されかねない騒ぎになりました。
ところが、実際、ルデケールは、フランスの「哲学教師=無神論=左翼」の一人ですから、今回のことも、別にローマ法王をかばったのでなく、表現の自由に対する暴力的反応に怒ったのだと思われます。確かに表現は少し過激でしたが、それによって、彼と彼の家族が命を狙われるというのはまったくの理不尽であるのは言うまでもありません。ルデケールは記事の内容については後悔していない、自分は充分に言葉を選んで書いた、と言っています。もちろん誰かが信念を持って何かを書いても、それが一部の人に忌み嫌われたり、誰かを傷つけたり、社会的に抹殺、糾弾、無視などされることはあり得るでしょう。しかし、それでも、少なくとも身体の安全は守られるというのが自由世界の最低の保障であるべきです。
たとえ、責任ある一国の長や大手宗教の長が「失言」しても、その個人や彼が代表する国やグループを即攻撃するなどが許されていいはずはなく、話し合いによる解決に向けて努力するべきで、ルデケールもそういう意味で論じたわけです。ラマダンの期間に入ったこの時期、一人の哲学教師が、共和国の中で、仕事も捨てて潜伏を余儀なくされ、妻子もおびえなくてはならないとしたら、まさに異常事態です。
だから私は、むしろローマ法王みたいに、独身で、選挙区や跡継ぎなど個人的に守るものが何もない人に、リスクを負って平和の正論をどんどん言って欲しいのです。でも、そのせいで罪もない修道女がアフリカで殺されることや、カトリック教会が過去に自由の敵で弾圧と暴力の装置だったからといって、今の状況に連帯せずに口をつぐむフランスの「左翼インテリ無神論者」には我慢できません。「失言」のもとがローマ法王だからといって、「宗教同士のいがみ合い」と矮小化しているうちに、怖いことになりそうです。日本でもすでに禁書の訳者が暗殺された事件もありました。危機管理だけの問題ではないと思うのですが・・

法王の発言の重み

古川利明 · 2006-09-28 21:29:34 UTC+9 · 投稿 #86

あんとに庵さん、一つだけ意見を言わせて頂いても宜しいですか。私はこの発言が、例えば、現場の無名の神父さんの発言でしたら、「あー、そうですか」で済みますし、そもそもニュースにもならなかったと思うのですよ。しかし、法王はバチカンのトップで、法王庁はいろんな国とも外交関係を持っているわけですよね。そうした「立場」にある、いわば「公人」たる法王の発言は、例え、神学校の場であっても、もう少し慎重であるべきじゃなかったんでしょうか。法王の発言というのは、ものすごい重みがあると私は思います。それはおそらく、バチカンの歴史的、政治的、そして宗教的な重みの中から出てきていると、私は思うのですが。

B16発言再び

Sekko · 2006-09-28 10:19:32 UTC+9 · 投稿 #85

以下は『カトリック・ウォッチング』のコーナーにアップするつもりで書いたものです。でもこのコーナーでも引き続きコメントがあるので、長いですが、まずここに入れておきます。

B16の問題発言騒動について(2006・9・22)

宗教哲学質問箱(2006・9・19)に、9月12日のB16がドイツで神学について講演した内容についてのイスラム世界の抗議行動への感想を書きました。B16の発言内容そのものについてはあえて触れなかったので、やや沈静化した今、内容についてコメントします。これについて、いろいろなフランス人のコメントを読みましたが、リベラルなキリスト教の立場からのものと、無神論哲学者の立場のものが同じことを別の角度と照明で観ているのが興味深いでした。
B16の講演内容は、難しいと思われるかもしれませんが、今、西洋無神論の系譜についての本を準備している私には、とてもよく整理された分かりやすい内容だと思えて、参考になりました。同時に、それに対する無神論者の反応が、私のテーマの内容を検証するようなものであり、ますます自分的にはタイムリーなものでありました。全貌は私の「無神論の系譜」が仕上がってから読んでいただくとして、この欄でB16を擁護してきた私として、今回の話をこれまでの彼についてのこの欄とどう関係付けるかをコメントしたいと思います。
まずフランスのリベラルキリスト教者の見方に沿ってみましょう。
B16の講演の論点は、三つあります。
a)キリスト教はユダヤ教の子供であると同じくらいギリシャ思想の子供でもある。つまり「信仰」と「理性」のバランスの上に立つ。
b)次に、すべての宗教は暴力を排除して精神の自由を尊重しなくてはならない。
c)最後に、行き過ぎた合理主義と共に、非合理的な狂熱に陥るような信仰を斥けなくてはならない。
この三点は、B16がすでに主張してきたことで一貫しています。ここで注意してほしいのは、a)です。
日本では、日本的アニミズムや多神教を差異化したいせいか、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の問題というと、「一神教」内部の問題だとくくりがちですが、ユダヤ世界で生まれたキリスト教が普遍宗教として発展したのはギリシャ語を共有するヘレニズム世界とそれを継承したローマ帝国でした。つまり、多神教世界だったのです。それから一時、同じ多神教のケルトやゲルマン世界の宗教と集合していくのですが、中世にもう一度、アリストテレスを再発見して、今日まで多大な影響を与えているトマス神学が成立したのです。
これに対してユダヤ教は民族単一神から一神教に発展しましたが、多神教社会で何度も「偶像崇拝」の誘惑に負けては神に罰せられています。最後に現れたイスラムと言えば、一神教としてはかなり厳格なすっきりした偶像拒否のものですが、アベロエスやアビセンナというような大学者を輩出して、古代ギリシャ思想を復権させました。ヨーロッパのキリスト教は、彼らのおかげでアリストテレスらのギリシャ思想を再発見したのです。だから、思想的には、キリスト教もイスラムも、主知的なギリシャ哲学の洗礼を受けているということです。つまり信仰と理性のバランスをどうとるかという問題は、キリスト教にもイスラムにも共通のものであって、一神教同士が自分らの神の優越性を競っているという単純な話ではありません。
明治の日本は和魂洋才を建前にしましたが、理性=科学=テクノロジーが世界に遍く力を持つ近代以降には、どの国のどの文化も、テクノロジーと産業のツールである理性に対して信仰や伝統をどう折り合いをつけていくのが大問題であるわけです。
次にb)ですが、歴史上、宗教はたいてい権力装置と結びついていましたから、暴力装置を内在し、さまざまな蛮行を繰り返しました。それは別に「宗教」だからの蛮行ではなく、覇権主義独善主義に向かう人間の蛮行で、「人間だもの」の蛮行なんですが、テクノロジーが発展して蛮行の規模が大きくなり共倒れの全滅の潜在力を得た時分から、まあ平和への外交の智恵も進んできました。特に西欧カトリックなどの老舗宗教は、世界が非宗教化されていく過程で、権力装置と宗教を分けるという智恵に到達し、まあ、もう宗教の名で暴力を発動しないという合意にようやく達したわけです。
しかし、イスラム世界は、もともとキリスト教風の政教分離が難しい上に、南北問題のあおりや、石油利権の問題、イスラエル問題もからんで、宗教の名のもとに暴力を発動する原理主義グループや戦闘的グループが生まれているので、理性と狂信や暴力の折り合いは今現在の大問題になっているわけです。しかも数からいうと少数であるはずの原理主義者たちは、情報社会のネットワークをフル活用して、少しでもネタ(カリカチュアにしろB16発言にしろ)あると、正確な「情報」でなくプロパガンダの「狂熱」をあっという間にイスラム世界全域に広げてしまいます。
原理主義者でないムスリムはもちろんこの状況を憂慮しています。
フランスのムスリムへのアンケート調査では、宗教にかかわらず全ての人間の平等を認めるというのが94パーセント、政教分離に賛成するのが73パーセントとあります。ここでのフランスのムスリムとは三分の二がフランス国籍(移民の二代目や三代目が多数派)で三分の一が外国籍の、両方を含みます。成人の半数が三〇歳以下です。男女平等には91パーセントが賛成、たとえフランス以外のイスラム国においても一夫多妻や不倫女性の石撃ち刑には反対というのがそれぞれ79パーセントと78パーセント、88パーセントがラマダンを守り、43パーセントが日に5回の祈り、週一モスクへ行くのは17パーセントだそうです。フランスのカトリックで毎週教会へ行く人よりは多いという程度でしょう。
問題は、ムスリムがキリスト教に改宗することについて、受け入れられない、許さないとするのが45パーセント、自由だとするのが46パーセント(無回答9パーセント)というところです。
これは、近代ヨーロッパの理念の一つで基本的人権の一つとされる「信教の自由」の問題です。人は必ずどこかの共同体の中で生まれますから、普通は当然「親の宗教」を受け継ぎます。成人してからもその宗教を捨てたり離脱したりすることはどこの社会でも許されませんでした。異宗教間の婚姻が不可能だったり、棄教者は共同体から追放されたり殺されたりもしたのです。ヨーロッパでは異宗教間どころか同宗教間でも新旧争いで血を流した時代を経たので、この「信教の自由」を抜きにしては「近代」理念は成立しませんでした。「信教の自由」のある空間、これがフランスでは「非宗教空間」という仮想の共和国聖域なわけです。
このフランスにおいて、ムスリムの45パーセントも互いのイスラム離脱を許さないと答えているのを、共和国主義に反する由々しきことと見るか、イスラムでさえ46パーセントが他宗教への改宗を自由としているのはさすがフランスだと見るか、難しいところです。どちらにしても、「信教の自由」は、「寛容」と結びついています。「親の宗教」は家族や親族の価値観や先祖をどう祀るかという問題と関わっているので、それを捨てるか捨てないかというのは情緒的な問題でもあります。そこで「個人の自由」を基本的人権と認めるのは、情緒を制御して平和に他者と共存する理性の働きでした。情緒からはなかなか「寛容」は生まれません。
また宗教そのものが寛容と相いれないとする考えもあります。それは宗教が基本的に「蒙昧」であって理性とは相いれないと言うことにつながります。それに対して、B16は、キリスト教はギリシャ哲学の理性とパレスティナ宗教の信仰という二つの流れを持っているのでバランスがいいと言っているわけです。今回の発言の要旨は、信仰は、蒙昧頑迷ではなくて、人間に共通である普遍的な理性に従わなくてはいけない、ということです。そして理性に従うことは決して神の意志に反することではなくむしろ神の本性につながるというのです。
これに対して、イスラムでは、キリストのような「人になった神」をたてないので神はまったく抽象的超越的であるから、理性という人間的なものは意味をなさない、という議論が古来からあったという例をB16が引いたので大騒ぎになったのです。この文脈で、イブン・ハズムという人が、絶対超越者である神は、自分の言ったことに責任を持つ必要もない、何でもありだ、と言っていたと孫引きしたのですが、このイブン・ハズムという人は、実は非常に主知主義的なイスラム神学を批判した人だったわけです。前述したように、キリスト教神学がギリシャ理性主義を取り入れたのは、イスラムの学者たちによる古典ギリシャ哲学の発見のおかげであったぐらいですから、イスラム世界はすごく知的で理性的な流れの伝統(アヴィセンナやアヴェロエスなど)があり、蒙昧とはほど遠かったのです。しかし誰かが理性的になると、原理主義や狂信の側にふれる人も必ず出てくるわけで、神は絶対不可知の存在だからすべての理性的議論を無化するという人も出るのです。
B16は、アヴィセンナなどが信仰を理性的に語ったことに触れずにイブン・ハズムの言葉を出したものですから、まるで、イスラムは理性的でない、キリスト教は理性を重んじる、みたいにとられてしまったということですが、別に一般向けの講演でなかったのでそのへんが誤解されるとは思わなかったのですね。趣旨は、宗教や信仰の問題を力で解決してはならない、理性で解決しようということで、宗教者としての自戒だったのですが。
ややこしいのは、B16は、蒙昧主義は原理主義や聖戦主義(これはイスラム原理主義やテロリストに限らずキリスト教原理主義や十字軍の侵略や異端審問の蛮行も含めて)批判しているのですが、同時に、理性主義や近代主義の行き過ぎが招いた信仰やモラルの喪失や相対主義の罠に対しても、同じくらいの危機感を持って批判していると言うことです。 特に、ヨーロッパ近代は、キリスト教自体を母胎にして生まれた事情があります。絶対的一神教とちがって、キリスト教の特徴は、人であり神であるというイエス・キリストという仲介者をたてて、そこに聖霊も加えて三位一体の神を信じるところです。
「絶対神」対「人間」の関係の時は、神が絶対王権みたいなもので、神の言葉は一方的に通告、神罰も一方的、だったのが、人間であるキリストを通じて、少しずつ人類という議会が王と交渉できるようになったという見方もあります。王権の一部委譲、立憲君主制みたいになって、教義の解釈や適用に柔軟性が出てきた。悪く言えばご都合主義、良く言えば時代や人類の文化、政治、科学の発達などの条件に合わせて宗教を発展させてきたわけです。しかし、こうして民衆を王宮に招き、人間を神の領域に招いていると、少しずつ、民衆は王を必要としなくなり、人間の「理性」は「超越的な神」を必要としなくなっていきます。近代理念を生んだ「啓蒙主義」の時代は、無神論をも生んだのです。
そして、それが「西欧の神」と「西欧の無神論」であった次代は、まあ同じことの裏表というか表裏一体をなしていたので、互いに支え合って共存できたわけです。しかし、ポストモダンの時代になって、多文化多宗教が混在してくると、文化相対主義というのが生まれ、西欧的キリスト教にとっては、実は、これが「無神論」よりも深刻でやっかいなものでありました。なぜなら、すべてを相対化してしまうと、「絶対神」も、「絶対善」も「真理」も、「絶対理念」も、「民主的多数派の支配」も意味をなさなくなってしまうからです。それでもまだ冷戦のイデオロギー対立があった時代は、仮想敵や善悪がはっきりしていたのですが、そしてJP2も自由陣営側で戦えたのですが、冷戦が終わると、「キリスト教無神論」よりもっと始末の悪い「相対主義的無神論」が自由陣営に蔓延している現実に目を向けざるを得ませんでした。それと戦うために、冷戦下の自由の戦士だったJP2は、晩年には頑迷な保守主義者と言われてしまうのです。
B16もそうです。主知主義のインテリで、第二ヴァティカン公会議でもカトリックの近代化のためにがんばった彼は、JP2が倒すことに成功した「マルクス主義的無神論」の後で、今度は資本主義世界の「ポストモダン無神論」と戦わなくてはなりませんでした。B16は教皇になってから大きく言って三点で「反動」姿勢を打ち出しています。
まずJP2が認めたダーウィン主義の見直し、科学の中に「知性ある摂理」を盛り込もうとするニュアンス、遺伝子医学への批判などです。第二に啓蒙主義批判、理性はキリスト教的限界と共存すべきであること。第三に、政教分離の侵犯というか、遺伝子治療に関するイタリアの国民投票で信者にボイコットを呼びかけたことです(効を奏しました)。
まあ、大手宗教のトップがこの手のことを言うのは、ノーマルというか、それはまあいいのです。問題は、「西欧近代」とともに、少しずつ政教分離して非宗教化してきたと思われていた世界で、1970年代の終わり以降、イランのホメイニ革命に象徴されるような原理主義的傾向があちこちで台頭してきたことです。そして、「ポストモダン的無神論」と戦って保守化するキリスト教も原理主義的カラーを帯びて、イスラム原理主義と競合するように見えることです。それで、「一神教同士の内輪争い」などと言われたり「宗教が悪い」と言われたりして、「ポストモダン無神論」の倫理なき拝金主義や歯止めなく環境を破壊する産業主義が野放しになる現実があります。

この状態を、近代主義理念を創った「キリスト教無神論」の哲学の側から見てみると次のようになります。
世界のコンセプトには二つあり、その一つは、宇宙は精神と物質とに分けられるというものです。たいていの独裁者や独裁体制はこのコンセプトを採用します。なぜなら、独裁を、従属させられている側が「理性的に批判」するのを封じるために、自分たちの独裁の権利は「超越的なもの」によって保証されていると言うためです。それが無神論の共産主義国家でも同じです。彼らの独裁を保証するのは神でなくとも、イデオロギーでもいいのです。だから法治国家によって追われることを恐れる独裁的指導者たちは、キューバでもボリビアでもイランでも、けっこう連帯し合ったりするのです。
もう一つのコンセプトは宇宙には一つの実体しかなく、エネルギーも精神もマチエールの中に含まれているというもので、社会をオーガナイズするには、その宇宙の調和を自分で考え出さなくてはなりません。これが宗教指導者や理想主義者や国家主義者や民族主義者を含むグループで、自分たちが価値観やルールを創出できると信じています。それを押し付けるために血を流すのもいといません。
しかし、この世界の諸問題、政治的暴力や経済的不公平を解決するには、そのような原理主義者や独善主義者や覇権主義者たちに殺し合いをさせて多くの犠牲者を出すほかないのだろうか。我々は、火にかけた牛乳が煮こぼれるのを防ぐために見張るように、彼らの暴走を常に見張っていなくてはならない。

このキリスト教無神論の見方では、B16の反動もイスラム原理主義者の反応も同じカテゴリーで、神の代理人のような宗教指導者やイデオロギーの化身みたいな扇動者は等しく「要注意」ということのようです。「我々」という彼らの宇宙のコンセプトがどちらなのかははっきりしません。これは『シャルリィ・エブド』(風刺週刊紙)のフィリップ・ヴァルの意見で、彼は、『シャルリィ・エブド』がムハンマドのカリカチュアを掲載したのは、キリスト教側からのイスラム批判のためではなく、価値観の押し付けに対する表現の自由のためだけであったことを強調したいわけです。確かに『シャルリィ・エブド』はキリスト教や教皇や政治家のカリカチュアはもっと派手に、時には悪趣味に出し続けています。

理性と信仰のバランスの問題は確かに大きな問題ですが、バランスの問題だけではないような気もします。精神と物質とか精神と肉体の問題も同じです。それが離反していると自覚してしまう人間だけがその統合も必要とするのかもしれません。「知・情・意」という言葉がありますが、知性と感情の他に、意志をもって進んでいくには、ある光に照らされる必要があるのでしょう。その光を求めたのが「啓蒙」思想だったのだとしたら、その光を守っている限り、啓蒙思想のいろいろな展開は、キリスト教無神論もふくめて価値を持ち続けていると思います。
同じ光が宗教のリーダーたちを照らしてくれることを願いましょう。

さて、ヴァティカンは、時期外務大臣にフランス人のマンベルティ枢機卿を任命しました。彼はコルシカ人の父を持ち、モロッコのマラケシュ生まれ。イスラムにも強く、ラテンにも強い頼りのありそうな人物で、パリの政治学院を卒業、パンテオンのパリ第二大学法学部で公法の学位も持っています。
今回のB16の「失言」について、B16は発表するすべての文を自分で書き、最後の最後まで自分で推敲するので、担当官がチェックする暇がないという指摘がなされていました。現在の世界の宗教的緊張の中で、一国の首長がその発言にどんなに気を使っても使い過ぎでないというのは正論です。しかし、教皇は政治ではなく聖霊によって選ばれ聖霊によってインスピレーションを得ているはずの宗教の長でもあるので、外務担当官の用意した無難なコミュニケばかり読み上げるとしたら、たとえ「失敗」や「揚げ足取り」を避けられたとしても、何か大切な部分を失う気がします。
馬鹿げた自主規制や行き過ぎた政治的公正がはびこる世界では批判的精神は痩せてしまいます。B16は経験ある神学者で、理性の行き過ぎと信仰の行き過ぎの両方を戒めて試行錯誤している人なので、信ずるところを自由にしゃべってもらうのは悪くないと思います。「次の選挙」だの「お世継ぎ養成」だのを心配しなくていい世界で唯一の首長なのですから、時々メディア的に墓穴掘っても、それで世界中の人にようやく注目してもらえるのだから、どんどん平和主義的正論を言ってほしいですね。JP2は二〇世紀末にカトリックの蛮行をいちいち謝罪して回っていました。その後から出発するB16にはまた彼なりの使命があるのでしょう。
ともかく、誰がどこでどんな「失言」をしたとしても、「復讐」を唱えて暴力を行使するのは間違いなのは確かです。それを言うのすら遠慮しなくてはならないとしたら、表現者が生きていくことはできないでしょう。これからのB16の言説に引き続き注目したいです。しかし「失言」だけじゃなくて聞くべきことをたくさん言っているのに、最も注目されるのが「失言」とは皮肉ですね。

神学の講義を「神学に逃げる」とはこれいかに?

あんとに庵 · 2006-09-27 23:11:12 UTC+9 · 投稿 #84

神学論争に逃げるもナニも、それが為されたのはカトリックの神学校という閉じた場であり、原文読めば神学の話でしかない。つまりイスラム批判などではなく、あくまでも「主意主義」批判の話です。イスラム云々はタマタマ彼が最近読んだ本にあった記述で、そこに見出される事例から読み取れる神観はフランシスコ学派の「主意主義」にあるものでもあり、それがやがて宗教改革のちの神学世界、或いは西洋思想の世界に通じるという話であり、主知主義の再発見を促しているものです。つまり彼の主題は西洋に蔓延するニヒリズム的な思想や、或いは自由主義神学への批判でしょう。寧ろリベラルなプロテスタント神学、或いはリベラルなカトリック神学批判です。あと「信仰と理性」を強調している背景には、カトリック世界が今、このリベラル(理論が先に立つ)と保守(信仰がどっぷり系)が二分しているような傾向もありますから、後者をも批判しているのでしょうね。
この彼の神学論が果たして妥当か?否か?についてはわたしは沈黙する神の時代にどうなのか?と懐疑的ではありますし。教会至上主義な教皇の思考の一端を見たという感じで微妙に批判的になりますが、とにかくカトリックギョーカイ内の神学のミニマムな話であることに変わりはありません。

その「神学論争の場における神学の話」を、政治的な場に持ち込む発想そのものがいかにも宗教を政治的なものとしか捉えられない「ナンセンスな」発想でしかない。そういう場の言葉を一部切り取り取り上げ、政治利用し大げさに騒ぎ立てるマスコミの二分化した発想こそ、先ずアカデミズムへの侮蔑と聖域(神学世界)に生きているものの価値をまったく評価しない、ある種、原理的な視点を感じざるを得ませんね。

一過性の問題でしょうか

古川利明 · 2006-09-26 21:44:11 UTC+9 · 投稿 #83

それと、たまたま、昨日の毎日新聞の朝刊(25日付け)で、国際面の「東論・西談」という記事で、ローマ支局の海保真人記者が書いています。彼は私が毎日の大阪社会部にいたときの同じ持ち場のキャップだった人で、いちおう、それなりの取材力とニュースセンスを持っているとは思います。私自身は今のバチカンについて、細かいことはよく知らないのですが、ただ、記事では、一つに前法王との比較で、「ヨハネ・パウロ2世は、イスラム原理主義に潜む暴力的脅威を察知していたゆえ、世界のイスラム指導者と接し、共に祈り、平和を唱えた。結果、イスラム社会から尊敬され、『西側の敵』とみなされることはなかった」とあります。そして、その後段で、「西欧主義的かつ保守的な法王の今回の発言は一過性の問題ともいえない」とも。竹下さん、そのへんのあたりは、どういうふうに捉えておられますか?

場の空気

古川利明 · 2006-09-24 17:20:27 UTC+9 · 投稿 #82

竹下さんの書き込みを読みながら、ふと、思ったんですが、「9・11」以降、例の「文明の衝突」というロジックで、アメリカが旗振り役となって、イスラム原理主義を中心に、イスラム社会を必要以上なまでに叩いて、虐めている状況があるじゃないですか。確かに、法王の発言問題は、その説教の一部を引っ張り出し、過剰に反応しているという側面はあると思いますが、今、イスラム教徒がキリスト教文化圏(特に米英)で、どういう状況に置かれているか、「場の空気」が読めなかったのかなあ、と思います。都合が悪くなると、素人にはなかなか入っていけない「神学論争」で逃げるのはナンセンスだと思います。本来のアカデミズムも、明晰に、かつ、平易に語りうるものだと、私は思うのですが。

ベネディクト16世問題

あんとに庵 · 2006-09-20 22:06:54 UTC+9 · 投稿 #81

sekko様>いつもお世話になっております。
ご紹介戴き恐縮です。

信者からすると、「あの強面な学者教皇がなんとも脇の甘いアホかましたな。意外に抜けてるのな。」以上の感想しかないんですが。部外者である世の人のほうが教皇の無謬を信じているかのような反応にこれまた鼻白むことしきり。

古川さんだけでなく、ヨハネ・パウロ2世と比較する人も多いようですが、時代が違いますがな。笑)それくらい今難しい時代になっている。政治の現場ですら複雑化し、20世紀の指導者のようなカリスマが出にくい状況になっています。

ヨハネ・パウロ2世のカリスマ性を重視するのは危険です。そういう構造は実はカルト化しやすい。劇場型政治がどれくらい危険かはわが国の例を見てもわかるとおりです。その点脇が甘く、なおかつハンス・キュングという教皇と真っ向から対立する神学者を友人に持っているベネディクト16世の方がいいかもしれません。我々はその意見の対立の中でどのようにあるべきか思考することが可能になります。

まぁ閉じた場である神学校の講義があたかも公的に発せられたもののごとき扱いこそおかしいなとは思いますが、それでも教皇職というのはもう一学者ではいられないということを、今度こそラッツィンガーは自覚したでしょうね。

もとよりイスラム教が暴力を内在する宗教などとは思ってませんね。普通信者はみなそう思ってるでしょう。だから余計に反応が冷ややかではあるかもしれません。信者や司祭からは「教皇はポカやらかしたな」という感想しか聞きませんです。一部の第二バチカン公会議前の宣教師ぐらいか「教皇のいう通りや」などという了見の狭い反応していたのは。

あんとに庵さんち

Sekko · 2006-09-20 00:05:24 UTC+9 · 投稿 #80

今、あんとに庵さんのブログを見たら、今回の教皇発言について他の方のブログも借りて分かりやすく解説してありました。私はこういうことを書くのは面倒だったんで、よかったらそちらをお読みください。9月19日のとこです。http://d.hatena.ne.jp/antonian/
とにかく、この国にいたら、原理主義の足音があらゆるところから響いてくるんで、ほんと怖いです。今回モロッコに行って、相対化できてよかった。レポートをまた書きます。

やっぱこういう質問は古川さんから来るんですねえ。

Sekko · 2006-09-19 23:47:47 UTC+9 · 投稿 #79

私がこの話題に飛びつかなかったのは、質問がなかったこともありますが、いくつか理由があります。
まず、日本で、「一神教同士の喧嘩」と一部で見られるほどには、フランスでは、キリスト教徒とイスラム原理主義の温度差が大きすぎて、争いになっていないことです。伝統的なカトリック国はまた伝統的なガリア教会の国でもあって、ローマ法王の存在はあまりにも希釈されています。JP2は確かにメディアティックでしたが、涜神とか冒涜とかいうコンセプトそのものがフランスではアナクロニックになっていて、教皇という存在はJP2の頃から、辛らつなカリカチュアや悪趣味なゴシップ記事やスキャンダルにさらされるのは普通でした。
同じことが他宗教のシンボルや教祖はもちろん、個人やセレブに向けられていたら名誉毀損で大問題になるようなものが、カトリック系では野放しで、だから逆にインパクトもなく、そこには、今のカトリックの鷹揚さと共に、長い間カトリック教会が権力を持って社会を検閲してきた歴史に対する購いみたいな暗黙の了解があるかのようです。涜神罪の復活だけは避けたいという了解でしょう。
今回の話も、面白いギャグにこういうのがありました。誰かがジダンに、
「知ってるかい、全イタリア人が、ムスリムに非難されているB16を支援しているそうだ。」と言う。
「いったいそいつは何をしたんだい?」
「ムスリムの兄弟を侮辱したんだ」
「なに、今度は姉妹じゃなく兄弟を? 捨て置けないな、よし、そいつの
ナンバーは16だな、行って懲らしめてやる」
という感じです。
ギャグになることのもう一つは「教皇の無謬性」というやつで、今回の件に関して、B16は謝罪したわけではなく、遺憾の意を表明しただけですが、それを揶揄して、教皇は謝らない、なぜなら教皇は「無謬」で絶対に間違わないからだ、というので、ギニョールなどでもからかっていました。
もちろんこれはわざとした誤解で、近代カトリック教会は教皇と公会議(司教会議)のどちらが権威があるかということでいろいろもめたのですが、一応、教皇は公会議の承認を受けなくとも新しい教義を公布できるという意味の教皇の無謬性が1870年に決まりました。でも条件はいろいろあり数回しか使われていず、聖母マリア好きのJP2が聖母がイエスを助ける救済者であるという教義を出すかと思われていたのも出さずに終わり、ましてや普通のことでは、教皇が、この前言ったことは違っていた、と誤りを認めることがあるのは当然です。
まあ、今回のB16の発言は、歴史上の発言を引用しただけで、全体の趣旨は異宗教間の平和的な対話を望んでいることなので、「遺憾」でOKだったと私は思います。最も彼はドイツ人でホロコーストの責任問題を民族的に背負っているので、ユダヤ人とユダヤ教への配慮が繊細な分、イスラムへの脇が甘かったのかもしれません。(といっても今回のババリア訪問では当地ユダヤのラビの面会希望に対して返事しなかったそうです。中東情勢と関係があったのかは分かりません)
しかしこの教皇は、ともかく、神の名において人の命を奪うのはいかなる文脈でも全て誤っていると明確に言っています。「冒聖」や「涜神」を理由に人を殺すのは悪だというのです。
教皇が「遺憾」の意を示した同じ日、ソマリアの病院で、イタリア人の看護修道女が侵入したイスラム過激派に狙い撃ちで殺されました。70歳の修道女です。カトリックである以外に彼女に非のないのは明らかです。教皇の責任は、むしろこのような罪のない犠牲者を出したことでしょう
しかし、今回のことは、単に「アホなおっさん」が「空気を読めなかった」というようなことでは決してありません。今年初めの例のデンマークのムハンマドのカリカチュア騒ぎと同じ根を持っています。デンマークのカリカチュアも、今回の教皇の発言も、普通に見たり読んだりして、どうして問題になるのか理解できないのです。
フランスに、アラブ系のモアメド・シファウイというジャーナリストがいて、イスラム原理主義のプロパガンダに対する西欧諸国の政治家の温い態度を批判する著作をすでにいくつか出しているのですが、カリカチュア事件の真相を暴いた本を最近出しました。ようやく冒神罪のコンセプトを捨てた西洋に、イスラムがらみでまたその基準を蘇らせようとする政治家は、近代が獲得した精神と表現の自由に反するものだという動機ですが、彼の取材の結果は驚くべきものです。要約するとこうです。
デンマークの事件では、新聞デンマーク一の部数を持つ日刊紙が、まるでゴシップ誌のようにムハンマドを揶揄して、良心的なムスリムがそれに傷つき怒り、西洋の他の国が軒並みそれにあわてて襟を正したという風に見えました。
実は、この新聞Jyllands-Postenは、コペンハーゲンのイスラミストのモスクでの説教を継続して録音し、翻訳して、掲載することで、すでにイスラミストから嫌悪されていたというのです。フランスでも、過去に、モスクでの説教を公開してムスリムのヒステリーを引き起こして中止されたことがあったそうです。金曜日のモスクでのアラビア語の説教はそれほど過激だそうです。
そして、コペンハーゲンのイスラム過激派のトップは、アフメド・アブー・ラバンというエジプトのイスラム兄弟団の人で、エジプトから追われた後、ナイジェリアとアラブ首長国で働き、その後デンマークに政治亡命を認められた人物です。モアメド・シファウイは、シンパを装ってこの人物に取材して、ことの真相を知りました。アブー・ラバンは、オランダの映画監督テオ・ヴァン・ゴーグが2004年に惨殺されたことに共感していて、1993年のワールド・トレード・センターのテロの指導者でアメリカに投獄されているオマール・アブデルラーマンら、過激派のイマムたちとも関係があり、デンマークのムスリムのメディア代表の地位にあります。
それで、カリカチュアが載った時、デンマークのムスリムを扇動しましたが、あまりにも大したことがなかったせいか、3パーセントしか動員できませんでした。フランスのムスリムもそうですが、ほとんどは、モアメド・シファウイと同じ穏健派で、一部過激派に批判的だからです。
そこで、ことを国際的に広げようとしたアブー・ラバンは、実際のカリカチュアに、もっと猥雑で汚らしい偽物を付け加えて、関係者に送り、その偽物がアラブ世界の公式リアクションを誘発したというのです。その最初はエジプトでした。デンマークのエジプト大使がプロパガンダをアラブ連盟の書記長でもと外務大臣のアムル・ムッサに送り、それが2005年の10月から2006年2月までダマスからジャカルタに至る、大使館放火やテロや過激抗議につながったのです。皮肉なことに過去にアブー・ラバンを追放したエジプト政府はこのプロパガンダを規制したそうです。この事件の最中に元のカリカチュアを掲載した勇気あるジャーナリストもヨルダンやエジプトにいましたが、投獄された人もいるそうです。
フランスで掲載した風刺週刊誌(そのおかげで私も目にすることができた)に対する訴訟はこの秋再開されます。
ちなみに、このモアメド・シファウイの本のカヴァーにはアルジェリア系のイラストレーターのラモが、カリカチュアを描いています。彼らの身辺が心配ですが、「共和国の自由」のためにフランスのムスリムががんばってくれるのは楽しみです。

この本の表紙はここで少し見れます。
http://www.amazon.fr/L-Affaire-caricatures-Dessins-Manipulations/dp/2350760316/ref=sr_11_1/171-2743065-3291405?ie=UTF8

長くなったので、一応これで。

ローマ法王の発言

古川利明 · 2006-09-19 12:43:12 UTC+9 · 投稿 #78

ご無沙汰しています。例のローマ法王の「ムハンマドは邪悪」発言で、イスラム圏を中心に大騒ぎになっていますね。特にイスラム原理主義系の連中にしてみると、「待ってました! 格好の脅しのネタが入った」っていう感じで(いちおう、法王は後で謝罪したので)、そのへんのヤクザとあんまり変わらないという感じですが(笑)、しかし、法王も「軽率の謗り」は免れないでしょう。彼は何であんなに脇が甘いというか、はっきり言って、「アホ」なんですか。ヨハネ・パウロ2世だったら、「ありえなかった」んじゃないですか。で、カトリックの信者は誰もこのことを批判しようとしないのですが。別に法王は「神」ではなく、ただの「オッサン」ですよね。で、竹下さんのファンもだれ一人、これだけアクチュアルな話題にどうして質問を寄せないんですか。組織や共同体の中にいて、その組織や、さらには「己」を自己批判できてこそ、「真に自由な精神」だと私は思うのですが…。

ポストモダン的言説

Masahiro Mori · 2006-09-06 10:20:47 UTC+9 · 投稿 #77

養老,『バカの壁』にはポストモダン的言説が散見されます。メモには一つしか記していないのですが、 NHKのモットー「公平・客観・中立」 を俎上に上げて、NHKは神か?と論じています。公平・客観・中立などできる筈がない、という訳です。そうしたらNHKはどんな報道・言論をすれば良いのか、思考中止に追い込まれます。
中教審の報告でも「人は平等である筈がない」という驚くべき言説がされていたと思います。人の個性を見れば、人権宣言を持ち出してきても、福沢諭吉の「人の上に人を造らず、」と言っても、二の句がつげないのですね。
この点に関して、竹下先生から次のような敷衍する助言を貰っています(おしゃべりルーム 8/15 )。

社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな 「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめ くほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。

ポストモダン的言説は「生き方を導く志向」を軽視ないし毀損する可能性もあるように思いました。