2006年の投稿

一元論と仔猫殺し

Sekko · 2006-08-29 18:27:03 UTC+9 · 投稿 #76

個人のメールの方に、近頃ネットを騒がせている(?)女流作家の猫殺しについての意見を求める質問が来ました。猫を避妊手術する代わりに自然な出産をさせて、生れた仔はがけから落として殺すと言う話だそうです。
もうひとつおしゃべりルームに『バカの壁』を読んだ方からこんなコメントが。

{「一元論を超えて」ですが、ここでの「一元論」は竹下先生の論考の「善悪二元論」に相当します(と思います)。
「一元論」(竹下先生の論考の「善悪二元論」)を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなければならない(p,201)、という「常識」重視の立場、論考から結論を得てられます。}

それを受けて
{「一元論」「ニ元論」「それを超える論」について、竹下先生に整理していただき、解説していただきたいものです。}
というコメントも。

それで、まとめてここに日頃の考えを書きます。

まず私は真実はひとつでないとか、全ては相対的であるというポストモダン的言説に組しません。
もちろん真実は皿の上に盛られて出されてくるようなものではなく、我々と対象の係わり合いの中に生れ、ものさしともなり、それを導いてくれるもの、のような感じです。養老さんの話で「一元論」というのは、「許容できる真実はひとつしかなく、よってそれに反するものは全て偽である」という意味で、つまり一元的価値によって「裁く」という善悪二元論につながるということなのでしょう。一元論とは全体主義的ともいえます。一神教が善悪二元論に傾きやすい傾向を持つことは『アメリカに・・・』の本にも書きましたが、この二つは必ずしも一致しないので、気をつけてください。善悪二元論は権力保持者が一般に陥りやすい傾向です。
そして一元が悪いから多元がいいという話も要注意です。多元による分割はコミュノタリスムの罠に陥りやすく、多元間の対立や競争を招くからです。
それで、どうしたらいいかというと、類として(つまり生物学的な条件を共有する人類として一元的で普遍的な価値観を中心に共有して、その周辺部は個人レベルまで徹底的な「多様」を許容し、保護し、残すという立場に私は賛成しています。共有すべき価値観というのは、国際倫理規定にある『全てのヒトの誕生と死を含めた生命のサイクルを安全に全うさせることが善で、それを阻むものが悪』というやつです。
その際、ヒト以外のものの生死や、あるいはヒトの誕生する前や、前世や、死んだ後のことは、それぞれの文化や文明や伝統や革新や流行や趣味の多様性に任せる。ただ、生れて息をした瞬間から最後の息を吐く時まで、この間は、いかなる理由でも互いに傷つけあったり殺しあったりせず、できるだけ守りあい助け合って、それぞれの寿命をまっとうできるようにしようということです。
死んだ後の審判とか生まれ変わりとか、前世が何とか、そういうのはそれぞれの文化や宗教の任せです。しかしどんな古い伝統でも、権力の都合でも、「他のヒトを生贄にする」とか「典礼として特定のヒトを傷つける」とか、「ヒトにヒトを殺させる」とかはやめていこうとするものです。
ヒト以外の動物はというと、唯一、「ヒトから固有名詞で呼ばれている動物についてはヒトに準ずる」とありました。(逆にヒトなら名もないAさんでも権力者や家族でも軽重はつけない)
ヒトには生れて間もない仔猫を食べる飢饉の状態もあれば文化もあるかもしれないし、犬猫を食べるとか、毛皮のために動物を殺すとか、牛は聖なるものだから食べないとか、豚は穢れてるから食べないとか、まあ、食物連鎖だけから言っても、ものすごい殺生のうちにたいていのヒトは生きているので、罪のないもの、石もてこの女を打て」じゃないですが、かなり同じ共同体に生きてるヒト(私の場合は自分の子が仔猫殺しをしたら大問題にすると思います)同士以外には批判的なことはとても言えません。
いったん固有名詞をつけちゃったタマとかポチには責任が生じるのですが、それでも、うちの固有名詞つきの猫たちに牛だとか羊だとか豚だとかのキャットフードを与えていると、食物連鎖からいっても不自然だなあ、牛が猫に食われていいのか、などと嫌な思いをしてます。また私は蚕の幼虫系がすごく嫌いなので、タイの市場などで、それがゆでられて食用に山盛りになっていたら、吐き気です。益虫でも姿が怖いと殺虫剤です。それは個人的なので、他のヒトに不快を与えないように気をつけますが。(蚕の幼虫を食べるタイのヒトを見て叫ぶとか顔をしかめるとかしないように。)そしてうちの固有名詞猫でない猫の仔を間引く作家を批判などしません。もちろん「タマや、こっちへおいで」といいながら毒を盛るのはだめで、そういう人はヒトへのリスペクトも問題ある可能性大です。
とにかく、「中心になるルールは守る、周辺は多様を受け入れてリスペクト」、これが大事です。簡単に聞こえますが、今も、毎日戦争やテロヤ死刑でヒトがヒトを殺したり殺せと命令したり、そうかと思うと、ちょっと他人と違うヒトや弱いヒトを差別したりいじめたり搾取したり、そういうことが茶飯事なのですから、毎日このテーマを反芻して肝に銘じていかないと、と、永遠のテーマになっています。

日本の多神教

Sekko · 2006-08-20 15:36:12 UTC+9 · 投稿 #75

新陳代謝=外部とのエネルギー交換のない「仲間内組織」はそうしても全体主義に傾斜しますよね。日本の多神教とは、単に神が多数あるというのではなく、複数の神を信仰してもOKというので、先祖神、氏神、自然神、竈神、道祖神、その他、何とかに効く神、と多様性を認めることで、一神教とは、「他の神を拝むな」という排他性に本来の特徴があります。だからこそ、巧く機能すれば「神の前の平等」のような人工的な一種、逆説的「非宗教」空間ができるんで、キリスト教もローマ帝国内では「無神論」だと非難されていたんですね。
なんにしても、生きた人間の欲望が作る恣意的な規範でなく、個人を超えたシンボリックな規範を提示して、それに敬虔な気持ちを抱かせるようにするという工夫や演出の積み重ねが人間の知恵であり続けたのでしょう。その意味では、集合的「ご先祖様」や「お天道様」はいいとして、「世間」の規範は、あまりにも人間的すぎて、ちょっと、と思います。人は世に連れ世は人に連れ、というんで、時代や所や力関係によって変わりながら抑圧的に働くことの多い「世間」は、一番厄介かもしれません。
また、宗教心とか霊性というのは、多くの人間が二律背反的に意識してしまう「心と体」や「生と死」を統合するものとしての「超越」をさすのでしょう。そんな「統合のモデル+規範+期待の空間」が宗教の基本なのかも。

日本の宗教

Fusako · 2006-08-17 22:34:59 UTC+9 · 投稿 #74

日本は緩やかな多神教の国、と思っているのですが、緩やかな=強制の少ない、多神教の=多元的な価値が共存する、だったら、それはけっこう素晴らしい状態でしょうに、なぜかそういう社会でもないような感じがします。一見強制ではないけれど同調への圧力が極めて強くて個人を個人として活かさない、とか、多元的な議論が成り立ちにくく、「和」が良しとされる、とか。
そういう同調の「和」の仲間内的組織からはじき出される、あるいは、そういうものを求める心性に、「マインドビジネス」がつけこむように思います。
わたしは特定の宗教は信じていないのですが、個人を超えたものがあるという感覚を持つ、という意味での宗教心はとても大切だと思っています。そういうのは、教育の中の宗教教育で教えられるものなんでしょうか。
日本で、「ご先祖さま」とか「お天道様」「世間」といった言葉で表現してきた「個人を超えるもの」に対して敬虔である心、これが本来の宗教心に近いような気がしますが。

カルトのこと

Sekko · 2006-08-15 16:13:16 UTC+9 · 投稿 #73

この東京新聞の取材は旅先に追いかけられてきたんですが、なかなか言い尽くせなくてあせりました。このことでラジオのインタビューも最近受けました。私の『カルトか宗教か』の本は、もちろんオウム事件を念頭において書いたのですが、それにしても、あの事件の後、日本人は全然学習してなさすぎ。ある人に、『あの事件で日本人が学んだのは[オウムは悪い宗教、だからオウムやその流れの宗教には入っちゃいけないし、その出身者やそこにいる人を排斥しよう]ということに過ぎない。別のカルトが別の教義でやってきたら免疫がないのだ』と言われました。ピンポイント学習で応用力はゼロ。ショックです。
社会における宗教は何らかの意味で、共同体の人間にとっての「超越」(人はどこから来てどこへ行くのかなどの問題)のモデルを提供しオーガナイズする社会的サービス機関であり、宗教の仮面をつけたカルトは、その中の特定の人間やグループの利益を図る営利グループです。そもそも「人はどこから来てどこへ行くのか」などの問題は、思春期にすでに発見する問いであるはず。そんな頃に受験のスキルばかり教えないで、問いの立て方や、伝統宗教における答えのモデルを教えておくことで、青年期にそれに反発したり問い続けたりできるわけです。試験の設問の答え方だけ習った優等生が「いい大学」に入って、実存的な問いをよそおったカルトにやすやすと取り込まれるのを見るとがっかりです。でも、いい大人だって、こうやって脳を鍛えろとか、こうすれば人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るとか、(実はその裏に、そうしないとボケるとか、嫌われるとか、下流になるとか、老けるぞとかいう脅迫的言辞が張り付いてるんですが)ハウツーものや奇跡のメソードやお得な製品に心を惹かれ、「だめもと」で信じている人が多いんですから、若者を愚かだと笑う気もしません。マインドビジネスはビジネスのとこに本質があるんですから。変なカルトの原動力になるのは大抵金か性欲か権力欲のどれか又は複合で、ある意味単純なのですから、みなさん、バランス感覚を養い合いましょう。ダヴィンチコードでキリスト教に関心を持つようになった若者をキリスト教系カルトが狙うというのも情けないことです。まずまともそうな本を読み、話を聞きたくなったら、日本基督教団かなんかのお墨付きの老舗の教会などに行って気軽に質問してみましょう。日本のキリスト教業界の方、すでにいる信者の世話ばかりではなく、人生における問いの立て方と答え方のモデルを広く啓蒙してください。そう、正しい問いの立て方は、「どうやったら脳を鍛えられるとか、人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るのか」とかいうのではなく、どうやったら他者の役に立てるのか、自分より弱い人の力になれるのかということなんです。ちゃんとした宗教はみんな究極には「利他」を説いてますよ。自分の問題は自分のできる範囲でできるだけ他者を悲しませないようにクリアして、後は、自分より喉の渇きを訴えている人をみつけて水を分けましょう!

追伸

Fusako · 2006-08-11 09:14:43 UTC+9 · 投稿 #72

「カルト」で、というのは、このタームで検索して、という意味です。言葉不足でしたので。

東京新聞

Fusako · 2006-08-11 09:13:39 UTC+9 · 投稿 #71

本日の東京新聞朝刊25面にカルトに関連して竹下さんのコメントが載っていましたね。
東京新聞を手近で調達できない方は、Googleのニュース検索で、「カルト」で、今なら簡単に読めます。

なんと

あんとに庵 · 2006-05-25 04:00:49 UTC+9 · 投稿 #70

>伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

そのアンケートの数字は頭が痛いですね。しかしフランスもキリスト教に関して無知な人が増えてきたということなのでしょうか?それとももともと潜在的にそういうのを信じやすい人がいるということなのでしょうか?
しかし、キリスト教の伝統のある、ある程度は教育が行き届いた国ですらそうなわけですから、アジアなどで教会が困って反ダ・ヴィンチ・コードを表明したのは無理もないかもしれません。ヴァチカンが重い腰を挙げた事情も分ります。
もっともお祭り好きのイタリア人はバチカンの反応で却って見に行く人が増えちゃったようです。それでもおっしゃる通り、これを機会に歴史を勉強するのも転んでもタダでは起きない的でよいかも。

なぜヴァティカンが?

Sekko · 2006-05-24 16:07:36 UTC+9 · 投稿 #69

どうもこのコーナーが宗教・哲学と関係なくなってきたんで、ちょいと戻して。
来週発売の読売系週刊誌からダ・ヴィンチ・コードについてのコメントを求められ短ですが、どの程度載せてもらえるか分かんないので、ここで宗教についての部分を敷衍しときます。
『> ▽イエスとマグダラのマリアの関係にスポットをあてて、
> 物議を醸した映画は過去にもあったと思うのですが、
> 欧米ではどうして、こういう“異端”が受けるのでしょうか。

キリスト教が欧米の成り立ちの根幹にあって、キリスト教権威との桎梏の中で「近代」を築いてきたという歴史があるので、基本教義について共通の了解があるからこそ、異説が意味を持つのでしょう。しかし、実際は、紀元4世紀頃までのキリスト教世界は、教義についてもいろいろな説を持ついろいろなグループがある多様なものだったのです。さまざまな「発掘」文書はそれを示しているに過ぎません。
その中で、一定の聖典を採用したローマ・カトリックという宗派がたまたまヨーロッパの母胎になり、そこから派生した欧米文化が近代世界のスタンダードになった形です。でも別に「欧米キリスト教」以外のグループが無理に闇に葬られ「秘密」となったわけでなく、イスラムの勃興などによって自然淘汰されただけでしょう。そういう異説の文書が中近東で発掘される度に、やれ秘密だとかタブーだとか騒ぐのは、「欧米のキリスト教のみが正当な(正統の誤変換ではありません)キリスト教」という欧米中心史観が揺らぐからかもしれません。
もう一つは、先のムハンマドのカリカチュア騒ぎのように、今の欧米には、うっかりフィクションにもできない本物のタブーのテーマがあります。イスラム教についてや、ユダヤのホロコーストについてです。これらについてはいくらフィクションだと言っても、威圧的なロビーはいるし、原理主義者テロリストはいるし、否定的なことは書けないのが現実です。
これに対して、カトリックの教皇などは自由にカリカチュアにされています。いくらスキャンダルになったといっても、同じキリスト教文化圏の表現の自由ということで、宗教側の成熟や余裕が感じられます。
もちろんキリスト教原理主義者もいるにはいますが、ダ・ヴィンチ・コードのスキャンダル程度では、所詮内輪ネタではないでしょうか。
日本でも、過去に雑誌がホロコーストはなかった式のタブーを犯してユダヤロビーから叩かれたり、悪魔の詩の翻訳者が殺されたり、危機管理が出来ていないのを露呈してきました。でも、どうやらキリストネタやヴァチカンネタはお目こぼしの書き放題だと気付いて、ダ・ヴィンチ・コードに関するキリスト教側の反応をおもしろおかしく記事にしてるようですが、見苦しいです。日本のメディアにも皇室ネタをはじめとして厳然たるタブーがあると思いますが、多文化の内輪もめネタを垂れ流していると、タブーとそれをめぐる地政学からますます目をそらすことになるのではないでしょうか。
キリスト教についてフィクションの中にある間違いや曲解について、それがある程度の影響力を超えたら、教会側が態度を表明するのは当然だと思います。権威とはそのためにあるのですから。それが結果的に本や映画の宣伝になったとしても、それをきっかけに、キリスト教の歴史などを知ってもらいたいというキリスト教メディアも少なくないようです。伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

女性専用車両

Fusako · 2006-05-23 22:11:29 UTC+9 · 投稿 #68

わたしは、「チカンがこわくて通勤電車に乗れるか、ってんだ」という見解ですので、女性専用車両は使いません。
で、今回、女性専用車両導入に際しての各社のお知らせをちょっと見てみましたが、「安心してご利用いただくために」というのが説明でしたかね。「痴漢」という言葉はなくて、明示的な説明はないままに日本人は全員でなんだか納得している(外国の方にはどう説明するのでしょうね。アラブとは全然違いますでしょ。)、というのが、「日本的」なのではないかと思った次第です。

ギグー女史

古川利明 · 2006-05-23 20:37:40 UTC+9 · 投稿 #67

そうですか、フランスも結構、狭いですね<特にENA人脈。ギグー女史は本来は何をやってる人なんですか?(弁護士とか、下院議員とか)。セゴレーヌの方はなぜか、脚光を浴びていますけど、ギグー女史に関してはその後、あんまりマスコミで取り上げられることもないですよね。ジョスパン内閣の閣僚になるくらいですから、社会党員なんでしょうけど、たぶん、セゴレーヌみたいな上昇志向はない人なんでしょうね。で、フランスの女性なんで、子供の4、5人くらいはいそうな気がしますが。しかし、そのガボン出身の「自称・ジャーナリスト」というのも、相当、胡散臭いですね。まあ、左派で票が割れてもしょうがないですけど、彼女あたりは大統領選への「色気」はないんですかね。セゴレーヌよりはいいんじゃないかと思うんですが。

ギグー女史

Sekko · 2006-05-22 21:58:18 UTC+9 · 投稿 #66

そうか、ギグーさんと政治的な話をするということはなぜか考えつきませんでした。彼女が私を覚えているかどうか知りませんが、彼女のENAの同級生が私の町に住んでいて、バロック音楽好きなので、私たちのコンサートにも来たのです。で、その人の奥さんがガボン出身のジャーナリストで、前のだんなさんがガボンで殺されたとか、その子供がうちの向かいの小学校に通ってて、そのガボンのジャーナリストが旦那の同窓生であるギグーを看板にして、アフリカの女性の会みたいなのをやってて、そこのテーマソングみたいなのを私のトリオの友人が作曲して、私の別の友人(いっっしょに踊ったことがある)に歌わせて、それにみんな当然ながら社会党が関わっていて、でもうちの町はUDF之市長で。ギグーは隣町から国会議員の選挙に出てて。しかし途中で私のダンスの友人である歌手とガボンが喧嘩して、そのうち作曲者である私の親友のゲイと歌手も冷たい関係になり、間に入った私もあわててと、なかなか複雑な関係になってまして・・ギグーみたいなビッグネームをつれて歩いてるとみんな権力とか利権に迷うようだし、特にガボンのジャーナリストはほとんど虚言癖だったんですよ。目いっぱいギグーを利用して。私の周りにはmilitants socialistes が多いのですが、EXPOをしてもコンサートをしてもギグーとか来ると即政治色ができて、私は敬遠しています。
ギャルソンは黒人の奴隷や召使を何歳でもボーイとかガールとか呼ぶのと同じですね。アフリカのフランス人宅では今でも黒人をボーイとか平気で呼んでます。アメリカの初期、南部では、黒人の人口の五分の三が統計に入れられました。黒人男一人につき五分の三人前だったわけです。
マドモワゼルだとはっきり分かってる知り合いにだったら、マダムと言って訂正されることもありますね。まあ普通はマダムですね。娘とお店に入って「ボンジュール、メドモワゼル」とか言われたら、うれしいというより不愉快です。財布を持っているほうを尊重しろ、と言いたくなります。朝市などに行ったら、誰にでも「マ・プチット・ココット」とか声をかけてますね。

女性の呼称

古川利明 · 2006-05-22 21:05:56 UTC+9 · 投稿 #65

えっ、竹下さん、ギグー女史と知り合いなんですか?(驚)彼女はジョスパン内閣の司法大臣として、セクト対策にも力を入れていましたよね。何か、例えば、共謀罪法案審議でも、死刑執行なんかでも、法務官僚の言う通り以上の動きができない(つまり、官僚のロボット)日本の法務大臣とは大違いですよね.かつて、日本の自民党の法務大臣でも「私の信念として、大臣在任中は死刑執行のサインはしない」と拒否した人はいたんですけどね。民意に従って官僚をコントロールするのが大臣の仕事でしょう。そういう発想が皆無なんですよ。まあ、これは「男女の差」というよりも、「政治家としての資質の差」でしょうけど。で、ギグー女史については、私がパリに行った際には、ぜひ、紹介して下さい(笑)。ド・マゴーあたりでぜひ、お茶をしたいです。フランス語の女性の呼称でいうと、一般には「マダム」は既婚者、「マドマゼル」は未婚者ということですけど、ある一定年齢以上(30歳くらいより上?)になると、独身でも「マダム」を使いませんか。少なくとも、「マドマゼル」は失礼という感覚がありますよね。それと似た使い分けに「ムッシウー」と「ギャルソン」にもありますよね(例えば、カフェのボーイには「ムッシウー」を使うべきで、「ギャルソン」は失礼にあたるとか)。私は結構、「おねえちゃん」という呼称が好きですが、どうも、竹下さん掲示板だと「市民権」が得られていないので、使わないようにしてますが。でも、日本では、かなり年齢のいった女性に対しても、親しみを込めて、「お嬢さん」って言いますね(特に、おもいっきりテレビのみのもんた)。でも、そういう感覚で、ギグー女史に「マドマゼル」と呼びかけるのは、「C’est tres mal」なんでしょうね。

女性の呼称

Sekko · 2006-05-22 17:09:01 UTC+9 · 投稿 #64

うーん、フランスは大人の女が尊敬されていて・・と書きたいところですが、呼称については問題ありだと思います。マダムとかの語源や使われ方の変遷はここで触れませんが要するに、どの男の持ち物であるかという基準ですね。公式文書では、A嬢がB氏と結婚したら、「B夫人A」となります。そして、B氏が死んだら、「B未亡人A」と書かれます。世間的にはマダムBのままですが。
通称はマダムAでもマダムBでもOKですが、Bだけ書いていたら必ず「旧姓」を書き込まされ、それは 「Nom de jeune fille」というんです。父の名と言われることもあります。つまりマドモワゼルは何歳でも、どの男の娘であったかを名乗り、マダムはどの男の娘からどの夫の妻になったのかをあらわしているわけです。アメリカ人から古いヨーロッパの封建制だと攻撃されそうな呼称です。でも、フランス人はあまり目くじら立てず、いろいろ改正の動きはあるものの、呼称は文化だからと割り切って、実質を取るという感じかなあ。実態がよくなればいいと言うのでしょうか(B夫人といってもB氏は夫人の所有物という人もいますから)。アメリカとは逆の方向でプラグマティックだったりします。
それに比べて、日本の呼称は、よく言われることですが、一番末の子供の視点から見た関係ですよね。家族での呼称がおばあちゃん、お母さん、お兄ちゃんetc・・夫婦も母さん父さんと呼び合うような。そしてこれは年齢と大体連動してますよね。子供から見て両親と同年輩のが「おじさん、おばさん」です。日本の子供が、友達のお母さんをシステマティックに「何とか君のおばちゃん」というのもこのせいですね。つまりフランスの女性の呼称はどの男の所有物かを基準、日本の呼称は年齢を「子供の視点」から見た疑似家族における位置基準。で、孫からおばあちゃんと言われるのはいいけれど、知らない人や、看護師やヘルパーから、おばあちゃんと言われたくない、という人は多いわけです。地域共同体が家族みたいになってた頃は受け入れたんでしょうが。それで、おばさんと言うのも、親と同年輩、から、おばあさん予備軍になり、どちらにしても、もともと「女性」と言うメタカテゴリーとは別の無性的家族カテゴリーです。そして全ての呼称は敬意を失ってレべルダウンします。(「お前」とか「貴様」から「Monsieur」「Madame」まで世界共通)
とにかく「呼ぶ」と言うことにすでに神聖の侵しが内包されているのですよね。だから、王とか「偉い人」は2人称を避けて3人称で呼ばれます。日本語などは王でなくとも、目上の人は2人称で呼べない、それで、子供という最も「目下」から見た3人称を使い、それが、しかし、どんどん敬意を剥ぎ取られていくわけです。
それにくらべると、なんと呼んでもイントネーションだけで反応してくれる猫たちは、神聖不可侵かなあ。

フランスの女性

Fusako · 2006-05-22 09:23:04 UTC+9 · 投稿 #63

前にもちょっと書きましたが、「独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜」で分けずに、フランスでは大人の女性を「マダム」と言う、「おばさん」という言葉で大人の女性をくくる日本と、雰囲気が違う、と書いた本を読んだことがあります。この表現そのものにあらわれているのではないかと思うのですが、かわいい子どもであるよりも、成熟した大人であることを重視する文化、ってこれは別の欄にも書きましたが、がフランス?
「おばさん」がもっと年取ると「おばあさん」で、「かわいいおばあさんになりたい」と言う人は多いですね。何だそれ、青二才から「かわいい」なんざ言われたかぁねえ、がわたしの見解ですが。「おばさん」「おばあさん」、いずれにしても、呼びかけのことばとしては良くないですね。大人に対する敬意、のようなニュアンスがなくて。少し古い日本語には、「おかみ」「ねえさん」「刀自」等と、「マダム」にじゅうぶん比肩できる言葉があり、また、そういう方たちもいた、と思うのですが。

法律

Sekko · 2006-05-20 21:28:02 UTC+9 · 投稿 #62

そうかもしれません。でもそれって、イギリス? 政教分離してない国っぽいネーミングですね。私が前に聞いたのはアメリカの話でちょっと違う名のような気がするのですが、手元に当時のやり取りが残ってないので・・・また分かったら書きます。

法律

Fusako · 2006-05-20 08:37:37 UTC+9 · 投稿 #61

GOOD SAMARITAN ACTでは?

他人を助ける

Sekko · 2006-05-20 02:39:54 UTC+9 · 投稿 #60

フランスでは、「危険な目にあっている人を助けない」のは刑法上のDelitです。Crimeじゃないですけど。だから、助けて、と言いさえすれば、助けることが可能なのに助けない周りの人は互いにまずい立場になります。それで、助けようとしたけれど失敗しても、それはもちろん罪じゃありません。これにひきかえ、アメリカでは、たとえば急病の人をそばにいた医者が手当てして治らなくても後で、その介入がもっと悪くしたとか言われて訴訟を起こされることが多すぎて、一時期もう誰も他人を触らなくなりました。何もしなければリスクをかかえないということで。
それで、確か聖書のエピソードから名をとった(今ど忘れしました。どなたか教えて下さい)法律ができて、緊急の場合に援助した行為の結果による法的責任は問われないことになったはずです。ちょうど、フランスのNon-assistance
罪と同じ頃の話だったので、あまりの差に驚いたことがあります。助けないと罪になる国と、助けた方が結果責任をびくびくしないように法律でフォローしないとだめな国があるんだと・・・
ええと、エリザベット・ギグーは私も好き。好みが似てますね。セゴレーヌのことを友人(60代フランス人)が、「小学校の女の先生みたいだ」といってたので笑えました。もちろん小学校が悪いとか女の先生を軽く見てるんじゃないんですが、あまりにもぴったりだったので。ギグーは会ったこともありますが美人でシックで知性的でカリスマありました。
ギグーなんかは別としても確かにフランスの女性は何か一生現役やっててそれはそれで気の毒に思えるとこもあります。「女性」としてはコミュニティ的にくくられますが独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜では分けられないですね。個人として評価される率大きいです。女性誌なら多少はターゲットが分かれますが、日本のように細かくないです。
後、年配の女性ではバダンテールも好き。彼女もエリザベトです。

自己防衛の重要性

古川利明 · 2006-05-19 21:02:24 UTC+9 · 投稿 #59

確かに竹下さんの書き込みで思ったんですが、パリのメトロに乗っていても(別にメトロだけに限らないですが)、若い女性は服装がおしなべて質素というか、カジュアルですよね。だいたいジーンズで、そんなケバい化粧もしていないし、日本みたいにブランド物をチャラチャラさせてはいませんよね。少し話は逸れますけど、パリジェンヌ(&マダム) はやっぱキレイですよ。前、一度、ロンドンから入って、ドーバーを渡って、パリに着いたとき、ほんとに女性がキレイだと思いました(ただ、こういうことを書くとフェミニスト系のオバサンに猛抗議を受けそうですが)。フランスの女優はハリウッドのそれとは、全然、違いますもの。フランスの女性は30、40になってから美しいですね。その意味でいうと、セゴレーヌなんかよりも、ジョスパン内閣時代の司法大臣をやっていたギグー女史の方が私は好みです(笑)。で、話を戻しますと、痴漢だけでなくて、所詮、アカの他人なんて、「自分」を助けてなんてくれませんよ。見て見ぬフリ。とりわけ日本ではそうだと思います。ただ、私自身は、世の中、そんなもんだと思っているので、「私」(=古川)に関してはそれでいいと思っています。でも、自分から異議申し立ての声を上げないことには、なかなか周りの人もそれを支持してくれるふうには動いてくれなんじゃないか、と思うんですけど。

女性専用車両

hiromin · 2006-05-19 00:00:28 UTC+9 · 投稿 #58

突然失礼いたします。
私も通勤のとき、時々女性専用車両を利用します。混んだ時間帯は女性専用の方が空いているんです。
なので私の場合は痴漢対策ではありません。何度も痴漢にあってしまう友人もいますが、私はこれまでに一度だけ痴漢にあいました。
竹下さんのお話「日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか」を読んでそのときのことを思い出しました。
もう何年も前の朝の通勤電車の中でお尻を触られました。で、私は黙っているタチではないので「ちょっとアンタ何してんの?」と言い、一緒に乗っていた友人(女性)が「どないしたん?触ってんのか?」と言い、私は「次の駅で降りてもらうで」とにらみました。
それはものすごく気の弱そうな若い男で半分泣きそうになってたのですが、それを見た友人の闘志に火がついてしまい友人はその男をさらに責めました。そしたら周りの空気が若い男に同情的になったんです。もうびっくりです。だって私が被害者なのに。
(まあ確かに私をターゲットにしたその男はある意味で不運だったといえるかもしれませんが。結局次の駅でダッシュで逃げられてしまいました。)周りはほとんどが中高年のおじさんたちでした。なんか、こういう時誰も助けてくれないんだーと思うとちょっとショックでした。まあ我々のことを助ける必要はなかったんですが。。。
なんかこういうのって、今の日本の傾向を表してる、といえなくもない気がします。攻めやすいところを攻めるというか。
あまりいい例をいま思いつきませんが。

女性専用車両

古川利明 · 2006-05-18 20:40:55 UTC+9 · 投稿 #57

この女性専用車両、私なりにいろいろと考えさせられるものがあります。一般的には「痴漢対策」ということなのでしょうが、それって痴漢は「男性から女性」というふうに捉えられていて(もちろん、それは事実だと思いますが)、でも、以前、東海道線の満員電車に乗っていて、私、脂ぎったオバハンに股間へ太ももを差し込まれたことがありますよ。向こうは気持ちいい表情をしていて、「カンベンしてくれ」と思いましたが、こうした「男性の被害者」もいることを知ってほしいのが一つ(笑)。でも、こうやって「男性」と「女性」という枠にカテゴライズさせて、問題解決を図ろうとする手法っていうのは、非常にコミュニタリズム的ですよね。それと、直接的には関係ないのかもしれませんが、映画の「毎週水曜日は女性だけ割引料金」というのも嫌ですね。ただ、世の中、男女差別がいろんなところではびこっているので、そういう「罪滅ぼし」なのかということで、自分を納得させてますけど。とりわけ日本の社会は「男女差別」というより、「男尊女卑」が徹底しているんですよね。女性という存在に対するリスペクトの念がない男はダメですよ。男女間に体力差は一般に存在しますけど、能力に関しては基本的に「格差」はない、という立場です。ただ、ジャーナリズムなんかは、3Kなんていう生易しいものではなくて、どぶ板というのか、現実という汚濁の中に入って、ネタを取ってくるのが仕事なので、一方でそういうハードなことを女性にさせてしまうというのは、いかがなものか、という思いはありますけどね。例えば、後輩の記者を鍛えるのに、男性だったらいくらでもシゴいたところで、「アホ、お前なんか辞めてしまえ」でいいですけど(笑)、なかなか女性にそういうふうには言い辛いですよね。やはり、「女の涙」には弱いですから。

女性専用車両(続)

Fusako · 2006-05-17 23:14:44 UTC+9 · 投稿 #56

これだけではなくて、今の日本の公共交通でのマナーの悪さ、ルールのなさ、に失望しています。空いている席をめがけて、若い人や子どもが、年上の人を押しのけてダッシュするのが普通の状態です。痴漢も多いようですね。わたしは流石に今は「どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさん」であることと(でもこの表現は嫌いですよ、痴漢されるぐらいなら女として認められている、という言い方ですね)、そんな風に、女性用、高齢者用、障害者用、と分ければいいとは思えないのと、それにもう一つは、女性専用車両を使っていた娘が「あれもすさまじいものがあってね、化粧はし放題だし、同性だからという遠慮のなさか、ぐいぐい押してくるし・・・」という話にへえー、というのがありまして、使わないです。
男性、女性、あるべきように自然にいて、お互いに言うべきことはきちんと主張できるのが望ましいですよね。日本の男性と女性のあり方、ってとても不自然だし、対等でないです。毎日毎日、それにイライラしています。だいたい、男女が、自然に半々に近い組織というのがほんとになくて、仕事の組織では「オールブラックス」がいまだに大半。たまに女性の多い組織だと、女性の問題点がもろに出ます。重箱の隅をつつくような細かい揚げ足のとりあい、優等生志向、人間関係と仕事とが感情的にからまりあっている、視野が異様に狭い、・・・でわたしは、日本自体が、どうもそのような女性的社会ではないか、という印象を持っています。

女性専用車両

Sekko · 2006-05-17 02:24:02 UTC+9 · 投稿 #55

女性専用車両、私は一度乗りました。ホームで待ってる時から華やかそうでなんだかわくわくしました。サウジアラビアみたいだと思いました。女性は他の車両でもOKなのに男性が乗れないのは気の毒な気もしました。歌舞伎座とかで女性トイレがいっぱいの時、女性(おばさんですが)は平気で男性トイレに入っても非難されないことを思い出しました。
その後で、何かの雑誌で、この車両についてある男性作家が、どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさんまでが女性車両を利用していると書いていたので、驚きました。女性車両に乗るのは性的価値の自己申告だというのです。ひょっとして「若い女性」専用車両だったのかとびっくりしました。サウジアラビアの生活指針には、初潮からは顔や体を黒いアバヤで隠すのですが、閉経後も美しい人は隠さねばならないと書いてありました。リヤドでは、実際はおばあさんでも、いや、年配の女性ほど、家の中でも寝る時以外はヴェールをすっぽりかぶっている人が多いと聞きました。通りでは、全身黒で顔も見えないので、はっきり言って、老若や美醜どころか、性別も分かりません。ヴェールを外す人だけが、自分は男だとか女でも性的価値がないだとかカムアウトするわけです。(サウジでは性的価値というのは要するに男を誘惑する罪の根源ということです。) レイプは基本的に首切りの死刑なので、深刻です。
本当に男が全て女を襲うのなら、確かにライオンとシマウマは同じ車両に入れられないとも言えますが、人間なんだから、すべては文化現象ですよね。でも、少なくとも東京とパリに暮らしたことのある女性はきっと、パリでは映画館やメトロで痴漢に会わないことに気づいていると思います。初めは、日本の映画館は自由に席を選べるけれど、パリでは(特にひと昔前までは)全て案内嬢が席を決めましたからそのせいで痴漢目的の人は来ないのかなあと思ってました。映画上映中の館内は日本よりも真っ暗になります。でもメトロでかなり込み合ってもまず痴漢はいません。
別にフランス人の方が上品だとは思えないのですが、言えるのはフランス人女性だったら触られたら叫ぶ確率が非常に高く、そしたら周りにはそれに介入する乗客が多いだろうと言うことです。そういう予測がつくので、自然とブレーキがかかるのでしょう。リスクが大きすぎるということでしょう。それ以外にパリに痴漢が少ない理由は思いつきません。私も日本にいた頃は、映画館で何度も黙って席を替えたりしましたが、叫んだことはないです。フランスだったら叫ぶと思いますね。誰かがきっとフォローしてくれそうだから。日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか。逆に今は、狂言で叫ばれたら即男性の人生破壊というくらいインパクトが強くて、男性は戦々兢々、男性専用車両に乗りたい人もいるかもしれません。
娘がルーマニアの学会に行ったとき、東欧の女性研究者はみな下着のような服で発表したと言って驚いていました。西欧ではみんな雑誌のグラビアのような服を着ていると思っているらしいというのです。フランスではむしろモノセックス的なカジュアルな服が多いです。白衣の下はジーンズにスニーカーでもOKで、日本で順天堂医大に研修に行った時はだめだったようで、黒い靴と黒いパンタロンを買ってました。体をどう包むかというのはジェンダーの大問題ですね。

週末の四方山話

Fusako · 2006-05-12 23:00:02 UTC+9 · 投稿 #54

今週、フランスに住む友人と夕食を一緒にする機会がありまして、出かけるときに地下鉄に乗り、ちょうどその車両が「女性専用車」。「増えてるんですか。」とたずねられて「増えてます。」わたしは利用しませんし、良いと思えない傾向ですが、これってコミュノタリスム車両?
鬱話では、景気回復といわれていますが、日本の自殺は結局8年連続で3万人を超える、との報道がついさきごろ出ましたね。

ユダの福音書〈続き〉

Sekko · 2006-04-24 01:22:42 UTC+9 · 投稿 #53

ユダの福音書ですが、最近読んだコメントでは、それが「全ては宇宙的デザインにしたがってオーガナイズされていた」というグノーシス的世界観に傾くところが問題だとしていました。正典の福音書もよく見れば、イエスがユダに「しようと思っていることをしなさい」と言ったり、最後の晩餐のあの雰囲気で、ことの次第を見抜けなかった他の11使徒の方がお間抜けな感じです。オリーヴ山でのあの苦しみを見ても、イエスは次の日に逮捕されても「驚いた、ショックだったよ、弟子に裏切られて。晴天の霹靂。」というような状態じゃないですね。それにもちろん旧約の預言の成就というグランド・デザインがあるわけです。だから、『ユダの福音書』のようなテキストが嘗て流布していたことは不思議じゃないし、そんなにスキャンダラスじゃないですね。
アングロサクソン国でまた騒ぐとしたら、ひとつは「復権ブーム」もあります。「ダヴィンチコード』が女性原理だの女神だのマグダラのマリアだのの「復権」を書いたように。
また、ピューリタン系プロテスタントが、聖人伝系テクストを否定してきたので、「外伝」と聞くとすわ「秘密の伝承」と色めきたつ事情もあります。実際は、このユダの福音書が発見された洞窟文書は66ページ、13の手稿があり、そこにはヤコブの原福音書とかペトロの手紙とか、アロゲネスの書〈そのテキストの2つは1946年のナグ・ハマディ文書と重複)とかあるんですが、たとえばヤコブの原福音書が、ヨセフを老人の姿で描く伝統のもとになっていたり、別の、偽マタイ福音書とかが、イエスが馬小屋で生れ、馬やロバに囲まれていたという伝承を流布させたのだということは知られています。正典が採択された4世紀ごろには頃には、さまざまなテキストが出ていて、外伝となった後も実際は伝承の中で生き続けていたわけです。しかし、そういう枝葉を取り払ってできたプロテスタント世界では、外伝がメディアに出て来るたびにスキャンダルになったり、それを政治的宗教的に利用しようとするグループがでて来るわけですね。
しかし、よく考えると、ユダの「裏切り」はすでに旧約の成就というグランド・デザインの中に位置づけられていたのですから、単純に「悪者」と見なされていたわけではありません。ボルヘスのように、「人類全てを救うためにもし神が屈辱を必要としていたのなら、真のメシアは沈黙のユダである」といった人もありました。裏切りもまた、神に対する人間の自由のひとつの表現だと見る意見もあります。ユダのおかげで、キリスト教世界の人は、いろいろな自問や思索を余儀なくされ、「裏切り=悪」という二元論的で単純な断罪の誘惑と戦ってきたのだと思います。
裏切りといったら、他の11使徒も、イエスが殺されるまでちりぢりになって逃げて知らん顔していたのですから、これもひどい話です。80歳で弟子に囲まれ食あたりで死んだ釈迦に対して、33歳で弟子たちに裏切られて死刑になったイエス、それでそれが神の子で、そういうパラドクシカルなところがこの宗教の人間的魅力になってます。それを、「今まで悪人とみなされていたユダは、実は善人だった」という単純な「実はいいやつ」復権話で矮小化されたくないという感じですね。
そして、ユダヤ教をキリスト教に接ぎ木するためのアクロバティックでパラドクシカルなグランド・デザインを、「全ては宇宙的な予定調和」という形でニューエイジ風に拡大希釈してしまうのも、また魅力を半減すると思います。それに危険でもあります。前世がどうとか先祖の霊がどうとかと言われるのと同じで、判断力や思考力の求められる余地がなくなるので。ユダやペトロのせいというか彼らのおかげで、キリスト教に陰影がもたらされて、永遠にじたばたするのは人間的でいいかも。

ユダについて

あんとに庵 · 2006-04-12 18:56:25 UTC+9 · 投稿 #52

sekkoさんのおっしゃられる通り、ユダが裏切り者だったからユダヤ人が・・・というのは本来的にはあまりないですよね。それよりもユダヤ人の中にある「反教会主義」の動向が気になりますね。何故なのでしょう?