2007年の投稿

落語の続き

森田英之 · 2007-09-08 23:58:27 UTC+9 · 投稿 #207

現在仏語での落語台本はみつかりません。仕方がないので、英語落語の原稿を容易に入手する方法を模索中です。

落語

森田英之 · 2007-09-08 23:56:42 UTC+9 · 投稿 #206

今回は軟らかい内容で失礼します。ISというエクスにある語学学校で4週間フランス語初級を学びました。必ずプレゼンタシオンをやるのですが、2回目はクラスにもう一人日本人女性がいることもあって、離日前から温めていた落語をやりました。昨年のパリ公演でも「Rakugo」となっていたので「Rakugo japonais」とし、まず落語の意味を説明しましたが、その日本人女性を除いて誰も知らなかったので、大変難しかったです。最初「tour de mots」と言ったら、フランス人の先生が「jeu de mots」の方が正確だと言われました。
演題は「les tableaux」です。NHKの「英語でしゃべらないと」という番組を見ていたら、故桂枝雀師匠の弟子のイギリス人女性が青井アナウンサーに英語落語の稽古をつけている場面があり、それを仏訳し、話しやすいように少し手直ししたものです。フランス人プロフェッサーとアメリカ人マダムとの掛け合いですが、カンペを見ることもなく無事演じきりました。ただ私の仏語が拙いせいか、先生以外にはあまり受けませんでした。先生には事前に原稿の手直しをお願いしてあったので、ストーリーおよびオチが読めていたこともあってバカ受けしていました。
パリ公演では字幕スーパーで行いましたが、枕をフランス語でやったり、紙切りの師匠は通訳も、字幕も無しで観客とやりとりされたと聞きました。
フランス語で落語をやることで、また違った日本文化への理解が生まれるのではないかと思います。日本語での落語にこだわる関東と、積極的に英語落語に挑戦する上方落語とアプローチが異なるのも面白いと思います。大変失礼しました。

おもしろいですね。

Sekko · 2007-09-07 11:56:46 UTC+9 · 投稿 #205

Fusakoさま、このページ読みました。日本がなんでもアメリカに追随するとしても、軍事や社会保障など、直接命に関わることについては、本当に根本的な世界観や倫理感をふまえてほしいですね。笑い事じゃないです。
宗教観の比較をしてたら、日本もヨーロッパも、本質的にあんまり変わらないというか、とにかく先進国は似てきている状況にあります。でも、いつも、ちょっと独特なのがインドで、インドの世界観とか宗教観って、今でも独自のものがあるみたいです。
だから、アジア型、っていっても、即日本に分かりやすいかは疑問ですね。
医療と宗教って生命観、死生観を通じて重なる部分が多いですから、人柄、人格を抜きにして語れませんね。

森田さん、アフリカの数学教育まで考えていらっしゃるんですね。
この夏セネガルで、サルコジが「アフリカ人は伝統的に進歩に関心を持たない」、とか、差別言辞を吐いたんですよ。彼の横には黒人女性のフランス外務次官がいました。
これが「ユダヤ人は」とか「アラブ人は」とか、「黒人は」、とかだったら、大騒ぎになってたでしょう。アラブ人も黒人も入ってるんですが、「アフリカ人は」というところが微妙でした。もちろん現地でも、ヨーロッパメディアでも取り上げられたんですが、フランスではマスコミが無視したので、ほんとにいやな傾向だと思っています。
まあ、よく見たら、フランスの歴史では、カリスマ性を持った専制君主的な人が現れて国民を魅了したり、それが度を過ぎると引き摺り下ろされるという繰り返しもあるんで、「哲学と数学」を両輪にしてきた教育の底力が、いい方に向くことを祈ります。等価交易などの運動がグランゼコールのエリートなどから生まれて広がってきたように、エリートの使命感というのもまだ健在みたいですし。
森田さんが数学教育でそういう志を持っているなんてうれしいです。

Sicko

Fusako · 2007-09-05 22:26:12 UTC+9 · 投稿 #204

周囲でけっこう話題になっています。
大学の社会保障論の先生が、学生に「必見」と勧めているという面白いページもありました。
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare103.pdf

ムーアの映画はわたしはまだ見てはいないのですが、そんなことから、医療制度のことをちょっとネットサーフィンしていたら、インドの医療ビジネスの話に行き当たりました。アメリカのように富裕層と貧困層との格差があるけれど、その上に更に技術力の高さとコストの安さから、海外からの需要を呼び込んで「メディカル・ツアー」が医療産業の儲けの目玉になりつつある、という話です。
日本はまさかそこまではと思いますが、今の日本で医学に進むような層に、志からという人たちが一体どれくらいいるのか、圧倒多数は「儲かって社会的ステイタスも高い」みたいなものをめざしているのだとしたら・・・、とやや疑心暗鬼に。ヨーロッパ型とアメリカ型どちらをめざすのか、というだけでなく、アジア型、というのもあるわけですね。

御礼

森田英之 · 2007-09-03 19:43:32 UTC+9 · 投稿 #203

さっそくのご返事有り難うございます。実は3日ほどパリに行っていて先ほど戻りました。パリにいる知り合いと食事しながらユニヴァーサリズムの話題について議論しましたが、フランス人には当たり前であって、日本人がアメリカに対しNOと言えない不自由さ、もどかしさを理解するのは難しいようです。氏のご指摘の通り、フランスでの優秀な生徒がグランゼコールに行くというのは、聞いてはいましたが、実際に若者に数学が嫌いになる理由の一つだと言われると辛くなります。ただ政治家・官僚にロジックを使える人が多いというのは大切だと思います。日本の政治家のように言動が矛盾していることを指摘されても、それが理解できない、もしくは何の罪悪感も感じないというのは、一般庶民からすると問題だと思います。
ご存じのように数学では、小学校段階の算数から「同一視」という概念を気がつかない内に導入していきます。それが僕には人間の平等概念を形成するのに大きな役割を果たすと思われるのです。
第2次世界大戦中、多くの優秀な科学者がアメリカに転住しました。ところがマッカーシーの赤狩り以来、アメリカの大学研究者の言論が一部封じ込められた感があります。理系はそんなことないのだろうかと思っていたのですが、僕が学生時代興味を持ったクルト・ゲーデルというロジシャンは、「ニューヨークの市民憲章は矛盾しているが宣誓せざるを得ない。」と言い、彼の哲学分野の研究も最後まで未発表のまま、ほぼ自殺に近い餓死という形で生涯を閉じました。数学基礎論の哲学的な側面はゲーデルの死後一切無くなり、ただの数学になってしまったのです。残念でなりません。
ここからは推測ですが、ケンブリッジで教えていたヴィトゲンシュタインが大学を去ったことや、ブルヴァキの中心になってバリバリ研究をしていたグロダンディエックが行方をくらませたのも関連がある気がしてなりません。
僕はアメリカに自由があるとは思えません。WASP達が恐れているのは、世界をひっくり返すような科学研究が、自分たちと反対サイドの人間によって達成されることではないかと思います。ビル・ゲイツが早々と引退してしまった(政治的活動に関わらないまま)のも陰で何らかの動きがあったか、それを恐れてではないでしょうか。
ケネディ暗殺を例に出すまでも無く、自分たちの利害に反する者は例外なくたたきつぶすというのがアメリカの本心と思われます。田中角栄がつぶされたのも明らかに中国外交でアメリカの意志に逆らったからではないでしょうか。
その恐ろしさを知っている自民党の一部の議員がアメリカにNOと言えるわけがありません。だからこそ、「筋が通らないものは誰が何と言おうとだめだ。」というフランス人のスタンスに清々しさを感じるのです。
今アメリカの数学教育界は大きく動こうとしています。日本の指導要領のようなアメリカ全体で統一的なもの(スタンダードと呼ばれています)を作り、今のところ強制力は無いのですが、そのうち強制する割合が増えていくでしょう。また優秀な教員を育成するために、日本の出来のいい模範授業のDVDを無料で配布し、授業研究をさせています。日本のように研究授業後に反省会を開き、夜になって飲み会でまで議論を戦わすなんて信じられなかったアメリカ人教師がお互いの授業を見合うようにまで変わってきたのです。
アメリカの大学では優秀なチャイニーズやインディアンが闊歩していますから、相当恐れているのではないでしょうか。
最後に僕は数学ではなくて、数学教育の研究を続け、できましたら弱い立場にいる人達(例えばフランスが支援をしているアフリカの人達など)が数学教育のレベルを上げることによって豊かな国作りを行える手助けをしたいと考えています。
よろしければまたのご助言をお願いします。

お気軽に

Sekko · 2007-09-01 00:48:39 UTC+9 · 投稿 #202

さっき書き忘れましたが、フランスでの生活や、フランス語のことなど、わかんないことがあれば気軽に質問してくださいね。

どうなんでしょうね

Sekko · 2007-09-01 00:45:58 UTC+9 · 投稿 #201

フランスが、数学の成績によって、生徒を選別するのは知られていますが、優秀な生徒は結局、グランゼコールの準備クラスから、エンジニアのグランゼコールに行ってしまって、大学の数学科には人が集まらないと言われています。大学院のレベルでは、グランゼコールの卒業生が入ってくることも少なくなく、また別なんですが。フランスゴのエンジニアは、日本語や英語のエンジニア(フランスではTechnicienと呼ばれます)と違って、理系管理職予備軍というか、エリートの異称で、新卒で就職した時点から、出身学校のレベルによって給料に差がついたりするんですよ。

数学教育の王道なら、やはり数学のアグレガシオンをとることで、これは、出身によっての差別はありません。ENSの数学科はエンジニアのポリテクより難関と言われています。

今、日本にいます。最近、マイケル・ムーアの『Sicko』を観ました。カリカチュラルなんですが、アメリカのつらい状況を見せつけられた後で、フランスの様子がうつると、何か胸に温かいものがこみ上げてきました。ヨーロッパの保険制度がカトリックの信心団の互助組合のメンタリティと関係のあることを思うと、マイケル・ムーアがアイルランド系カトリックであることも偶然じゃないかなあという気がします。

フランスも、診察料、20ユーロが21ユーロに引き上げられたかと思ったら、最近また22ユーロに引き上げられました。個人負担が1ユーロです。昔は全額返ってきましたが・・・保険システムの破綻はカナダ同様うるさく言われているんですが、アメリカのような事態には戻らないでしょう。
映画の中で、パリの中流家庭と紹介された家族は、夫がエンジニア(つまりエンジニアの国家免状を持っているエリート)で夫婦の収入が7000ユーロ以上と言っていましたから、すごく普通の人たちではないですね。でも、マイケル・ムーアはフランスで好かれているので、サーヴィスしてるんでしょう。『華氏911』よりは丁寧にうまく創られています。キューバを褒めてたわりには、WHOの健康保険充実度のランキングで37位のアメリカより下の39位とあったのがちょっと気になりました。チェ・ゲバラの娘が小児科医として出てくるのは感慨深いでした。

病や怪我は、それだけで、自尊の念が傷つきます。そんな局面で金とか格差が露になるシステムは、やはり間違っていますね。サルコジのネオリベ体質も、日本のことも心配です。

コミュノタリスムとユニヴァーサリスム関係の分かりやすいフランス語の本はいくつもあると思います。それと数学教育の関係は分かりませんが。私がフランス語で書いたものはバロック音楽におけるユニヴァーサリスムならありますが、あまり意味はないでしょう。9月半ばにフランスに戻るので、またあらためてお返事します。

竹下氏の仏語論文について

森田英之 · 2007-08-31 06:37:18 UTC+9 · 投稿 #200

Mme.竹下の文春新書「アメリカに『NO』と言える国」を読んで共感を覚えたものです。日本の政治家および官僚に読ませたいとつくづく思いました。
僕は高校の数学教員だったのですが、各国の数学教育の現状を調べていく内にどうも米・英の行き詰まり感は、氏の指摘する通り、コミュノタリスムに起因するとしか考えられません。弱い立場の人達にしわ寄せがいくというのは日本でも徐々に始まっています。そこで思い切って高校教員を辞し、フランスで数学教育を学ぶことにしました。現在4週間の語学研修をエクスで過ごし、ボルドー大学で引き続きフランス語を学びます。順調にいけば、ボルドー大学の数学教育系大学院へ進み、博士を取れればと思っています。そのとき氏のフランスにおけるグローバリズムに関する仏語の論文を参考にさせていただき、できれば引用させてもらいたいと考えています。氏の論文へのアクセス方法をお教え下さい。

ごめんなさい

Sekko · 2007-08-18 13:10:17 UTC+9 · 投稿 #199

留守しててお返事遅くなりました。

やっぱ、pour toujours がきれいですね。ou 「う」が3回繰り返しでごろがいいし。直訳なら ensemble toute la vie だけど長いし、生涯だけじゃなくてずーっと、ずーっと、という気持ちで。

私たちは、日付と互いの愛称をそれぞれ逆の順で刻印しました。(自分の名を後に)

ずーっと、ずーっといっしょに、互いに相手のことを第一に思いやって暮らしてください。お幸せをお祈りします。

フランス語に言い換えると

プリゾウ · 2007-08-13 04:10:29 UTC+9 · 投稿 #198

「生涯共に」を簡単なフランス語に言い換えると・・・教えてください。
結婚指輪に刻印したいんですよね。

有難う御座いました

こけし · 2007-07-07 11:32:18 UTC+9 · 投稿 #196

ご回答有難う御座いました。大変参考になりました。様々な女性戦士の逸話も興味深かったです。
女性戦士にも「英雄色を好む」人がいるというのに少し驚きました。

前回、誤字を打ってしまいました。大変申し訳ありませんでした。訂正いたします。
誤・ヒルデガルド→正・ヒルデガルト

戦う女たち

Sekko · 2007-07-07 02:22:58 UTC+9 · 投稿 #195

私もジャンヌ・ド・ベルヴィル大好きです。あれから出た本でまだ読んでないのは、

http://www.amazon.fr/Pirates-Corsaires-Patrick-Poivre-dArvor/dp/2844590756/ref=sr_1_4/402-9161165-3904159?ie=UTF8&s=books&qid=1183739494&sr=1-4

という本です。歴史雑誌には時々出ていますが、後は、百年戦争にまつわる歴史専門書でしょうか。

でも、他にもフランスで有名な女性戦士としては、第2次十字軍に、妻が同行するのを禁じられたルイ7世の妻エレオノーレが男装して、やはり騎士の姿で固めた女性たちと一緒に男たちを十字軍へ誘う激をとばしながら、槍や斧で武装して馬を走らせてすごく勇ましかったそうです。そのせいで、第3次十字軍では一切の女性の参加が禁止されたそうです。
17世紀にはアンゴラで50人の男のハーレムを連れていたというタマラ女王がポルトガルで戦いました。1592年にパナマで参軍した修道女の自叙伝というのも聞いたことがあります。戦う女性は、ジャンヌ・ダルクのような処女か男嫌い、あるいは超男好きかの2種類あると考えられていたようです。巫女型か、「英雄色を好む型」みたいです。前者は自らを犠牲に捧げるタイプ、後者は、エネルギッシュで長生き。フランス革命時代に活躍したのがマリー・ドゥシュマン。軍人を父に持ち1772年に生まれ、早く結婚して19歳で未亡人、1792年、祖国の危機に立ち上がり、父がいて、夫が所属していた部隊に入隊をゆるされて、下士官として7回参戦。その勇敢さを称えられて表彰されるも、25歳で敵前で負傷、兵士として男装のまま廃兵院で治療を受けました。王政復古の1822年、50歳の時にルイ18世から少尉の地位をあたえられます。さらに、1851年、ルイ・ナポレオンがレジオン・ドヌール勲章とセント・ヘレナメダルを授与、ボナパルティストとしての栄誉を受けました。このときマリーは79歳、パリに来たヴィクトリア女王が是非合いたいと言って面会したそうです。89歳で没した時はナポレオン3世夫妻が葬儀に出席、なんか華々しい戦士人生でした。もともと、ローマ軍の記録によれば、ケルトには女性戦隊がいたそうで、プルタルコスは102年にエクス・アン・プロヴァンスで剣や斧で襲ってきた女たちがローマ兵の楯や剣を奪ったと書いています。ローマへの最初の反乱軍12万の兵士を率いたのはBodiceaという女性で、女王とよばれていたそうです。ギリシャ=ローマ=ユダヤ=キリスト教文化の定着のせいで、ヨーロッパには女性戦士のジェンダーがなくなったけれど、土地の記憶としては、時々噴出してくるとも言われています。アマゾン河で女性戦士に襲われたヨーロッパ人がアマゾネスにちなんでその河をアマゾンと名づけたのも有名ですね。
カノッサの屈辱時代に勇名をはせたマティルドは戦略と戦争の天才だったみたいで、43歳で15歳のバイエルン大公と結婚したし、60歳でも剣をとる気まんまんみたいだったようです。戦いの天才は男女関係なく存在する、みたいです。

はじめまして

こけし · 2007-07-05 21:40:36 UTC+9 · 投稿 #194

初めまして、こけしと申します。
竹下さんの著書『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』に大変感銘を受けました。ジャンヌの男装の意味、当時の性概念などジャンヌに関する事への記述だけでなく、中世を生きた女性ヒルデガルドやカタリナ、ジャンヌ・ド・ベルヴィル達に関しての話も全て初めて知るものばかりで、目から鱗が落ちるような思いで読みました。特に復讐の女神と冠されたジャンヌ・ド・ベルヴィルの愛に生きたその生涯に魅了されてしまいました。彼女を知る事ができたのも竹下さんのおかげです。感謝してもしきれない程です、本当に有難う御座います。
私は『~超異端の聖女』がキッカケでジャンヌ・ド・ベルヴィルについて知り、彼女について詳しく調べたいと思っているのですが、竹下さんの他の著書や資料、外部のサイトなど、ジャンヌ・ド・ベルヴィルについて詳しく書かれている資料でオススメのものはありますでしょうか?宜しければ御教授願います。

ありがとうございました

greencurry · 2007-06-08 20:44:04 UTC+9 · 投稿 #193

竹下先生、早速ご回答ありがとうございました。
en ~ にはそんなニュアンスがあるのですね。一緒に本を読んでいるメンバーにも教えてあげます。それにしても、私はいつになったら、というか、いつかそのようなニュアンスが分かるようになるのでしょうか(苦笑)
フランス人への道は遠いなぁ・・・

わりと普通です。

Sekko · 2007-06-03 22:45:06 UTC+9 · 投稿 #192

En のこういう使い方、わりとふつうですよ。良く文例にあるのは「Vivre en prince」とか。「Vivre comme un prince」とどう違うかというと、comme の方が見た目というか、他から見てprinceみたい、という感じで、en prince の方が、本人もなりきって、みたいなイメージがあるかも。

「日本に行ったら日本人みたいにふるまいなさい」と言うのを「comme des japonais」と言ったら、日本人じゃない人が、日本人のまねをしてそばにいる日本人のようにふるまうという雰囲気ですが、「en japonais」だったら、日本人として期待されるようなやり方でふるまいなさいと言う感じかな。むしろ、日本人に向かって、「外国に行ったら、日本人として(の自覚を持って)ふるまいなさい」と言うときにぴったり。
このアランの文では、comme si nous etions des gourmets という意味に近いんですが、en gourmets とすることで、imagination がこっちの選択を許さないでいやおうなしに我々をグルメと決めつけて、有能なシェフのように恐怖を調合して味わわせる、我々もグルメっぽくそれにちゃんと反応して、シェフの思い通りに怖がる、という残酷さ皮肉さが効果的に出ていると思います。
後、初めこの質問を見たとき、何のことか一瞬分からなかったんです。groumets とあったからです。単純ミスにも見えますが、日本人には、聞き取りとしては、groumets と gourmets の区別がつかないんですよね。たとえば、trou とtour では、それぞれ、トゥルー と トゥール とはっきり違って聞こえるんですが、次に母音が来て、たとえば「トゥルネ」と聞こえると、それが「trouner」「tourner」かは耳ではもう区別がつきません。この場合は trouner という動詞はなくtrouer になるので、判断はできますが。固有名詞なんかは大変です。
昔日本のサッカーで、フランスのトルシエ監督というのを日本のメディアで読んで、それをフランス人に言おうとして、ぐっとつまったことがあります。まあ、trousseという単語から連想して、それで当たってたんですけど、RとLも含めて、なんかすごく可能性がありますから。
ちょっと気にとめといてください。

en の使い方

greencurry · 2007-06-02 16:49:38 UTC+9 · 投稿 #191

竹下先生、en の使い方について質問があります。
私は、友達5人でアランの幸福論を原文で読んでいるのですが、第9章 Maux d'esprit の中で次のような文章があります。
「L'imagination est pire qu'un bourreau chinois; elle dose la peur ; elle nous la fait gouter en groumets.」
で、最後の en groumets をどう訳すかよく分かりませんでした。
結局、「食通のように」と訳すのでいいのだと落ち着きましたが、en にはこのような使い方があるのですか?

和訳その3

Sekko · 2007-05-02 21:42:43 UTC+9 · 投稿 #190

Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
の和訳の解説です。最近こんな言葉を見つけました。

「悪い訳でもエエ訳(英訳)、変に訳してもフツウ訳(仏訳)、二人で訳しても独訳、東で訳しても西訳、秘かに訳しても露訳、そもそもいい加減に訳しているのにホン訳(翻訳)というのが良くない。」

変な訳でもフツウ訳(仏訳)かあ・・・肩の力を抜きましょう。
ベルギー人神父さまの訳。

「神の存在を否定するということは死ぬことのあたえる関心事をすてさることです。」ご感想は、この文章を読んだ時、それを書いた執筆者は自分自身が無神論者ではないと上手に(間接に)断言していると思われたそうです。また、「私にとって「死」とは「神との出会い」ですが、今現在「理性と信仰」によるもので、来世において「顔と顔を合せて」(1コリント人への第一の手紙13,12)と信じていますから神は存在していなければ」とのことです。
生きている間には神を信じているが会うことはない。死ねばはじめて神と会えるのですから、神を否定すると死後の唯一の楽しみ、特権がなくなってしまいます。それがなければ、死なんて、生を失うという意味ではネガティヴだし、無という意味では、まさに無意味ですからね。私自身は、一応死後は各種聖人の真似をして、人の祈りと神との間の取り次ぎ役になろうと思ってるんですが、徳がないと逆効果かもしれません。それに、別に死んでまで神に出会っても・・・と言う気もちょっとします。今のとこ別にこの世で深刻に苦しんでないので死後の慰めはいらないし、逆に、すでにお世話になってます、ありがとうございます、と言いたいです。もちろんお会いしたことはないので、あの世で、オフ会というか、神の素顔を拝んで・・というのもいいですが、自分の知覚の仕方も変わっているでしょうから、今の好奇心はあの世に結びつきません。
そこでおなじみK さんの答え。コピペ。
「l’unique interet の意味が問題ですね。死んでしまえば意識が消えて、生と死の区別さえ消えてしまう。その後にも先にも、神はある(のだろうか)。そういうことを考えさせるのが「死」ですが、今回は思いっきり俗な意訳で失礼いたします。
『最後の審判も閻魔さんも怖くなければ、神を否定するがよい。』」

おお、これは現世利益でなくあの世利益の思想ですね。エジプトのミイラがいろんな護符と一緒にぐるぐる巻きにされてるのを思い出します。どんな文化のどんな共同体でも、一応「死後の物語」の筋はあるので、三途の川の渡り賃だとか、旅装束とか、死者にいろいろ支度させて送り出すというのは普遍的にあります。この文は、「たったひとつのアンテレ」というのが、死の持つ唯一のいいことともとれますし、神の唯一の効用とも皮肉にもとれます。つまり現世利益の部分は効かないので絶望したか、最初からあんまり期待しないけど、自助努力ではどうにもならない死後の世界でこそ、神にしかすがれません、どうぞよろしく、という、情報の少ない未知の分野における危機管理でしょうか。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、で、死後の世界こそ神の得意分野みたいな・・
でもたいていの文化では、生前からそれなりに信仰していないと、死ぬ時にあわてて恩赦を請うてももう遅いというまっとうな考えなんで、生前の信仰を管理したり支配の道具にしたりする組織や人間も出てくるわけです。

Naoさんの訳。
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「神を否定するということは、死が与えてくれる唯一の利益をなくしてしまうということである。」

同類で、Mさんの訳。
「神を否定することは死のもたらす唯一の興味深いものを拒絶することだ」

もう一つ、Julieさん
「『神を否定することは死というものが呈示してくれる唯一の慰みをむざむざ受け取らないことだ。』 死のおかげで味わえる(体験できる)たった一つの楽しみをむざむざと放棄すことだ、というのも考えました。」

やはり、アンテレが問題ですね。結局、辞書にのっているような、興味、利益、関心事などすべて出てきて、そのどれも少し合っているし、微妙にずれてもいるような。
結局、死の意識と不可知の意識は同時に生まれるとも思います。この文はフランス人の文なので、神は人格神であり、Nier というのは無神論など、神の存在の問題なんですが、被造物から超越した神なので、そもそも被造物の世界で被造物のような形では存在できないんですね。
逆に、人間が死に思いをはせることがないか、不死身だったら、神は否定するまでもなく存在しないでしょう。神の存在は、有限の世界というこの被造物のあり方と人間によるその認識とペアになっているのです。「死ぬというあり方とその認識」といってもいいです。「Nier Dieu」は神の存在を前提としているわけです。しかし、死は否定できません。死とは無である、無は存在しないのだから無は存在しない、あるいは、死んだ時はそれを認識する人はもう存在しないのだから、死を知る人は誰もいない、などとエピキュリアン的詭弁は可能ですが、我々は誰でも、親しい人や動物が死に、肉体が破壊され、もう2度と帰ってこない経験などから、死の存在を実感します。死の体験とは、残された者にとっても一種の神との出会いの体験なのでしょう。死もまた神の被造物なのですから。
哲学者シモーヌ・ヴェイユは、「神の体験をしたことのない二人の人間のうちでは、神を否定する人の方が、神のより近くにいるだろう」と言いました。
神も死も、人間が否定するだけで存在しなくなるようなものではないんですね。ええと、なんだか、フランス語の解説と離れましたが、アンテレとは、語義的には、「注意を引くに足るもの」なんですね。利益はもちろんかもしれませんが、未知のものや、畏れを抱かせるものも、注意を引きます。死にひきつけられた時、神も姿を現すのかもしれません。

また訂正、など。

Sekko · 2007-04-23 04:55:33 UTC+9 · 投稿 #189

この前のFrancois Varillonの文の el はもちろん il のエラーでした。この書き込み欄が狭くてチェックがちゃんとできずにすみません。
あと、和訳その2について別のコメントが来たので貼り付けます。J さんです。

「 『 自由とは望むことをすることでなく、することを望めることである。』
私はある依存症と強迫神経症に苦しんでいるものです。つまり、私のやることは私の望んでいることではありません。私の望んでいるのはむしろ「しないこと」ですが、してしまいます。やらされるといったほうがいいかもしれません。それで、しないように、しないように、といつも思いながらやってしまう現状から脱して、いつか「することを望める」ようになることが本当の自由だと思っています。」

深刻です。「したいことをする」なんていうのは児戯の一種で、本当はみないつも何かやらされているのかもしれません。依存症は脳が覚えてしまっているので、やっていると一種の落ち着きが得られます。でも、それが自分や周りにとって不都合なことなら、少しずつデプラミングしていくことは、根気がいりますが可能だと私は思っています。それが自尊意識などと関わるとつらいので、依存症との関係性そのものを少しずつ変えていくのも必要です。全人格とかを問題にせず、知情意に分けて、アクションをどうコントロールできるかを検討してください。完全に克服できない悪癖とかは、増殖しないよう、転移しないように取り囲んで孤立させれば、罪悪感からは自由になれます。

choisit

Sekko · 2007-04-18 05:23:53 UTC+9 · 投稿 #188

さっきの文のDieu se chisit は Dieu se choisit のうち間違いでした。訂正。

和訳その2の解説

Sekko · 2007-04-18 05:20:52 UTC+9 · 投稿 #187

その1に参加してくださった方と同じ顔ぶれが大体そろいました。人数が少ないので、主なところをそのままコピーします。まずKumikoさん。

「 La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.
『欲することを成すのが自由ではない。成すことを欲するのが自由なのだ。』

まあ~、なんて単純。
それより、ひとつ質問させてください。初めのce que の後にはl' が入ってce que l'on veutになってますが、二度目の ce que の後にはなくて ce qu'on fait.になるのは、なぜなのでしょうね? リズム感の問題?(笑)
この l' の使い方って、難しくて、入れようとするとどこにでも入れてうるさくしてしまう気がするし、なければないでなにか抜けたような気が。慣例句のようになっているのは最低入れるように心がけてはいますが・・・あやふやなのです。むかし、フランス語の先生(外人に教えるフランス人)は、『あなたたちは使わなくてよろしい』と言いましたが・・・。」

ええと、単純ですがリズムがあってきれいな訳です。それに、単純なだけ、幅があって無難ともいえます。自由を2回繰り返したところがテクニックですね。最初のonに l' がついているのに2度目についてないのはやはりリズムの問題です。このlの挿入で、最初の部分のシラブルが2番目のちょうど2倍になっています。だから読んだ時に落ち着きがあります。日本人が書く時には確かに難しいですね。

次にNaoさんの答え。

『 自由とはしたいことをするというのではなく、することを熱心に追求するということである。

またこんなカツテな訳も考えました。
自由とは勝手放題のことをするというのではなく、他者のために、何かすることを望める可能性のことである。(他者のために、したくても制約があつてできないことが多いのでこんなことをかんがえました。)」

この原文は、「自由とはAではなくBである」ということですね。つまりBはAの正反対にしたいところ。Aを「したいことをする」=「かって放題」=「自己の欲望優先」ととれば、それと対照的に、Bは利他的な行動指針と考えられるわけです。次にKさんの答え。

「私たちの欲することは数限りなくあります。人間、欲には限りがありません。限りのないものを求めることは自由とは「次元の違うこと」だと思います。自由とは行為する意志そのものであって、因果や運命に立ち向かう崇高な手段です。人間は自由を与えられて、責任を負います。

ですから、

『自由とは、欲することを行なうことでなく、欲して行なうことである。』

という訳にいたします。」

実はこの原文は、サルトルです。だから、文脈からいうと、これにかなり近いです。サルトル的にわりと単純で、人間がやることはすべからく自分で選択すべきだという、自由とは「生き方の選択と決定の自由」であるという意味なんですね。しかしMさんのように読んだ人もいます。
「 自由とはやりたいことをするのでなく、することを望むことだ。
竹下さんが祈りについて書いていらっしゃった時に『祈りとは祈ったことをかなえてもらうことでなく、可能なことを祈ることだ』というのと重なります。欲望は限りないので欲望から出発しないで、おのずからできることを望む境地に至るのが自由では。」

これも含蓄がありますね。サルトルが選択の問題を自由と絡めたのは、キリスト教における自由意志の問題を意識しています。自由意志があるから、責任が生じ、責任があるから善悪の観念もでてくるわけです。
Dieu se chisit. il n'est pas ce qu'il est, el est ce qu'il veut.というのはFrancois Varillon の言葉。コクトーは人間に自由意志を与えたのは神のアリバイだ、と言ってます。「私は自由だ、神さま、私を自由から遠ざけてください。」といったのはクローデル。逆にFerdinand Galianiは、「もし宇宙にたった一人でも自由な存在がいたとしたら、神はもう存在しないだろう」と言っています。この世に善悪が混在する現実の前に、人間の自由は神のアリバイであり、神の自由は人間のアリバイなのかもしれません。サルトルが神を捨てた時、神なき自由意志だけを引き受けたわけで、自由と欲望と責任と倫理とがのしかかってきました。自由がなければ原罪もなく悪も生まれなかったというユダヤ=キリスト教文化がベースにあります。

次に仏文和訳その3です。これは今書いている『無神論』についての本に使おうと思ったのですが、うまく和訳できません。それで問題というより、皆さんのお知恵拝借です。

Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
です。interet の最初のeに右肩がりアクサンが、2つ目のeに山形アクサンがはいります。presente の最初のe にもアクサンテギュがつきます。サーシャ・ギトリィの言葉です。sekko-culturelavo@hotmail.co.jp か個人メールにお願いします。コメントつき歓迎。その2のお答えに関するコメントは直接この掲示板に書き込んでください。

フィギュア・スケート

Sekko · 2007-04-17 07:23:51 UTC+9 · 投稿 #186

ベルシーのフィギュアスケートのスター・オン・アイスに行ってきました。昔はよくホリデイ・オン・アイスとか行きましたが、フィギュア・スケートのショーは初めて、しかも世界チャンピオン級のは今までTVでしか見たことがありません。今回は、フランス人のブライアン・ジュベールが42年ぶりでフランス人男子シングルの世界チャンピオンになったばかりで、華やかです。私は日本人なので、女子チャンピオンの日本人も見たい感じですが、女性ソロはワルシャワであったヨーロッパ選手権の2位のサラ・メイヤーというスイス人、3位のキラ何とかいうフィンランド人でした。キラさんは最も美しいスケーターに選ばれたそうで、「もちろんブロンドで」とかいうナレーションは「なんかなあ」と思いました。サラ・メイヤーさんはブロンドじゃないけど美しかったし。カップルのアイスダンスが多かったので、ソロですべる人は何となく寂しそうに見えたのも意外。第一部のはじめの方で、転んだりする人が出て、司会者が、「ベルシーですべるのはすごく難しいんです。ベルシーだから、パリだから」とフォローしてました。この「パリだから」というのも、すごくフランス的だなあと思いました。国際大会とかで、「日本だから」「東京だから」みんな緊張するとは日本のアナウンサーは言わないだろうなと。出演者の主力はフランス・チームなので、この「パリだから」というのは、多分ほとんどのスケーターが地方出身者だということを意味してるのかもしれません。
それで、男子ソロはこないだの日本で行われた世界選手権の金銀銅が全員出てました。銀の高橋大輔くんも。その順位で行くとまず銅のステファヌ・ランビエルが滑って、次に高橋、最後にブライアンかと思ったら、高橋が一部も二部も3人の中では前座扱いの最初でした。最もランビエルは2005年と2006年の世界チャンピオンだから、総合の格から言うと、高橋の後に滑るのが妥当かもしれない。それに彼はフランス系スイス人でフランス語を話すし、フランスでも人気だから。私は高橋がフリーで最高得点を出したのをTVで見ていたので、ベルシーでかっこよく滑るのを期待していたのですが、そして、期待通り上手でしたが、何か違う。完璧で高性能という感じで、集中力も伝わり、色気さえあるんですが、そして最後に「J'adore la France]とフランス語で言うというサービスも見せて受けていたんですが、ランビエルやブライアンにあって彼にないもの、それは余裕と華かもしれません。このショーは選手権とかじゃないんだから、ミスをしないとか完璧とかいうより、もっとはじけてほしかったです。3人の中では彼が一番若く、その差も多少出てくるのかもしれません。ブライアンも若いんですが、アレクセイ・ヤグディンの薫陶を受けたせいか、楽しんで、それをコミュニケートするという喜びをちゃんとあらわせています。彼が出てきたときの「華」というのは、スポーツ選手の華というより、なんだか宝塚の男役トップスターの華です。あたかも技術なんか2次的なような。「がんばる」という感じが見えていたらショーにはならない、フィギュアスケートはスポーツだけど、バレーなんかに非常に近いので、選手はアーティストである必要があります。ショーとなると、アスリートが完全にアーティストに変身しなくてはならないんですね。エンタテイナーといってもいいです。後、ッスケートクラブの女の子たちなんかが客席からすごい声で叫ぶんですが、その抑揚が独特で、掛け声の文化というのはどこにでもあるのだと感心しました。仏文和訳2の解説は明日にでも。

仏文和訳その2

Sekko · 2007-04-06 20:37:00 UTC+9 · 投稿 #185

お待たせしました。前の質問の答えと次の質問です。といっても、答えはありません。宿題みたいだ、という意見がありましたが、別にどの答えが正しいとかいう評価はないんです。頭の体操として楽しんでください。今回の回答は6人でした。匿名でOKなので、気楽にやってください。
まずその中で一番クラシックですっきりしてたKumikoさんの回答を貼り付けて回答がわりにします。


Chacun, Quelqu'un, Quiconque et Personne :
誰も、 誰か、 誰でも、 誰一人。

4人のおはなしです。
誰もと、誰かと、誰でもと、誰一人がおりました。

大事な仕事がありました。
誰もが取り掛かるようにと指示を受けました。

誰もが誰かがやるだろうと思っていました。誰でも良いのですから。ところが誰一人しなかったのです。
誰かが、この仕事は誰もに責任があるといって、怒り出しました。
誰もが誰でもできると思っていたのに、誰もがしないだろうとは誰一人考えなかったのです。
誰でもやるべきだったことを誰一人しなかったというので、しまいには、誰もが誰かのせいにするのでした。」



これで4人の名前がぴったりおさまります。パチパチパチ。
「誰も」「誰か」「誰でも」「誰一人」 とミニマムにしたのがよかったみたいです。これに似たのはで、Mさんの「誰もが」「誰かが」「誰でも」「誰も」がありましたが、「誰もが」と「誰も」の違いを出すために「が」という助詞を加えたので、主語じゃないときに修正が必要になりました。
すごくユニークなのはKさんなのでこれも全文ご紹介。

「誰かが答えると、みんなが思っているかもしれませんが、試みに投稿させていただきます。
4つの言葉の訳はケースバイケースになると思います。考えるほどに難しくて、どこかでどれかがぴったり合わなくなります。ケースを決めるのは「大事な仕事」の種類ですね。

私はこんな図式で考えています。

[Chacun⇔Quelqu’un]= Quiconque ⇔ Personne



卑近な例ですが、「道路で狸が車に轢かれて死んでいた」と仮定して、

Chacun =役所

Quelqu’un =住民

Quiconque =心ある人(みんな自分がそうだと思っている)

Personne =傍観者



訳:



責任



4人の人がいました。4人の名前は、役所、住民、心ある人、見ている人、です。

大事な仕事がありました。

はじめに役所に電話がかかってきました。

役所は、そんなことは住民の手でなんとかすべきだと思っていました。心ある人なら誰でもできるはずのことです。でも、みんな見ているだけでした。

住民は怒りました。その仕事は役所の責任だろう、と。

役所は、誰でもできることは自分の責任でないと思っていましたが、役所がその仕事をしないだろうとは、見ている人は気付きませんでした。

とうとう、役所は住民を非難しました。みんな見ているだけじゃないかと、電話をかけた住民が逆に怒られてしまいました。」

サービス精神にあふれてます。考えさせられます。
ただ、この話では大事な仕事を4人に頼んできたのは「4人以外の外側の人間」だと考えられるので、住民と役所のような、すでに責任関係(役所は住民のサービス機関とか)がある間の2者のやり取りは適切じゃないかもしれません。この話の核は、「成員が同等な課題遂行能力を有するグループの中にいる『私と私以外』という意識の問題」だと思うんです。他の誰かができるからといってやらない自分は免責できるのかという話ですね。Blamer を「顔を青くした」と訳された方、このBlamerはブラスフェ-ム(冒涜)の語源の言葉なので、Bleu とは関係ないです。あ、考えるタネの最新記事にフランス語の発音の悩みを書いてます。コメントや、似たような体験があればどうぞ。
では次の質問。また仏文和訳。
解説つきでもどうぞ! 文字化けの問題があるらしいのでアクサンつけません。敷衍してくださっても、前後の文を勝手に足してくださってもOKです。(liberte の最後のEに右上がりアクサンです。)
La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.

L

仏文和訳

Sekko · 2007-03-21 01:04:58 UTC+9 · 投稿 #184

私からの質問です。次の文を和訳してみてください。
そして、Chacun, Quelqu'un, Quiconque 、Personne

という4つの言葉の訳を提案してください。お答えはこのサイトの著作紹介の所にある読者の感想を送る場所
sekko-culturelavo@hotmail.co.jp までどうぞ。


Responsabilité

C'est l'histoire de quatre individus :
Chacun, Quelqu'un, Quiconque et Personne :
Un travail important devait être fait,
et on avait demandé à Chacun de s'en occuper.

Chacun était assuré que Quelqu'un allait le faire, Quiconque aurait pu s'en occuper, mais Personne ne l'a fait.
Quelqu'un s'est emporté parce qu'il considérait que ce travail était la responsabilité de Chacun.
Chacun croyait que Quiconque pouvait le faire, mais Personne ne s'était rendu compte que Chacun ne le ferait pas.
A la fin, Chacun blâmait Quelqu'un, du fait que Personne n'avait fait ce que Quiconque aurait dû faire.

襤褸は着てても心は錦

Fusako · 2007-03-13 22:55:44 UTC+9 · 投稿 #183

このフレーズも、「矜持」という表現も、まあ、久しぶりに聞くなつかしい言葉のような気がします。海外にいる方の方が、古い日本を心の中に保っておられるのかもしれませんね。

シラクの言葉

Sekko · 2007-03-12 05:22:46 UTC+9 · 投稿 #182

ついさっき、TVでシラクがようやく大統領選への不出馬を表明した。第五共和制になってから自らの意思で権力を手放した大統領は始めてなのだそうだ。そういえばそうかとびっくりした。不出馬の正式表明を延ばしてたのは、ヴィルパンがサルコジを支持すると言わなくてもいいように配慮していたのだと私は考えていた。結局、今日も、予想通り、サルコジ支持はしなかった。その代わり、無難というか、ユマニストでソシアルで、共和国的なメッセージを残し、文句のつけようがなかった。言ってることとやってることは違うとも揶揄されるが、共和国理念を堂々と完璧に話すだけでも意義がある。セゴレーヌやバイルーやラファランやル・ペンがコメントしていた。前はル・ペンを見るのもいやだったが、今は、78歳でこの意気盛んな様子、ある意味で敬服。今見るのもいやなのはサルコジだ。
TVではじめシラクを見てたら、なんだかミッテランの時のデジャヴの気がしてきた。輪郭や禿具合がそっくりになってきてる。大統領になるとこうなるのか、右傾から社会党首になったミッテラン、左傾から保守になったシラク、二人とも、大統領を二期やってるうちに、「共和国の子」の顔になった。さっき、シラクは、フランスは世界の経済格差是正についてもがんばるようなこともちらっと言っていた。彼は現にアフリカ諸国から好かれているから意外でもないのだが、こういうときにこういうことを元首がちゃんと言える国というのはうらやましい。自分の国の貧しい部分を切って捨てたり「美しくない」とか思っている国の首長なら、世界の貧しい国のことに言及しないだろう。そういえば、わりと最近、アメリカのキッシンジャー元国務長官ら数名が、世界の核兵器をアメリカも含めてすべて廃絶せよという宣言を出していた。それを読んだとき、なんだか悔しかった。あんたに言われたくはないと言うより、何でこういうことを日本人が言わないんだろう、と思ったのだ。冷戦のときは物言えば唇寒し、というか、核の傘に入れてもらっているということで言いにくいのは分かるが、キッシンジャーですら、全廃棄が平和への唯一の道ととにかく口にする時代になったのだ。北朝鮮に対抗して自分たちもいまさら核武装なんていう声が聞こえる日本って・・・
もし唯一の被爆国として、地球の片隅からとにかく核兵器全廃絶とずっと唱えていたならば、よそはともかくその日本にもう一度核爆弾を落としたらどんな国でももう国際社会ではやっていけない、という無言の国際合意を作れていたかもしれないなあといつも思わざるを得ない。「フランスには世界の公正と平和のための使命がある」と大統領がTVで熱く語れる国って、たとえGNPが下がっても若者の「暴動」が起こっても、「襤褸は着てても心は錦」って矜持があっていい。理想や原則って、やっぱり大事だ。