2006年の投稿

ギグー女史と大統領選

古川利明 · 2006-06-11 17:46:14 UTC+9 · 投稿 #174

そうですか、竹下さん、ギグー女史と偶然、会ったのですか。現在、彼女は「無役」というか、表立った政治活動は多分していないのですね。最近のこっちの新聞の外電面記事だと、そのセゴレーヌがかなりこのところ「右傾化」した発言をしていて(「若者を軍隊でしごけ」とか、「治安対策を強化しろ」とかの類)、それにサルコジがニヤニヤしながら「なかなか頼もしい」と皮肉っているという内容でしたが。大統領選まであとちょうど1年弱ですか、左派は今のところ、かなりセゴレーヌが突出してますけど、彼女が出るとなると、旦那のオランドが出るということはありえないですので、ここは左派も右派同様、もう少し揉めてくれないと、オモロクならないですよね。どうせ、最後は上位2人の決選投票になるんですから、私はギグー女史あたりはチャレンジしてもいいと思いますけどね。セゴレーヌが「右傾化発言」している折、「対立軸」を出すいいチャンスです(お隣のイタリアでもプロディ左派政権ができたことですし)。私は右派であれば、一貫して「シラク・ドビルパン」ラインの支持ですが、サルコジのマスコミ懐柔が上手いのか、ちょっと彼らに対するバッシングがひどいですよね。そうした論調を受け売りする形で、最近も産経のパリ特派員の山口ナントカというオバハン記者が「サルコジゴマすり、シラク・ドビルパン叩き」の記事を書いてましたけど(まあ、そういう無難な記事さえ書いていれば、読者からも本社からも文句を言われない)、いずれにしてもシラク時代が長いんで、それに対する国民の「飽き」もあるのかもしれませんね。そうすると、「シラク後継」という彼のポジショニングがちょっと損な役回りになっているかもしれません。ただ、目的のためには手段を選ばない、あのコウモリ男の首根っこを押さえつけるためには、多少、カネで汚れていても、シラクぐらいの「腕力」がないとダメですね。それゆえ、私の理想形は右派が勝つのであれば、「シラク3選・ドビルパン首相、もしくはドビルパン大統領」(負けたサルコジはもちろん閣外追放、党首クビ)で、左派が勝つとすれば、ズバリ、「ギグー大統領」です(笑)。たぶん、彼女もユニヴァーサリストだと思うんですが。

ギグー女史のことなど

Sekko · 2006-06-11 08:14:26 UTC+9 · 投稿 #173

こないだエリザベト・ギグー女史の話をしてたら、今日、うちの町の彫刻家夫婦のアトリエで彼女と偶然出会いました。この週末、町に住んでる画家や彫刻家のアトリエが午後公開されるアトリエ・ラリーみたいなのがあって、11軒のアトリエを回ることができるのです。汗ばむほどのいい天気で、ギグー女史は濃紺のサファリ風ワンピースでブロンドの髪は後ろで束ねてました。化粧気のない顔で、ちょっとぎすぎすしたイメージで、セゴレーヌ・ロワイヤルと自然に比べてしまい、よほど、大統領選にいかがですか、とか言おうと思ったのですが、その場所ではまずいかと思って、普通に挨拶を交わしただけです。彼女はどういうところで展示の機会があるのかと彫刻家に尋ねていました。その後他の画家のアトリエを訪ねたら、そこにはうちの市の「緑の党」の代表(彼女の娘は昔私の生徒だった)であるアンヌ・デオ女史が来ていました。この二人に出くわしたことで、そうか、フランスでは芸術は政治のツールなんだと改めて確認しました。
私は21日の夏至の音楽フェスティヴァルの夜、市役所のホールでコンサートをするので、御影石のオブジェを舞台において照明で遊んだらきれいだろうなと物色してたんですが・・その彫刻家は数年前に死んだハンガリー人の彫刻家ピエール・セケリーを知っているといったので、私もセケリーに頼まれて評伝を訳したり、セケリーについて論孝を書いたことがあるんですよ、と話がはずみ、オブジェを貸しますよ、と言ってくれました。でも、照明技師との打ち合わせがますますややこしくなるから使わないかもしれませんが。
画家のアトリエも何軒か回りました。うちの通りの少し先のアトリエに1点気に入ったのがあって、そのうち購入するかも。ここのところ2点続けて絵を買ったので、ちょっとセーブするか迷ってます。まだ支払い残ってるし。
それで、ギグー女史ですが、夏の光の中でじっくり観察してみると「小柄でやせぎす」というのが目立ちました。セゴレーヌは若さがあって長身だし、今勢いづいてるから、オーラもでてきたし・・・たとえばヒラリー・クリントンって、長身の夫のそばにいると小柄に見えますが、なかなかの長身です。アメリカには今、ヒラリーのためか、女性大統領がヒロインのTV番組のシリーズがあるのですが、そのヒロインも、180センチ以上の長身です。男と並んでも見た目に堂々としているというので違和感を薄め、視聴者に少しずつ慣れさせようというわけです。メディアの時代の政治家にとって、「見た目」というのは恐ろしい、ギグーは、端正な美女でフォトジェニックですが、空間の占め方が少なすぎると思いました。政治家なのに政権だけでなく、これほど自分が外見に左右されること自体に動揺します。日頃
Etre 画大事でparaitre には興味ないと思っているのに。
ある女性彫刻家のアトリエには、「Creer, c'est vivre deux fois」(創造するのは2度生きること)というカミュの言葉が座右の銘として貼ってありました。この2度というのは時間的でなく、「別の次元で生きること」と彼女は言いました。

ありがとうございました。

Sekko · 2006-06-08 21:11:32 UTC+9 · 投稿 #172

ご感想ありがとうございました。中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝説の虚実』も出しています。あわせて感想をいただければ嬉しいです。他の方もよろしく。
風景をただ「美しい」ものとして感動するというのも、文化に規定されたコードが介在しているように思われます。たとえば日本人にとって桜の花咲く風景の持つ含意の豊かさが切り離せないように。ただ、文化による解釈の違いはあるにしろ、「環境を愛でる」という営み自体は人間にユニヴァーサルにあるようで、だから絵画芸術も成立するのでしょう。
光ファイバーがまだ珍しい頃、東急ハンズで買った光ファイバーで色とりどりに輝くクリスマスツリーをフランスに持ってきました。部屋を暗くして生徒たちに見せますと、老いも若きも、なに人でも、はっと息をつめるような感じで魅惑されて、わくわくと見つめました。それで、うちの猫たちにも見せたのですが、反応なしです。っていうか、見てない。無理に視線を固定させても、やだやだってば、というばかり。このとき、私はすごく疎外感とショックを受けました。すごく可愛がって、日常的に以心伝心って場面もあるこの子たち、やっぱり、異人種じゃん、というか異種。感動のしどころが違う。花火とか見せても、全く無視だろうなと。ヒトなら、まあ難しい文化の文脈の共有を前提にするような美術は別として、夜空に花火が上がるのを見ると「わー、きれいだ」というプリミティヴな感動のレベルが共通してます。そういう類的な感動の琴線の振動数が合っているというのを信じて、そこから芸術も哲学も出発するんだなとか思いました。

文芸春秋 ダヴィンチ

島村安彦 · 2006-06-06 10:07:21 UTC+9 · 投稿 #171

文春6月号「ダヴィンチコード四つの嘘」読みました。とても参考になりました。
友人に次のようなメールを送りました。
5月19-23日までは義父の法事のため新潟に行き、
田舎で山菜を取ったり、山歩きをして、初夏をのんびり過しました。
晴天が二日あり、兄夫婦と妹と我々5人で近くのブナ林、と言ってもかなりの山。翌日は今は荒地となっている旧田んぼに、
そこから道なき道を山越え、清水の源流で弁当を食べ、さらに頂上へ。
頂上にゆくと尾根つたいに昔の細い道があり、そこをおりて帰ってきました。
まだ足元より低いところに、あちこちに残雪がありました。
山々の緑が美しく、前日テレビで見たモナリザの背景よりはるかに
綺麗でした。ダビンチにも見せてあげたいくらいでした。テレビでは、その背景に
謎があるとか、それがダビンチコードで解明されるとありましたが、
あれは現代人のマニヤックな人が考えたものだと、美しい風景をみながら考えました。


美しいものはただ感動すればよいし、絵を描きたい人はその気になって描けばよい。
そこに何かを忍ばせようなど人為的なことでは、私には良い
ものだと感動しません。もしダビンチがそうだとしたら、他の画家も同じ
ようなことがあり、絵を見るより謎なぞ解きが主流となってしまいます。
さらに画家がそうならば、彫刻家も作曲家もそのようなこともないとは言えません。
それらが本当ならば(そう信じるなら)
神はもっと上手(うわて)に自然に中に謎を忍ばせていることになります。
自然の美しさはそっちのけで、人間たちはなぞなぞ問題でいくつにも自分に都合よく
解釈が出来ることになりそうです。
参考までに文芸春秋6月号318ページに「ダヴィンチ・コード」四つの嘘という
記事がありました。
〇〇様

訂正

Sekko · 2006-06-05 17:43:58 UTC+9 · 投稿 #170

「正法眼蔵」の項の10行目の「仏とは罪をなした大金持ちのような・・・」というところの「罪」は「財」の誤りでした。

さよなら自己実現

にいく · 2006-06-04 12:46:53 UTC+9 · 投稿 #168

う~ん、なるほど。ニューエイジのはるか昔から、「自分の中に眠っている本物の自分を探りあてて育て、完成させる」という思い込みは存在してたんですね。人間につきものの誘惑なのかも。動物は自己保存の本能はあるものの、こんなことは考えないでしょうから。人間でも、ある程度衣食住がこと足りて、とくに真面目な向上心があると、この誘惑に陥りやすくなるように思います。
それにしても、「小さな花を咲かそう」って、いいですね。たどるべき道とかあるべき姿とか理想とか上下関係があるのではなくて、それぞれがいろいろな花をいろいろなときにいろいろな形で咲かせる……。「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という『聖骸布の仔』のメッセージにも通じるところがありそうな。この本、これから読んでみるつもりです。

正法眼蔵

Sekko · 2006-06-04 02:14:16 UTC+9 · 投稿 #167

今、講談社の広報誌『本』(5月号)を読んでたら、その中の「『眼蔵』を読む』という連載の仏性の注解で、菅野覚明さんが、「自己実現の誤解」とそっくりなことを書いていたので、そういうことは昔からあるのだなあと感慨を覚えました。
道元は当時の次のような誤解を徹底的に断ち切ろうとしたというのです。その誤解とは「仏とはスーパーマンのようなもので、我々凡夫の内にも、仏になる素質(仏性)が眠っている」という「抜きがたい思い込み」です。
一切衆生には仏性があるがそれはどのようにしてあるのかという問題形式で議論されてきた伝統的仏性論では、仏性は「元出」のようなもので、修行という事業でその元手を増やし、悟りという財産を得、仏とは罪をなした大金持ちのようなものにイメージされます。
道元は、その上流にある「十聖三賢」(菩薩のように、凡夫から仏への中間段階の高い階位)には仏性の道理は決して理解できないといいます。それは、悟りとは、正しく知ること自体であって、知って得た「もの」ではないからです。悟ること、悟る営みとしての修行の形において仏性が存立するので、仏性、修行、悟りは同時に成立する、というのが道元の考え方だそうです。
これを自己実現に当てはめますと、「自己という素材を掘り起こし探り当て、自己啓発で加工して、自己実現で完成品にする」というのが「抜きがたい思い込み」なんですね。で、完成に近づいたという自負のある「十聖三賢」のカリスマ何とかとかリーダーとか、カルトの教祖のような人は、自分たちを理想のモデルのように提示したり、されたりするわけです。それを見て、凡夫は自分の中にも磨けば輝く「本来の自己」的な素材があるはず、とそれを探し、育てて完成させなきゃと思いがちなのですね。
でも道元風に言うと、そんな自己の「発見」も「啓発」も「実現」も、みな、「正しく生きる」という営みに吸収される、生きることと同時に成立するわけです。他者との関係性を生きる中で自己が発現してくるので、それは素材でなく、即実現であるわけです。ここで「正しく生きる」というのは、とりあえず、他者の「生きること」を阻まない生き方、関係性の中で生きることから生じるいろいろな不都合を、できるだけ自分で引き受けるということかと思います。
そう思えば、そんなに難しくなく、道元も「無知無学の六祖」を「十聖三賢」に対して挙げています。しかし、昔から、どの文化でも「修行系上昇志向の誘惑」というのは大きく、すぐ規範的に働きますね。
「Boys be ambitious」の「大志」はambition 「野心」でもあります。大志というのは抱くとすぐに野望とか野心へ引っ張られる誘惑にさらされているんですね。一人の人の大志が多くの人を救うこともあれば、野望が多くの人を踏み潰すこともあります。道元をはじめ、古来の賢人がいろいろ警告しても、エゴイズムや集団エゴイズムからはなかなか抜けられません。伝統宗教ですら大昔から模索しては失敗しているのですから、ニューエイジや新宗教が「自分大切」にシフトするのも無理がないですね。ましてや、それが一見して「地球大切」のエコロジー原理主義とか、ナチュラル志向とか手作り原理主義とか節制とか健康法とかを看板にして「到達すべきもの」「獲得すべきもの」を見せて一定のライフスタイルを煽るマーケットが大きくなると、もともと「ambitious」なタイプでない人は、がんばる前から「負け感」にとらわれますよね。
私がカトリックの聖女伝が好きなのは、そういう上昇志向価値観の解毒剤になってるものが多いからです。彼女らが愛したイエスという人が世間的に言うと最悪な死に方をしたことも逆説的に彼女らの力の源泉になってます。「そうだ、自己実現をやめて聖女になろう」というテーマは楽しいですよ。

やめよう自己実現、咲かそう小花

Sekko · 2006-06-03 08:03:44 UTC+9 · 投稿 #166

フランスにも自己啓発本ありますよ。でもほとんどアメリカ系ニューエイジの輸入、翻訳です。たいていはエゾテリスムとかオカルト本のコーナーにあります。精神世界系の見本市に、お香や健康食品や開運グッズと一緒に並ぶのもこの手の本で、まあ一定の需要はあるわけです。でも、平均的フランス人は、確かに、もっと、現世を単純に楽しむ志向の方が強いです。
ニューエイジ・ムーブメントの発端には、中国に侵略されたチベットから僧侶が欧米へ亡命したことではじめて欧米が密教系(修行系)仏教と内輪で接触したことがあります。瞑想法とかヨガとか呼吸法も含めて。特にアングロサクソンのピューリタン系の「禁欲的な精進と出世」イメージが、規範社会から少しずれた形で展開して、「自己を高める」に繋がったのではないかと私は見ています。これに対してカトリック社会では、禁欲生活は修道会に任せて、一般信徒は緩く生きるのが伝統だったので、「がんばって成り上がる」式の志向は優勢ではありません。だから、自己実現(realisation de soi)とか自己啓発(developpement de soi)とかはSself-actualizationなどの訳語としてはあっても、自然なフランス語ではないようです。フランス語でぴったりのこの手の言葉はむしろ自己開花(epanouissement de soi)かもしれません。それは、各自がどんな植物として生れたかによって咲かせる花も違うわけで、仕事で花咲く人も、美食で花咲く人も、家庭でも趣味でもいいので、努力して咲く人も、ただ運がよくて咲く人もある、体系化されたメソードがあるわけないし、あるべき姿や理想もなく上下関係もないという感じです。
問題は、仏教ではもともとこの世でのさまざまな煩悩、執着を取り除くための「方便」として自己を立てて訓練していくという方法論になっているので、最終的な目的はむしろ「エゴから自由になる」ことなのに、ニューエイジの文脈の中では、「解脱してステージの上がった自分」とか「超能力を獲得した自分」「潜在能力を伸ばした自分」とか「世界の終わりが来ても生き残れる自分」になることが目的にすりかわっていることです。それは、ピューリタン的な自由競争とも親和性があり、「人より努力した者が人より報われる」成果主義や優生思想にもつながるわけですね。
もちろん、人生で仕事のスキルを上げるというようなことは必要です。筋トレに励むのも、スポーツなどの記録に挑戦するのもいい。でも、たとえば猛練習してチャンピオンになった人が、だから信頼できる立派な人間だといえるでしょうか。チャンピオンの中にも、チャンピオンでない人と同じように、エゴイストもいればそうでない人もいるでしょう。同じように、修行してたとえば空中浮揚できるようになったとして、それが人間の品格と何の関係があるでしょう。(現に偉大な宗教者はどの文化でも、超能力は聖性獲得に至る修行におけるアクシデントのようなものだと言っています。それを他人に還元できるときにのみ意味があるのであって、自己の価値とは関係がないわけです)
逆に、寝たきりでも周囲の人に暖かさを分けてくれるオーラのある人もいます。仕事のスキルや身体能力、あるいは超能力を高めることと、「自己を高める」ことはあきらかに別物です。自己の価値とは常に他者をリスペクトする関係においてのみ現れてくるものだからです。けれど、そこをごまかして、「自己実現して救済を得よう」などというノウハウを売るカルトなども存在します。
あるいは、ある特定のライフスタイルを称揚して、それに近づくのが自己実現の道のように扇動するメディアもあります。そんな抑圧的言辞は、執着から自由になる境地を目指す本来の仏教からも遠く離れています。
自己実現とか、自分探しとかに惑わされるのは、もうやめましょう。
毎日のちょっとしたことで時々小さく開花する気分を楽しみ、生活で求められるスキルは地道に高めるよう努力し、獲得できたものは、何らかの形で分け合い還元する。それでも、前に書いたように「だめなものはだめ」。それを見極めたり認めたりする「分別」を、試行錯誤しながら高めることが大切だと思います。もちろんその方が、レディメイドの「理想のライフスタイル」を獲得したり「勝ち組」に参入したりすることよりも、ずっと難しい茨の道だったりしますけど。

自己啓発本

にいく · 2006-05-30 23:42:38 UTC+9 · 投稿 #165

「ニューエイジ風の自己進歩史観」という言葉が出てきましたが、放っておいても肥大しようとする自己をわざわざ肥大させようとする自己啓発本やセミナーは、ニューエイジ・ムーブメントが起こったころのアメリカ西海岸あたりから出てきたものなのでしょうか。ニューエイジといえば、自然や宇宙との合一みたいな、「自分」の外に出ていくイメージもありますが、それでもなんだかやっぱり怪しい。自然や宇宙のエネルギーをもらって、自己をさらに肥大させようという魂胆があったりして? 結局、他者への思いが欠けていれば、自分の内側を見ても外側を見ても、近くを見ても遠くを見ても、どこかピントが狂っているのかもしれません。
ところで、フランスにも自己啓発本ってあるのでしょうか。少なくとも日本では、その手のフランスの本の訳書はあまり見かけないような気がします(といっても、英米以外の翻訳書の占める割合は低いので、当然と言えば当然かもしれませんが)。よくも悪くもナイーブなアメリカ人に比べると、老練な(?)フランス人はそう簡単にはハマりこまないように思えますが、いかがでしょうか。

自分って

KAORU · 2006-05-30 19:28:17 UTC+9 · 投稿 #164

竹下先生のお話、盛り沢山な中身でいろいろ考えさせられます。
自分という存在が他者なくしては成立しえないこと(ソシュール思い出しますね)も当然のことなのに気がついていませんでした。
自分大事から離れていくこと、passionのために自分の払う犠牲の方を大きくすることって、”愛”でもあるような気がします。文化や教養のそこに流れているのは大きな愛かなぁ、とか妄想したりして。。。

Passion

Sekko · 2006-05-29 16:50:10 UTC+9 · 投稿 #163

「自分が大事」というのは、動物としてある程度、すでに自己保存の本能として組み込まれていると思うんですよ。その本能に輪をかけて文化で補強しなくてもいいと思うんです。たとえば食べる本能をグルメな文化にしていくというのはわかります。それこそ、ただ自分が生きるために食べるところから他者と分け合って楽しむ方へ進化する感じだから。つまりむしろ「自分大事」からいかに離れていくかというのが文化や教養のような気がするんですが。
「やりたいことをやるためには・・」という話も、たとえば私のやりたいことは遠くはバロックオペラの演出、近くは毎週のトリオの練習ですが、それはやはりPassionなんですね。情熱と訳されますが、キリストの「受難」という意味もあるように、本来受身のpassifと同じで、自分がこれをしたいというより、抗いがたく、無理やりさせられているような・・・恋愛にもこういうことはあると思います。不倫でも。そういう時は、やりたいことをやるためには邪魔者を取り除いてでも、というんじゃなく、すごく苦しんで、抵抗しても、どうにもならなく、それでもせめて他者への害を少なくすることを目指して努力するとか、passionの実現には、自分の払う犠牲が一番大きいのが当たり前です。他人を踏みつけようなんて、それはただのわがままですよね。そういえばこのわがままって言葉、なかなか含蓄がありますね。「我儘」、自分のままだったら人迷惑なんですから。そんな「自分」を探すなよ、と言いたくなります。大体、生きることは自分を矯めていくことで成り立ってて、たまにパッションに翻弄されたり、うまくいくと、ひとさま(これも奥ゆかしいといえば言えることばですね)のお役に立てたり、喜びを共有できたり、じゃないでしょうか。

自己実現

KAORU · 2006-05-29 12:38:56 UTC+9 · 投稿 #162

竹下先生、にいくさま、ありがとうございます。
私も自己実現とか、自分探しとかいう言葉にイヤな感じを持っていたのですが、竹下先生の文章を読んできがつきました。
自己実現という言葉の中には、「自分だけ」っていうのが入ってる感じですね。「自分を大切に」とかいうのもよく聞きますけど、それって「自分を最優先で」という風にも聞こえます。そんなに自分が大事か~?って思います。イヤ、もちろん大事なんですけど、他者を蹴落としてまで・・・ていうところがあります。
その友人の夫と浮気相手がはまっている本の中に「自分のやりたいことをやらなくてどうする。自分のやりたいことをやるためなら他人を殺す(!)ぐらいの覚悟がなくてはだめだ」とか書いてあるらしいです。やりたいことってどうせたいしたことじゃないだろ~とか思います(奥さんのいる男の人を離婚さす、とか)。こういう本を出そうという編集者も疑います。ま、よく売れてるようなんで利益はあがってるんでしょうね。

自己実現

Sekko · 2006-05-28 18:57:38 UTC+9 · 投稿 #161

私の翻訳した『聖骸布の仔』という小説の解説(帯裏にも転載されてます)にこう書きました。「本書が秀逸なのは、ヒーローが数々の試練を経て、または啓次を得て、人間的に成長していくというただのイニシエーション小説やニューエイジ風の自己実現小説とは一線を画し、人は、「ありのままでい続けて、なおかつ成長できる」という驚くべきメッセージを発していることだ。」
要するに私はニューエイジ風の自己進歩史観が苦手なのです。それは、たいてい、他の烏合の衆とは違う解脱やら悟りやら超人やらを目指しているみたいなので。そういう人に限って、「まず世間並みになることをめざせば?」といいたくなる人も多いです。それに、自己、自己と言ってますが、所詮、他人より偉いとか、他人から認めてもらえるとか、他人から羨まれるとか、他者を基準とした市場価値みたいなものが入り、自己実現って、自己満足のことかと突っ込みたくなります。また、他人によって高められたいとか磨かれたいという根性もちょっと卑怯な気がしてました。たとえば、「自分を高めてくれる人と結婚したい」なんていう女性よりもまだ、僕が妻子を養わなければ、と思っている男の方が潔いと思ってます。キーワードはやっぱり「assumer」かしら。他人を巻き込んで自分が選択したことを投げ出さない、というのは基本ですね。
たまに私に向かって、「あなたはいいわよ、自己実現してるから、」という人がいます。私が「自己実現って何?」と聞くと「ほら、本を出してるし」という答え。しかし、私の本は、援けてくれる編集者や、スタッフの方や、共感してくださる少数の読者とのかかわりの中で、多くのものを受けながら少しでもお返ししたいという気持ちで、本来なら「何もしないのが一番楽」という怠け心と戦っている日常の、終わりのない苦労が時々形になるというものであり、しいて言えば、ある種の関係性の実現です。その関係性がまた、育って、こういうサイトにつながっています。
私の友人で中古の医療機器をアフリカに送るNPOをやっている人がいて、そのパンフには「Ce qui n’est pas donne est perdu.(与えないものは失われる)」と書いてあります。私がそれを別の人に見せたらその人は、自分は昔から「Ce qu’on donne aux autres murit, ce qu’on garde pour soi pourrit.(他人にあげるものは実を結ぶが、自分のためにとっておくものは腐る)」と教えられて育ったといってました。形のないものでもそれは同じだと思います。

胡散臭さの正体

にいく · 2006-05-27 22:14:36 UTC+9 · 投稿 #160

はじめまして。
私は「自分を高める」「自分を磨く」という表現を見るたびに、いつもなんだかヤーな感じがしていたのですが、KAORUさんへのお返事で竹下先生が書かれたことを読んで、その理由がよくわかったように思います。「自分を高める」ことや「自分を磨く」ことは決して目的とすべきことではなく、まず自分のできることとして周囲の人たち(「人類」とかじゃなくて)に目を向け、何かできることがあれば手助けする。そうしているうちに自分が「高められたり」「磨かれたり」することはあるかもしれないし、ないかもしれないけれど、それはあくまでも結果であって、それ自体を目的とすべきではない。というか、それを目的としている限り、本当の「成長」はありえないでしょうね。
頭の中にもやもやと漂っていることを、竹下先生がご著書やこのサイトで明確な言葉にしてくださっているのを読むと、本当に晴れ晴れとした気分になります。

大変ですね

Sekko · 2006-05-27 17:02:03 UTC+9 · 投稿 #159

この手の罪作りなワークショップとか、セミナーはすごくたくさんあって、マインドコントロールだと思うんですが、
多くの場合は、コントロールされることをどこかで望んでいる人が引っかかるもので、健康で生活も安定していた大人が
自発的に引っかかる分には、もうどうしようもないです。
40にもなって、不惑じゃないですが、それ以上「成長する」ために、自力でできないでグループセミナーを頼ったり、
奥さんなど第三者のせいで成長できないなどというのは、実は大人になっていないんですね。
人生で、もうちょっとこうしたいとか、ひょっとしたらこうなれるかも、とかいくら思っても、
「だめなものはだめ」というのが私の実感です。自分を「高めたり」「成長したり」「幸せになったり」というのは、なろうとしてなれるわけではなく、とりあえず自分より弱い人や小さい人に手助けをしながら生きていけばいいんですよ。
ましてや自分を頼る人を踏みつけにしたり、不幸にしたりしながら「成長」も何もありません。自分というのは近くにいる
他者との関係性の文脈にしか現れてこないんですから、「自分」という素材があってそれを見つけろとか磨けとか実現せよという
言辞は全てまやかしだと思います。特に他人からそれを言われる場合は。

自分探し

KAORU · 2006-05-27 16:59:28 UTC+9 · 投稿 #158

竹下様。最近ちょっとした事件が私の周りであり、ご意見を伺いたく思いました。
事件というのか、私の友人(43歳の女性)のダンナさんの浮気問題なのです。
この夫婦は本当に仲がよくて、ダンナの浮気なんて露とも想像していませんでした。
このダンナさん、すっごくまじめなそして優秀な人で、自営で仕事をしているほか大学で経営学を教えたりもしてるんです。
が、まじめすぎて「人生とは?生きるとは?本当の幸せとは?人間とは?」とかそういうのを追求しすぎて、
とある心理系ワークショップで会った10歳年下の女性にころっと参ってしまいました。
「あなたは、奥さんといる限り、人間的に成長できない」とか言われて、友人である奥さんと離婚するつもりになっています。
で、このダンナと浮気相手がはまっているのがとある大学の先生の論で、この人、本をいっぱい出していて、私も参考までに本屋で立ち読みしました。内容は、純粋な心を持った人は生きにくい、とか、自分のやりたいことをやれそのためには手段を選ぶな、とか、人の目を気にしてどうなる、とかそういう人生訓みたいのをいっぱい書いていて、とにかく薄っぺらいし、なんでこんなのにはまる人がいっぱいいるのか、それも立派な職業を持った40歳を過ぎた人(ダンナのこと)がはまるのか、不思議になるような本なんです。
ダンナさんはすごく頭も切れるし、これまでに哲学系の話とかで結構盛り上がったこともあって、
すごくものごとをよく考える人だなぁと思ってました。
今回の件は「なんで東大出てそんなしょーもない新興宗教にひっかかるの??」というのと似た感じがしました。
なんか、変な世の中ですよね。

ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカン

Sekko · 2006-05-24 16:09:46 UTC+9 · 投稿 #157

ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカンについてのコメントを宗教のコーナーに入れました。

本が届きました

M.yagi · 2006-05-20 18:44:13 UTC+9 · 投稿 #156

竹下先生の本が届きました。
もう世間はダ・ヴィンチコードネタがあちこちで交わされていて、丁度タイムリー。
ちゃんとした本を読んで溜飲でも下げないと。
と本ネタばかりが飛び交ってる状況じゃぁ脳味噌が腐りそうで(^^;
・・・・・・・・というわけで私の脳味噌の健康のためにも嬉しく思います。
有り難うございます。

サライですが、、、たしかにいいトコなしですね。この小悪魔を手元に置くレオナルドの屈折した心理ってのはなんでしょうね。彼の行動を観察しながらなんらかのカタルシスを得るものがあったのかもしれません。

ダ・ヴィンチ・コードの映画

Sekko · 2006-05-19 05:43:14 UTC+9 · 投稿 #155

ダ・ヴィンチ・コードの映画、パリでは昨日から上映なので、今日(18日)、観にいってきました。
最近映画に行ってないのですが、ダ・ヴィンチ・コードは私のダヴィンチ本のきっかけをくれた本だし、最近『文藝春秋』にも記事を書いたので、一応見ておこうと思って。
いろんな視点によって変わると思うのですが、まず、キリスト教のことを特に知らず、原作も読んでない普通の日本人の視点で見ると、多分、何言ってるのかよく分かんない、です。原作には、さすがに長編だけあって、あることないことたくさん書かれているので、「そうか、分かった」と感じた人は多いと思いますが、映画では、当然細かいことが抜けてるので、「???」です。スリラーとしても中途半端だし。
次にキリスト教やカトリックのことを普通に知っている普通のフランス人の視点で見ますと、いくらフィクションと思って見ても、メインのテーマがあまりにも違和感があって、全く楽しめません。だってマグダラのマリアの棺が実はルーヴルの地下に眠ってるというのがラスト・シーンなんですが、文春にも書きましたが、普通のフランス人にとって、マグダラのマリアの墓所は秘密も何も、真偽は別として中世以来の大巡礼地だし、その信仰は聖母マリアに匹敵するくらいポピュラーなのですから、今さらヴァチカンがそれを必死に隠してきたと言われても・・・映画でもっとなんとか脚色できればよかったのに、原作に忠実にと言うのが絶対条件だったらしく・・・原作はとにかく長いので、変な中心テーマもそれなりに希釈されてしまうのですが、映画ではごまかしがきかなくて、宗教や教義や信仰がどうのというより、「ポピュラー常識」とあまりにもかけ離れた部分がここまで強調されると引いてしまいます。
キリスト教にそれなりの知識があってかつ原作を読んだ人の視点からこの映画を観ると、「原作の方が面白い」に尽きます。原作の方が、映画のシーンが脳裏に浮かんで、テンポもいいし、わくわくエンタテインメント感もあり、映画で観てみたいというのがありました。実際映画になると、まあ大画面で夜のルーヴルやパリやロンドンなどを楽しめるというだけで、俳優たちもやることが大してないので不全感があり、もったいないという感じです。(個人的にはシラスというアルビノスの修道士が、灰色の目のもっと怪物っぽい大男を想像していたのに、ナルシスティックな青い目のお兄さんで、ロシアのダンサーみたいだと思いました。)全体的にはがっかりという感じでしょう。
最後に、キリスト教の知識とかがなくて、映画の原作によってはじめてキリスト教のタブーに触れたとか陰謀史観の薀蓄に感動したとかいう人たちの視点です。これが私には想像不可能です。タブーや秘密をヴィジュアルに堪能できて満足なのか、本の方が信頼感をそそられて、映画は物足りなかったと思うのか・・・
今はスリラーでもレべルの高い映画がたくさんあるので、この映画はプロはもちろん一般観客を感動させるのは無理だと思います。ハリーポッターやナルニア国のほうがずっとまし。 私の訳した『聖骸布の仔』という小説にも映画化の引きがいくつかあるようなのですが、そっちの方が断然期待できそうです。しかし、カンヌ映画祭は一昔前はハリウッドから見向きもされなかったのに、今は、すごい経済効果をあげているそうです。ネオリベラリズムの行き着く先がカンヌ映画祭のダ・ヴィンチ・コードかと思うとショックです。宣伝って何?金って何?ベストセラーって何?という感じです。

サライ

Fusako · 2006-05-17 23:27:38 UTC+9 · 投稿 #154

わたしは、サライ、って、このカニグズバーグの本、「ジョコンダ夫人の肖像」The Second Mrs. Gioconda 、でしか知らないんです。ここでは、そうですね、生のままの人間、子どものような無垢な欲望を体現した者、として描かれていてとても説得性がありました。

ナントカコード

Sekko · 2006-05-17 16:06:03 UTC+9 · 投稿 #153

ナントカ・コードの映画は、昨夜カンヌでプレス関係者2000人に向けての試写会があったのですが、終わったあと拍手なしで、口笛を吹く人も、というさんざんな様子だったらしいです。パリの一般公開は今日からです。今日は昼間は生徒たちが来て夜はお芝居に行くので見にいけませんが、明日観にいこうかな。
サライって不思議な人物です。あんまりひどいので、レオナルドの隠し子かと一瞬思ったのですが、そうでないようだし、では何であんな男を? 美貌だけで我慢できたのか? 精神の気高さなんて関係がなかったのか・・・レオナルドはひょっとしてマゾ? 晩年にメルツィがやってきて救われた感じです。私の中ではサライの居場所が見つけられません。ミケランジェロのところにいたら、1日で追い出されてたろうなと思います。

レオナルド

Fusako · 2006-05-12 22:31:11 UTC+9 · 投稿 #152

ご本はもう発売になったのですよね。読んでみよう。楽しみです。
わたしの好きなアメリカの作家で、カニグズバーグという人がいるのですが、この人が、レオナルドについての小説、それから、エレアノール・ダキテーヌについての小説を書いていまして、秀逸。レオナルド小説は、彼のもとで働いたサライという青年の視点から書かれています。(ナントカ・コードは読んでいないです。)

共謀罪、その後

古川利明 · 2006-05-12 21:05:06 UTC+9 · 投稿 #151

共謀罪の方はその後、例えば、桜井よしこが反対の意思表示をするなど(といっても、ちょっと微妙なスタンスではありますけどね)、私がブログで最初に書き始めたころに比べたら、かなり盛り上がってきました。日和見を決め込んでいた売文業者たちも、ここにきて(まあ、アリバイ作りもあるんでしょうけど)、反対の声を上げ始めました。あと、一息ですね。結局、今の国会の会期が6月18日までなんで、戦術としては会期延長を封じ込め、「時間切れゲーム・オーバー」ということです(笑)。だから、小泉とも手を組むんですよ。

コウモリ男、暗躍か?

古川利明 · 2006-05-12 20:51:12 UTC+9 · 投稿 #150

フランス政局も「裏金スキャンダル暴露合戦」の様相を呈してきて、なかなかオモロクなってきましたね。ただ、そのドビルパンのサルコジに対する裏金の調査指示、そして、シラクの旧東京相和銀行(現・東京スター銀行)の秘密口座の話も、どこまで信憑性があるかは別として、ネタの「出所」が、どうもコウモリ男臭いですね(笑)。だって、フランスの内務大臣っていうのは、日本でいうところの総務大臣兼警察庁長官でしょう。正規の官僚機構から上がってくる情報に加えて、個人的な人脈も絶対に持っているあるはずですから、そこらあたりから、ワン・クッションなり、ツー・クッション置いて、足がつかないように、情報の「ロンダリング」を図って、マスコミにリークしているような気がしますね。私に言わせれば、内務大臣のポストにいて、政敵(=ドビルパン、シラク)のスキャンダルを徹底的に洗わなかったら、ただのおバカさんですよ。そのシラクの口座預金について、思うのはちょっと「額」が大きすぎますね。もし、仮にあったにしても、桁が一つ多いような気がします。日本とフランスでそうした「政治とカネ」に関する相場がどれくらい違うかは、よくわかりませんが、日本円で60億円っていったら、相当な金額ですよ。あの金丸信ですら、ワリシンなどの隠し資産で、せいぜい5億程度でしたから、そのあたりが私としては非常に眉唾ですね。私はむしろヘソ曲がりなので、こういう状況であるがこそ、断固、今こそ「シラク支持」を打ち出しますね。3選出馬してもいいです。

レジオンドヌール

Sekko · 2006-05-11 17:33:34 UTC+9 · 投稿 #149

ふーん、この相和ってのはそれっぽいですね。会長だった長田という人がフランスの勲章レジオンドヌールを受けていたというのがめちゃ怪しいですね。シラクが子供の母親に銀座の画廊を開かせたという例のゴシップとも関連してそうだし。
服装と文明の程度の誤解というのはおもしろいでしょ。確かに蒸し暑いとことか虫の多い気候のとこではレースとか刺繍とか発展しないでしょ。夜が長い、虫が少ない、重ね着が必要なくらいに寒い、とかないと。そして人間って服込みのイメージですから。変な話、黒人だって、露出部が少なければ肌の色の差も目立たなかったし。しつこいですが、エスキモーの肌の色なんて、ほとんどわかんないし、彼らの軽装なんて想像しにくいじゃないですか。逆に、ドイツの優生思想と連動していたヌーディスト・クラブなんて、はっきり言って見た目は醜いんですが、思い切り倒錯的な優越感があるんでしょう。