M.yagi · 2006-05-10 18:28:33 UTC+9 · 投稿 #148
恐縮です。どうしよう。今から愉しみです。有り難うございます。
奴隷システムはそうでしたね。互いが交換されたり、文明同士というのは分断があれどそれなりに対等ではあるものの、「アフリカ」という異文化がヨーロッパ人にとって動物的に見えたのが「衣類」っていうのは面白いですね。
うちの島も暑いのでお洒落なものは持っていてもしょうがない。自然だらけた風になりますが、戦前に体験した本土からの差別の一つの要因にそのような見下しがあったのでしょうか?
そういえば今、三和ってないですね。
東京相和銀行というのはあります。色々怪しからん過去があるようです↓
http://tostar.s70.xrea.com/wiki/wiki.cgi?%C5%EC%B5%FE%C1%EA%CF%C2%B6%E4%B9%D4Sekko · 2006-05-10 18:11:33 UTC+9 · 投稿 #147
レオナルド、島に送ってもらうように頼んでます。そろそろ・・・?
なんせ私自身、離島にいるようなもんで、状況がよく分からなくてすみません。
古代の奴隷は皆、被征服民でした。 敗者が勝者の奴隷になるわけで、人種的じゃないので、歴史の中でまた陽の目を見る可能性もあったわけです。でも、黒人は黒人であることをやめるわけにはいかないので、人種として否定されたことになります。しかし道具(特に武器)の優越というのは、人間にとって本質的に見えるのでしょうか。ヨーロッパが「未開」と出合った時に、自分たちの優位が自明に映ったのは事実なのでしょう。ブラック・アフリカの資料を見てて、服がミニマムな文化というのが「野蛮」に見えてしまうのは、私も温帯モンスーンの人だから? 服をいっぱい着て、サヴァイヴァルの工夫を日常的にしているエスキモーに対しては、「未開人」だから奴隷にしたりその後植民地にしたりって、ありませんでしたよね。やはり寒いか暑いかっていうのが、人間の欲望のシステムに大いに関係するのでしょう。
フランスではクリアストリーム・スキャンダルで、与党の大臣たちの多くが裏金問題を追及されてます。昨日からはついにシラク大統領が1992年に日本に60億円の口座を開いたというのが出てきました。調書にはSOWAバンク
とあります。そんなのありましたっけ? SANWA がSAUWA になってSOWA とか? 日本の銀行の名ってしょっちゅう変わるし、とてもついてけません。シラクのLe souci(心配事) をSOUSHI=Sushi(寿司)にかけて、今日のカナル・アンシェネに大きく出てました。
M.yagi · 2006-05-10 05:16:34 UTC+9 · 投稿 #146
新刊、愉しみにしています。(なんせレオナルド先生だし)
共謀罪はあちこち読んでますが、ネット上は議論が出ていますがマスコミはあまり興味がないように感じられます。で、国会でやり合っている最中のようですね。不備等が指摘されているようです。
先日、ルワンダの虐殺についての曾野さんの本を読み終えましたが、アフリカにおける欧州のやり方は褒められたものではないですね。フランスが武器を流し続け、あのフツによる虐殺が起きた等。その辺りも興味深いところです。
奴隷制に関してはローマ時代の奴隷のあり方ってのも面白いですね。ギリシャ人の教師奴隷とか。威張っていた。
寧ろ近代の奴隷制や植民地主義の方が酷いのではないか?などとも思います。この辺りは進化論やプロテスタンティズムも関わってくるのでしょうか。
Sekko · 2006-05-10 02:39:21 UTC+9 · 投稿 #145
共謀罪、その後どうなりましたか?それなりに盛り上がりましたね。障害者自立支援法案の時にも、もっと何とかならなかったかというのが心残りです。
今日5月10日、中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ-伝説の虚実』という単行本を出します。哲学、エゾテリズムから、欧米比較まで、マニアックなところから最近興味をもっている分野まで、ちゃんとつながってるお気に入りの1冊なので、ぜひ、お読みください。今日発売の『文藝春秋』にもダヴィンチ・コードについて記事を書いているのですが、その奥座敷がこの本です。
18日発売の新潮45にCPEの話を書いたのですが、編集者と話していると、結局フランス人の反応は日本人には全然分からないのだ、と言われてしまいました。それで、説明ばかりしてるうちにあまり本質に切り込めなかったかも。記事からカットした部分をそのうちこのサイトに載せましょう。
このところ、書下ろしをひとつと、聖ヨセフに見られる父親像、18世紀啓蒙時代のフェミニズム、無神論の系譜、の3テーマの資料読みのほか、奴隷制と植民地主義についてあれこれ調べています。日本人は黒人と直接の接触がなかったので、また幸いだれからも組織的な奴隷にもされなかったので、わりと良心の呵責が少ない分野かと思っていたのですが、調べれば調べるほど、「痛い」話です。そのうち一部を考えるタネにUPしておきます。西アフリカの黒人奴隷制に対して、啓蒙主義者はおかしいといって、ヨーロッパではフランス人が最初に廃止したのですが、それが、もろ植民地政策につながったのです。フランス革命がテロルに逸脱したり、フランス人は志は高くてそれを実現させるエネルギーもあるのに、すぐ低きに流れて、理念を消化してないことを露呈してくれます。でも20世紀の終わりに奴隷取引に関わった国で唯一、奴隷制を人類に対する罪にわざわざ認定するなど、ちゃんとつじつまを合わせて責任を取っているのは偉いかも。昨年春の法案の中で植民地に関するポジティヴな見解を入れて批判された条項もあっさり削除したし、それなりにけじめをつけるのは好感があります。
とにかく、植民地とは奴隷制の発展的解消なんですよ。それが理解できるとショックです。そして、「相手に選択の余地のない安い労力を調達して自分の生活のグレードを上げると」いうことの快楽って、原罪のようにどこかにあるような気がします。親からすべてを享受していた赤ん坊の万能感の名残なのでしょうか。全ての悪は何と人間的なのでしょう。怖いです。
M.yagi · 2006-05-02 21:51:03 UTC+9 · 投稿 #144
右さん達のマドンナ、桜井よしこさんも反対意見を出しましたね。
M.yagi · 2006-05-02 21:49:41 UTC+9 · 投稿 #143
詳しいご説明有り難うございます。
拙ブログの方でも後ほどご紹介したいかと。
やはり嫌なにほひぷんぷんですよね。
古川利明 · 2006-04-30 18:32:44 UTC+9 · 投稿 #142
このアメリカ(アングロサクソン)のピューリタニズムに切り込んだ竹下さんの共謀罪に対する根源的な批判は、実に鋭く、非常に冴えていますよね。最近はあまり流行らなくなりましたけど、ふと、「知識人の役割とは」ということに思いが至ります。この「知識人」という語は英語や仏語でどう表現するのかわかりませんが、かつてレイモン・アロンでしたか、邦題で「知識人の阿片」という本を書いていましたし、「9・11」以降、いちばんシャープな言説を吐いてきたチョムスキ、ーが繰り返し、「知識人であることの役割と責任」ということも言及しているんですよね。私の周りでも、普通の人は会社に勤めていて、夜遅くまで残業で働かされていて、こうした共謀罪のような危険な法案までなかなか思いをめぐらすことは難しいですよ。でも、鋭敏なセンスビリティを持っている人であれば、「何か変だぞ」というカンは働くと思いますが、じゃあ、「どこがどういうふうに具体的におかしいのか」という部分まで、言葉として表現はなかなかできないですよ。そこの壁を埋めるために、「知識人(という名の有閑人)」が存在し、警告を発する役割を担っていると思います。私は100歩譲って、日本の政府与党が、アメリカの愛国者法猿真似のこんなトンデモ法案を成立させようとするのは、まだ、理解できるし、全然、許せるのですよ。だからこそ、こうした権力の横暴にきちんとした批判を加え、まっとうな方向に持っていかせるのが、まさに「知識人の役割」でしょう。劣化がひどいんですよ。こういうときに文明的な視点から、きちんとした批判行為ができなかったら、何のために学問を身につけているのか、と言いたいですよ。同じ慶応仏文出身ということで、敢えて、今回は名指しさせていただきますが(少なくとも私には批判する資格がある)、福田和也に荻野アンナが「沈黙」してますよね。こういう動きが起こっているのをもし、知らないのであれば、「無知」ということですし、もし、知っててどう言っていいのかわからないのであれば、「無能」ということですし、知っていても敢えて見て見ぬフリをしているのであれば、「野蛮」、「臆病」ということでしょう。いったい、何のためにフランス文学を、そして、フランスを研究してきたのでしょうかね。新潮45は福田和也が連載を持っているので、竹下さんの論文が掲載される来月号でどんなことを言ってるか、注目ですね。
Sekko · 2006-04-30 06:21:23 UTC+9 · 投稿 #141
共謀罪がどうもうさんくさいのに、日本人にもうひとつピンとこない理由は、これが古川さんの言うように、アングロサクソンマターだからです。ピューリタンマターといってもいいです。共謀罪の内容については、NETで調べてもらうとして、このピューリタンのメンタリティについてだけ書きます。
アメリカは17世紀以来ピューリタンが「開拓」「建国」した国です。イギリスを逃れたピューリタンといっても、初めは実は土地のない貴族の次男坊とか3男坊が多く、「神の国」を創ることを甘く見ていたのが、先住民の抵抗にあって、すごく苦労し、彼らを奴隷化することも出来ずにほぼ殲滅し、奴隷はアフリカから調達しました。私たちから見たらひどいやつらだと思いますが、彼ら的には、苦労して、禁欲的で、勇気と勤勉で、国を創った英雄なのですね。ヨーロッパのような生まれながらの特権階級でなくて、額に汗して国を創り、独立を勝ち取った実力者たちがエスタブリッシュメントなわけです。だからこそ、コミュニティ意識も強いわけです。かれらのメンタリティは、競争を勝ち抜く不屈の自助努力、なわけです。これが、資本主義の発展をもたらせました。
でも、マイケル・ムーアが「BOLING FOR COLUMBINE」で揶揄したように、アメリカは、自助努力のあまり、武装した自警団を作るという感じで極端に武装する社会になったわけです。あの映画では、同じ湖のアメリカ側では、どの家も高い塀に警報装置があり、誰かが敷地内に入ったら即射殺のような雰囲気に対して、カナダ側では、どの家も鍵すらかかっていなくて、ムーアが勝手にドアを開けても「はーい、なあに」という感じで家人が出てくるという具合でした。ムーアは、これを、アメリカの白人はインディアンや黒人を人として扱っていなかったから、彼らからの反逆を潜在的に恐れて被害妄想のパニックのうちに暮らしている、と分析していました。
アメリカはもともとそういう国ですが、これに比べて、近代以降のヨーロッパは、まあいろいろ理由はいろいろありますが、国が国民を保護し、富を循環させて福祉という形で再分配する傾向にあったわけです。社会民主主義というやつで、アメリカ風の自助努力の弱肉強食、完全自由競争というのは嫌っていたわけです。Noblesse oblige というのもコンセンサスでした。だから、資本主義の企業も、内では従業員の生活を守り、社会に向けては税金や社会保障費負担などで利益を国に戻して、国に再分配を任せたわけです。 これがいわゆる「冷戦」の間は、普通でした。自由主義陣営の先進国はみな、ロシアや中国の革命を目にし、自国内にも革命を口にする共産主義者を抱えていたわけですから、労働力の搾取とか言われないように、それなりに社会福祉に励んでいたわけです。ところが、共産主義陣営が自壊して冷戦が終わったので、もう革命の心配はなくなった、歯止めがなくなったので、アメリカの本性というべき苛酷な競争社会が出現しました。これがネオ・リベラルというものです。
ネオ・リベラルの大企業は、もう利益を従業員や社会へ還元する理由を持たず、ただ金の論理にのみよって、短期利益を計上すること、株主と経営者のみを優先することになりました。しかもグローバリゼーションで、途上国の安い労働力が無限に手に入るようになったので、自国では従業員のリストラや給料引き下げが平気で行われるようになりました。社会への還元もしたくないので、税などの軽減をしてもらえるように、国にロビーイングをするようになりました。要するに政治献金をしたり票集めをするから代りに企業の便宜を図ってくれというわけです。
それで、何が起こったかといいますと、先進国内での失業者や低所得者や保障のない契約社員やパートが増えた、というのは、まだいいんですが、富の90%を10%の金持ちが握っているというようなアンバランスと連動して、地球規模で格差が広がり、地球上の人間のマジョリティは貧困と病と内戦の中で暮らしているわけです。インディアンを抹殺しなくても、かってにどんどん死んでいくわけです。奴隷制を復活しなくても最低賃金で働く人もいくらでも調達できるわけです。しかも途上国の多くは金の論理で動く独裁者によって治められています。
そこで、尊厳を傷つけられた人々は、絶望して原理主義やテロリズムにはしるわけです。アメリカはそんなこと見ないふりをして自分ちに鍵をかけて、銃や核で武装してたんですが、9・11に自国をテロリストに攻撃され震え上がり、あわてて愛国法を作り、徹底防衛体制に入ったわけです。自衛だけでは足りなくて、塀に囲まれ24時間セキュリティ大勢の大規模な Gated community に住みたがり、本当は、国中を Gated community にしたいわけです。その表れが、盗聴や監視カメラの正当化と蔓延です。銃所持の許可と同じくピューリタンの神経症的自助精神の法的表現なのですね。
そして、長くなりましたが、今回の「共謀罪」というのは、どういう理屈をつけているにしろ、基本的には、そういう、今のアメリカのパニックと連動しているのだと思います。既成の法律を適用することで違法行為の共謀に対処することを考えず、出来るだけ広く新しい危険の幅をとっておきます。でも、日本にはピューリタン的なメンタリティがなく、伝統的に、外的の侵入を想定しない、引き戸の長屋とか縁側からこんにちはの社会でしたよね。今でこそ「外人が増えてぶっそうだ」と言われたり、アメリカ風セキュリティのマンションが流行ったり、監視カメラもたくさんつけるとか、駅や道路のくずかごを取り払うとか、どんどん変わってきていますが、そしてネオリベの格差社会が来ると言われていますが、そんな警戒心や闘争心むき出しの競争社会はもともと日本人に向いてないんですよ。
「ぶっこわされる」前の自民党の護送船団方式とか、中央から地方に金を還元するとか、談合体質の年功序列でそれなりののどかな繁栄があったわけです。しかし金には国境がなく、株式は誰にでも買え、世界は一部のトランスナショナル大企業の私物になりそうです。だから日本も生き残るための「改革」は迫られているのですが、だからといって、それがアメリカ式のネオリべで格差社会を助長し、びくびくして鍵をかけて武装してテロリストにおびえるような方向でいいものでしょうか。中東など、せっかく、非白人で非キリスト教の先進国日本に好感情を持ってくれているのに、イラクには自衛隊を送るし。つまり、「共謀罪」は、「すごい悪に対する対症療法なんだよ]と言っても、その「悪」の構造を、日本人のメンタリティにも立場にも反する形で、地球規模でさらに深めていく流れにあるから、よくないんです。その居心地の悪さを意識化したり言語化したりできないから、論議があいまいなのだと私は思います。
実は、5月18日発売の新潮45にフランスのCPEについての記事を書きまして、その中で、この「尊厳を奪われたテロリストが跋扈するネオリベ世界」を何とかできないかということを解説しました。ここに書いたようなことです。私はこの世界で、強いものの「強さ」、「大きいもの」の「大きさ」は、「より弱いものやより小さいもの」に捧げ仕えるるためにあるべきだと思っています。それは相対的なことで、誰でも、たとえ、アメリカ東部のWASPのエスタブリッシュメントの健康な男だって、いつかは老いや病や死によって弱くなります。誰かが今強くて大きいのは、成果主義やメリットとは関係がないし、弱くて小さいのも、その人のせいではない。家族レベルでも、地球レベルでも、力や富を循環させて、相対的弱者の尊厳が守られる世界に生きたいです。そのためには、「信頼」が存在できる社会が必要で、「共謀罪」は、日本人が島国の平和で培ってきたそんな漠とした「信頼」の夢を破るもので、多くの人はそこから目をそらしていたいのかもしれません。
M.yagi · 2006-04-28 21:13:23 UTC+9 · 投稿 #140
古川さんもご指摘の通り、共謀罪に関しては、沈黙してる人が多いのは何故だろうか?と思います。
いつも政治についてよく語るブロガー仲間でも、その辺りに関しては敢て沈黙というより興味すらないという印象ですね。わたくしは表現者なんで、他のこと以上にすごく気になります。語らないというより、政治に関心のある層ですらその無関心が何故なのか?疑問はあります。
M.yagi · 2006-04-28 21:07:53 UTC+9 · 投稿 #139
私は不確定な都市伝説のたぐいは常に眉唾つけてしまいますが、ゴシップ系にいたっては興味ないというか、そもそも他人様の私生活など読んでも面白くない。なもんでおばちゃん系雑誌は買わないのですが、最近文春までどんどんゴシップ系になっていて。。ただ、うちの祖母が、「そういうゴシップは人の道が書かれていてひとつの道徳なのだ」といっていたのには「なるほど」と思いました。例えば作家などにとって、人間心理をしるための素材として格好の素材なのかもしれませんね。
言葉に出す場合、日本い於いては往々にして相手とは違う考えだということに抵抗を示す層がいますね。私などは議論した相手(それが対立する意見だとしても)はかなり友達になった気がするんですが、批判意見を述べると全人格否定されたと思う人もいるみたいです。相手を選ぶ必要もありますね。
古川利明 · 2006-04-28 13:08:52 UTC+9 · 投稿 #138
いや、まさに、そうなんですよ。日本人というのは、どうしても「沈黙は金」というのか、自己主張しないのが「徳」というカルチャーがあるんですよね。あと、似たような物言いに「墓場まで持っていく」とか。そういう意味では、一連のCPE問題で、サルコジにしろ、ドビルパンしろ、セゴレーヌにしろ、自分の「立場」なり、「主張」を明確にするため、いろんな言葉を駆使して説明しまくったというのは、すごく、大事なことだと思います。日本だと、そういう人はどうしても「うるさい人」というレッテルを貼られてしまうんですよ。その「おねえちゃん雑誌」という表現は、ちょっとお下劣でしたので(これも「品がない」ですね)、ここは竹下さんの掲示板なので(やはり女性読者が多いようなので)、「女性誌」という表現に言い換えますが(笑)、その女性誌でも、そうしたファッションやグルメの記事の中に、あまり目たない真ん中や最後の方のモノクロのページですけど、かなり硬派な記事やコラムを掲載してるのもありますよ(私の見る限り「Oggi」と「Grazia」)。でも、例の「負け犬本」が賞賛していた光文社系はダメですね。ただ、私の認識では、女性でも、一定レベル以上の知的教養を持っている層は、だいたい政治的スキャンダルの話は好きですよ。永田町や政局のウラとか、身を乗り出して来ますね。ただ、普段はネコをかぶってます(笑)
Sekko · 2006-04-27 23:11:53 UTC+9 · 投稿 #137
フランスで普通のおじさんやおばさんが政治の話を延々とする背景には、別に彼らの意識が高いということじゃなくて、「一家言」もっているように見えることが評価されているからだと思うんですよ。よくパリの日本人が気づくことですが、フランスのデパートの店員とか、全然働かなくて、商品知識もゼロみたいな人が、何かクレームをつけられたり注意されたりすると、猛然と、しかし理路整然と反論を述べ立てたりするんですよ。あのエネルギーと頭を仕事に使えばいいのに、と日本人なんかはびっくりして思うわけです。なんにつけても「自説を披露する」と言うこと自体にステイタスがあるわけですね。ところが、日本では、「普通の人」が突然「しかし、共謀罪は・・」とかファミレスで話し始めたら、「何、この人」って思われるじゃないですか。日本ではよくよく立派なことを言っていると認められる人か、あるいは専門家と認められる人の「高説」でなきゃ、市民権がないんです。これって外国語習得もそうです。たとえばパリのフランス語学校で、日本人は、相当知ってるのに、なかなかしゃべらない、絶対確かで自信がないと口を開かない人がすごく多いんです。そこへ行くと、ブラジル人とかスペイン人とかは、ブロークンでも実によくしゃべります。しかし彼らは、文法問題とかは全滅で、日本人は高得点をとったりするんですよね。日本人は、「言霊」のせいか、口に出していう言葉のハードルが高いのかしら。前にも書きましたが、私だって、フランスでは今回のCPEについて、リセの生徒とも延々と対等に話せて盛り上がりましたが、日本についたとたん、駅前で核廃絶の署名を求めている人を見るだけでうっとおしいとか、ほかにやることないのか、プロ市民、とか感じてしまうんです。すみません。風土とか言葉の持つメンタリティなのでしょう。でも、今いいと思うのは、各種ブログなどで、いろんな人がいろんなことについて自由に意見を交わす場穂が生れたことで、そこには敬語などの言語の縛りも、風土の縛り(自説をぶつ人よりも、口数少ない人の方が尊敬される)もないので、多くの人の考えを知ることが出来ることです。そうすると、日本人のレベルの高さが分かってほっとします。やっぱ、言わないと聞けないですからね。
それで、日本で人前で「一家言を語る人」ってのは、偉い人、自分の正しさに自信を持っている人、になってきて、それが権威とか権力にも関係してくるので、いかがわしかったりするのでは?
「おねえちゃん雑誌」がファッション、コスメ、ブランドを多く語るのは、広告収入のせいでしょう。広告収入の取りにくい雑誌はなかなか存続できないし。おばさん雑誌だとサプリメンとか健康グッズも? 女性のスキャンダル、ゴシップ好きも、マーケット的にはある程度あたってると思います。皇室ゴシップがあると絶対女性誌の売り上げが伸びるということは、買う人が多いからでしょうし。男の方がゴシップに無関心の率が多いかどうかはよく分かりません。ただ、それを、「女性=ゴシップ好き=政治には無関心」というのは日本的くくりかたで、フランスなら「女性=ゴシップ好き=政治を論じるのも好き」なので、両立するし、別にゴシップ好きに価値判断はないのでは?
悪意のゴシップもありますが、これもネットの2チャンネルとか見てると、これもネットでは男女の縛りがないので、男も堂々とゴシップ好きと悪意のゴシップを展開してるし。私は悪意のゴシップはもちろん反対です。でも、他人に関する悪意のゴシップは蜜の味みたいな卑しい根性もふつふつと沸いてくるので、自分の卑しさを確認するだけでもゴシップは反面教師です。
さすがに「おねえちゃん雑誌」は見るとこがほとんどないのでパスですが、おばさん系の他人の愚痴とかゴシップは楽しく読めます。コミックも好きだし。それで馬鹿にされても別に気になりません。でもそれらのほとんどは確かにただその場で消費して終わりのものなので、自分の卑しいところは痩せさせて、人の役にたちそうなところに栄養を与えていかなくちゃと思ってます。
Fusako · 2006-04-27 21:49:57 UTC+9 · 投稿 #136
うーむ、古川さんにちょっと物申させて下さい。「おねえちゃん雑誌」「元女子アナ」「スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。」 ・・・ これはメディアの中にいて、一家言をお持ちの方によくある、女性への偏見のような気がするのですけれど。
わたしは、たまたま「政治」にやや近いところで仕事をしておりまして、えらそうに政治を論じる男性にもけっこう疑問があります。
自分の暮らしの問題、として、当たり前に政治を論じることは、男女を問わず、必要ですよね。そして、そういう議論が「面白い」と思える成熟も必要ですね。
古川利明 · 2006-04-27 20:40:59 UTC+9 · 投稿 #135
今度の「共謀罪」も含めて思うのは、日本人は(まあ、あんまりこんなふうに「日本人は」という物言いで括るのはよくないのかもしれませんが、他に適当な表現も見つからないので)、「政治」を語りたがらないですよね。確かに日常語と、政治を語る語が遊離しているという面はあるにしても、政治をあまり語るカルチャーはないですよね。まあ、社会にいろんなタブーを抱え込む(もしくはそれがタブーだと思い込んでしまいたがる)国民性もあるかもしれませんが、それだけでもないような気がします。かつて「中」にいた人間の一人として、メディアの責任は大きいというか、「それがすべてではないか」という気さえします。新聞、テレビはいわずもがなですが、雑誌媒体なんかも、おねえちゃん雑誌とかでも、何とかの一つ覚えのように、ファッションとグルメだけじゃないですか。敢えて名前は伏せますけど、そういう系の雑誌にコラムを連載している元女子アナの人もいたりしますが、読んでいて、「本当にフランスで生活してんだろうか?」と思うことがあります。ただ、私の経験では、例えば、そういう読者層のおねえちゃんたちが「じゃあ、政治に無関心か」というと、実は、全然、そうじゃないんですよ(笑)。スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。そういうふうに「政治を語りたがらなくしているメディアの責任」も大きいと思います。ファシズムは常に「知識人の転向」から始まるんですよ。
M.yagi · 2006-04-26 13:57:19 UTC+9 · 投稿 #134
ここでの皆さんの対話や古川さんのブログは勉強になります。
私は知識がないので傍観しておりましたが、なんとなく嫌な法案のにほひを感じています。
・・・というわけで、ブログにご紹介させていただきました。ご報告まで。
Masako · 2006-04-26 12:56:06 UTC+9 · 投稿 #133
ロシアのニコライ二世一家も同様な運命でしたが、これはあくまでもボリシェヴィキが殺したということで、ロシア人一般のトラウマにはなっていないのかもしれません。また、殺されたからこそ、生き延びたアナスタシア伝説などが生まれることになったわけですね。
ソ連時代、ソ連政権を認めない正教会(在外ロシア教会)では、たしか70年代に皇帝一家は列聖されて、私はパリのカテドラルで殉教聖人としての皇帝一家のイコンを見た記憶があります。
Sekko · 2006-04-24 22:24:04 UTC+9 · 投稿 #132
私も、国王を処刑したことは、今もフランス共和主義のトラウマになっていると思います。地縁血縁による特権を廃するという点では、ルイ16世がシトワイアン・ルイ・カペーになりそれを認めた時点で、革命は成就したわけですよ。王の首を切って、殉教者にしてしまったことが、その後の帝政やら王政復古を招く混乱になったんです。それを思うと、イギリス軍が、ナポレオンの首を切らなかったのは殉教者を作らないという戦略ですね。ジャンヌ・ダルクの火刑で学習したのでしょう。
古川利明 · 2006-04-24 21:12:42 UTC+9 · 投稿 #131
竹下さんのお答えを読んでいると、改めて「アングロサクソン・カルチャー」の根底にある、「ピューリタニズム」ということに思いが至ります。アンリ4世(でしたっけ?)がナントの勅令で信教の自由を認めたことなども含めて、「歴史」というのは大きいですね。その「政治談義」について、私がふと思うのは、フランスはあの大革命で国王の首を民衆の手でギロチンにかけて、チョン切っているわけですよね。これは大きいと思います。その点、イギリスの清教徒革命も名誉革命も、「革命」とはいいながらも、別に王政自体は無傷だったわけですよね。そういうところも含めて、「歴史の身体性」というのは、すごく大きな影響を与えているような気がします。
Sekko · 2006-04-24 00:00:13 UTC+9 · 投稿 #130
すごくします。週刊誌に、あなたがこの1週間で職場や家庭で話題にしたテーマ(複数回答OK)はという統計をとってるのがありますが、CPE騒ぎの時は、今手元に無いので確かじゃないですが、7,8割以上がCPEについて話し、サッカーとかは1割台でした。私も家庭、友人、生徒、生徒の親らと毎日話してました。今も、ヴィルパンの今後だとか、セゴレーヌ・ロワイヤルの品評だとか、延々と話します。たとえば、5月の個展の打ち合わせでTELしてきた友人(60代フランス人女性)とかと話しこむと、個展の話より政治の話につい熱が入ります。「政治」とは「生活」であり、それを語るのは人間観察なので。
日本は確かに漢字や漢語のせいで、法律と日常の遊離がありますよね。それに、大本の法律があっても、適用に自由裁量の幅が広ければ、ほんとはそれは危険なのに、まあまあ、なあなあで何とかなるだろうから法律を通しといてもいいんじゃないかという、鷹揚さというとポジティヴですが、馴れ合いやごまかしや思考停止がまかり通るような・・心配です。
Fusako · 2006-04-23 10:06:38 UTC+9 · 投稿 #129
について、フランスの人たちは、けっこう日常的に議論をするのでしょうか?
昔、「思い出のアンネ・フランク」という、アンネ達を支えたオランダ人の本を読んだときに、その著者は実は外国からの養子でオランダ人になったのですが、オランダでは子どものころから政治について論じることを教えられる、というくだりがあり、とても印象的だったのを覚えています。ヨーロッパの小国では、特に、政治と生活はとても近いのでしょうね。あと、分権が進んでいれば、国が大きくても、政治と暮らしは近くなる道理ですね。
でも、日本では、たぶん、国の大きさとそして国民性というか歴史的背景もあるだろうと思いますが、法律ってとても遠く、関係なく感じますね。
それと、法律用語も生活の言葉と関係なくて、「共同参画」「次世代育成」「均等」(わたしが少し関係ある分野なのですが)なんて、法律以外では使わない言葉ですしね。
で、法律案が、どういう必然性で作られて、どういう実際の効果があるのかもとてもわかりにくい。最近で、わたしには一番わかりにくかった(いまだによくわからない)のが、「人権擁護法案」でしたけれど。
Sekko · 2006-04-23 08:00:44 UTC+9 · 投稿 #128
2000年の6月に全員一致で国会を通過したマインドコントロール罪法案は、その後すったもんだして、2005年だかに、結局、やや尻つぼみの、L’abus de faiblesse という代替案に差し替えられました。CPEじゃないですけど、宗教側の、マインドコントロールの境界線を決める決定的な基準がない以上、司法の自由裁量は、信仰や精神活動の自由を侵すリスクがあるという主張が通った結果です。その議論の時に何度も出てきたのは、我々はピューリタニズムに陥ってはならない、という言葉でした。こういう法の適用は、いくらでも逸脱していく可能性があるから、その強権の危険を冒すくらいなら、法を先にガス抜きしといた方が賢明という感じです。ある意味、フランスらしい結論です。そしてここでも、アングロサクソン・ピューリタンを反面教師として意識してるのが面白いです。しかし、フランス人的には、カルトが弱者(未成年者、一人暮らしの老人、病者、障害者etc・・)を食い物にするのはどうしても許せないので、「弱みに付け込む」ことの違法性だけは成文化しときたかったということでしょうね。
まあ、そんな国ですから、「共謀罪」なんてとんでもないですよ。「愛国者法」なんて、ユニヴァーサリズムがピューリタニズムによって逸脱していく典型で、アメリカは建国以来、こういう傾向(インディアン抹殺、魔女狩り、マッカーシズム・・・)を繰り返してます。でも、まあ、それに対抗して本来のユニヴァーサリズムのために戦う人たちも必ずいて、それに期待したいです。
しかし、共謀罪が、適用の範囲の自由裁量の幅を大きくしといて、勝手に使えるようにするのを許すのは、何とかに刃物の状況もあり得ますよね。日本はピューリタンじゃないんだから、もうちょっとは良識を残して、アングロサクソンの魔女狩りの真似はしてもらいたくないです。
このことが分かりやすい面白い本があります。ハヤカワミステリ文庫のエラリー・クイーン『ガラスの村』です。読んだことがある人も、もう一度読み返してください。ヤンキーのピューリタニズムの理想と現実、絶え間ない逸脱とそれに抵抗して建国のユニヴァーサリズムの理想に何とか帰ろうとする人たちの努力が実によく書かれていて、志の高い名作です。そこにも、国会の煽動家が腕を振るうのは民衆の責任だと書いてあります。日本で悪法が通るとしたら、国民の側に、すでに思考や判断の放棄があるから、それを通してしまうのでしょう。共謀罪なんて、人の自由や尊厳の根を深いところで蝕む、絶対このまま通してはならないものです。限定や保留条項を付けまくって骨抜きにする可能性はあるんでしょうか。メディアもきっちり論議して欲しいです。でも日本では、路上の論議やストやデモの対象にはならないのでしょうね、きっと。
古川利明 · 2006-04-22 13:15:05 UTC+9 · 投稿 #127
今、日本の国会で、例の「共謀罪」が突然、審議入りして、相変わらず、マスコミの反応も鈍いんですけど、それと似たような話で、フランスのカルト対策において、マインドコントロールについて、「精神操作罪」の創設が議会でかなり大問題になっていましたよね。双方の通じるのは、「個人の思想、信条、良心を法で縛る」ということだと思うのですが、結局、この精神操作罪の議論はどうなったんですか? フランスでも相当、もめましたよね。まあ、「精神操作罪」はそれでも、「マインドコントロール」という「実行行為」があって、それを処罰しようとするのですから、まだ、わかるんですけど、「共謀罪」はそうした犯行がなくても、「共謀した」というだけで、実行に至らなくても罪に問えるんですから、無茶苦茶ですよ。で、この法案も原本は、アメリカの愛国者法で、要は、アングロ・サクソンマターなんですよ。相変わらず、米英はヘンですよね(笑)
古川利明 · 2006-04-19 21:27:23 UTC+9 · 投稿 #126
私も読んでみましたが、さほどというか、私はほとんど共感するところはありませんでした(特にホリエモンを取り上げた武田徹の文章)。何かアタマの中で「今の若者はこうだ」と決め付けたい、爺さん連中のたわごとというと、言い過ぎですか(笑)。「金ですべてが買える、金こそが人間の尊厳」だなんて、アングロサクソンの営利至上主義そのものじゃないですか。別にホリエモンはそうしたイデオロギーに忠実だっただけで、それは別に彼だけじゃないのではないでしょうか。だからこそ、ユニヴァーサリズムの現実化ということの重要性に思いが至ります。ビンボー、質素はすがすがしいですけど、極貧は人間の尊厳を破壊します。最近の二極分解で、そういう状況に追い込まれていく若者たちが、「金こそ、人間の尊厳だ」と思うのは、至極、当然だと思うんですよ。そうならないように、政治が、思想(ジャーナリズム)に何ができるのか、ということを考えていかなくちゃ、だと思うのですよ。
Sekko · 2006-04-19 17:43:23 UTC+9 · 投稿 #125
「でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。 」 の文は考えさせられます。激しさが局地的に内的に爆発すると、家庭内暴力とか、下手すると無差別殺人になるのでしょうか。それならストやデモでガス抜きしてくれた方がいいかも。
最近、ピレネー地方の知事が38日のハンストをして、日本企業の誘致に成功、日本大使館も企業のトップも怒りに狂ってるというニュースがあります。日本ではどう報道されてるのでしょう。日本側の言い分は、喉にナイフを突きつけるようなこんなやり方は野蛮、と怒っているのです。首相や内相や大統領まで圧力をかけたということで。でも、知事そのものは、自分の喉にナイフを突きつけたわけですね。企業にとっては理不尽な脅迫でしょうが、別に企業側を人質にとったとか、爆破すると警告したわけではなく、ハンストなので、後は、「このままむざむざ飢え死にさせられない」という感情論やモラルです。当初には連帯もなく、たった一人の「闘争」です。とにかく、文句を言われようと、日本企業は合意したのですし、政治家が命をかけて、何かを成就させるというケースで、こういう発想があってそれを実行したということ自体がすごいです。戦争反対とかいう意思表示のハンストでなく、行政者が政経上の目的到達のためにハンスト。確かに彼が死んだりしたら、「自己責任」かもしれませんが、それはやはり社会の責任というか、ハンストのことをメディアによって知ってしまった人すべての責任になってしまいます。イラクやイスラエルで毎日テロや内戦で死ぬ人が出ていますが、それであわてて軍を撤退したり、平和交渉が始まるということもない、それで、ピレネーで、一人の知事がハンストをしたら、大統領や日本の大使館まで巻き込んで、その地域の未来が変わる・・・いろいろ考えさせられました。資本の論理で動いてる企業側が怒るのはもっともですが、どうせ屈するなら、何か一言もっとかっこいいことを言って欲しかった気もします。日本や日本の企業が注目されたいいチャンスだったのだから。
Fusako · 2006-04-18 23:04:04 UTC+9 · 投稿 #124
1. 原田さんの論文について
日本の人口減少については、悲観論と楽観論がありますね。楽観論では、人口減少恐るるに足らず、かえって活気ある団塊高齢者を中心にゆったりして過ごせるでしょう、的なものが多いですかね。原田さん(団塊の世代に近い方)もそんな感じの論調で、そして、少ない若い世代に温かく、「自分の孫を愛するように他人の孫も愛して」豊かな文化を維持しよう、とおっしゃっています。
でも、そもそも、なぜ人口が減るか、若い人が家庭を形成せず、子どもを持たないか、ということを、原田さんは特に深く追究せず、「人口減少、少子・高齢化」という所与の条件での暮らし方について述べておられるように見えました。わたしから見れば、日本の問題は、若い世代が家庭を形成できない、子どもを持ちたくない、ということ、そのものにあると思えます。
それと、すでに子どもや孫を持っている大人。バスや電車に乗るだけでわかります。わたしは、子どもは座るものじゃない、と言われて育ちました、というか、そういうしつけを受けましたが、シルバーシートに子どもを座らせて平気な親(混雑する通勤時間に乗る子どもは私立の小学校に遠距離通学しているわけです)とか、電車で「OOちゃん、ここにお座り。」と孫に席をとる祖父母!!、多いですよー。一方で、貧困家庭のDVや児童虐待、・・・ 日本てこんなだったかしら、と最近、けっこううんざりしています。
つまり、日本が少子化・高齢化してゆく原因、少子化・高齢化しているなかで社会規範が崩壊している、そういう社会について問うことなしに、人口が減ることそのことだけについて議論することに疑問があります。
2. 日本の若者について
堀江氏が「金で買えないものはない」と言った続きは、「金で買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み」という文章がありましたね。日本のムラ的つながりの中では、家柄、ムラ的組織では肩書き、そういったものが日本社会での「価値」だった、それを突破しようとしたのはわかりますが、結局置き換えられるのが、せいぜいのところ、お金、というわかりやすい数字でしかないのが、日本の精神的貧困ですね。お金に換算できない価値で大切なものは、「人権」とか「生活の質(Qualite de lvie)」とか、だと思うのですが、なぜ、日本では、人と比較して出る数字や地位が生活の基準になるんでしょうね。他人がどうであっても、世間一般がどうであっても、自分には自分の「権利」が、「基準」が、「考え方」が、とならなかった、なっていないことが日本の問題だと思います。そこから出たいと思うと、「ほっておいてくれ」「自由にさせてくれ」ということにしかならない。
誰もが、自分の考え、自分の暮らしを対等に持ち、それを保障するのが「再配分」であるとまで理解しての「再配分なんていらない」ではないと思います。
かつて、ムラの大きな集合体であった日本(江戸時代、あるいは戦前)、それが、中央集権、ムラの崩壊のみが進んで、かつて存在した価値の継承はなくなってしまいました。でも、不思議なことに、ムラの仲間うちのみ意識する、という行動様式だけが残っている感じがするんですね。安定した共同体で、秩序をわきまえ、分に合った暮らしをする、という生活様式はなくなりましたが、自分の所属する共同体のあり方にはとりあえず順応して生きる、というのが、老若問わず、日本人の「自分でものを考えない」生き方であるように思えます。
年功序列に従って「ものを考えずに生きる」だったのが、年功序列が崩壊したために、次は「金」を基準に、あるいは、基準なんて何もなしに「ものを考えずに生きる」状態が、日本人ではないでしょうか。で、自然に恵まれ、人は温和でそこそこ均質で(字の読めない人はいない)、今のところ家族も最低限の機能はしている、というところで、厳しい闘争にまで至らないでいる社会が、日本の社会なのでは、と思っています。でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。