1 2 Sekko · 2021-12-30 04:07:04 UTC+9 · 投稿 #1197
いや、別に伏線ではありません。 でも、男性の肖像画で書物が添えられている場合は、「教養」や「社会的地位」を示す小道具なんですが、女性が本を読んでいるのは、実は「イヴの林檎」なんだと思います。 つまり、禁断の香り。それを嗅ぎとった小寄道さまはさすがです。 日本では源氏物語とか女性による文学作品の伝統があるわけですが、やはり漢字と仮名の棲み分けがキイワードかなとも思います。「漢字」は男という主人の死守する「知恵の木」で、「仮名文学」は女性がひそかに発酵させた林檎なのかも。 おもしろいですね。 よいお年をお迎えください。
小寄道 · 2021-12-30 02:20:07 UTC+9 · 投稿 #1196
『本を読む女は危険』を読み、初めて観る絵画がほとんどで、正直びっくりし感動しています。 唯一、ユトリロのお母さんの作品は観たかもしれませんが、その他の絵は、初めて見ても意味深な女性に見える。何なんでしょうか。美術的には、一つのジャンルなんですか? 面白かったのは、「寝落ち」というキーワード。 読書しながら寝てしまう、これは最高の幸せ状態。そのときの表情を絵画にするというのは、現代にはあるようでない。どうですかね? これらは、なんかの伏線ですか? と、したら興味津々です。 就寝前に拝読し、眠気がぶっ飛び、思うがままにコメントを書きました。乱文失礼
Sekko · 2021-12-15 06:33:00 UTC+9 · 投稿 #1195
おやさしい感想を送ってくださってありがとうございます。 「適応力という言葉が頭に残り、フランスで生きて行く力になった」と言ってくださった方もいて、少しでもお役に立てたかとうれしく思います。 クリスマスは、目に見えない「神」が目に見える子供の形で分かりやすい「救い」を先に贈ってくれたというスタートですね。ベツレヘム製の聖家族像を見ていると、身に覚えのない私生児を10代半ばで生むことになったマリアと、その子を敢えて引き受けたヨセフというカップルの決断にあらためて驚かされます。それでも、無垢の赤ちゃんを見て、二人とも喜び、いたわり合う姿に、「無償の愛」を託されることの意味を考えさせられます。 その「無償の愛」を「目に見える形」にしたいから、フランスでは大人も子供もみんながプレゼントを贈り合うのだなあと思います。 愛も救いも取引ではない、と再確認する機会です。 でも、今やこのフランスの普通の教会でのクリスマス・イヴのミサ、テロをおそれて警備が必要だという現実が残念です。 まつ様のクリスマスと新年が平和で恵みに満ちたものでありますようにお祈りします。 いつでもお声をかけてくださいね。
まつ · 2021-12-14 21:57:37 UTC+9 · 投稿 #1194
初めまして。 先日講演会にて会場隅っこのほうで初めてお話を拝聴した者です。 コロナ禍で、輪郭がはっきりしない不安のようなものを抱きながら日本で過ごし、仕事のため今年渡仏して参りました。 講演会には、パリにいながら日本語の講演が直接聴ける!という半ばよこしまなモチベーションもあって申し込みましたが、 今を生きる私(達)が日々肌で感じ、時には内心葛藤しているような話題を幅広く取り上げてくださり、 聴き終えた後は、コロナなど周りの状況は何も変わっていないにも関わらず、 希望を持って進んでいけばいいと肩を叩いてもらえたような、そんな暖かい時間を体験させて頂きました。 年末という時期は1年の中でも特に、自分がクリスチャンであることを強く自覚させられる時のような気がしています。 無宗教と言いながら初詣をし、おみくじを引く、そんな”文化”に少しばかりの反抗と伝道の意味を込めて、 ここ数年は年賀状の代わりにクリスマスカードを友人へ送るようになりました。 今年はエアメールということで早めに投函してみましたが、 思ったより早く届き、しかも1通のロストもなく、ずいぶん驚きました。 フランスにいる間にもまたお話を伺ったり、演奏をお聴きできる機会を楽しみにしております。 先生がブログに書かれていたパレスチナ支援のポップアップショップ、 ぜひ行ってみたかったです(もう終わってしまったのですね)。 どうぞお身体にお気をつけて、暖かくしてお過ごし下さい。
小寄道 · 2021-12-10 01:41:12 UTC+9 · 投稿 #1193
アメリカにおける麻薬問題のことを遅くまで書いて、煮詰まってきてふとメールボックスを見たら、Sekkoさんのリコメのお知らせ。 さっそく拝読。実際の子供たちのやりとりが手に取るように分かり、しかも実存主義ならぬ哲学的な問答。子供もしっかり考えていますね。 とても心温まる言葉のかけあいでして、なんというか、竹下節子さんの教室なんだなと実感した次第。 関係ないですが、コロナ前に日本にいらした時、絵本と音楽の話をされていました。 それも思いだして、今宵はぐっすり眠れる気持ちです。 ありがとうございました。
Sekko · 2021-12-09 18:36:30 UTC+9 · 投稿 #1192
ありがとうございます。 「サンタクロースなんていない、分かっちゃったよ、ウフフ」と自慢げに私に言ってくる子供たちへの私の返事も、毎年進化しています。 子供たちが内緒話風、自慢話風に「サンタさんって実はいないんだもんね」と言った後すぐに「サンタさんはいるよ、私は信じているよ」とまず答えます。 子供たちは一瞬驚いて、私も彼らを「だまそう」としているのかという顔をします。それから私が説明するので真剣に聞きます。。 日本語だと「いる」は生き物、「ある」は無生物、になってしまいますが、フランス語ではこういう場合「存在するexister」を使うので割と楽です。 「『存在する』にはいろいろな形があるよね、例えば、愛(アムール)って存在するよね。でも、見えないしさわれない。サンタクロースの存在の仕方も、ひげのおじいさんだけでない、その存在を信じる、大人全部が、子供たちに分けようとする愛と言う形で存在するんだよ。親がサンタクロースに代わってプレゼントをくれるのもその一つ。それをもらえない子供たちにはサンタクロースが来る。 考えてみて、もし今、クリスマスにも何ももらえなくて苦しいことばかりという子供が遠くにいるとして、君は、その子のサンタクロースになってプレゼントをあげたくない? その子は喜ぶよね。その時<君は、その子にありがとうって言ってほしい? その子が喜ぶと思っただけでうれしいよね。それがサンタクロースなんだよ。」 「サンタクロースのプレゼントを楽しみにしている子供を見るのがうれしいパパやママに、サンタクロースの話は嘘だ、なんて言ったらパパやママはきっと悲しいよね。でも、そんな『嘘』を共有することでサンタクロースのあり方を続けようと思ったからパパやママはプレゼントを一生懸命に用意するんだよ」 といった具合です。 これで子供たちは100%納得します。 まず、私のところにピアノやギターの個人レッスンに通ってくるような子供は、親が経済的に困っていず、子供の教育にとって音楽が重要だと考えている家庭の子供という前提があるからです。 そして私は、彼らにとっては「音楽」の面では、親よりも権威があるわけで、絶大の信頼を寄せてくれているわけです。その私が、「サンタクロースはいる」と真剣に言うわけですから、「理解しよう」という意欲満々になるわけです。 「男の一生には三段階ある、サンタクロースを信じる時、サンタクロースを信じなくなった時、サンタクロースになる時」などという言葉があるのですが、「愛」や「神仏」に置き換えてもそうだなあ、とも思います。子供や孫がいなくても、ある年代になったら「利他」を素直に実践できれば人生の完成かもしれません。 私のサンタクロース論だって、自分の子供や孫にならなかなか耳を傾けてもらえないでしょう。子供や孫ならこっちもいろいろ煩悩が混ざるでしょうが、生徒たちには「無償の愛」(つまり、レッスンの間はその子の喜びと上達のことだけで頭がいっぱいという状態)を実践させてもらえているので彼らもそれを感じているし、私も感謝しているということです。 もう何十年もレッスンを通じて子供たちとディスカッションをしてきました。そういう時、フランス語って便利だとつくづく思います。
小寄道 · 2021-12-09 13:29:24 UTC+9 · 投稿 #1191
ごぶさたしております。 今日の「クリスマスの曲」の最後のくだり、 「クリスマスはサンタクロースに託してプレゼントをもらえる、プレゼントする側が無名性に隠れて、子供が喜ぶ姿をただ見たいだけ、というのがクリスマスの奇跡だ」に思わず膝を打ちました。 子や孫のいない寂しさに年甲斐もなく、小生、胸が熱くなりました。 また、理知的に、合理的にものごとを語ることで、年端のいかない子供でも得心するのだと思い至りました。 もちろん、そうして子供たちに音楽やバレエの神髄を教えていらっしゃるSekkoさまに敬意を表したいです。 ありがとうございました。
Sekko · 2021-11-04 19:24:56 UTC+9 · 投稿 #1190
わざわざ観なおされたのですね。 RとL、BとVの 聴き取りは、少なくとも3歳未満に聞き分けないと、日本人には難しいですね。 私も45年フランスにいますが、文脈でしか聞き取れません。だから固有名詞などは フランスのよくある名の Roland と Laurent なんていつもあせります。カタカナだとどちらもローランです。o と au の「オ」も厳密には違います。anとen はつづりは違っても同じですが。 スペイン人もBもVもほぼ同じ発音なので聞き分けないようです。 アメリカ英語は特に子音をのみこんじゃうので私は聞き取りが苦手です。 でも外国人同士の英語での会話は分かりやすくて便利ですが。 また、読み書きに不便がなくても映画のセリフを聞き取るには数年かかりました。 今でも、俗語系は、聞き取れないというより、どんどん変わるし、俗語語彙が貧困なので、そういうのが多い映画には聞き取れないものがたくさんあります。若い子のSMSなんて書かれていても謎だったり。今の日本語も、もう私の分からないものはたくさんありそうです。 若生さまの件のレポート、講師の方はどういう評価なされたのかしら、とちょっと気になります。 私は最初からトムが主役で、タイトルの意味だと思って観ていました。だって、ジョン・ウェインだから。 でも、アメリカって、アングロサクソンの判例主義で、フランスの法治主義とは違う伝統です。だから差別を含めた過去を引きずりやすいのかと思います。 聞き取りバイリンガルは無理ですが、そこいらのバイリンガルの人よりずっとバイカルチャーだと自認している私は、年とるにつれてどんな映画を観ても、複眼視できて楽しいです。
若生敏由 · 2021-11-04 13:41:55 UTC+9 · 投稿 #1189
ご指摘を読み、なんとも恥じ入るしかありません。Liberty ValanceをLiberty Balanceと思い込み、RanseをLanceと勘違いしていたわけですから。あの映画を見たとき、字幕付きということで、リスニングに自信のない私は、ほとんど字幕を追いながら展開を理解しようとしていました。そのため、作品の狙いについても、自分の関心の都合に引き寄せながら、分かったつもりになっていたようです。あのレポートは、結局は私の非力さをとどめたものにすぎません。 そこで、消せない恥を噛みしめながら、せめて思い込みを解消しようという気持ちになり、アマゾンであらためて『リバティ・バランスを射った男』を鑑賞し直してみました。 今度は食い入るように映像を見つめ、台詞に聞き耳を立て、作品の狙いをありのままに捉えようとしました。そうして気づいたことを、いくらか述べることにします。 初めてあの映画を見たときは、主人公がランスだとおもっていた。けれども、今回は、実はトム・ドニフォンの方が主人公らしくおもえた。ランスの告白が終わって、地元紙の編集長が取材メモを破って語った言葉が、おそらく作品の狙いを反映しているのだろう。 "This is the West. When the legend becomes fact, press the legend." 「ここは西部だ。伝説が事実になったら、伝説を報ずるのさ」 『リバティ・バランスを射った男』というタイトルは両義的なのではないか。その事実はトム・ドニフォンのことであり、伝説としてはランサム・ストッダード。そして作品の展開は、称賛される伝説を生きる男の背後には、実は無法時代の苦難を引き受けた強く優しい男の自己犠牲的な生き方があったことを伝えている。トム・ドニフォンは、欲望と力がせめぎあう時代が創意と智恵を工夫する時代へと転換する、過渡期の課題に誠実に答えようとする人物におもえた。 もうひとつ、印象深い台詞がある。西部に向かう幌馬車を待ち伏せていたリバティ・バランスが、乗客の金品を強奪し、女性を守ろうとしたストッダードを残虐に叩きのめしたときに発した言葉。 "Out here, a man solves his own business." 「ここではな、ひとは自分のことは自分で片付けるのだ」 確認違いでなければ、後にランス自身も、ドニフォンとのやりとりで同じ台詞を述べざるをえなくなったはず。個人の自立、社会の自治が定着する前段階では、「自分のことを自分で片付ける」いとなみのせめぎあいや葛藤が避けられなかった。そのせめぎあいや葛藤を適度に調停したり緩和する存在が、ドニフォンのような強くやさしい男だったのだろう。 トム・ドニフォンとリバティ・バランスは、無法地帯に必要最小限の秩序がととのう条件の両極にある存在だった。つまり、脅迫的な支配力と強固な防衛力。それらは、西部の開拓地に生きる男たちの野望と本能が奔放に露出されていた時代の秩序に見合う力だった。やがて開拓地にも町ができ、女性や子供たちがともに暮らす地域となった段階では、「自分のこと」だけではなく「共にいる自分たち」を守る秩序が要請される。その要請に応える力は、必ずしも武力ではなく、望ましい約束や契約を可能にする言葉の力になってくる。その言葉は、「共にいる自分たち」のおもいを集約する理念に裏づけられる必要がある。その必要を満たすのが、守りつづけるにあたいする言葉としての法というものだった。 法が定着するためには、「共にいる自分たち」で法に求められる精神を学び、規範とすべきことを合意し合うことが必要になる。そうしたいとなみが「共にいる自分たち」の生活習慣として揺るがないありかたになれば、リバティ・バランスのような脅威を抑制する可能性が高まるし、トム・ドニフォンのような強くやさしい男の防衛力に頼る必要も少なくなる。無法地帯の秩序を両極から測り合っていた男たちが、自己破壞や自己犠牲によって消えゆくのも、時の流れだったのだろう。 以上のような感想を抱いた後で、主要な登場人物の名前についても考え直してみました。往生際が悪いかもしれませんが、それについてのメモも記してみます。 Liberty Valance ・valance: 前飾り、掛け布 < descend, go down ⇒ 自由を衰弱させる存在 Tom Doniphon ・doni <do or don: 一定の状態におく,与える、 ・phon<phone: 音、声 ⇒ 折々に妥当な声を発する存在、不測の事態にも対応する力の担い手 欲望と力がせめぎあう時代から創意と智恵を工夫する時代への過渡的存在 Ransom Stoddard/ "Ranse" ransom: 身請け、解放、あがない dard <Dardan: Trojan <Dardanus: ZeusとElectoraの息子、トロイアTroy、人の祖先 ⇒ あえて苦境を引き受け平穏な秩序を求める 約束や契約にもとづき、お互いの自由を尊重し合える社会のいしずえとなる 無名な者の自己犠牲に支えられながら、称賛のまとになる伝説を担う 公衆が望む役割に徹する Hallie< hallelujha; holy 賛美、神聖さの響き かなりこじつけがましいかもしれませんが、作品を生かしている個性から類推してみた次第です。
Sekko · 2021-11-01 18:23:56 UTC+9 · 投稿 #1188
名前に注目されたレポートを興味深く読みました。 私が考えたのは、「リバティ・バランス」のリバティは「自称」か、人々がつけた通称だったのだと思います。自由の執行人(実は無法者ですが)という意味でリバティというだけの名前はむしろ女性名だと今は意識されていると思いますが。 バランスが Balance ならリバティと込みの通称の気もしますが、Valance は分かりません。 まあ、映画の設定の時期と制作時と今がばらばらなのでよく分かりませんが。 ピリグリムというあだ名も単に「よそ者」という感じだと思いました。 ランスという名は、ドイツ語にもフランス語にもありますが、「槍」という語源はゼロでした。 ランスはこの名で選挙に立候補し、知事や上院議員にまでなっているのですから本名でしょうが そもそもLanceでなくRansom(通称でRanse)ですからこの映画で暗示的な意味はないのでは? 自由や法治政治の意味は「識字」と「教育」によって養われるというテーマはその通りですね。
若生敏由 · 2021-11-01 15:06:27 UTC+9 · 投稿 #1187
『リバティ・バランスを射った男』の紹介を、興味深く読ませていただきました。 <<「サボテンの花」がアメリカの広大さと、東部と西部の異質さのシンボルのようになっているわけだ。>> このような理解、さすがだなとおもいます。 私がこの映画を見たのは、14年前のことでした。見たのは、映画館ではなく大学の講義室ででした。県立高校の教員として、退職まであと数年という時期だったのですが、学校図書館の運営責任者となり、司書教諭の免許を取得したほうがよかろうというおもいで、夏休みを利用して地元の大学で必要な講座を受けることにしました。そのときの担当教員が多趣味な方で、講座の最後にこの映画を見せて、単位取得の条件として、レポートの提出を要求したのです。 西部劇はそこそこには見ていたのですが、この作品の存在はそのときまで知りませんでした。鑑賞しながら、自由について柔軟に考え直す必要を感じたのを憶えています。 印象深い映画作品を思い出させていただけたこと、竹下さんなりの見方に触れることができたこと、嬉しくおもいます。 実は、かつて書いたレポートの原稿を読み直してみました。少々長めですが、一読していただければとおもい、おもいきって、ここに貼り付けさせていただきます。 『リバティ・バランス』という映画は、魅力的でありながら不思議さが残る作品だった。 なによりもまず、悪役の名がなぜリバティ・バランスとされたのか。リバティは自由あるいは解放という意味だし、バランスは均整あるいは安定という意味だ。どちらも、普通は肯定的な意味でしか用いられない。ところが、あの映画のリバティは、まだ州として自治が確立する以前の西部の地で、どこかの牧場主に雇われている用心棒という風体で登場する。雇主からの給金だけでは満たされない欲望を、旅の途上の幌馬車を襲撃して金品を強奪するという手口で充足させている。どう見ても、その挙動は無法者であり、ならず者というという枠組みにしか収まらない。作品の舞台であるシンボーンという町の住民は、その名を耳にしただけで恐れをなし、その姿を見れば震えあがって静まりかえってしまう。そういう役柄にリバティ・バランスという名が与えられている。 脚本家の狙いは何なのか。なにもかもは分からない。そこで精いっぱい推測をはたらかせることにした。確信は持てないが、リバティに対抗する主人公ランスの別称を手掛かりにしてみた。 映画のなかで、主人公を取り巻く人間のほとんどは、当人をそのままランスと呼んでいる。ただ、度胸のよさと銃さばきでリバティにも一目置かれているトム・ドニフォンだけは、ランスをなぜか「ピルグリム」と呼びかけていた。字幕では、それを「先生」と訳していた。おそらく、その役柄を意識して「弁護士先生」とでも捉え直したのだろう。捉え直しが悪いわけではないが、それでは原語のもつ含みが薄まってしまう。おそらく脚本家の念頭には、「ピルグリム・ファーザーズ」という言葉が去来していたはずだ。そうおもうのは考えすぎだろうか。しかし、西部の地にアメリカの良心を体現する人物を赴かせるとなれば、「新世界」の原点でもある言葉は、少々からかい気味の言い方がなされていても、やはりその属性をこめて用いられているだろう。 ピルグリム・ファーザーズを、まだカタカナ表記にためらいがあった時代の日本の教科書では「巡礼始祖」と訳していた。その訳語には、使命感を抱いていた移住者たちが清教徒であったということで、多分に宗教的な含みがとどまっていた。ピルグリムという語だけを取り上げるなら、「遍歴者」「放浪者」「旅人」としても用いられる。このようなことを背後に置くと、あの映画の主人公は、旅人は旅人でも「理念や信念を持った旅人」という存在として見えてくる。さらに、ランスが弁護士であるということを踏まえれば、西部の事情をよく知るトムからピルグリムと呼ばれるのにもそれなりの根拠があったのだともおもわれる。 ランスという名は、「槍」を意味する。またその名に近い「ランスロット」という言い方になると、アーサー王物語の円卓の騎士のなかでもっともすぐれた騎士の名になる。すると、ランスという名は、直接的には武具を意味して必ずしも肯定的ではないが、そこにピルグリムという属性が加わると、肯定的な含みが際立ってくる。ランスという主人公は理念の実現のため、あるいは未熟な理念を鍛えるために、ひたむきにたたかうという建設的な使命を担う存在だったのだろう。 そうすると、ランスとリバティ・バランスの対抗関係はどうなるか。リバティは、名前は肯定的であるとしても、そのなりふりは否定的で、恐怖そのものの役柄を与えられている。それは自由という理念が無法と変わらないありかたにとどまっていることの象徴ともとれる。無法者が求める秩序は、暴力による威圧的な均衡状態(バランス)以外にはない。そこに「理念と信念を持った旅人」(ピルグリム)が現れ、あえて武器に手を出す役柄(ランス)を引き受け、威圧による秩序ではなく法による秩序を形成するいとなみにいのちを賭ける。映画の展開は、ランスの働きかけによって、シンボーンの町が、おそるおそるの歩みながらも、どうにか自由の秩序を定着させていく流れになっている。それは、悪漢リバティの無法状態を克服し、理念にもとづく安定した(バランスのある)コミュニティを実現していく過程である。もっと言うなら、リバティとバランスという言葉が本来の肯定的な意味に生まれ変わっていく過程でもあるだろう。同時にそれは、自由であることが肯定的な理念であるためには、法による保証を不可欠とするのだということが了解される過程にもなっている。リバティ・バランスは、そのような過程が現実のものとなるために、意味ある障害を体現する悪役だったのだ。言い換えるなら、その役柄は、自由が恣意的なありかたにとどまっていて、正義を望む声が法を引き寄せる以前の段階の無法者であり、その威圧力に永続性があるわけではないという証しなのだろう。 言わずもがなだが、自由とは何でもありということではない。特定の生き方や一様の価値や権威にとらわれることなく、それぞれの人が個人的によき生き方を求める条件こそが、自由の出発点になる。つまり自由は求めるものではなく、むしろ守るべきものなのだ。したがって、守る手立てのないところには自由はありえず、よき生活も望めない。 では、自由を守るものは何なのか。それぞれの人が求めるよきあり方が対立したり矛盾したりしないような配慮の必要を保証する力が自由には欠かせない。そうした力といえば、やはり多くの人々が納得する妥当な理念にもとづく法になるだろう。 法を制定すれば、いつでも秩序が安定するわけではない。その次には、法を共同社会に定着させる工夫が問われる。『リバティ・バランスを射った男』という映画は、その工夫の必要な現実と、その現実を生きる人間の多様なありかたを、説得力のあるやりかたで描いてみせた。その際、一方的に理念を振りかざすのではなく、苦悩を強いられながらも、地道に学び合う人間関係を結ぼうとすることが理念をはぐくみ、さらには法を根付かせていくのだというような展開がとりわけ好ましかった。 だらだらとして、迷惑だったかもしれません。 失礼しました。
Sekko · 2021-10-17 19:03:52 UTC+9 · 投稿 #1186
ブログのご愛読ありがとうございます。 数学、物理系番組や一般書で数式が登場するたびに、単に「難しすぎる」というだけでなく、何とか基礎に立ち止まって理解しようという気もなくスルーする自分を見て、人文系のものの「難しさ」への想像力が発動した次第です。 『バロック音楽はなぜ癒すのか』は、私とアートの関係を根本的に変えてくれた「綱領」みたいなものでした。その後もサイトやブログのバロック音楽室や音楽、踊りのカテゴリーで各論も深めていっていますが、「分かりやすさ」の配慮はゼロです。 この本は、私のトリオが最初に日本公演をした2003年に同時に発売しました。 私の音楽体験のすばらしさを、一生一度でいいから何とか生で日本の友人たちに伝えたいと思っていた時に笹川日仏財団の助成金を得て、教会やお寺やらで11度のコンサートをやりました。 会場の提供や告知などをしてくださった人も来てくださった人の多くも、演奏者としての私ではなく少数の熱心な読者の方でした。 そのコンサートに当たって、この本を書くことで、私の他の本とフランス・バロックの世界観が連動していることを知っていただこうと思ったのです。 「文化人の音楽趣味」と受け取られないように「音楽之友社」から出していただいたことはラッキーでした。実際は、本の販売をコンサート会場で開始したわけで、「本を読んでから演奏を聴く」という方はゼロだったのですが、この本のおかげで、その後、日本のバロック奏者やバロックダンサーの方々から連絡を受け、さまざまなコラボも実現しました。自分たちが思っていたことを言語化してくれた、と喜んでいただき、私たちのトリオもたくさんのことを学びました。「音楽之友社」というレーベルに支えられました。 この本から20年近く、テレサさまのおっしゃるようなラモーのオペラについての番組が日本で観られるようになったなんて感激です。 私にはyoutubeを配信するような時間も技量もありませんが、確かに、バロックバレエも含めて、音と映像で解説できればすてきです。 でも今の世の中の空気を見ると、コメント不可能なブログやこのサイト以外にすべてのSNSを避ける方針は変えられないと思います。 そういう「分かりやすさへの努力のない」ものを読んでいただいてこうしてコメントいただけることを感謝しています。 そういえば確かに「階名」「音名」が違うとか、変ロ短調、とか、日本の音楽漢字用語って、なじみがなさすぎですね。日本でも音大に行ったら、「イロハ」など誰も使わずアルファベットです。 フランスはコンセルヴァトワールの中級クラスまで階名も音名も区別せず、四分音符は「黒」、二分音符は「白」とプロの音楽家も一生使っています。すごくハードルが低いのに、小学校で教えられていないのは残念です。
テレサ · 2021-10-17 16:21:21 UTC+9 · 投稿 #1185
久しぶりの投稿になります。 10月10日のブログに、「難しすぎると言って、読むのをやめてしまう人がいる」と書かれていたので、私も途中で読むのをやめてしまった著書に心当たりがあり、投稿させていただきました。 竹下先生の著書は、私は、たいていの場合「なるほど~」と思いながら、ザーッと最後まで読み、一度読んだ後、何度も読み返します。 読み返す理由は、2つあります。 一つは、書かれている言葉を何度も読むことで、励まされたり、支えられたり、自分を立ち返らせてくれるからです。 もう一つの理由は、1回読んだだけだと私も「難しくて」理解できないからです。 殆どの場合、その時、十分に理解できなくて、ページを戻ったりしながらも最後まで読むのですが、唯一、途中でやめてしまった著書が「バロック音楽はなぜ人を癒すのか」です。(先生の著書を全て読んだわけではありませんが…) 視聴する芸術を文章で説明するって難しい~と思いました。 特に、バレエやオペラについて、観客レベルの知識しかない私は、殆どわかりませんでした。 けれど、この内容を「音と動き」で説明してもらったら、わかりやすいかも~と思いました。 何故なら、ちょっと前ですが、「ラモーの音楽」がテレビで取り上げられていて、その番組を視聴した時、「イタリア・オペラ」と「フランス・オペラ」について動画を観ながら、その違いを解説していました。大変分かりやすく、この本の内容と私の中でリンクしました。 いつか、この著書の内容をYouTubeとかで観たいです(笑) もしかしたら、「難しい」というより、理解しながら想像することが、しんどくなったのかもしれません…(申し訳ございません。) でも、たとえ書かれている内容すべてを分からなくとも、この著書には、心に突き刺さる言葉が随所にありました。例えば「音楽もコンサートで名人芸を聴くという消費活動として定着した…」という文章には、ハッとする思いがありました。 また、音楽の歴史的変遷を知ることは、意味があるな~とか、音楽と人との普遍的な関係性にもっと思いを寄せるべきだな~ということも強く思いました。 余談ですが、私は、幼い時から個人レッスンでピアノを習ってきました。子どもの時、新しい曲を頂くと、その譜面を「かいめい(階名)で読みなさい」と必ず先生から言われてきました。「かいめい」という言葉は使てきたにもかかわらず、「階名」という「漢字熟語」を著著の中で見た時、最初、意味が分かりませんでした。さんざん耳にした言葉でも、漢字で書いたり、読んだりすることがなかったのかなあ~とこの本を読んで、半世紀以上生きてきて、初めて気がつきました。 もちろん新書の「疫病の精神史」も読ませていただきましたが、 ここに色々書きながら、もう一度、「バロック音楽~」を読み返そう!と今、思っています。
Sekko · 2021-08-14 03:06:51 UTC+9 · 投稿 #1184
ありがとうございます。 斑入りの二つの鉢のひとつ目は名札をなくしてしまいました。すぐ近くの花屋さんなので聞いてきます。 二つ目はカラテアです。名札がついています。Decorumというのはオランダの大手の園芸会社の名です。植物の名はその下に書いてあります。 黄色い花が咲いているのはカラテアです。下の写真にも葉が少し映っています。 上から見ると葉っぱが密集しているのですが、下の方の花を撮影すると、茎ばかりが映って、確かに別の植物みたいに見えますが。 こういう主張の強そうな葉が、葉陰にこっそりとこっそりと花を宿しているコントラストがおもしろいですね。 日本は五輪の後の脱力と、デルタ株や病床逼迫とか、お盆休みとか、なんだか、暮らしのリズムというか気持ちの切り替えがうまくいかない雰囲気が伝わってきます。 異常気象、気候変動のニュースも落ち着きませんね、 でも、私たちのように、恵まれた時代を生きてこれた世代で、パンデミーにも持ちこたえているのですから、この僥倖を何とか次世代に還元していきましょう。 ブログの更新も楽しみに待っていますね。 頼りになる奥様にもよろしく。
小寄道 · 2021-08-14 01:11:43 UTC+9 · 投稿 #1183
ご無沙汰しておりました。 Sekkoさまが花の写真を載せていたので、なんかワクワクしてコメントしてしまいます。。 まず、お友達の庭の花です。白い花に引きつけられました。 最初、ユーチャリスかなと思いましたが、白い桔梗ですね。中心に淡い紫がさしているんでしょうか。 上品であり凛々しくもある。小生の好みであります。 白い斑入りの葉の植物も珍しいベゴニアの仲間でしょうか、たぶん。 三つ目はカラテアの仲間だと思います。対称的な葉っぱの線の模様は独特で、ちょっと言葉にならない強さがありますね。 日本ではオルビフォリア種がけっこう人気らしく、メルカリでは人気の観葉植物とのこと(妻からの受けうり)。 最後のものは「Decorum」という名札がありました。石楠花(シャクナゲ)と読めますが、でもこれは低木種。 写真のものは葉から咲いた花で、明らかに名札は間違ってさしたような気がします。 妻のアドバイスで、グーグルの「レンズ」(google lenz)というアプリで検索したら、蘭科のクルクリゴみたいです。 この花も可憐に見えて、たくましい生命力を感じます。 最初、葉っぱを観て、菖蒲の類いかと思いましたが・・。オーキッドでも、この葉っぱの多さは面白い。お求めやすい? 最後に、ちかごろブログを書く原泉を失っています。オリンピックとコロナの熱狂に少々あたっています。 では、お身体にお気をつけて・・。
Sekko · 2021-07-31 18:13:59 UTC+9 · 投稿 #1182
hanakogainai さま、(ハンドルネームが気になります。「hanakoさん」がいなくなった哀しみの名前ならと、心配になりました。勘違いだったら余計なお世話ですみません。) 投稿ありがとうございます。 自著についてネットで検索を一切しないので、少しでもお役に立っていることをこうして知らせてくださること、すごく嬉しいです。書き続けていこうと力づけられます。 「希望」はまさに人生という旅の糧だと実感しました。 あらためて、ありがとうございました。
hanakogainai · 2021-07-31 11:51:59 UTC+9 · 投稿 #1181
久し振りに著者の本を手にしました。新型コロナ感染症という大災厄の続くなか、ポスト・コロナのことを予測した書物や、幾つかのコロナに纏わるものを手にしました。どれを読んでもなかなか心晴れず、鬱々とした日を送っていましたが、この本を読み始めて、気持ちが変わりました。未来が開けて、心爽やかになった気分になったのです。著者が、「おわりに」で「対神徳」の「信仰、希望、愛」に触れておられますが、希望という言葉は、「永遠に生きる」とともにこれから大事にしていこうと思いました。
大神和子 · 2021-07-07 19:26:17 UTC+9 · 投稿 #1180
竹下節子様 ご返事ありがとうございます。 ブログの紹介のご承諾、ありがとうございます。いつか、パリに行けたら、kanoさんに逢いに行くつもりでおります。笈田さんのことも、全然知らなくて、(お顔はテレビなどで見知っていましたが、)今回、ブログで分かりました。竹下様のブログ、Facebookを通じて、知り合いに紹介出来ますこと、嬉しいです。ではでは 大神和子(パリ近郊在住の、宇津宮功と、敏枝の妹です。)でも、ミサワさんとは、彼女が親しくしていた中国人(香港)を通じて知り合いました。
Sekko · 2021-07-04 16:58:45 UTC+9 · 投稿 #1179
ご無沙汰しています。
KANOさん宅のバーベキュー、もう5年くらい前になりますね。
https://spinou.exblog.jp/26149736/ で書いた笈田ヨシさんと出会った時だと思います。
KANOさんのお宅も売却され、時の流れを感じさせられますが、笈田さんは90歳近くでも舞台動画を配信してくださるなど、エネルギー発露のご様子に元気をいただいています。
「コロナ禍」で、さまざまな生き方を考えさせられました。
私のブログでお役に立てるものがあればどうぞ問題なくリンクなどしてください。
次のコンサートはパリのレピュブリックの書店でのコラボで10/9の午後です。
近くなればブログでご案内しますのでぜひどうぞ。
大神和子 · 2021-07-04 09:18:12 UTC+9 · 投稿 #1178
カノウミサワさんのお宅でのバーベキューで、初めてお目にかかった、大神和子と申します。以来、何冊かの御著書を読みました。又、こちらのブログとも出会って、読んでおります。おかげで、視野が広がる思いです。私のFacebook(対象は友達)のページに時々、l’art de croireの内容を紹介したいなと思うことが多いのですが、転載など、よろしいでしょうか?
Sekko · 2021-06-01 02:34:52 UTC+9 · 投稿 #1177
ジョセフィーヌについての日本語の本は読んだことがありません。 池田理代子さんの『エロイカ』によく出ていたのを見たことがありますが、単に、浮気女が貞淑な妻になったのに離縁されたというキャラだったような記憶があります。 (バラスの愛人だったという説を採用していたようですが、バラスは同性愛者だったことが分かっています。) ナポレオンにマルメゾンの城を建ててもらって、ナポレオン失脚の絶妙のタイミングで死んだのも運命的です。 ブログにも書きましたが、この辺のことをいろいろ書くと一冊の本になってしまいます。 でも、フランスではあまり言われていないのですが、「島」出身者への差別とかコンプレックスとかは終始ついて回ったような気がしてそこに焦点を当てました。島のエピソード、まだ少し続いています。またご感想をお聞かせください。
小寄道 · 2021-05-31 02:26:50 UTC+9 · 投稿 #1176
島から来たふたり(その2)を読みました。 ジョセフィーヌがマルチニーク島の出身とは知りませんでした。 フランス革命前後のコアな時代を生きた人々。彼らの一直線かつ豊かなバイタリティに興趣をそそられます。 とにかくナポレオンの同伴者ジョセフィーヌの生き様が、想像をこえるほど尋常じゃない。 なんかドラマの、(観たことないんですが)「おしん」の10倍ほどの質量を感じました。 話を盛るつもりはありませんが、いや、それほどにジョセフィーヌの生き様は凄い。度を越したバイタリティのある女性だ。と、そんな印象をもちました。 マルチニーク島に生まれたフランス人、クレオールに、なぜ自分は引きつけられるのか・・。 この島はいまも宗主国フランスとの相性がいい(?)。セゼールやファノンはじめ、マルチニークに生まれた人々のポテンシャルが半端ない、何なんでしょうか。 この島は、フランスと相性のいい、特別な磁場みたいなものがあるんでしょうか? あっ、まだ記事の続きがありますね、楽しみです。 今回のエピソード・史実などは、Sekkoさまの『フリーメイスン もう一つの近代史(講談社選書メチエ)』のほかに、読み物として面白く、参考になるような翻訳本はありますか。 いやあ、ジョセフィーヌが現代に現れたら、実質的な何かをご破算にする。そんな夢みたいな、男にはできない壮大なスクラップ&ビルドをやり遂げる感じがします。 ちょっとわくわく、ドキドキしながら拝読いたしました。
Sekko · 2021-04-20 06:44:12 UTC+9 · 投稿 #1175
小寄道さまや私の世代は、ちょうど、ガス室の話とかがセンセーショナルに出てきた時に歴史を習い始めたというタイミングでした。だから、実は東西ドイツやヨーロッパでホロコーストは、「解決済み」という意識が続いていたことを知りませんでした。 でも、思えば、新大陸での黒人差別だの、ホロコーストまでに増幅されたユダヤ人差別にしろ、ジェンダー差別に至るまで、ある国が別の主権国家を攻撃したり爆撃したり占領したりすることに比べると、本来、驚くほどスルーされてきたことなのだなあと思います。 イスラエルという新しい国が告発したことで「国家対国家」や「民族対民族」でなく「人類に対する罪」という概念ができたのは驚くべきことでした。 「全ての個人が持って生まれたそれぞれの寿命を安全に全うさせるのが善で、それを妨げるのが悪」という善悪の定義についての合意が20世紀末のシンクタンクの雑誌に報告されていました。 ユダヤ人のホロコーストがこのように取り上げられたことで、世界のモラルは進歩したなあと思いますが、実情は、まだまだ暴力が支配しているのは残念です。 デカルトについては、 1 根拠のないものは証明できない、よって、信じない。即断と偏見は避ける。(明証性) 2 問題を細分化する。(分析) 3 何事も順序立てて思考する。(総合) 4 すべての可能性を検討したか、見落としがないか、全体を見る。(枚挙) の4つが数学的方法論なわけですが、 「虚偽だと分かっていないものを虚偽であると見なさないこと。(認めていないものを排除しないこと)」を加えることで生き方の指針になると思うのです。 単純に言って、たとえば「神が存在するか」などというのは、明証性がないのですから、即断や偏見を避けて信じない、となりますが、虚偽だとも明証できないのですから、「排除」をしてはならない、となります。 「認めていないことを排除しない」というのは、かなり意識しないと困難なことなので、いっそう大切だなあと思う次第です。
小寄道 · 2021-04-19 19:11:30 UTC+9 · 投稿 #1174
直近の記事『ナチスの戦争犯罪とデカルト』のなかの「今思えば、西ドイツは、実は、戦後15年もの間、ナチスの犯罪をなかったことにしていたのだと分かる」に注目しました ドイツの戦後について、とりわけ西ドイツの来し方では、戦争責任が厳しく問われることがなかった。やはり占領統治を円滑にすすめたいアメリカGHQの思惑、統治戦略があったのでしょうね。 日本における天皇制の持続や戦前からの官僚やテクノクラーをそのまま採用、継続させたのもGHQの方針だった。 占領政策がある程度着地するまで、驚くことにドイツではナチズムは温存された。あたかもモラトリアム期のように地下に埋め込まれた。 ドイツが統合されて以降、移民などの国内問題が出はじめると、各所で新ナチズムの運動がでてきた時、当方は驚愕いたしました。 テレビがきっかけとはいえ、竹下さんがその内実を書いてくれたことで、それらの事情というか社会背景が明確に読みとれました。 戦争犯罪の禍々しい記憶と罪過はそう簡単には払しょくできないのは、ドイツも日本もおなじような経緯があったのか・・。 両国ともに冷戦体制化の、アメリカの強い影響力があったからでしょうね。 それが戦争責任を問わない温床となって、新ナチ党や日本会議のような悪疾が芽生えたのだ考えます。 ところで、最後にあるデカルトの方法論は、ある種の光明をみる思いがしました。 旧日本軍の愚かな作戦は、80年代、専門家に「失敗の本質」として鮮やかにえぐられましたが、その対処法としてデカルトのそれは「成功の本質」を示唆するかのようです。 これについて、別のところで論じたいとありました。楽しみにしています。 では・・、コロナ禍はいまだ止まずです。ご自愛ください。
Sekko · 2021-03-04 00:56:29 UTC+9 · 投稿 #1173
童謡というか、民謡に近いですね。子供用に作詞作曲されたものでなくてずっと歌われて来たもので、歌詞にヴァリエーションがあります。日本の子守歌とかも奉公に出された少女の悲しみや恨みが歌詞になったものがあるように、昔の歌は結構つらいですね。酒席での歌は別として。 私が一番初めにショックだったのは Ne pleure pas Janette です。ご検索ください。楽しいリズムの明るい曲なのに、泣くな、ジャネット、貴族と結婚させてやるから/ 嫌です、私は恋人のピエールとだけ。/ ピエールは牢獄にいる、しばり首だ/ では私も一緒に/ ピエールはしばり首にされた。ジャネットも一緒に、という歌詞です。 でも、今Youtubeで検索したら、その後二人が幸せに天国に、というヴァージョンになっているのもありました。 Une souris verte というのがあって(ご検索ください)、これは保育園児でも歌っていて、野原をかける緑のネズミがいて、その尻尾を捕まえて、油に浸け、水に浸けたら熱々のカタツムリになったというナンセンスな歌詞だと思っていたのですが、ここ数年、動物愛護の観点から問題視されて、これもいろいろ変えられつつあります。 他に、歌の全部を知らずにリフレインを歌っていた船の歌「 Il etait temps petit navire」が、youtubeで全曲見たら、漂流した船の船員たちが若い水兵を食べることに決めたというものでショックを受けたこともあります。(奇跡的に魚が大量に飛び込んで助かるのですが)。 昔はただ歌うだけで、フランス語の場合はひたすら脚韻を踏んで美しい響きで聴いていたものが、今はネットでアニメーションをつけると結構怖いのでますます歌詞の変更が進んでいるという感じですね。 個人的には、フランス語の歌は曲とリズムと音韻に「踊りと朗誦」という二つのアイデンティティがあるので、「歌詞の意味」は二の次だと思っています。だからこそ、オペラのアリアやバロックバレーの曲を、四旬節にはモテット、聖歌の歌詞をつけて使いまわしていたのですから。 国民性が自虐的なのは事実です。でもそういう素直じゃないところを逆に誇っているような...。 でも、全体として見たら、シャンソンも楽しく明るい歌詞も曲もあるのですが、暗い曲の方が日本人に受けているとか? 明るいのも暗いのもまとめて、演劇的な構築性があるのがフランスの歌の特徴だとは思っています。いわゆる「今どきの音楽」には疎いので分かりませんが。 フィリピンには行ったこともなく歌のことも知りませんが、他民族の国ですから色彩豊かなイメージがあります。 歌詞は社会や時代と共に変わりますが、踊りを内包する身体性やメロディの情動的な部分は普遍言語だと言えるので、広く共有できる時代に感謝します。
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