kei · 2014-12-31 13:47:37 UTC+9 · 投稿 #758
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね
ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。
「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。
sekko · 2014-12-30 08:03:07 UTC+9 · 投稿 #757
ありがとうございます。
クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。
これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。
生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。
藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。
カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。
よいお年をお迎えください。
愚者 · 2014-12-24 00:22:19 UTC+9 · 投稿 #756
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。
sekko · 2014-10-11 23:49:35 UTC+9 · 投稿 #755
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。
私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)
ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。
私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。
そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。
反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。
kei · 2014-10-10 14:45:14 UTC+9 · 投稿 #754
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。
ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。
どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。
ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。
今紫 · 2014-09-29 19:44:09 UTC+9 · 投稿 #753
竹下先生
先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。
陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。
本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。
sekko · 2014-09-29 06:26:51 UTC+9 · 投稿 #752
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。
http://spinou.exblog.jp/22257223/ このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。
新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。
愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。
10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。
11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。
http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html 今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。
愚者 · 2014-09-29 03:38:46 UTC+9 · 投稿 #751
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。
愚者 · 2014-09-29 02:41:46 UTC+9 · 投稿 #750
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。
sekko · 2014-09-28 23:53:44 UTC+9 · 投稿 #749
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。
山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・
>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<
ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。
「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」
この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は
「ゆるす、忘れる、継続する」
なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。
時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。
これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。
愚者 · 2014-09-28 21:17:48 UTC+9 · 投稿 #748
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。
sekko · 2014-09-27 18:04:19 UTC+9 · 投稿 #747
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。
BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。
1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。
あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。
前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。
でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。
あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。
フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。
この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。
今紫 · 2014-09-26 22:07:23 UTC+9 · 投稿 #746
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。
sekko · 2014-09-13 01:31:37 UTC+9 · 投稿 #745
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。
順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。
カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。
でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。
宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。
同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。
『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。
すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。
カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。
『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。
愚者 · 2014-09-13 00:36:18 UTC+9 · 投稿 #744
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。
http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html 教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。
sekko · 2014-09-11 02:09:15 UTC+9 · 投稿 #743
教皇と正当防衛については前に少し書きました。
http://spinou.exblog.jp/22507342/ ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。
でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。
「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。
原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。
出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。
多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。
ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。
kei · 2014-09-10 22:11:20 UTC+9 · 投稿 #742
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。
最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。
しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?
最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。
自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)
罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)
今ユダはどこに居るのでしょうか?
sekko · 2014-09-08 23:51:09 UTC+9 · 投稿 #741
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。
そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。
ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。
日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。
私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。
フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。
でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。
ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。
今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。
しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。
前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。
そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。
あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。
愚者 · 2014-09-08 19:46:02 UTC+9 · 投稿 #740
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。
愚者 · 2014-09-08 01:32:20 UTC+9 · 投稿 #739
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。
sekko · 2014-08-21 03:08:21 UTC+9 · 投稿 #738
keiさまが
「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」
とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。
「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。
私がユダのコメント
http://setukotakeshita.com/page1.html で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。
7/21の読売新聞のインタビューでも、
ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。
>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。
その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<
という感じです。
もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。
「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。
「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。
こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。
「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。
いずれにしても、人間の、
「目の前の不幸を何とかしてくれ」、
「目の前の脅威を取り払ってくれ」、
という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。
kei · 2014-08-20 15:18:18 UTC+9 · 投稿 #737
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。
さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。
いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。
http://fast-uploader.com/file/6964069546497/ http://fast-uploader.com/file/6964069605371/ http://fast-uploader.com/file/6964069660215/ふうこ · 2014-08-20 13:46:54 UTC+9 · 投稿 #736
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」
この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。
sekko · 2014-08-17 00:13:24 UTC+9 · 投稿 #735
Keiさま
ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。
すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。
筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。
だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。
勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。
娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。
その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。
同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。
最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。
ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。
キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。
悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。
人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。
完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。
つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。
日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。
それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。
うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)
「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・
sekko · 2014-08-16 23:34:16 UTC+9 · 投稿 #734
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。
森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。