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超異端のアンドロギュノス

戦う女性と異装の系譜

これは、講談社現代新書で出ている私の『ジャンヌ・ダルク』の元原稿からボツになったものです。一新書一テーマといわれ、ジャンヌ・ダルクから外れるも のは大幅に削られました。私としては、外れた部分にこそわくわくするものがいっぱいあって、それなしにはジャンヌ・ダルクを語れないと思ったのですが、こ のサイトを利用してその一部を紹介しましょう。これは元の第五章の全文です。このうち、何とか、ジャンヌ・ド・ベルヴィルまでは入れてもらったのですが、 ジャンヌ・アシェットはボツになり、女装の男性はすべて削られました。だから最初の方は新書に載せてもらったものと半分重なりますが、文脈上再録しまし た。後になるとおもしろくなるのでどうぞお読みください。『ジャンヌ・ダルク』をまだお読みでない方は、読んでご感想をお寄せ下されば嬉しいです。

男女逆装のファンタジー

ジャンヌ・ダルクは、実在した歴史上の人物のうちで、男装の女性としてはもっとも有名な存在だろう。戦うジャンヌ・ダルクの姿はロマン派作家のファンタ ズムをかきたてた。ラマルチーヌも、デュマも、シラーもジャンヌ・ダルクを素材にした。それはペギー、クローデルやアヌーイにまで続く(カトリック作家の ベルナノスはジャンヌ・ダルクの兄の子孫と結婚した)。プロテスタント国イギリスのバーナード・ショーはジャンヌ・ダルクのことを「最初のプロテスタン ト」だといったし、共産国ソ連ですら、ジャンヌ・ダルクは、王に売られ教会に焼かれた民衆のヒロインとして人気を博した。

男女逆装そのものは、洋の東西にかかわらず、文学のテーマになっている。日本でも平安時代の『とりかえばや物語』があるが、これは遊び心で兄妹の服と身 分をとりかえてしまう話だが、性的には結局「自然」が勝ってしまい、最後には元へ戻る。役割変更の生む複雑なシチュエーションを楽しむわけであり、シェイ クスピアの『一二夜』などもこの系統に入るだろう。

髭面の男が服装を変えただけでは女になれない。女性なら男装しただけで「若い男」に似てくる。男女逆装やアンドロギュノスが成り立つのは、ある程度の 「若さ」を前提とする。少なくとも、性差が意味を持つだけの若さがなくては意味がない。男女逆装には性情報を混乱させるという側面があるからだ。言い換え ると、男女逆装には「若さ」というコノテーションがあるからこそファンタジーを誘うのだ。

同時に、アンドロギュノスは男でもあり女でもあるが、男でも女でもないわけで、「性的不可侵」という神話とも通じる。それが、騎士物語の「憧れの貴婦 人」や、聖処女マリア、永遠 のマドンナへのファンタズムとも重なるのだ。

男装の女性の系譜

キリスト教文化において、女性の男装が、天地創造の秩序を乱すこととして、また性差別への抵抗として抑圧されてきたことはすでに述べた。

ところが、そのキリスト教文化の中心に、このタブーを侵し、ファンタズムを堂々と掲げている場所が、実は存在する。それは、キリスト教文学のベースにあ るともいえる『聖者伝』の世界だ。

プロテスタントのキリスト教が、一人一人が聖書(特に福音書)のみを基本にするというのに対して、カトリシズムでは、聖書に直接あたるのはもっぱら神学 者や聖職者の役目だとされていた。一般信者は長い間、祈祷書、解説書、説教、有名神学者(ほとんどは聖者でもある)の著作、聖者伝などを信仰の拠り所にし てきた。もちろん、この『聖者伝』が、民話や異教時代からの 口誦文学の伝統を内包しているであろうことは想像に難くない。

それにしても、教会権力のお墨付きのある『聖者伝』の中で、さまざまな倒錯や性的ファンタズムが野放しにされていることは、痛快だ。それがヨーロッパの 人々の集合無意識に深く浸透してきたであろうことを考えると、四角張った神学論議や異端審問とはいったい何だったのかと思えるほどだ。『聖者伝』はまさに 「超異端」が自由に羽ばたく舞台だった。キリスト教が「中世」を「暗黒」にしたなどという通説はもはや通用しない。

たとえば、ジャンヌ・ダルクの時代に、地方で人気のあった聖女にマリーヌというのがある。この聖女は、ある修道士が世を捨てる以前にもうけた娘だったと いわれる。修道士は修道院に入るときまだ幼い娘と離れ離れになるのにしのばず、男の子の服装をさせて修道院で暮らさせた。少女が一七歳になった時、父が死 んでしまったが、少女はそのまま若い修道士マランとして修道院にとどまった。ところが、ある時、マランが森から薪を集めてくる時に宿泊する家の娘が妊娠す るという事件が起こった。ある兵士が相手だったのだが、問い詰められた娘はマランの名を出す。マランは否定せず、無実の罪をかぶり、修道院長に修道院から 出て行くように命令された。しかし、門の前に留まったまま、人々や修道士たちに残飯を分けてもらいながら、そのまま三年も過ごした。やがてその謙譲を認め られて中に入れられ、贖罪のためにどんなつらい仕事も引き受けた。マランが死んだ後、修道士たちは彼女が実は女だったことを発見した。マランを糾弾した娘 も懴悔して墓へ参った。やがて墓の前で、数々の奇跡の治癒が起こるようになり、マランは聖女マリーヌとして聖者の列に加えられる。

聖女マリーヌの物語は歌になって、子供達が踊ったりしたらしく、ジャンヌ・ダルクもおそらく知っていたと思われる。しかし、物語の内容にも地方によって 異同があり、祝日もまちまちであった。現在の聖者目録の中では、6月18日と7月17日が挙げられていて、「処女殉教者」とだけある。中世から近代にいた るまでもっとも流布した聖者伝である『黄金伝説』の中では7月14日に死んだとあるが、時代考証もどこの地方の話なのかも不明だ。また聖女マリーヌを聖女 ペラジーと同一視する地方もある。この場合は祝日が10月8日となる。

聖女ユーフォロジーヌ、聖女マリー、聖女テオドラというヴァリエーションもあって、みな共通点は男装の処女殉教者という点だ。もとは、キリスト教迫害時 代のアレキサンドリアの殉教 者がいたところに、いろいろな伝説の聖女が加わってアマルガムをなしていたらしい。これらの聖女の祝日は、ローマ教会の近代化にともなった改革で、 1969年には聖者カレンダーか らはずされてしまった。

やはり『黄金伝説』に出てきて、聖女マリーヌと同一視されることもある聖女ペラジーの物語は次のようなものだ。

ペラジーはアンチオキアの富裕な貴婦人だった。着飾って若い男女を共に従えて虚栄に満ちた生活をしていたが、ある時教会で説教を聞いて感動し、改悛し た。洗礼を受け、富を貧しいものに施し、隠者の服をまとって山の隠遁独房に籠もって禁欲苦行(断食、鞭打ち、夜の祈祷、五体投地など)をする。彼女は「ブ ラザー・ペラジー」と呼ばれて聖者のように尊敬された。そのまま独房で死に、死後に女性だということがわかり、人々は驚き、感嘆して、神を讃えた。紀元 290年頃のことだ。

また聖女マリーヌは聖女マルグリットの東方教会のよび名だという説もある。このマルグリット(国によってマーガレット、マルガレータなどのヴァリエー ションがある)は、ジャンヌ・ダルクに「お告げ」を伝えたメイン聖女の一人だ。祝日は7月20日で、アンチオキアの貴族の娘だったが、ローマ総督の求婚を 拒否して殉教した。その後、ドラゴンに姿を変えたサタンに打ち勝ったという伝説も付加された。ドラゴンに飲み込まれたが、十字を切ったので、ドラゴンは破 裂してしまい、マルグリットは無事だったという。神への祈願の取り次ぎをよくしてくれる一四大聖者のうちの一人だった。しかし、この聖女も、神話や伝説が 混ざっている上に異同も多いので、今では聖者カレンダーからはずされている。男装がテーマにこそなっていないが、ドラゴン退治という部分で、「戦う聖女」 のイメージを与えていた。

『黄金伝説』の中には、もう一人別の聖女マルグリットの物語がある。この人は、婚礼の夜に髪を切って男装で逃げ出した。遠方の僧院をたずねて、「ブラ ザー・ペラージュ」と名乗り、修道士として修行する。評判が高まり、ある女子修道院の指導者に任命された。ペラージュは修道女たちに教えを説き、それに嫉 妬した悪魔が、ひとりの修道女をそそのかした。門番係の修道女が妊娠し、ペラージュが糾弾される。ペラージュは修道院から追放されて、岩山の独房に監禁さ れた。死ぬ前に手紙をしたためて、誘惑の海を渡るためにペラージュと名のったが実はマルグリットという処女であること、無実の罪によって、イエスのように 罪なくして贖罪をするという徳に恵まれたことなどを書き残した。

これは聖女マリーヌの場合と似ている。いずれも男装のせいで性的違反の罪をかぶせられるが、女性だとわかって無実が晴れる。言い換えると、男装は絶対の 無実の証明であり、「罪なき贖罪」という最高の試練で最大の徳を達成するための手段なのだ。

ジャンヌ・ダルクの生きた一五世紀は、『黄金伝説』が広く行き渡り始めた時代でもある。敬虔な少女だったジャンヌ・ダルクが、教会での説教や、各種の祝 日の折りに、聖女マリーヌや聖女マルグリットのいろいろな話を耳にしていなかったとは考えられない。現に一三歳で聖女や天使の「声」を聞いたと確信してい るのだ。

つまり、ジャンヌ・ダルクも知っていて、民衆にも広く敷延していた男装の聖女や勇ましい聖女が『聖者伝』の中には多く存在していて、その聖女たちはその 男装を決して非難されてはいなかったということである。男装はむしろ彼女らの謙譲の徴し、処女性の証しとして働いている。

それならば、「異端審問官」たちが「創造の秩序を乱す異端」だとしてどんなに男装を弾劾したところで、民衆の共同幻想の中では男装の聖女や戦う聖女がい つも生きていたわけである。

『聖者伝』はまるで「超異端」の温床のようなものだ。だとしたらジャンヌ・ダルクは、『聖者伝』から抜け出してきたような「超異端」の果実だったのかも しれない。そして、『聖者伝』の中では、何人もの聖女が重なりあい、融合して、ひとつのファンタズムを形成しているとしたら、ジャンヌ・ダルクも、決して 孤立して出てきた存在ではなかった。

たとえば、戦う女性としては、ジャンヌ・ダルクと同じ百年戦争の時代にもユニークな二人の女性が名を残している。二人ともジャンヌという名前であること も何か因縁を感じさせる。一人は百年戦争の初期に生きた貴族の女性で海賊となったジャンヌ・ド・ベルヴィル、もう一人は、百年戦争の末期に自分の町を救っ た民衆の代表ジャンヌ・アシェットだ。

海賊になったジャンヌ・ド・ベルヴィル

ジャンヌ・ド・ベルヴィルは若くて美貌の「復讐の女神」だ。

キリスト教は、異教の多神教世界を一掃するために、無数の聖者礼拝を許可して、人々のあらゆる活動に守護聖者を割り当てた。古代世界で守護神が分業して いたものに相当する。もっとも、キリスト教が善しとしない活動については守護聖者を割り当てるわけにはいかない。例えば教会が禁じていた賭け事や復讐など だ。といっても賭け事や復讐という行為がなくなったわけではもちろんないから、人々は昔ながらの守護神をそっと温存した。賭け事には「運命の女神」が、復 讐には「復讐の女神」が、こうして残った。

キリスト教の「聖者システム」が守護神のシステムよりもある意味では盛んになったわけは、「聖者」が、実際の歴史的存在であり、より身近であるととも に、墓や遺骨や遺品が残っていて、呪術的な想像力を刺激したからだろう。

すると、人間ではない運命の女神や復讐の女神はやや分が悪くなる。というわけで、逆に、運命の女神や復讐の女神を地でいくような実在の人物が登場する と、その人物を疑似聖者に祀り上げるかのようなプロセスが見られるようになった。また、そういうプロセスが可能であり、それを可能にする民衆の心性に支え られていたからこそ、中世は、意外な、桁外れの勇ましいヒロインを生んだわけである。

当時の年代記作者によるとジャンヌ・ド・ベルヴィルは国一番の美女だった。一三四三年の八月、ジャンヌは幼い二人の子の手を引いて、西フランスのナント のソヴトゥ門にやってきた。門の上の木籠の中には、ジャンヌの夫で子供達の父であるオリヴィエ・ド・クリソンの首が晒されていた。ジャンヌは夫の首を子供 達に指し示し、復讐を誓った。

ジャンヌ・ド・ベルヴィルはヴァンデ地方の裕福な領主の一人娘で、非常に若く結婚したがすぐに未亡人になってしまった。オリヴィエ・ド・クリソンは、 ジャンヌが一三三〇年に再婚した南ブルターニュの領主である。物心つかぬうちの最初の結婚とはちがって、ジャンヌは活動的で勇敢な騎士である二度目の夫に 最初から夢中になった。子供もできてアヌボンの城で幸せに暮らしていたところに、1339年、いわゆる百年戦争が始まった。イギリスのエドワード三世がフ ランスの王位を主張したのだ。11世紀にフランス王の封建臣下であるノルマンディ公ウィリアムが征服王としてイギリス王になった時から、両国の関係は危険 をはらんでいた。フランス内のイギリス所領やスコットランドが紛争の対象になっていたのだが、百年戦争の始めには、ジャンヌの住んでいたブルターニュ公国 に緊張が高まった。イギリス王の擁護するモンフォール公と、フランス王の甥シャルル・ド・ブロワとが公国の継承を争うことになったのだ。

イギリス軍が上陸した。海戦ではフランス軍が不利だった。1342年にブルターニュのヴァンヌがイギリス軍に占領された時、ジャンヌの夫オリヴィエ・ ド・クリソンは、シャルル・ド・ブロワ側で戦い、もう一人の騎士エルヴェ・ド・レオンと共に捕虜になる。この時シャルル・ド・ブロワ側にイギリスの騎士が 一人捕虜になっていたので、イギリス王は捕虜交換のためにオリヴィエ・ド・クリソンを解放し、もう一人のエルヴェ・ド・レオンの方はイギリスに連れて行っ た。

オリヴィエ・ド・クリソンはアヌボンの城に戻り、家族は再会して幸運を喜んだ。ところが、翌年の夏に、武術大会のためパリに赴いた時、彼はフランス王 フッリップ六世の命令で逮捕され投獄された。イギリス王のスパイ活動をしているという噂の犠牲になったのだ。オリヴィエ・ド・クリソンはどんな裁判も受け ることなく、問答無用で、パリのレ・アルで打ち首になった。彼の体は脇から吊られてさらしものとなり、首はナントに送られた。武術大会に出発した頼もしい 夫が、変わり果てた姿で戻ってきたのだ。ジャンヌの受けた衝撃は大きい。

フィリップ六世は、元来疑り深い性質の上に、戦いにおける諸公の裏切りという強迫観念のうちに生きていた。奸臣による密告などにも容易に影響された。ブ ルターニュの諸侯の動向は不安の種となり、オリヴィエ・ド・クリソンの後も、同年の11月に10人の領主を裏切りの罪で処刑している。しかし、まだまだ騎 士道の精神が生きていたこの時代、硬派の騎士であるオリヴィエ・ド・クリソンが「裏切り」などをするはずがないというのが当時でも一般の見解だった。騎士 の誇りを重んじたオリヴィエが裁判もなしに処刑された無念を思うとジャンヌの悲しみは怒りへと変わった。

アヌボンの近くには、イギリス派の諸侯が多い。ジャンヌは、事情を話して、軍を組織した。金を出せば簡単に傭兵を雇える時代だった。フランス王に対して 戦うよう手配しただけではない。自ら先頭に立って部隊を率いた。フランス王派の諸侯の勢力下にある、町や村や城塞を次々に攻めた。騎士同士には騎士道も あったし、捕虜になった貴族は身代金を目当てに丁重に保護されるとはいえ、傭兵軍にはモラルはなく、占領地は焼かれ、略奪され、人々は虐殺されるという残 酷な時代の戦争だ。ジャンヌの部隊も例外ではなく、いやいっそう徹底した容赦ない攻撃で名を馳 せた。

しかし、陰謀や裏切りで諸侯の派閥が目まぐるしく変わる上に、激戦の緊張が間歇的にしかやってこない百年戦争においては、ジャンヌの飽くことのない復讐 のエネルギーは完全燃焼できなかった。彼女は、陸戦を捨てて海賊になる道を選ぶ。海賊になれば宗教上の祝日や外交に基づいた休戦を無視することができるか らだ。英仏海峡には船の行き来が多く、海賊は猛威を奮っていた。冒険心から海賊になる者、一獲千金のため海賊になる者がほとんどで、愛する男について海賊 船に乗り込む女もまれにはいた。しかし、復讐のため、フランス王に打撃を与えるためにだけ海賊になったのはジャンヌぐらいのものだろう。

しかし船を調達せねばならない。ジャンヌはイギリス王に直接掛け合った。すでに戦績があるとはいえ、海戦の経験がなくまして女であるジャンヌに、イギリ ス王は船を三隻与えた。この事実だけでも、彼女が、すでに、「復讐の女神」としてのインパクトを与えていたことが分かるだろう。強い復讐心は強い信仰にも 似ている。保身を考えず、自己を放棄した者のもつ強さだ。

当時は商船にも軍船にも大した違いはなかった。ただ海賊船は身軽に動ける軽いものが選ばれたようだ。ジャンヌが夫から受け継いだ領地はもうかなり没収さ れていたが、その残りを売り払い、宝石類も売って資金を作り、船を武装した。乗組員候補はブルターニュの港にごろごろしていた。はるかイタリアのジェノワ から陸軍や海軍に志願して従事する者もたくさんいた。

ジャンヌの船団は英仏海峡でデビューした。先頭の船に乗り込み、真っ先に敵船に乗り込んで果敢に戦った。その勇気とパワーはすでに伝説的になった。海の 荒くれ男たちを一糸乱せず統制した威光も評判だった。

ジャンヌの海賊船団による被害があまりにも大きかったので、フランス王はローマ法王クレメンティウス六世を通して、イギリス王に苦情を申し入れた。イギ リス王はそれを無視し、ジャンヌは殺戮や略奪を続けた。船にはいつも二人の息子を同行させていた。

フランス王はフランスの船団を仕立てて、ジャンヌを捕らえる作戦に出た。船は囲まれてイギリス人船長は殺された。ジャンヌは夜闇に乗じて二人の息子を連 れてボートで船を離れる。しかし、何日も漂流した末、ブルターニュの海岸に着いたときには、息子の一人が疲労のあまり死んでしまった。

無数の敵を抹殺しても、心を動かされることのなかった復讐の女神ジャンヌは、愛する息子、夫の忘れ形見である息子を失ったことで、悪夢から醒めた。この 先何万の敵を殺すことよりも、残された息子の安全を確保することの方が重大事である。

ジャンヌは戦場から身を引いた。イギリス王のもとへ身を寄せ、イギリス王が息子オリヴィエの後見人となった。このオリヴィエは、後に、フランスのシャル ル六世時代になってフランス軍の元帥として勇名を馳せる。父がフランス王に殉したようにフランス側についたのである。

ジャンヌ・ド・ベルヴィルは、イギリスの領主ベントリー伯と三度目の結婚をした。夫の復讐が終わった以上、夫との愛の物語も終わったのである。彼女は 1369年、夫を殺したフィリップ六世よりも19年長生きしてから死んだ。

ジャンヌ・ド・ベルヴィルは、生きているうちから伝説的存在になっていた。しかし、その息子が、母の仇としたフィリップ六世の子孫のフランス王に仕える ようになったということは、フランス軍がジャンヌ・ド・ベルヴィルに被ったあれほどの被害は、マイナス要因となっていない。ジャンヌは現実の勢力関係を超 えて愛に殉じた復讐の女神として別格の存在、一種の「聖なる」存在であったのだろう。また、その認識が敵にも味方にもあったからこそ、部下は勢いづき、敵 は恐れおののいたのだ。  

ジャンヌ・ド・ベルヴィルは、公式の聖者カレンダーには絶対乗らない隠れ聖女であり、「復讐の女神」だった。古代の多神教の心性と、人間が聖者に昇格す るキリスト教の聖者システムが民衆の中で合体したのだ。

しかし、まさに、彼女のような存在の伝統があったからこそ、次の時代にジャンヌ・ダルクが登場してきた時に、その、聖女としては規格外の生涯にもかかわ らず、戦いの運命を分ける「運命の女神」「勝利の女神(戦いの女神)」としてジャンヌは受け入れられたのだ。異端審問に見られるような硬化した「正統と異 端」の理論だけしかない世界であれば、ジャンヌ・ダルクが颯爽と戦場に現れた時に、あれほど劇的に味方を鼓舞し敵を畏怖させるような状況は起こらなかっただろう。

ジャンヌ・ド・ベルヴィルは人に生まれ、人に帰った「復讐の女神」だったのであり、ジャンヌ・ダルクは人に生まれ、聖女になった「運命の女神」だったのだ。

町を救ったジャンヌ・アシェット

ジャンヌ・アシェットは1454年に生まれた。

百年戦争は一応の終結を見、カレーを除いてイギリス軍はフランスから姿を消した。ジャンヌ・ダルクのおかげで戴冠したシャルル七世は名実ともにフランス 王となっていた。ジャンヌ・ダルクの復権裁判が始まっていて、その名はすでに神話化していた。ジャンヌ・アシェットの名もジャンヌ・ダルクにちなんでつけ られたという。(洗礼名は聖者の名から選ばれる。ジャンヌ・ダルクはまだ聖女として認められていなかったが、ジャンヌという名はすでに聖女の名なので自由 につけることができた。)

1461年、シャルル七世の後にルイ十一世が王位についた。この人は、暗く陰惨でマキャベリックなイメージのある人だが、フランスの統一のために大きな 努力を払った。今までの封建諸公との関係から、直接市民や村民との関係を打ち立てた。自ら各地を巡行して、領主や司教に土地割りや収益を計上させた。

けれども、親戚筋にあたる大諸侯を完全に従えたわけではない。毛織物で豊かなフランドルにも覇権を持つブルゴーニュ公国は、イギリスとの同盟は捨てたと はいっても、権力への野心は捨てていなかった。大きく分けるとフランスは、東のブルゴーニュ公と、西のブルターニュ公との緊張関係の中にあった。

ジャンヌ・アシェットの生まれたのは、パリから七五キロほど北にあるボーヴェの町の近くだ。ボーヴェはこの頃の他の都市と同じく、城塞によって回りを囲 み、ブルジョワが中心となった自治体制を敷いていた。領主の政治地図の変化によって王党派になったりブルゴーニュ派になった りと翻弄されてきたが、ジャンヌ・アシェットの生まれた頃は、統一されつつあるフランスのナショナリズムを受けてまず王党派だった。しかし、町は一つの藩 のようなもので、市民たちは自分たちの繁栄を最大の重要事と考えていた。公式の領主はフランス王に任命されたボーヴェ司教ジャン・ド・バールだ(つまり町 の税金はこの人のところにいく)。ボーヴェ市民はこの人選に不満だった。それまでは、ボーヴェの司教座(カテドラル)参事会のメンバーによる選挙で司教を 選んでいたからだった。フランス王はこういう点でも、少しずつ王権を拡大していったわけだ。

しかもボーヴェに隣接するピカルディ地方はブルゴーニュ公の勢力範囲であり、戦略の要地でもある。王は、内乱に備えて、市民による射手部隊を常設するよ う要請した(射手は人頭税を免除される)。百年戦争でイギリス軍との勝敗を分けたのが、しばしば砲兵と弩(おおゆみ)隊の多寡であったことから得た教訓 だった。町は、絶えず不安と緊張にさらされていた。

ジャンヌ・アシェットは赤ん坊の頃に農民夫婦のところに里子として預けられた。やがて、親が姿を消し養育費も送られなくなったが、夫婦はジャンヌを手元 においた。養父とともに狩りに行ったりする活発な少女だった。生活が苦しくても、生きている最大の目的が死後に天国へ行くことであるという素朴で信仰心の 篤い環境だった。

10歳の時に養母が死に、養父はボーヴェの町のある士官の未亡人にジャンヌの身を託した。ジャンヌは行儀作法を習いながら紡績工場へ勤め、持参金を稼ぐ ことになる。

1470年、ジャンヌが16歳になった頃、好戦的なブルゴーニュの豪胆公(ル・テメレール)が不穏な動きを始めた。フランス王やブルターニュ公との折衝 もすべて暗礁に乗り上げた。ボーヴェの町は厳戒体制に入る。ミラノ公国から輸入した武器弾薬が市役所に集められ、住民は自警団をつくり、ジャンヌも兵が武 具をつけるのを助けるボランティア団に登録した。どの市民も自宅に王の兵士を二人泊めるように義務づけられた。未亡人とジャンヌの家にも、後にジャンヌの 夫となるコラン・ピロンという兵士がやってくる。

こういう状況で、1472年の夏が来る。豪胆公の率いるブルゴーニュ軍は、フランドル、アルトワ、ピカルディの歩兵や武器とともにボーヴェに向かった。

ナントにいるルイ十一世は援軍をよこさない。領主である司教も逃げ去っていた。ボーヴェの四万の市民は、ほとんど自力で手伝った。

町のぐるりを守る要塞では激しい攻防戦が繰り広げられた。女たちも、城壁の上から撒く生石灰や石つぶてを用意し、砲兵に火薬を手渡し、敵の上にそそぐ油 を煮る。硫黄と油の匂いに、血の匂いが混じる。

一人の市民が傷つくたびに、ジャンヌは、恐怖よりも怒りと無念で胸に鉛を注がれたような気分になった。世界が、少しずつ、崩れてゆく。「神」がジャンヌ の頭を横切った。幼いころに養母にいつも言って聞かせられたジャンヌ・ダルクの言葉、「聖なる王国フランスに戦いを仕掛ける者は、王なるイエスに戦いを仕 掛ける者だ」が口をついた。戦いに先立って、ルイ十一世と司教は、「この戦いで命を落とす者は天の歓びを知り、聖者と共に(天国で)過ごすであろう」と宣 言していた(敵のブルゴーニュ公の方では、ルイ十一世のことを「親殺しで異端で偶像崇拝者」と非難して戦いの大義名分にしていたのだがもちろんジャンヌた ちの知るところではない)。

ジャンヌは興奮していた。人の波にもまれていつのまにか要塞のそばに来ていた。城壁の上では、勤め先の工場長が指揮をとっていた。ジャンヌは敵を防ぐ火 の壁をつくるために、重い板や木のドアを運んでは火に投げ込んだ。服は煤で真っ黒になり、全身は汗で濡れた。五年間も繰り返した防戦演習でも、こんな情景 を思い描いたことはなかった。決められた持ち場を離れて、パニックに陥っている大の男も大勢いる。これで、この戦いに敗れたら、今までの訓練や、確信は何 だったのだろう。

気がついたとき、ジャンヌは城壁の上にあがる梯子に足をかけていた。下でだれかが降りて来るようにと叫んでいる。ジャンヌは自分の行為に驚いた。かまわ ずに上にあがったが、飛び交う矢と石つぶてと砲弾とで、背を真っすぐに伸ばすこともできない。右腕で顔をカバーして、ようやく外を見下ろすと、見えた。見 慣れた自然はなくて、すべてが、地獄の光景のようだった。城壁から落とされて死んだ兵士や市民がごろごろと重なっている。

その衝撃は、しかしジャンヌをひるませなかった。ジャンヌはすっくと立った。甲冑に身を固めた兵士たちの間に突如として現れた乙女の姿は、若さに輝き、 一瞬、あたりの空気の色を変えた。まるで、天からの使者のようだった。そこへ、一人のブルゴーニュ兵が軍旗を高々と掲げて壁を這いのぼってくるのが見え た。ジャンヌは身をかがめ、力づくで、その軍旗を奪い取った。時がとまった。城壁の頂で、敵の軍旗を握る乙女の姿を見て、ブルゴーニュ側もボーヴェ側も、 ショックですくんだという。一人ジャンヌが旗をもって、もときた梯子を悠々と降りていく。ジャンヌは旗を教会にもっていった。供物のようにおごそかに祭壇 に捧げる。人々は聖女を見るようにジャンヌをジャンヌが敵から軍旗を奪ったというニュースはあっという間に、町中に広まった。ジャンヌが両刃の斧を振りか ざして戦ったという噂がなぜか同時に伝播した。このことをもってジャンヌは後に「ジャンヌ・アシェット(小斧のジャンヌ)」と呼ばれるようになったのだ。 ヒロインに続かなくてはいけないという熱気、神が味方についているという確信が、すべてを変えた。

戦いは膠着して、犠牲者を増やしながらさらに十日以上続いた。その間、ジャンヌは町の守護聖女(695年に死んだ付近の女子修道院長である聖女アンガド レスム)の聖遺骨が納まる棺をチャペルから運び出させた。ジャンヌが先頭に立って行列する。聖女の名を連呼する声と、ジャンヌの名を連呼する声が熱狂のう ちに混ざる。民衆は城壁の上、正面に、ブルゴーニュ軍に向けて、棺を立てた。

ボーヴェは落ちない。ブルゴーニュ軍の食料は尽きた。7月10日の朝、ブルゴーニュ公はボーヴェ戦の敗北を認めて撤退を決意した。

ボーヴェの町は、ジャンヌが敵の旗を奪った6月27日を記念して、毎年聖者の行列をするようになった。城塞に持ち出された聖女アンガドレスムの棺ももち ろん麗々しくかつがれた。

1474年の冬にフランス王がボーヴェを訪れた。2月22日、カテドラルで王の公文書が読み上げられた。フランス王はジャンヌの英雄的行為に触れて、女 性の信仰の力を讃えた。ジャンヌと国王軍の士官コラン・ピロンの結婚が認められた。私生児で孤児であるジャンヌにとっては普通では考えられない玉の輿であ る。またこのカップルには生涯にわたっての免税が許された。ジャンヌはちょうど20歳だった。

この措置はボーヴェの市民を狂喜させる巧妙なものだった。ボーヴェは自力でブルゴーニュ軍をおしとどめたことについて、町全体の免税などの行賞を王に求 めていたが許可されずに不満をもっていた。戦いの時に逃げた司教の処分についても思うようにならなかった。そんな空気のところに王がジャンヌの英雄性を公 式に認めたのだ。いわば町が新しい聖女を生んだに等しい。

ちょうど、戦いの最中に、生死を賭けたリアリズムが、ジャンヌによって突然宗教的ヴィジョンへと転換したように、戦後の褒賞の算定が、再びジャンヌに よって聖なる価値へとはぐらかされたのである。ある意味では、ボーヴェ市民の「聖戦」の収支が合ったわけだ。現実の勝利も、実際の満足も、結局のところ 「聖」なるものを通してようやく得られたのだ。

1477年、ブルゴーニュ公は戦闘先のスイスで死んだ。ある朝、凍った湖で、槍を深々と刺され、体の半ばを狼に食われた姿で発見されたと言う。この年に フランス王はブルゴーニュとピカルディを統一し、1482年のブルゴーニュ公妃の死をもって長い戦いは終わった。ジャンヌ・ダルクが夢見たフランスの統一 が実現したのである。

フランス王に見捨てられ、フランスの統一を見ずして火刑台で死んだジャンヌ・ダルクに対して、ボーヴェのヒロインジャンヌ・アシェットは、コラン・ピロ ンとの間に五人の子をなし、42歳で死んだ。彼女の英雄的行為はすべての公式歴史の中で言及された。カトリックの認める聖女にこそはならなかったけれど、 ナショナリズムが信仰と重なる地平でジャンヌ・アシェットはジャンヌ・ダルクに追いついたのだ。ボーヴェの町の「ジャンヌ・アシェット広場」には、19世 紀半ばに建てられたジャンヌのブロンズ像があり、「歴史の中で玉座につき、死を越えて神の栄光に達した」との銘がある。

女装の男性の系譜

フランスでは、男女逆装が、一七、八世紀の文学(主として戯曲)の大きなテーマの一つになった。オノレ・デュルフェの大河小説『アストレ』は、六 世紀のドルイッド時代が舞台で、主人公セラドンが羊飼いの娘に変装する。こうして恋人である羊飼いの娘アストレに会いにいくのだが、アストレはセラドンが 死んだと思っているので気がつかず、二人は女友達の関係になってしまうのだ(ボワローはこの展開をショッキングだとして批判している)。その他ルーヴェ・ ド・クーヴレの『騎士フォーブラスの恋愛』でも若いヒーローが女装する。ボーマルシェの『フィガロの結婚』における小姓チェルビンのようなアンドロギュノス的存在もいる。

フランスが文化的に反映し、政治的にも安定していたその頃になってどうして男性の女装が脚光を浴びるようになったのだろうか。

女性の男装については、それを禁止することが抑圧の機構として働いてきたからこそ、男装が挑発であり、解放の記号として機能するという歴史がある。ま た、だからこそ、人権思想が定着した後で、女性の男装が既得権として社会的に認定されることにもなったのだ。現代の自由主義国家における女性の服装の選択 の幅は非常に広い。

これに対して男性の女装は、男装自体が社会的な差別や抑圧を意味していないのだから、女装による権利の解放という文脈には乗り得なかった。女装は、宗教 的禁忌とは別に性的倒錯として現れてきた。

一七、八世紀のヨーロッパの服飾文化では、服による男女の区別がだんだんと強調される傾向にあったことも考える必要がある。少女時代のマリー・アントワ ネットのエピソードとして、チャペルに入ってアダムとイヴの絵を見つけ、「まあ、服を着ていないと、男か女か区別がつかないじゃないの」と言ったというの がある。つまり生物学的な性差よりも、服や髪形や装飾品の記号による性差が優先していたというわけだ(上流階級では特にそうだった)。

もちろん「実用」のための女装というのもあった。たとえば、太陽王ルイ一四世が王位につく前の過渡期に起こったフロンドの乱という内乱があった頃、ブイ ヨン公の四人の息子がパリを脱出するために女装したという記録がある。身を隠した田舎では、女の子の格好をした四人が戦争ごっこをしているのが目撃された という。ちなみにこの時、公妃は男に化けてパリを出ようと試みている。こういうケースでは、物理的に「身を守る」というよりも、服装というジェンダー記号 を変えることでアイデンティティを変えるというところに主眼があったのだろう。

その頃に出てきたもう一つの「実用」の女装は、ルイ一四世の弟の教育において実践された。フランスの王権がようやく固まってきたというのに、それまでの 王は、しばしば兄弟間の勢力争いの犠牲となって暗殺されている。ルイ一三世の弟ガストンがスペイン王の保護のもとに兄王に公然と宣戦布告したことも記憶に 新しかった。そこで、ルイ一四世の宰相マザランは、王の弟を女性的に育てることにした。ルイ一四世は五歳で即位しているから、その先に何が起こるかという 不安定さを一掃するために、弟が将来王座に野心を抱かぬようにしておく必要があったのだ。

もともとその頃の宮廷では、幼児服というのは大人の服のひな型ではなく、ユニセックス的な、どちらかというと女の子の服に近いものだった。七歳頃に一種 の元服があって、初めて男の子は男の服を身につける。しかしルイ一四世の弟の場合ははっきりとした目的を持った女性化だった。宝石やリボンに対する嗜好を 育てられて侍女たちに人形のように育てられた。その甲斐があってこの人は、同性愛者となり、成長して美青年を追いかけ回すことになる。政略結婚も一応させ られているが、まもなく妻に興味をなくした。まともな家庭や子孫がなければ王位への野心も生まれないというわけだ。成年に達してからは日常的な女装こそし なかったが、カーニヴァルや仮面舞踏会などの折りには女装を楽しんだらしい。

この王の弟のお遊び相手として選ばれたのが、後に「女装の神父」として有名になるティモレオン・ド・ショワジーである。弟殿下よりも四つ年下で貴族の息 子だったが、八人兄弟の末っ子で溺愛されたらしい。母親は突飛な行動をするユニークな奇人として知られた人だった。平均年齢が45歳だった時代の40歳で 生んだ末っ子は、自分の若さの象徴のように思われ、他の子のように乳母にまかせず手元においた。この母の好みでティモレオンはずっと女装で育つ。あるいは そこに弟殿下の側近として育てる野心があったのかもしれない。弟殿下は王女たちや宰相の姪たちとティモレオンのところに週二、三回訪れては女装をして遊ん だという。ティモレオンはいつも一番の人気者だった。アンドロギュノスの魅力が少女たちの心をとらえたのだろうと自分で回顧している。

彼の女装は半端ではなくて、小さいころから母親が雄黄(硫化砒素)水で手脚をこすってむだ毛を絶った。耳にはピアスの穴をあけ、コルセットで体をしめつ けて、胸の膨らみが出るようにもされた。この人は、長じてもその趣味が忘れられず、化粧もし、首と肩を白く柔らかくするための手入れを続けた。

ティモレオン・ド・ショワジーは型破りの人物で、その後ソルボンヌで神学を学び、僧形になってからも、化粧して美しいドレスを着て、ダイヤモンドを輝か せながら宮廷に出入りしていたが、一度も公の非難を受けていない。二世紀前にジャンヌ・ダルクが異装を理由に焼かれたことから思うとまさに隔世の感があ る。  ティモレオンは40歳の時大病し、それがきっかけで宣教の使命に目覚めて、ルイ一四世紀の外交官といっしょにシャム(タイ)王国へ旅立つ。シャムで正式 に司祭叙任を受け活躍するが、女装癖は変わっていない。帰国してから旅行記を発表し、作家のキャリアを歩み始めた。日常的に女装して執筆したという。歴史 書も良くし、膨大な『教会史』を世に残す。80歳で最年長のアカデミー会員として死んだ。『女装の神父ショワジーの冒険』という自伝を残した。

ティモレオン・ド・ショワジーの次の世代には、これまた有名な女装の騎士が歴史の表舞台に登場した。「エオンの騎士」とよばれたシャルル・ド・ボーモン だ。この人は、ルイ一五世の士官でもあり、諜報員でもあった。この人も長生きしたが、通算すると生涯の34年間を女装し、49年間を男装したといわれる。 両性具有のヘルマフロディトでないかとも考えられていたが、洗礼の記録には男とあり、死後に男性だったという外科医の証明書が出た。遺体の型取りまでされ たがそれは失われたという。  エオンは27歳まで立派な騎士のキャリアを持ち、竜騎兵隊長で「聖ルイの騎士」のタイトルを持っていた。ところが、すべての縁談を拒否し、ルイ一五世の 諜報員としてロシアの宮廷に派遣され女装したところから話がややこしくなった。次にはイギリスの宮廷に移ったが、そこにロシア時代の旧友の姪がやってき て、エオンは女だったと言い出す。ロンドンの社交界はエオンの性別をめぐって賭けまで始める始末だった。1771年、エオンは43歳だ。

その後、ルイ一五世が崩御し、時代が変わった。諜報員として国家の陰謀や機密を知り過ぎているエオンには政敵が多すぎた。フランスからの年金や経費やが 送られてこなくなりエオンは窮地に立った。無事に帰国するための身の安全をはかるためか、彼は自ら実は女性だと告白するにいたる。フランスの新政府はそれ を認め、秘密文書をすべて渡すことを条件に帰国を許し、女としての洗礼証明書を新たに発行して、女子修道院へ入るように言い渡した。聖ルイの十字勲章はつ けてもいいが、以後男装すると不服従の罪に問うとされた。ここでは女装ははっきりと服従のシンボルとして機能している。『フィガロの結婚』の作者ボーマル シェはエオンに求婚さえした。

49歳のエオンは14年ぶりにロンドンからフランスに戻った。竜騎隊長の姿だ。女装を強要するために、女王マリー・アントワネットが自分の仕立て師をエ オンのもとに送った。まず宮廷で「お披露目」があったが、この時のエオンの様子は「尾を失った狐のようだ」といわれた。優雅なお辞儀をするかわりに、帽子 がわりに鬘を持ち上げそうになったり、イギリスのスパイは「エオンは女装してから前よりも男っぽく見える、声も態度も服を裏切っている」と報告した。グリ ムは「スカート姿のエオンほど下品なものを想像するのは難しい」とまで言った。

修道院にも入らなかったが、アメリカの独立戦争に参加したくてイギリスに戻ろうとして逮捕され、生家に軟禁された。結局57歳でふたたびイギリスに戻 り、二度とフランスの土は踏まなかった。相変わらず社交界の評判で、女剣士としてウェールズ太子の前でフェンシングのチャンピオンと御前試合をして互角に 戦ったり、チェスの試合でも活躍した。フランス革命後は年金も完全になくなり、女の姿のまま剣術師範として渡り歩いて糊口をしのいだ。しかし68歳で剣の 傷がもとで寝込むようになり、イギリス女王がわずかの年金を与えた。76歳で借金のため投獄されたこともある。享年は82歳だった。

エオンの女装は、スパイという仕事の手段、後には政敵から身を守る恭順のジェスチャーという側面ももちろんあったが、むしろ「倒錯した自己顕示」に近い だろう。彼は、「男装の女剣士」という神話を生きたのだ。ヴォルテールはエオンのことを、「火刑にされないオルレアンの処女だ」と評した。騎士ではあった が、もはや「聖戦」はなく、スパイの跳梁する時代に生きたエオンはジャンヌ・ダルクのパロディにしかなれなかったのだろうか。

ティモレオン・ド・ショワジーが、自分は人生を3度も4度も生きた、と称したように、エオンも一度の人生では収まりきれない波瀾万丈の生涯を過ごした。 過激な生命力のあるところには、性の交錯も生まれるのだろうか。しかし彼らの性の交錯から力が生まれたわけではない。

中世には、戦う女、男装の女、聖女たちの「超異端」が現実世界と交わって激しい火花を散らし、奇跡のパワーを巻き起こした。それに対して、平和と爛熟の 時代の女装の男たちの場合はちがう。異装はもはや異端にはならず、「超異端」がべっとりと滲みだしながらも、それ自体としてはどこまでも不毛で退廃的な道 化芝居に終わったのである。 (2005.6.28)


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