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私がサリーちゃんの子猫だった話

竹下節子の写真・3匹の猫 先日こんなことがあった。キッチンのレンジにまたスピヌーが上っていたので注意した。レンジには火をかけた鍋などがある可能性が高いし、下にいる猫の目線からは見えないので当然禁止区域である。でも猫は叱ってもしつけられない、というのは周知の事実である。テーブルの上に乗ったら水をかけるなんて手もあるが、「誰が水をかけたか」がわかる状況では、その「誰か」がいる時には上らないということを学習するだけで、目を離してるときは好き放題である。「しつけ」が効を奏するには、水が「天罰」のように降りかからなくてはならない。これはそれなりにテクニックやタイミングを要するので、面倒なことである。

それでも、スピヌーは「一応禁止」って分かってるから、上ってても、「こら」って怒鳴られたら「あわてたふり」をして、そさくさと飛び降りる。しかし、「コラ」だけでこっちが動かないと、この頃は、実害がないと見て、降りないで様子を見たりする。

彼がレンジに上がるのは、レンジの傍に猫餌の袋があることを知ってるからで、未開封真空パックだから匂いが全くしないのにかかわらず、視覚情報と記憶だけで、その袋をかじったりするのだ。だから、たまには、袋の大きさや、素材がそっくりな私の大事な(日本から持ってきた)サプリの「コエンザイムなんたら」みたいな袋も書斎でかじられてたりする。

まあ、「おなか減ってるんですけど」という意志表示でもあるので、スピヌーをレンジ上から追い払った後で、餌トレイを見て、「あら、何もなかったのね、よしよし、今あげるからね」って展開の時もある。だからといって、かじりかけてた猫餌をトレイに入れてもらって喜んで食べるかというとそうでもなく、その上にまた、今度は別の部屋にある「ふりかけ」(ドライフード)をまぶしてくれと言ってそちらに誘導するのである。

先日はそのパターンで、叱ってもすぐには降りなかったスピヌー。見ると、餌はまだ残ってる。これはただのわがまま。私は、教育のために高圧的態度をとることにした。 私はテーブルの前に座ったままだが、鋭い声で「お座り」を命じる。床から私を見上げるスピヌーは、「座っても餌はもらえない」と正しく予想して、不満そうな顔で、座らないで腰を上げている。私はなおも怖い顔で「お座り」を命じた。スピヌーはぐっと顔を上げて反抗的態度で四足の仁王立ち。

そこで、私は、こういう時のいつもの実験パターンに。やり方は二つある。北風と太陽作戦で、一転してすごーくやさしく「シュピちゃん、いい子でしゅねえ、ママにおしゅわりは?」というか、泣き落とし作戦で、突然顔を覆って泣きまねをして、「うっ、うっ・・な、なんで、おしゅわりしてくれないのー。」かのどちらかだ。全部試してついに嫌がられて去られたこともあるし、目をそむけて偶然を装って座られたこともある。

で、先日は「泣きまね」で。「えーん、えーん」とすすり上げて見せた。

すると、上の方でサリーが一声「ニャッ」と短くないた。サリーの存在をすっかり忘れてた。そういえば見かけなかった。部屋の反対がわの食器棚みたいな背の高い家具の上に丸まって寝てたらしい。そのサリーが、私の「泣き声」を聞きつけるや、「ニャッ」と声をかけ、すごい勢いで、テーブルの上に降りた。まだ泣き真似の余韻で顔を半分手でおおってあっけにとられてる私を一瞥し、テーブルからひらりと降りて、そこにたっているスピヌーに近づき、眼もとまらぬ早業で、スピヌーの顔面に猫パンチを繰り出したのである。

スピヌーは顔をそむけて、よろよろ・・・ その後よたよたと廊下の方に退散。

かわいそう・・・
しかし、あのサリーの一連の動きは、まさに、子猫の鳴き声を聞きつけてかけつけて何のためらいもなく敵に一撃を加える母猫の行動だった。ぐっすり寝てたはずなのに。あの、短く、しかし、決意に満ちた「ニャッ」という一声。すごくかっこよかった。

スピヌーには気の毒だったが、幼い時、3つ上の兄とけんかして泣けば母に「お兄ちゃんを叱ってもらえる」というシーンを思い出した。

スピヌーが退散すると、サリーは何事も起こらなかったように、昼寝の続きをするために今度は私のひざにのってきた。

今まで、サリーがひざにのってくるのは、子猫がママの所に来るみたいでかわいい、と思ってたのだが、その時はサリーの顔を見て、こっちが「ママ・・・」と思った。ひょっとして、サリーは私を子猫と思ってる?いや、今の一連の行動は明らかだ。避妊手術してないし、ホルモンも現役だしなあ。いつもひざに来るのも、ひょっとして、子猫の行動を管理して時々そばにおいとこうとしてるだけだとか・・・
もともと、サリーちゃん、すごーく可愛いと思ってたけど、それからは、顔を見るたびにあの「勇姿」がよみがえって、なんかすり寄りたくなるようになった。
(2008.4.2)

猫のかたち

猫が形状を自由に変えることは誰でも知っている。

うちのスピノザは、サラダボールに入る時はまあるく広がっている。たんすの下にもぐると平たくなっている。箱に入ると、直方体になっている。 猫にはいわゆる「箱すわり」という座り方がある。箱に入らなくても直方体っぽく固まるのだ。スピノザはよくこれをやっている。箱すわりをしながら、首をうんと伸ばしてあごを床につけていることもある。義弟のうちにはカナダで買った白熊の首付き毛皮のじゅうたんがある。そんな感じだ。うちではそれを「ギロチンすわり」と呼んでいる。首を差し出してる感じだからだ。その首がなくなったところを想像して、「ロースト・チキン」とも呼んでいる。スピヌーは薄茶色だからだ。

マヤのお得意は「かまととすわり」だ。手足を完全に隠して全体が丸くなっている。ツメなどありませんよというような、人畜無害スタイルである。で、撫ぜてやったり、いじったりすると、居合い抜きみたいに、腕も手も爪も電光石火のごとく現れて、引っ掻かれるのである。加減というものがない。そして、こちらが何が起こったかに気がつく頃には1メートルくらい向こうに飛び去っている。  そんなにすばやく逃げられるんなら、攻撃なしで、ただ向こうへ行けばいいのに。

サリーのお得意は、同じように丸くなるが、前足だけはちょんとそろえて見えている座り方だ。つま先だけというか、三つ指そろえてるような雰囲気だ。これは「ツチノコ座り」と呼ぶ。これをすると短毛の猫は肩のところの毛が広がってちょっと華やかになったりする。サリーは普通のいわゆる「お座り」スタイルをする時は、尻尾を必ずきれいに前に巻いて、前足をすっぽり隠している。

これは「いいとこの子」座りと呼んでいる。このごろ太ってきたので、足もとがきれいに隠れない。 私が長椅子に横になると、スピは目ざとくやってくる。胎児みたいな格好で丸くなって横をあけてやると、必ずそこに入ってくる。太極の陰陽マークみたいになって二人で寝る。私が仰向けになって寝ると、腹に乗ってきて進み、鼻面を口元につけに来るが、その後、決まって方向転換して、尻をこちらに向けて箱座りをする。これでは顔が見えないのでつまらない上に、尻尾をパタパタやるので、こちらの顔にバシバシあたったりして、よろしくない。

このスピに再び方向転換させてこちらを向かせる方法というのを娘が教えてくれた。尻をせっせと撫ぜるのである。すると尻が持ち上がる。スピはこちらが頭と尻を間違えて撫ぜているのだと誤解するのだそうだ。で、こっちを振り返る。そこを誘導してやればくるりと回る。 でも、頭と尻を間違えて撫ぜるなら、手前に撫ぜずに、背中の方に向かって撫ぜるはずだ。「スピくん、いい子ね」とかいって逆毛を立てるように尻を撫ぜるのか。それとも、気持ちいいように尻尾の方に手前に撫ぜるのか。

両方試してみた。逆毛は嫌みたいで、抗議のためにこっちを振り向く。毛の方向に撫ぜてやると、やっぱ、頭の方がいいかなあ、という感じでこっちを振り返る。で、誘導してこっちを向けて、しばらく頭を撫ぜてやり、また、いつの間にか向こうを向き、また今度は尻を撫ぜ・・・ こんな繰り返しをやっている。家猫飼いは、暇でないと、つとまらない。 (2007.11.30)



猫が教えてくれること、または猫のソシアル

このコーナーに描くのは久しぶりです。というのは、本来、うちの可愛い3匹の猫の自慢話だとか、また住み分けに終わった壮絶なサーガとかを書こうと思ってたんですが、ネットの世界には猫好きの宇宙が膨張し続けてるようで、私が付け加える意味はあまりないと思うようになったんです。私は猫マンガも面白いのが描けると思うんですが、それも専門誌が出てるくらい間口が広く、私が参入してもOne of them でしょう。それなら、そういうのを楽しむ側に徹して、ここでは、猫に学ぶいろんなことを考えていこうと思います。といっても、うちの猫ちゃん、可愛い。ヒュー・グラント似のスピノザ、だんだん凶暴になってきたサリー、11歳を超え、陰影に富むマヤ、癒されてます。スピは高いところにのるのが好きで、飛び降りる時にものを落とします。マヤは落ちたものの上に粗相をするのが好きで、待っています。その連係プレーには泣かされます。

さて、猫を見て考えることは、アシスタンスの問題です。生活保護とか、介護援助とか。自立支援ということで、日本ではどんどんカットされっていきつつある社会福祉ですね。フランスで、金持ちの味方のサルコジが大統領になったのは、これまで右翼のル・ペンに流れていた小市民の票を集めたからだと言われています。ル・ペンは外国人や移民をスケープ・ゴートに仕立てていたんですが、サルコジはそれに加えて、現在フランス人でも外国人でも平等に支給されている各種社会手当てをもらってる人を、小市民の敵に仕立てたのです。「朝早く起きて一日中働いている真面目なみなさん、失業手当や求職手当てや各種手当てを支給されてのうのうと暮らしているやつらは泥棒、たかりと同じです。こんな社会はおかしい、働いたものが働いた分だけ報われるようにしなければ」と言うのがサルコジの主張でした。

アリとキリギリスの話でいえば、夏中歌っているキリギリスが冬に死ぬのは当然で、キリギリスが生きる権利を主張して、夏中働いたアリの蓄えを取り上げるのはフランスの病、アリはどんどんフランスから逃げていき、フランスはどんどん貧しくなる、と言うのがサルコジの言い分でした。それが、働いても暮らしが楽にならない庶民や年金の支給に不安を覚える人たちの共感を呼んだんです。  もちろんこの話には嘘や隠蔽があります。働いても暮らしが楽にならないのは、別の種類のキリギリス、サルコジのお友達の大資本家たちに富が集中する仕組みになった高度資本主義のせいですし、権利にあぐらをかいてのうのうと税金泥棒をしている人は少数派であり、多くの人は働く意思があっても働けないさまざまな理由をかかえているのです。それには、非正規労働で少し収入を得たらすぐに公的援助が打ち切られるので、生活が成り立たないから働かない選択をせざるを得ないという構造的なものもありますし、生まれつきや事故による障害や病気や、一時的な多子の育児などで、普通の労働市場には参入できない人もいます。

「疑わしきは罰せず」というのは刑法の基本ですが、「働きたくないから福祉を利用して生きている」確信犯が多少いるからといって、それを一般化して福祉を打ち切ることは正しくありません。今のフランスや日本のような国なら、そういう人を抱えていくくらいの余力はあるはずで、ワーキングプアへの支援を打ち切らず、収入を補完し続ける形の改革をするほうが建設的です。また、社会には、歌ってばかりのキリギリスも必要なのです。ほっといても全員がキリギリスになって凍え死んで国家消滅とかいう事態にはなりません。アリにしかなれない人もいるし、キリギリスとして生きたり時々アリになったりという人もいますし、自分は働いて、キリギリスの歌を聴いていたいと言うアリもいるでしょう。それが健全な社会の多様性であり、そんな多様性を共存させながら尊厳ある生活を保障するため連帯するというのが、本来、政治の役割ではないでしょうか。

うちの3匹の猫は、生産性ゼロ、番犬にもならなければ、ご機嫌によっては抱っこさえさせてくれない、可愛い服など着せて見せびらかす喜びもない、育てても自立の可能性ゼロだし、リハビリの見込みもない、外国人どころか、異種です。効率だの「費用対効果」のものさしでみたら、存在価値ゼロの猫たち、彼らは、まさにキリギリスというあり方のシンボルです。確かにうちも、もし、アリ型労働者がいないで食べるにも事欠いていたら、3匹の家猫は抱えられなかったかもしれません。でも、アリの軍団が毎日高級レストランに通う必要もないので食糧は分け合えます。

「異種連帯」ということを考えたら、キリスト教のアガペという愛のこととかも連想するのですが、哲学者のリュック・フェリーが面白いことを言ってました。この人は、無神論者だけど、福音書のイエスに共感するというフランスの典型的な右派ゴーリスト共和国主義者なんですが、昔は、アガペーと言うものが分からなかった、自分の子供ができてはじめて分かるようになったというんです。子供は存在自体が可愛い、それで、子供が明らかに悪いことをした時や子供に攻撃された時、反抗された時なんかも、可愛さには変わらない、汝の敵を愛せよというのはこういうことかと思った、って書いてるのです(この際、自分の子供を虐待する人もいるという突っ込みはやめましょう)。

私は、なんかこの人は幸せな人だなあ、と思いましたが、すぐにうちの猫のことを考えました。粗相猫マヤが私の机の上の書類をずたずたにしたり大事な本に粗相したりした時、私は怒ります。マヤにざっくりひっかかれて血まみれになった時も、怒ります。反射的に叩いたことすらあります。でも、その分、マヤが可愛くなくなったかというと、もちろんそんなことはありません。罪を憎んで人を憎まず、なんていうけれど、実際に誰かから害を受けたら、そんなことはきれい事になって、怒り、恨み、憎むかもしれません。しかし、猫を見てたら、罪を憎んで猫を憎まずというのが可能だと、実感できます。猫好きな人は分かるでしょう。もちろんひっかかれるのもいやだし、物を落とされたり粗相をされたりすると怒鳴りたくもなります。でも、愛はまったく損なわれません。何をされても、すごく愛想がなくて悪い猫でも、変わりません(ここで、猫を虐待する人もいるという突っ込みもなしです。私はむしろ、自分の子供より猫の方に寛大になりやすいと思います。自分の子の悪いとこを発見すると自分に似てたり、自己嫌悪の近親憎悪というか、愛憎が一体になったり、結構複雑ですが、異種の猫なら、「製造責任」がない分、純粋に愛しやすいような気がします。第一、自分の子が自立しないでうちで食っちゃ寝でごろごろしてたら、穏やかに愛し続けるのはむつかしいでしょう)。猫も個性があって、被害の大きいのもおっとりと人懐こいのもいるんですが、すごく変なひどい猫にあたっても、やっぱり可愛いんですね。猫を通して、きれい事ではない愛の可能性、可能な愛というのを信じられます。

キリスト教でもう一つ言うと、福音書のたとえ話の中に、今の人がなぜか「不当感」を抱く三つの有名な話があります。詳しく書きませんが、一つはぶどう園の日雇い労働者の話です。簡単にいうと、収穫のために朝から雇われた人と、昼雇われた人と、閉園一時間前に雇われた人がいて、みな同じ給金を提示されてOKしたんですね。支払いの段になって、それが分かると、朝から働いた人はそれが不当だというんです。ところが雇い主は、私は最初からその額を提示しそれを払ったのだから文句を言われる筋合いはない、私の金をどう使おうと私の勝手だ、みたいなことを言うんですね。この話を大学生なんかにして感想を書かせるとみんな、それは不公平だ、一時間しか働かなかった人は得をしているという感想を持つそうです。サルコジと同じですね。朝から働いている人と、一時間しか働かなかった人が同じ金をもらうなら、朝から働いている人の労働意欲がなくなる、支払いは働く時間に応じてあるべきだって。

これについて田川健三さんは、その給金とは、日雇い労働者がその日、食事をしてちゃんと寝ることができる、人間として尊厳のある生活のできる金額なのだろうといったことを書いておられます。仕事が見つからなくて、今日は野宿かと思っていた人が、夕方の最後の一時間に仕事をもらえた。しかし、10時間働いた人の10分の一の給金では、食べられないし泊まれないわけです。どんな人も、尊厳ある最低生活を保証されなければならない、労働時間とそれとは別のことだという話です。

似たようなのに、やはり有名な放蕩息子の帰還というエピソードがありまして、それは、働き者の兄と怠け者の弟の話で、弟は金をもらって家を出て、蕩尽して、尾羽打ち枯らして父の元にこそこそ帰るんですね。すると父は歓迎して、宴席を設けようとする。ずっと父の元で畑仕事をしてた堅実な兄は、それを見て不公平だと言うんです。父は死んだと思った息子が帰ってきたんだから喜ぶのは当たり前だ、って言うんです。

これも、聞いた人は、たいてい、それは兄の方が不満に思うのも無理はない、がんばって努力したのが報われないのはおかしいと思うんですね。ちょっと似たのがマリアとマルタの姉妹の話です。イエスを家に迎えて、せわしく食事の支度をしているマルタが、全然手伝わないでイエスの話に聞き入ってるマリアに不満を持って、イエスに、ちょっと手伝うように言ってくれませんか、と頼むのに、いや、マリアはこれでいいんだよ、みたいに言われてしまう話です。これもマルタの不満の方に共感を持ってしまいがちです。

で、放蕩息子の話は、100匹の羊を飼ってる人が、その1匹がいなくなったら、99匹をほっておいても1匹を探しにいくって話しにも呼応していて、道を外れても、見捨てられないで気にかけてもらえるし、帰ってきたら歓迎してもらえる、という、神の寛大さみたいなのが多分テーマなんですね。マルタとマリアもそうですが、要するに、アリもキリギリスも同じように愛してもらえる、ということです。ぶどう園で、夕方雇われた人は、本当に仕事にあぶれてたのか、ひょっとして日中は昼寝してたか歌をうたってたかもしれないし、あるいは具合が悪くて休んでいたのかもしれない、でも、夕方、ぶどう園の主に見つけてもらったら声をかけてもらえて給金をもらえるわけです。

不思議なのは、読む人が、自分を、その最後の一時間働いた人とか、1匹の羊とか、放蕩しちゃった息子とか、食事の支度をしないマリアに自分を投影して、「わーいラッキー」とか、「ああ、よかった、ゆるしてもらえて」とか、「神さまは見捨てないんだなあ」とか思わないことです。みんな、「働き者なのに不当な扱いを受けた」側に自分を重ねるようです。フルタイムで働いて、自分の給料と同じくらいの生活保護を受けてる人を不愉快に思う側とか、いろいろ我慢して親と同居してるのにたまに里帰りしたきょうだいの方がちやほやされるのに不満な孝行息子とか、そっちの方に思い入れしてしまうんですね。なぜでしょう。元気で働いている人は、セーフティネットの必要性に思いがいかないんでしょうか。  サルコジ風のポピュリズムは、反抗的な1匹の羊は切り捨てますよ、トレランス・ゼロ、フランスに文句がある人には出て行ってもらいましょう、働かない人が働いている人と同じ金をもらってるのはおかしい、カットしましょうとか、マルタにならないと食いはぐれますよ、とかいって、小市民の抱く不当感に迎合するんですね。

そこで、猫です。昼間何の役に立ってなくても、夜に喉をごろごろ言わせて寝床にやってきたら、飼い主はどうぞどうぞと歓迎する。夏は一番涼しい場所を、冬は一番暖かい場所を当然のごとく占領し、遠慮しないどころか「尊厳」の塊。尊厳って、自尊心とは違うんです。他と比べて遜色ないとかいう、競合性はない。負け犬はいても負け猫はいません。他の猫に耳を食いちぎられてもそれなりに偉いまま暮らしてます。忙しい時は「猫の手も借りたい」なんていいますが、猫が役に立たないのは誰でも知っていて、何の期待もしていない。期待しないから、失望もしない。ふっと家を出て何日も帰ってこなかった放蕩猫がふらっと帰ってきて、前より痩せてでもしてたら、飼い主は自分も食べないような上等な刺身をあげたりします。

不当だなんて思わない。(鎖につながれてその様子を見てる犬がいたら、不当だと思ってるかもしれませんが)  猫を見てたら、社会における全員救済のセーフティネットの構築が、理念や理想だけでない当然のことのように思えてくるんです。働き者が報われるべきとか、自助努力とか、慈善事業とか、成果主義なんて、いったいどういうマインドコントロールの産物かと思えてきます。猫に餌やってる人とか「猫かわいがり」してる人って、施しとか慈善をしているという意識はありません。自分とは違う存在のしかたをしているものがいる、存在そのものがいとしい、その存在を快適にしてあげることが自分にできるものなら喜んで提供する、たとえそいつに害をもたらされても愛は変わらない・・・そんな気持ち、あり得ない、偽善だ、きれい事だ、とは、猫好きなら思わないでしょう。

猫にはできても人にはできない、のは、人は自分と比べちゃうからです。自己評価の鏡にしてしまうからです。みんな、存在の仕方が違ってもいい、それでも共存できるし、連帯できるし、愛し合うことさえできる、猫を見てたら、そして彼らとの生活に、何かほんもの、確かなもの、ハーモニーを感じるなら、そんな共存の仕方が「正しい」と心から納得がいくのです。猫型の社会政策、猫のソシアルを標榜しましょう。(2007.5.21)

犬と猫

うちの猫たちの攻防戦を書く前に、犬と猫の比較をちょっとしてみよう。

私の人生で最初の半分は「犬派」だった。そして犬派によくあることだが「猫は苦手」だった。反対に猫派の方は犬も好きという人が多いという統計があり、今「猫派」の私はもちろん犬もOKである。 犬と猫は共通の祖先から分かれたそうだが、集団で狩をするオオカミ型と、単独で狩をするライオン=トラ=猫型に分かれたようだ。集団で狩をするオオカミはヒエラルキーを教えたら、命令に絶対服従するということで、ヒトの助手として、ありとあらゆるイヌに改良、分化させられてきた。

思えば人間の「権力」の最大のものは同じ人間の生殺与奪の権だろうが、もっとすごいのは、他のAという人間をしてAと直接の利害関係のないBを殺させるということである。国家の長が、ただの国民を戦争にやって、敵国の「名も知らぬ兵士」を撃たせたり、町に爆弾を落としたりさせるのもそうだし、法務大臣がサインして、死刑執行吏に死刑囚を殺させるとか、ヒトラーや他の独裁者やカルトの教祖が自分の手を下さずに、手下たちにユダヤ人や少数民族やメトロの乗客を無差別に殺させるとかだ。そんな「絶対権力」の誘惑を犬はかなえてくれる。そのためにだけイヌは作られたといっても言い。アメリカで南部の白人が黒人を襲わせるホワイトドッグを育てたり、パリの街でも、気に入らぬものに遊び半分で大型犬をけしかけて瀕死の目にあわせるカップルの存在が報告されている。ベルリンの壁が崩壊した時は、パリの広告新聞に、壁のガードに配置されていた千匹のジャーマン・シェパードの里親を募集する広告が載った。いうまでもなく、東側から壁を越えようとする人間を襲うようにしつけられていたイヌたちである。仕事がなくなって無駄飯食いのお払い箱で哀れだが、里親になるのも勇気がいる。

イヌという形容が侮蔑の意味を持つことがよくあるのは、このように自分の意思や判断でなく、ただ盲目的に命令に従うからだ。これは結局、兵士にも、カルトの信者にも下級公務員にもテロリストの自爆要員にも求められている性質だ。しかしヒトはひょっとして疑問を抱く可能性もあるし、洗脳が解けることもある。イヌの忠実さにはかなわない。その代わり「飼い犬に手をかまれる」事態になると、イヌはその存在意義を失い即「処分」が普通である。(猫にひっかかれるやつはそいつが悪いと言われる)私は小さい頃自分のイヌを時々ハラスメントしていた。わざといつもと違う命令を出したり、手順を変えたり、シカトしたり、それでも必死に我慢するイヌの卑屈さがどこか不愉快で、イヌが本気になったら私よりも強いはずなのに「いじめられキャラ」である本質が嫌だったのだ。自分が行使する理由なき「権力」の不当さも嫌だったのだろう。子供がわざといたずらすることで親の怒りだす臨界を探るように、イヌに意地悪して、臨界がない恐怖に倒錯的な喜びを得ていたのかもしれない。(私は身近な相手にこういうゲームをついやってしまう悪い人間で、自分の子からは侮蔑され、猫からは引っかかれ、臨界のないのは夫だけなので、いつか夫を失ったら、絶対もう一度イヌを飼おうと思っている。)

もちろん、この犬の無条件の忠誠が介助犬や盲導犬や救助犬として威力を発する。飼い主に障害があっても、貧しくても、老いても、差別されていても、飢えていても、住みかがなくてさえ、犬派は裏表のない絶対の信頼と忠誠を捧げてくれて、隣の犬の飼い主の方がよさそうだとか絶対に思わないのだ。そのひたむきさは確実に癒しになるし、飼い主に自分の尊厳を持ち続けさせてくれたり、自信を与えてくれたりする。性格の悪い残酷な飼い主に対してもそうなので、虐待される犬はあわれだ。先日道で、リードをつけた白い美しい犬の頬を本気でつねりあげている黒人の男がいた。大きな犬なので、その気になって反抗すれば振り切って逃げることも反撃することもできそうなのに、頬肉を引っ張られて体が浮きそうになっていながら、唸りでなく、痛そうな悲しそうな哀願の小さな声を上げていた。何があったのかは分からないし、他人の犬の扱いをそこだけ見て介入することもできない。しかしすごく嫌な気がした。うちの猫なんて、向こうの気分がのらないとなでることすらきっぱり拒否される。チワワのようにお洋服を着せることなど論外だ。

別役実の『けものづくし』に、ベビーカーの幼児がイヌを見ると「ワンワン」と言って喜ぶのはどうやってイヌを他の動物と見分けるのだろうと書いてあった。像は鼻が長くてキリンは首が長くて、兎は耳が長くて、キツネはこうでタヌキはこうで、と絵本や動物園で教えても、イヌは、コリーとチワワとセントバーナードとブルドッグでは同じ種とは思えない。現に大きさがかけ離れると交配もできないのだから種が違うと言っていいほどだ。ではいかにして幼児はイヌを区別するのか? それは、ある動物がウサギでもネズミでも猫でもキツネでもタヌキでもなく、特定できない時にそれを幼児は「ワンワン」と呼ぶのだ、と別役はいう。否定神学みたいな話だ。イヌはそれ以外の何者でもないということでイヌと呼ばれる・・・  まあこれは一種のジョークで、実際、幼児は、ヒトにリードで繋がれて散歩させられている動物を「ワンワン」と呼ぶのだろう。つまり、個々の姿でなく、関係性を見ているのである。イヌは関係性の中で認められるのだ。

犬好きというのは、自分の犬が好きなのである。自分の犬との関係性が好きなのだ。名犬物語や忠犬物語を見たり聞いたりして感動するのは、その関係性に感情移入して感動しているのだ。それに対して、昔の私のように、猫を知らない人間は、他人のうちの猫を見ても、関係性がはっきりしないんで、あまり手を出せない。猫飼いの友人はいつも手を傷だらけにしてはうちの猫にやられた、と言って見せた。私はなんて恐ろしいのだろうと思って、そこの猫に触れられなかった。これに対して「友人ちの犬」というのは、友人の支配下にあるのが分かるので、自分が友人の「VIP」である以上は、権力の委譲や共有が実感できるので疑似飼い主としてふるまえる。

ところが、猫好きは関係性ではなく、あるがままの「猫一般」が好きなのだ。犬好きは自分の犬が好きだが、猫好きは、他の迷惑も考えず野良にも餌をやるし、病気の猫も障害猫も一見醜い猫も、みんなまとめて好きなのだ。犬とのような関係性がないから無責任だとも言えるが。これが、「猫好きのファシズム」とも繋がるのだろう。「猫ちゃんをいじめたり間引きする人は皆人でなしで、残酷で、敵よ、猫ちゃんって、無償で愛するものなんだから、きーっ!」と一般論に簡単に飛びつけるのだろう。犬を飼っている人は、知り合いの犬が子供に噛み付いて、安楽死させられたと聞くと、暗い気分になる。しかし、それぞれの文脈や関係性に思いを馳せて、自分の犬がそういうことになりませんようにと祈るばかりで、他人を単純に弾劾できない。「人の行使する権力と犬の有用性」という業(ごう)を認識しているからだろう。

私は先に出した新書で犬猫の比喩を用いて、どう見ても猫モデルを称揚したので、犬のファンに嫌われるのではと心配したが、犬のファンは自分のイヌのファンなので、「イヌ一般」の名誉のために眉をひそめることは少ないみたいでほっとした。もし猫をもっと揶揄してたら、「猫ちゃん命」の人々から非難されていた可能性はある。

しかし、猫は野生、猫は自然、猫は孤高、というのもまた誤解であるようだ。最近読んだブルーバックスの『猫のなるほど不思議学』によると、猫は本来インドア派だというのだ。日本で猫が放し飼いにされたのは徳川信綱の『生類憐れみの令』(1685)以後で、それまでは室内外が普通、宇多天皇の日記『寛平御記』(889年2月6日)に、人間と暮らす漆黒の猫が詳しく描写されていてこれが最初の愛玩猫の記録。猫飼育は贅沢の極みで、上流貴族にだけ許された趣味、犬はほとんど放し飼いで往来をうろうろ、猫は美しい紐でつながれ室内で飼育されていた。一条天皇は猫に『命婦のおとど』という位を与え、乳母までつけて溺愛していたとか、源氏物語の猫も宮中でつながれ過保護、古代エジプトでも室内飼育、つまり室内飼育は猫本来のライフスタイルと考えるべきで、野良でも充分室内飼いに馴らせるとか。3匹の猫を完全室内飼いしている私にとっては、後ろめたさを取り払ってくれる朗報だ。この本によると、家畜化は有用性と切り離せなく、猫の有用性とは、姿やしぐさのかわいさ美しさが第一で、そのほうに進化したので、ネズミを捕るなんて役目は二の次みたいだ。

その他に、この本には、猫は猫同士では喧嘩や求愛以外にコミュニケーションとしての鳴き声を発しないそうで、飼い猫が人に鳴くのは、人を母猫だと思っているからだと言う。ほんとの母猫は、次の子を孕むと前の子を追い払ってしまい自立を余儀なくさせる。しかし養母であるヒトの飼い主はいつまでも餌をくれたり愛撫したり遊んでくれるので、仔猫はヒトにとって永遠のモラトリアム状態で、母猫に対するように甘えたり要求を突きつけるためになき続けるというのだ。たしかにうちのスピヌーなんて、語彙がはっきりしてる。「ほしーほしー」「もっともっと」「あそぼあそぼ」「やだやだ」「あけてあけて」、これだけ。

ところがフランス語の猫本には全く反対のことが書いてあった。夜、猫と寝室にいると階下で物音がした、猫が起きて飼い主に声を発した。それはその猫が仔猫たちに警戒を呼びかける時の声と同じだったと言うのだ。そしてネズミなどの獲物を取ってきては飼い主の前に置いて見せるのも、狩の仕方を教えるためらしい。つまり、猫はヒトをできの悪い仔猫で教育の対象だとみなしている、ということらしい。これはこれで、思い当たることがないでもない。猫同士で死闘を繰り広げて片方が追い詰められて、ようやく安全地帯に逃げた時に、ヒト(飼い主)が偶然間に入ってしまうことがある。追う猫の興奮のとばっちりを受けそうになってヒトが叫んだら、逃げていたはずの猫がわざわざきびすを返して、ヒトを守るように敢然と追っ手の前に割って入って助けてくれたことがある。その迫力はまさに仔を守るためなら怖いものはない母猫の強さだった。我々は猫にとって、仔猫なのか、母猫なのか・・雌猫は子供を産まなくても我々を仔猫とみなして接する、去勢オスは子供のまま、我々を母とみなす、とか言いたいところだが、うちの猫で言うと、若くして避妊済みのマヤは、他の猫たちが来て以来、自分は人間だと思い始めた。他の猫を何だあいつらは、と思ってて、他の猫と同じ扱いを受けると自尊心が傷ついてショックを受ける。

少年の頃去勢したスピヌーは、少年のままなのだが、僕はひとり息子、このうちの平和全てに責任がある、となぜか思い込んでいて、健気なまでにがんばっている。末っ子のサリーは、避妊してない。更年期以降に乳腺腫瘍になるリスクが大きいとはいえ、いろいろトラウマがあった子なので、この上、入院させて手術というととてもその試練に耐えられそうもないので、避妊させないことを選んだ。そいで、サカリの時は「ふんにゃー、うんにゃー」、ぐるんぐるん、ずりずりと大変で気の毒なのだが、一度もホルモンに従って行動したことのないまま去勢されたスピヌーが、それでも、サリーの執拗な誘いを哀れに思って、使命感にかられて、首を噛んだり、上にのしかかったりする。少しすると、サリーが振り落として、パチっと猫パンチをあびせるものだから、「この役立たず」と言われているのかと思って「スピヌー、かわいそう、努力したのに」と同情していた。ところが、『猫のなるほど不思議学』を読むと、雌ネコは交尾のあとしばしば愛する雄ネコに猫パンチを加えるのだそうだ。そしてどちらにしても一度ではすまず、何度も交尾をせがむのだそうだ。そうなると、サリーのスピへのネコパンチは、「この役立たず」の侮蔑ではなく、何となくからみがあったので、これで一ラウンド終わり、の意味なのかもしれない。とにかく、完全室内飼いしてたら、全員避妊させなくても、仔猫が増えるのは防げる。サカリの季節は、相手のいないネコを不憫に思い、去勢されてるネコに罪悪感を感じ、ごめんなさい、という謙虚な気持ちになれて、泣き声などの不都合も耐え忍び、まあ、家族というのは、いつもちょっと互いが互いを犠牲にするという罪の意識を抱いてやっていくんだという現実を毎回学ぶのだ。完全室内飼いだから首輪もせず、ワクチンもほとんどなし、10歳のマヤも5歳のサリーとスピノザも病気知らず。獣医代が高いのは分かってるので、日頃から、「病気になっても延命措置は一切しないから、重病はすぐ安楽死だから」と私は言い、他の家族から鬼畜のように非難されるのだが、猫たちは、私の言葉にジョークとはいえないものを聞きつけるらしく、神妙に聞いて、ちょっと具合が悪くなるとひたすら眠り続けることで、自力で治癒している。おかげで医者と無縁。一度、私の犬が死にそうになった時は、すごく弱っていたのだが、死なないでがんばってと力づける私に、はじめて、目を合わせるのも嫌がって、目をそらした。命令に従える自身がなくて、どうしたらいいかわからなかったらしい。死んでもいいよと許可したら安心して死ねたかもしれない。犬は、寿命が来ても、飼い主の意向を気にして哀れだ。その時、私の犬は危機を克服して持ち直した。でも、あの時、私から目をそらした瞬間のことは双方忘れられなかったと思う。あの子の唯一の裏切りだった。私は、次に具合が悪かったら早く楽になればいいからね、と思うことにした。その後、私はフランスに行ったので、私のいない間に死んでもいいからね、と言ったのだ。これで双方が楽になり、14歳の冬、老衰で死んだ。

ネコのガイアは、若い盛りの3歳半で獣医に殺された。私がネコたちを獣医に連れて行きたくないのはそれが原因だ。誤診による続けて2度の麻酔から立ち上がれなく、死の前の週末にうちに連れて帰った時は、腰が抜けているのにトイレに行こうとして苦しんだ。月曜日の朝、獣医の所に戻りたがらないならどうしようと思ったら、自分からキャリーに入ろうとした。自分の家でこんなにつらい状態でいるのが耐えられなかったらしい。頭がよくて強くて愛情深いネコだった。巷には不細工な馬鹿ネコが元気で闊歩しているのに、何で掌中の玉のうちの子が死ななくてはならないのかと不当感と劣等感と罪悪感に苦しんだ。リヴィングに祭壇を作ると、生活に困っているはずの家政婦が白い花束をかかえてやってきた。母に電話すると、「あんたんとこのネコはみんな早く死ぬねえ」と言われた。私の生涯最初のネコのタマゴは車に轢かれた。コメは姿を消した。テオは外で毒を盛られ、ヤマトはそれに責任を感じて家出して帰ってこなかった。それに懲りて、はじめて完全室内飼いに踏み切ったのがガイアだったのだ。ガイアが死んだのは『奇跡の泉ルルドへ』という本を書いていた時だった。愛するもの、身近なものに病や死が不当に不条理に襲いかかり、それをどうすることもできないという実感の中で、病の治癒や奇跡に期待する信仰のメカニズムについて書いた。この本には「ガイアの思い出に」という献辞(フランス語だが)がついている。もし誰かにガイアって誰ですかと聞かれたら、猫ってなんか答えにくいなあと思っていたが、誰からも何も聞かれなかった。

そんなこんなで、「猫派」になってから四半世紀近くになる。自分で猫派だなあと思うのはこんな時だ。少し離れているところにいる猫に「・・ちゃーん」と呼んで、鳴かないと、「どうしてお返事しないんでしゅか」と言う。夜中に不振な音がしても気にしない。(どうせ猫だろうと思う)寝ていて「金縛り」にあっても怖くない。(猫が上に乗ってると思う)引っかかれても自分が悪かったと思う。 顔を見てると突然「可愛い、可愛い、可愛いのん」と言う。「・・ちゃーん」と呼んだら、一泊おいて、トットットとかタッタッタとかいう足音が聞こえてくると嬉しい。座っていたら、猫がひざに乗ってきて勝手に喉を鳴らすと、「神様、今日もありがとう」と思う。首の後ろを掻いてやったら手のほうに体を傾けてきて、すごく幸福だと思う。

ちょっと鼻白むのはこういう時。撫でてやったら、すぐ後で、その場所を舐めて「きれいにしている」。言われてない芸を先にする。客にほら可愛いでしょと抱いて見せたら、いやいやをして飛んで逃げる。まっすぐ立ったまま小便する。汚れた尻を床にすりつけてきれいにする。ヒトを缶オープナーだと思って、明らかに食い気だけでそれとなく観察しつつ付きまとう。座ろうと思っている場所が全て占領されている。その他、家ぼろぼろ、ダイニングには常に毛が漂っているので、全てのコップにはラップをかけてストローで飲む、とか、「我が家の常識」である悲惨な話もたくさんあります。猫みたいにちっちゃくて可愛くて、しかも言うことを聞く小型愛玩犬ブームが時々理解できてうらやましくなったりもします。 長くなりましたが、犬猫について最近考えたことでした。ご意見があればどうぞ。(2006.9.4)

ネコの考え

丸くなっていた猫が突然顔を上げて一点をじっと見つめる時や、遊んだ後のおもちゃのそばで座り込んだりする時など、「この子はいったい何を考えているのか」と自問したことのない飼い主がいるだろうか。テンションの高い3匹の猫と暮らして、彼らと視線を交え、何度、「彼らの気持ち」を想像して、哀れに思ったりうらやましく思ったり感心したりしたことだろう。

ところが、ある日、あるTV番組を観ていて、啓示のように、猫が分かったと思った。少なくとも、それからは、猫を見る目が変わったのである。

それは、自閉症の子供や大人や、その家族や医者や心理学者などが、体験談を披露して、情報を与え合うという番組だった。私は、自閉症児を専門に世話する看護師の義姉を初めとして、周りに自閉症の関係者がいること、コミュニケーション障害の子供に音楽を教える工夫をしたこともあって、ここ10年間ほど、自閉症とコミュニケーションの問題や、家族の関係の変容について、ずっと調べてきた。だから、その番組を観るのも、別に知らない世界に対する好奇心といったものではなかった。

番組では、高機能自閉症といわれるアスペルガー症候群の女性が、30代で、診断されるまで、どんなに苦労してきたかということを証言していた。思春期以降に、男の子が近づいて来た時、いつもすぐに性関係を持ったというのが印象的だった。彼女には、若い男の子がロマンチックな手続きを踏んだり、相手の気持ちを探るはずだということが分からなかったのだ。

次に、10歳くらいの自閉症の男の子の生活のドキュメントがあった。その子は、動く機械が好きで、自動車のボンネットを開けてやるとじっと見ていたり、首ふり扇風機が動くのを何時間でも眺めて、その仕組みを知ろうとするのだ。最後は家族が海辺を散歩するシーンで、他の子供たちが、家族と楽しそうに過ごしている横で、その子だけが、何も言わず、岩の上に立って、寄せる波をじっとひたすら、見続けているのだ。それを後ろから見る母親が「あの子がああやって、いったい、何を考えているのかと思うと、不憫で・・・それを知ることができたら・・・ああ、あの子の心の中を、のぞきたい」とため息をつく。そこでドキュメント・フィルムは終わり、スタジオにいるその母親にカメラが向けられる。その時だ。 アスペルガー症候群の女性が、突然、口をはさんだ。

「今の質問にお答えします。彼は、何も、考えていません。観察しているのです」

それは、あまりにも自明で、自然で、説得力に富んでいた。第一、そのアスペルガー症候群の女性が自明で自然な本当のことしか語らないことは、すでにみんなが確信を持っていたのだ。それは、ひとつの啓示だった。

私たちは、何かを観察する時、色々なことを同時に考える。予測し、期待し、想像し、観察する自分の周りの状況もキャッチしている。「考えずに観察する」ということは視野の外だった。私は、もしも自分がこの母親だったら、これでかなり救われただろうと思った。子供の心の奥をわかってやれない無力感とか、罪悪感とか、苦しみは、自分の側にあって、子供の側にはないからだ。外界をキャッチするやり方が違うのだ。以前、認知障害になった老父としゃべっているうちに彼のコミュニケーションのロジックが分かってきたと言った友人の話を思い出した。父親は、その日の時間系列に沿ってや目の前の事象の因果関係に沿って話すのでなく、時空がホログラムの海になっているようなところから、連想ゲームのように記憶を取り出して話しているのだった。それが分かると、彼にも、父親の反応が予測でき、禅問答のような会話が成り立つのだ。

コミュニケーションのプロトコルはひとつではなく、外界認知の仕方もひとつではない、当たり前のようだが、ルーティーンの中で暮らしている「ノーマルな人」には盲点である。

それで、猫である。その番組を見て以来、たとえば、私の前に座ってじっともの欲しそうに何かを待っている猫を見ると、あっ、こいつは、別に「もの欲しそうに何かを待っている」のではなくて、ただ、私を観察しているのだと分かるようになってきた。ひょっとして私がおもちゃの入っている引き出しから2メートル以内に移動しないか、立って冷蔵庫を開けないか、などと、これまでの経験からあり得るパターンが、感情を伴わずに猫の脳に現れて、後は、こうすればいいなとか、こうしたらこうしようとか一切考えずに、「観察モード」に入っているだけなのだ。

ペットの心理を擬人化してあれこれ想像するのは楽しいし、普通はもう、自動的にそういう接し方になる。しかし、やつらは、ほとんどの場合「考えずに観察している」、こう気づけば、ものすごく分かりやすくなる。私は別に猫が自閉症的だとか、自閉症が猫的だとアマルガムをするわけではない。でも、猫が、擬人化されても、これほどに魅力的でこれほど幸せそうに見えるのに、自閉症児の周りにいる人は、その心を知ろうとして不憫がったり、自分も心を閉ざしてしまったりすることに愕然とする。

言うまでもないが、犬は、違う。飼い主の心を忖度し、機嫌を伺い、思いやりまで示してくれる。コミュニケーションの王様みたいなものだし、いろんなことをいっぱい考えている(多分)。犬といると孤独は癒される。猫といると、孤独は癒されない。ただ、孤独の受け入れ方を教えられるのだ。

もっとも、猫といても、かってに擬人化することで、孤独を癒す人もいるが、それって、ほんとは独り遊びなのだ。以前から、犬はDoで猫はBeだなあとは思っていた。いるだけで、観察するだけで、考えなくても、尊厳全開!

「心がわからない、何を考えているか分からない」という状態でも、愛したり愛されたり(多分)できることを猫は教えてくれる。四六時中考えることで賢くなったり豊かになったりすることもある(と思いたい)が、考えなくっても、考えるのが苦手でも、良好に生きることができるということも。

うちのサリーとマヤの悲惨な物語も、そういう目で見るとあまり悲惨ではなくなる。どう見ても、サリーはマヤに怯えていて、マヤはサリーを憎んでいるとしか私たちの目には映らなかったのだが、そうでもないのかもしれない。サリーはマヤに痛めつけられた記憶から、マヤを見ると叫び声をあげて牽制し、用心棒のスピヌー(スピノザ)を呼びつける行動パターンを見につけただけで、その声に毎回反応するマヤが、ハンターの本能で追っていくというだけで、それ以上でも以下でもないのかもしれない。まあ、擬人化して見ると、気の毒なのはスピヌーで、本当は争いが嫌いなので、サリーの防衛に駆けつけるものの、すでに尻尾ふわふわで、たまには、マヤとサリーの間に割って入ったあとで、やっぱり巻き込まれるのがいやで、マヤに背を向けて引き返し、サリーから「この役立たず」と猫パンチをくったりしている。一度などは、隣の部屋でのんびり寝ていたスピヌーが、TVドラマの中の悲鳴を聞きつけて、駆けつけてきたことがある。さあ、またマヤを牽制しなくてはいけないと思って勢い込んでやってきたのに、当のマヤは娘のひざで丸くなって一緒にTVを見ていたのだ。勢いをそがれたスピヌーは、狐につままれたような顔をして、それでもほっとして、また寝に戻った。

次回から、ほんとに、うちの3匹の争いの話に入ろう。とにかく、怖いマヤちゃん、正義の味方で性格のよいスピちゃん、マヤからは逃げるくせにスピには女王様をやってるサリーちゃん、と覚えといてほしい。

「考えながら観察する」のが大好きな私には、3匹の攻防は見ていて飽きないものだ。といっても、前に書いたように、感情移入していた頃は悲惨で、「3匹のかわいい猫と和気藹々と暮らす」という自己イメージが修復不能なまでに傷つき、まあ、それも、今は、修復しなくてもいいもんね、という境地に達している。(2005.11.24)

サリーについて

サリー サリーちゃんは、華奢な美しい三毛の雌ですが、背中の真ん中がたてがみのように盛り上がっています。静電気かなんかで左右から寄せ上げられているように、山の稜線のように首からしっぽの始まりまで一線でつながっています(図1と2)。しかも、後ろ足で立ったら、お腹の部分も、真ん中に毛がよって縦線が通っているのが分かります(図3)。ちょうど、卵形のお菓子で、真ん中の線からぱっくり二つに割れて中におまけが入っているチョコのようです。左右にぽこんとはずれるんじゃないかと想像してしまいます。興奮すると毛が立つネコはよくいますが、サリーちゃんは、ごく静かに休んでいるときもこうなっています。しっぽの部分は一見普通なのですが、背中とお腹の線の続きは目に見えないけれどしっぽを通っているらしくて、しっぽの先は、その稜線の端っこらしく、毛先が見事に合わさってとんがっています(図4)。その意味のない緊張ぶりを見てると、ご苦労さんと言いたくなります。

サリーのもう一つの特徴は、後ろ向きに歩けることです。迫害者マヤと遭遇して、背を見せたら襲われるので、目を合わせたまま後ずさりすることを続けているうちに、バック進行に慣れたようです。入ってはいけない部屋に入ろうとして、戸口で人間から足でストップかけられた時など、くるりと背中を見せて、向こうへ行ってしまうと見せかけて、そのままお尻からドアをすり抜けようとします。車でバックするドライバーのように、真剣な顔で首を後ろに向けて「とっとっと」という感じで後ろ向けで進むのです。はじめてこれを見たときは驚きました。別役実さんの「けものづくし」の中に、猫が化ける瞬間の感動的なシーンがありますが、それを思い出しました。

ちなみにうちの3匹の猫は全員、おすわりとお手をします。はじめにマヤに仕込み、サリーはそれを見てすぐに覚え、雄のスピノザはどうみてもバカだったのでこの子には教えても無駄だと思っていたのですが、おすわりとお手をするマヤ、サリーの後(うちではフランスでのマナーに従い、年上の雌から先に食事を与える)で待っているうちに真似て覚え、自分の番が来るときにはもう座って手を挙げて待っています。そのうちにこの子が一番筋がいいことが分かり、お手の「おかわり(もう一方の手を出す)」「おっきいお手(指をひろげて出す)」や「たっち」もまたたくまに覚えてしまいました。頭のいい雌たちは、そういう無駄なことはやりません。

すべての芸はフランス語と日本語でOKで、来客によって、使い分けて驚かせることにしています。昔は3匹並んで芸をして可愛かったのですが、ある時を境に、「積み木崩し」が起こり、3匹の猫と人間が和気あいあいと睦み合って暮らす生活から、血と憎しみに彩られた恐ろしい毎日に突入します。これまで、うちの状況よりすごいと思えたのは笙野頼子さんの『愛別外猫雑記』くらいのものです。それもよく読むと一匹の「うちの子」と三匹のもと野良の「食客」の話なので、うちは分け隔てなく愛され恵まれた環境にある「うちの子」同士が悪夢のような関係になってしまったのですから、疲れ果て、「いっそ死んでくれたら」と思ったことすらありました。どうして三匹の可愛い猫たちが反目しあい、人間たちが絶望と忍耐と適応の日々を経て、家庭内棲み分けの今に至ったかについてはそのうち少しずつ書いていくことになるでしょう。

深夜の猫なで声

ネコとバラ 深夜に書斎の隣にある図書室に資料をとりにいくことがある。天窓の下に仮寝ができるカウチがあって一時期はサリーがいつも丸まって寝ていた。そのサリーに目がとまると、朝の早い家族が寝静まっている夜中の2時や3時の家に、突然自分の発する猫なで声が響く。「あら、シャリーちゃん(猫なで声ではサリーちゃんがなまってこうなる)、おねんねでしゅか、しょうでしゅか、シャリーちゃんはいい子でしゅねー、かわいいでしゅねー」と声をかける。サリーはぴくとも動かない。よせばいいのにカウチのそばにいって頭などなでてやる。「シャリーちゃんは柔らかいでしゅねー」。サリーは頭をちょっとふってからさらに深く丸まる。私はつぎは背中をなで、「おりこうでしゅねー、美人でしゅねー」とか続ける。サリーはあからさまに嫌そうに背中をよじって寝返りをうとうとしている。

「これ以上しつこくつきまとったら腹をたてて場所を変えてしまうぞ」、と頭の中で理性の声がする。悪くいけばひっかかれるかもしれない。今仕上げなければならない仕事があるのに、夜中にたったひとりでトーンの高いバカ声を発している自分にあきれている気もどこかにある。にもかかわらず、「かわいいでしゅ」と言っておなかの柔らかそうなところに手を突っ込んでくちゃくちゃやってしまった。絶対に嫌われると頭では分かっているのに声と手が出てしまっている。サリーは頭をあげ、侮蔑と怒りのまざったような視線で私をちらと見ると触られた部分をぺろぺろなめ始めた。次に180度回転して私を視界から追いやってもう一度寝る態勢に入った。この上何かやるとニャンと叱責されて咬まれるかひっかかれるかするのは明らかだったので引っ込むことにした。
私はひとりで夜仕事しているのが孤独で仲間が欲しかったわけではない。「猫なで声」を出すのも、サリーに対してこれという要求があったわけでもないし、猫好きのパフォーマンスをしていたわけでもない。やわらかくてあたたかそうで気持ちよさそうなサリーがそこにいるから、何となくちょっかいを出してみたくなったのだ。サリーに嫌われることを承知で、自分の馬鹿さかげんも承知で。

赤ん坊に話かける時、人はたいていトーンが上がるものだ。テレビで実験をやっているのをみたが、実際赤ん坊は低い声よりも高い声に敏感に反応するのだそうだ。だから赤ん坊に話す時に声が上ずるのは自然の摂理にかなっているらしい。しかし、もともと高い声の人ならいざしらず、いきなり声のトーンを上げると、「気取っている」とか「媚びている」ととられることがある。高い声は男の声に対する女の特徴だから、女らしさを強調しているととられるのだろう。その女らしさには子に対する「母性」だとか男に対する「依存」だとかが含意されているのだろう。

子供が小さい時、ベビー・シッターに始めて紹介する時、子供の顔を見るやいなや声が裏返って、「あらー可愛いですねー、・・ちゃん、こんにちは、おばちゃんですよー」と手をさしのべた人がいた。その時、親の私はいやーな感じがした。こんな風に一瞬でべたべたやさしくなるのはどこか不自然で「信用がおけない」と感じたのだ。その時の印象が強かったので、自分が年とって孫に近いような赤ん坊に会うシーンで思わず「かわいいーねー」といって抱かせてもらう自分の反応に驚いたことがある。子供好きだというパフォーマンスをしているととられるのではないだろうか、よその子なのに怖じけずに平気で抱いてしまうのは節操がないか、いかにも子育ての経験のあるベテランを演じているように取られるのでは、などといろいろな考えがフラッシュのように頭をよぎるがもう遅く、トーンの高い舌足らずな声で赤ちゃんにおしゃべりしたり歌を歌ってやったりしている。たいていは親のいる前でやっているのだし、赤ちゃんはかまってくれる人がいてごきげんだし、親も他の人とゆっくりしゃべれるので便利だと思ってうっちゃっておいてくれるから別に気まずくはならないですむ。

赤ちゃんが一応よろこんでくれるのに対して猫はかまわれるのを嫌がる。寝ている猫はもちろんだ。その猫をあえてかまう時、それが自分の生理的な欲望とも関係がなく、他者の目も関係なく、猫の思惑も関係ないということに気づく。ふと、いわゆる「セクハラおじさん」というのも案外こういうものではないかと思ってしまった。若くかわいい女性が手の届くところにいるとつい声をかけてしまう。落ち着いた深みある声でなく、まとわりつくような声。いやがられるのが分かっていても手で触れてしまう。


しかし、いやがる猫をかまっている時に考えられる最高の結果は何だろうか。それは別に猫から好かれることではない。猫が黙って触らせてくれて、ついには喉を鳴らしてくれる、それが最高だ。猫を愛撫する人は、手触りが気持ちいいからだけでなく、ごろごろ喉の鳴る音を聞くために愛撫する。一生懸命に愛撫してついに喉が鳴らなかったらがっかりするのだ。

つまり、猫を前にすると、人は相手が満足することを自分の喜びとすることを体得する。これは犬を前にする時とは何という違いだろう。犬を愛する人は、自分がいつも愛犬の「特別な人」であることを知っている。何があっても絶対変わらぬ信頼やら忠誠、自分に愛されたがってかまってもらいたくて必死の様子に心を打たれるのだ。犬を前にするとどんな人でも特別な唯一の人になれる。「必要とされる」満足感を得られるのだ。ペットショップで犬を衝動買いする人が「犬と目があった」からというのはよくある話だ。目が合い、電流が流れ、運命的な関係ができる。犬を愛撫する人は幸せな関係性のハーモニーの中にいる。愛撫を求める愛の奴隷に施しを与えるような、又は、親に甘える子供を安心させてやるような、いずれにしても、犬は「愛撫してやる」ものである。

猫は、「愛撫させてもらう」、「愛撫を奪う」存在だ。ごきげんよくじっとしていてくれればもうけもので、喉など鳴らしてくれたら、「やった」と勝利の凱歌を上げたくなる。猫は目があわなくとも可愛い。顔やしぐさが可愛いだけで拾ってきたりもらってきたり買ってしまったりする。考えて見ると「目が合わない」ままに愛したり愛撫できたりする関係はなかなか味があるではないか。


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