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『楊貴妃になりたかった男たち』武田雅哉

男女異装のテーマで、この本は最近のヒット、とも言える最高に楽しいものだ。まあ、どんなテーマでも、「中国何千年」たらいう歴史を紐解けば、絶対おもしろい話がいくらでも出てきそうだが、西洋の男女異装とアジア人のそれでは、毛深さだとか、骨格だとか違うから、微妙に違って興味深い。もちろん、男女異装とはジェンダーの問題に他ならないので、歴史と文化の文脈や政治や性的幻想や、いろいろなものが逆光で浮かび上がる貴重なテーマである。

西洋的な男女異装との比較とか、演劇における比較とか、考えることはいろいろあるのだけれど、ここで、ただ一つ、あれ、そういえばそうだなあ、と今まで私が全く考えてなかったことを挙げておこう。

それは、著者が、日本は古来、中国文明や文化をいろいろ採用したりコピーしたりしたにかかわらず、宦官と纏足は取り入れなかったということである。これについての中国学者とかの分析はあるんだろうか。なんかすごく本質的なものが隠れてる感じがする。「取り入れたもの」より、「取り入れなったもの」のほうに民族性が際立つかもしれない。

で、中国における「男装の麗人」とか、「武装の美女」とか、あるいは身の安全のために男装したり、学問したり仕事に就くため男装したりする女性って、ただ、服装だけじゃなく、「纏足」をどうするかっていうハードルがあるわけだ。そんなこと考えても見なかった。でも、中国のこの種の話には、必ず、纏足の縛りを解いて、とか、薬をつけて纏足を広げて、とか、纏足に男物の大きい靴を履いてもちゃんと歩くとか、そういう描写がつき物なのだ。「胸にさらしを巻く」とかいうのは、どこでもありそうだし、白人の女性より東洋人の女性の方が「平らにしやすい」感じはするけれど、纏足とはね・・・

纏足のホルマリン漬けをパリの人類博物館でもう何十年も前に見たことがある。単に足が小さいというんではなく、足の親指が折りたたまれて完全に変形してるのだ。しかしシルエットとしては「普通の足のミニチュア」に見える。中国の男装の女武人、大変である。

大体、中国といえば、経絡とか足裏ツボのマッサージとか「足裏健康法」のイメージすら私にはあるんだけど、そういう社会で、纏足はどういうサニタリー根拠を持てたんだろうか。中国ウン千年の健康の知恵には深いジェンダー差別があっんだろうか。

と、今思いついたことを書きとめておきたくなった。情報やご意見があればおしゃべりルームによろしく。 (2008.4.2)

カタリナ・デ・エラウゾ

カトリックのヨーロッパで男として人生をまっとうできた最初の女性?

カタリナ・デ・エラウゾは、1592年にスペインで生まれた。スペインが海洋大帝国だった時代だ。

1607年、サン・セバスティアンから遠くない女子修道院で、15歳の少女は自由を夢見た。髪を切り、男装して修道院をとび出した彼女は、兵士として軍隊を渡り歩いた。

後に、ある方法で胸の膨らみをおさえて平らなままに保ったといっているから、男として扱われていたのだろう。ジャンヌ・ダルクもそうだったが、10代の男女はもともとアンドロギヌス的なものだ。剣にも秀でていて、優秀で勇敢な兵士として頭角を現したらしい。

15世紀のジャンヌ・ダルクは勇ましかったけれど、戦場で実際には敵を殺していない、精神的支柱だっただけだと言われている。だからこそ後にカトリック教会の聖女の列に加えられたんだけど、生前は、男装を異端だとされて、魔女として火刑に処せられて死んだ。

カタリナは男性名で活躍した。1615年の新大陸のペルーに渡り、10年間もインディオの抵抗勢力を蹴散らしたり、まあ、西洋帝国主義にのっとった野蛮な征服者だったのだ。

しかし、本当は女性だったことが知られていたらしく、「旗取り(敵の戦旗を奪う)の尼」などという異名もあったし、軍の先頭に立って馬に乗り、白い服を着て、端がイエスが磔になっている十字架になっている槍を掲げている絵も残っているから、ジャンヌ・ダルクのように巫女的な側面もあったのだろう。

しかしジャンヌ・ダルクにあった孤独のにおいがカタリナには不思議にない。男装して軍隊を渡り歩いていた時代も、スペインでは叔父のところや兄弟の家に滞在している。なんか、家族公認なのだ。ジャンヌ・ダルクも兄弟が軍に合流したが、彼女はシャーマンであり、家庭の匂いはない。

しかも、19歳で悲劇の死を遂げたジャンヌ・ダルクと違って、カタリナはさんざん戦功(?)を成した後で、1626年、34歳の時にローマに行って、時の法王に男として生きる許可を申請している。その時の審査資料として自叙伝が書かれた。性的アイデンティティの審査もこの時に産婆によって行われ、女性であり、処女であることが記録されている。在俗で処女奉献をするという生き方は認知されていた。男の家族や夫による親権行使や庇護なしに女性が独立して生きる一つの形だったのだ。魔女だとか悪魔と交接しているとかいう疑いがあれば、即、火刑にされる可能性もあったはずだ。

結局、ローマ法王は、カタリナに男として生きてもよい、とお墨付きを得た。17世紀において性同一性障害を認知されたようなものである。ある意味で、すごく新しい。

多分カタリナは実際に性同一性障害であり、しかし性的に男として生きられなかったので、男性ホルモンやリビドーはみんな戦闘や征服や冒険の中で消費し、昇華されたのだろう。彼女は有名で、人気もあり、神話的な存在だ。彼女の後にもヨーロッパは多くの女性冒険家を生んだ。女性解放=自由=道の国への旅立ち=冒険は、連動していたらしい。

カタリナは、一味違う。戦士ジャンヌ・ダルクと女性冒険家をつなぐ独特の何か、痛々しさのない幸せオーラをかもし出す貴重な男装の麗人だ。 (2007.10.3)

女性大統領は生まれるか?

Ségolène Royal この夏の歌舞伎座で観た泉鏡花ものと宝塚のことを書こうと思っていたのだが、少し話題を変えて、2007年にフランス初の女性大統領が生まれるかどうかについて書くことにしよう。実は、公営放送の2チャンネルが、最近6話連続ドラマの女性大統領ものを鳴り物入りで始めたのに、最初から見事に思惑が外れた。最悪の視聴率だったらしい。

アメリカでは女性大統領をヒロインにしたドラマが受けているそうで、それは2008年に民主党からヒラリー・クリントンを出馬させるための布告というか、「女性大統領」に違和感がないようにするための遠望、教育的配慮みたいなイメージだった。ちらりとみたことがあるが、ヒロインの女性大統領は背も高く堂々としていて、頭が良さそうで魅力的だった。もちろん次々と難題を解決していく。

それで、このフランスの女性大統領ものの予告を見た時、フランスも来年のセゴレーヌ・ロワイヤル大統領に向けて、心理的な下地を準備することにしたのかと思っていた。それがまったく違った。なかなか若く美しいドラマの女性大統領は、任期中に妊娠するのだ。産科医が魅力的で大統領の連れ合い(結婚はしていない)が嫉妬したり、閣議中に携帯メールで子供の名の候補を連れ合いに送ったりする。まあコメディ仕立てなのだが、誰の興味もひかない中途半端なしろものになったようだ。

ローマ・カトリックには、修道士の扮装で出世してローマ法王にまでなったという伝説の女性(実在はしなかったらしい)がいて、それも、女だと露呈するのは、典礼の最中に出産してしまうとかいう筋立てになっていたのを思い出す。男と女の最大の違いは女が「妊娠・出産・授乳」し得るというところで、女法王とか女大統領というと、そこにしか行き着かないのかというあまりにも安易な話だ。  セゴレーヌ・ロワイヤルは、今のところ世論調査では好感度トップだが、社会党の公認候補になるかどうかはまだ分からない。きょう(10月17日)から3週にわたって、ドミニク・ストラス=カーンとローラン・ファビウスと社会党内の公開討論(今日は経済政策がテーマ)を行って、11月には社会党内の投票がある。しかしここに来て、社会党内では見苦しいほどにセゴレーヌいじめが目立ってきた。  与党のUMPでこれも世論調査ではトップのニコラ・サルコジに対して、シラク、ジャン=ルイ・ドゥブレ、ヴィルパンらがあからさまなハラスメントを始めたのとそっくりだ。しかも差別的な言辞がどちらにも目立つ。セゴレーヌとサルコジのふたりを揶揄して「どっちが選ばれても久々に頭の禿げてない大統領になるだろう。髪があって、背が低くて、踵の高い靴をはいている」というわけだ。

圧倒的有利に見えるサルコジは、ここのところやり過ぎて自爆しそうな勢いだし、先週も、また「偏頭痛」を理由に一日休んだ。「頭痛で寝込む」という言い訳はこの立場の政治家にとってはユニークだ。

大統領職など当然体力が要求されるから、持病があっても周到に隠されるのが普通だ。たとえ具合が悪くても、せいぜい「体調が悪い」程度で濁すのが普通だろう。それを「頭痛」と堂々と言ってのけたサルコジはほとんど新鮮だったが、2度目となると印象が悪い。実際、ただの勤め人でも、頭痛がしたら頭痛薬を飲んで痛みをごまかして働くのが普通だろう。「寝込まねばならないほどの頭痛」と言うと、もっと重大な病気があると思われても仕方がない。あるいは・・・フランス語で「頭痛がする」というと、伝統的にこれはほとんど女性のセリフなのだ。しかも「女性の仮病」の代名詞だ。サルコジの「頭痛が揶揄される時、「女みたいなやつ」という含意があり、彼の低身長とセットになる。  実際に女性で背の低い(といっても、女性としては高い方だ)セゴレーヌは口が裂けても「頭が痛い」と言って公務を休むことはないだろう。彼女の声は低く、軍人家庭の娘らしく口調も威厳があって重々しい。しかし、セゴレーヌは若く(53歳だが30代だと思っている人もいた)スタイルが良く、見た目は優雅で女性らしい。これも、何となくフランス的だ。サッチャーやメルケルのタイプではないのだ。

世論調査では今までのところセゴレーヌがいつも僅かにサルコジに勝っているので、UMPでは女性の国防大臣ミシェル・アリオ=マリー(MAM)が、「セゴレーヌに太刀打ちできるのは私だけよ」みたいな発言をしている。ベビー・ブーマーで来年還暦の彼女は生粋のシラク・チルドレンだ。同じシラクの子飼いのヴィルパン首相は議員経験がなく初期雇用契約法でスケープゴートになったから、再浮上は難しそうなので、MAMが意外な穴馬になることも考えられる。この人も、ある意味できりりと美しい。国防大臣だから制服姿が多く、こわもてするので、カリスマ性はあるかもしれない。しかし彼女の話し方はイントネーションが時々裏返り、セゴレーヌの落ち着いた雰囲気に比べると不利だ。

フランスの大統領というと、権力は絶大だし、何かというと国民に直接話しかけるのが大きな任務だ。つまり見た目や話し方の威厳や説得力、権威、オーラが必要だ。

UMPの現職大臣がオフレコで「サルコジが出るならセゴレーヌに投票する」と言ったらしくて話題になったが、インテリ左翼の男性で、「女(セゴレーヌ)に投票するくらいならまだサルコジに入れた方がましだ」と公言する人も少なくない。右も左も内部で分裂して足を引っ張り合うのを見て、うんざりしている人も多い。

ところがヒラリー候補に向かうアメリカは進んでいるのだと思っていたら、民主党内で、絶対に女を大統領候補にしたくないと言う人も多いと知って驚いた。考えるとカウボーイの国アメリカは、フランスよりもマッチョな国である気もする。もし、フランスやアメリカで女性大統領が誕生するとしたら、イギリスのサッチャーやドイツのメルケルとはまた違うニュアンスを感じる。

ちなみにセゴレーヌの連れ合い(結婚していないが4人の子がいる)のオランドは社会党代表だ。クリントンが大統領選に出たとき、優秀な弁護士ヒラリーと組んで「一人で二人分、お得です」みたいな売り込み方を堂々としていたが、その論理で行くと、オランドが大統領候補に立候補してもよかったと思う。党代表なのだから説得力はあるし、「一人で二人分、お得で最強です」となったはずだと思うが、今の二人は夫婦色を出さない。これもなんだかとてもフランス的だ。この二人とヴィルパンはエリートを生む行政学院の同期だが、卒業成績はオランド11番、ヴィルパン25番、セゴレーヌ95番だと公式履歴に書いてある。微妙なところだ。

MAMは大学人だ。法学博士で民俗学の学位もあり、大学で教えていた。国防大臣というイメージと違う。見た目は、しなやかそうなセゴレーヌよりもカチッとしていて芯が強そうなのだが。

私はというと、ソシアル・ゴーリストのヴィルパンが外見も含めて気に入っている(髪もあるし)。ネオコンのサルコジは最近わざわざアメリカに行ってブッシュに会見し、「2003年のイラク開戦の時にフランスがとった傲慢な態度を遺憾に思う」などと言ったそうで、シラクもヴィルパンも頭にきて、サルコジ・バッシングに拍車がかかったのだ。

歴代の大統領の姓は珍しいものが多い。ポンピドー、ジスカール=デスタン、ミッテラン、シラク、次がサルコジでもロワイヤル(セゴレーヌ)でもMAMでもストラス=カーンでも珍しい。私の若いときの日本の首相は田中とか佐藤とか日本の代表的な姓の人がいた。フランスにはなぜかデュランとかルグランとかマルタンという伝統的な姓の大統領がいない。その代わり名の方は、聖人名だから、ジョルジュ、フランソワ、ジャック、ドミニク、ニコラなどありふれたものだ。MAMのミシェルは男女共通名だから中性的な感じだ。セゴレーヌは名のセゴレーヌも姓のロワイヤルも両方珍しい。彼女に与する人は、セゴリストかロワイヤリストとなるが、セゴリストというと「ゴーリスト」(ド・ゴール派)となり、ロワイヤリストというと王党派という意味だから、どちらも社会党としてはちょっとね、と揶揄する人もいる。

私としては社会党候補はDSK(ドミニク・ストラス=カーン)でいって欲しい。言っていることが気に入っているからだが、見た目も信頼感をそそる。ヴィルパンは見た目がよすぎて、かえって弱そうだ。正義感あふれた情熱派特有の脆弱さも匂わせる。フランス語には、「Bon père de famille(直訳すると、家庭の良き父親)」としてふるまうという表現がある。法律文にも出てくる。日本語なら「良識ある人としてふるまう」とか「社会人としてふるまう」という場合に相当する。歴代の大統領は、大統領になってしまうと、生き馬の目を抜く政治家というより、「共和国の良き父親」という役割を求められる。アメリカ大統領とちがって内政には直接タッチしないから(それは首相の仕事になる)、外交と軍事の責任者で、国のイメージを守り、国民を敵から守るというイメージも期待される。しかしあまり若くて血気にはやる感じではならない。まさにジェンダーとしての「父=男」なのだ。そのシンボリックな連れ合いはフランス革命の女神、自由の女神であるマリアンヌというキャラクターである。マリアンヌは戦う戦士のイメージでもあるから、母ではない。「親権」は大統領が占有している。

このコーナーに大統領候補とその性別と見た目にまつわる表面的な話題をふったのは、ひとつの国のシンボルのジェンダーという問題が、いかに複雑な含意を持っているかに感慨を持つからだ。日本でも女帝を認めるかどうかという議論があった。万世一系の男系がどうこういう話もあるが、DNAよりも「見た目」がどのようにシンボルを喚起するのかがその根底にあるのかもしれない。そして、「見た目」ほど、文化や歴史のフィルターがかかっている要素はない。それを口にすると、たちまち偏見や先入観や差別的言辞が表に出る。性同一性障害者の大問題は大半が「見た目」の選択で劇的に解決したりする。

ヘアメイクをいじるだけで人生が変わる人もいるのだ。テレビの番組で、子育てと家事に追われて髪振り乱していた主婦が、ヘアスタイルを変え、メイクをしてもらい、大きく胸の開いたドレスを着てキャンドルを立てたテーブルで夫を待つというのがあった。夫は、「なんて素敵なんだ」と言って、主婦は感涙にむせぶのである。(日本の主婦が美しく「変身」する類いの企画は、夫の評価がなくても自己満足のモティヴェーションがあるのが多い気がするけれど。)

来年のフランスにもし女性大統領が誕生したら、その「見た目」は国民の目に向けてどのように演出され、どのように変化していくのだろう。男の大統領は「良き父」になれるが女の大統領は「戦う美しい女」としてマリアンヌと張り合う運命にあるのだろうか。満面の笑みをたたえて党内討論会場に入ったセゴレーヌ・ロワイヤルの姿を見て、思いは広がっていく。 (2006.10.20)

トランスジェンダー演劇論 2

歌舞伎の『一二夜』を観た後、男女の異装や逆の性を演じる芝居を引き続きいくつか観た。まず8月5日に『原子雲』という新作能を千駄ケ谷の国立能楽堂へ。とてもぜいたくな芝居だ。ビジュアル的にも、翁の逆三角形のシルエット、媼の三角形のシルエット、いざる鬼(東門の霊)に、ラストの女面の、手を広げた四角のシルエット、と平面の切り方が変化があり目を奪われる。原爆の犠牲者鎮魂というスピリチュアルな公演で、霊たちの面(今回は使われていないが陳列してあった)の凄さを観ていると、能面とは「依り代」であるとすぐ分かる。さて、ここでは、トランスジェンダーにだけ焦点を当てると、能では、男が演じる「女らしさ」など別に究極の目標ではない。両性具有的というより、無性的で、ではからっとしているかというとそうではなく、どろどろした情念にはジェンダーがない、ということか。物狂いとは性を捨てることかもしれない。原爆で死んだ娘を黄泉の国にさがしにやってきた母親(シテ)の声は、宇多津波千人(アイ)の声より太くて低い。女っぽく見せる工夫など少なくともリアリズムのレベルでは存在しないし、面と衣装の様式のせいで、顔や体の表情もミニマムだ。これを女の能楽師が演ったとしたら、やはり性を押さえ込まないと嘘っぽく見えるだろう。能はやはり、あっちの世界の神に捧げる芸能ということで、ジェンダーを超越したパラレルワールドをいかに現出させるかということに沈潜しているのだ。

次に観たのが、8月7日、お台場のライブハウスでやった『美貌の青空』だ。市川右近と段四郎、春猿らの人気者による朗読劇。これはちょっと違和感があった。人気歌舞伎役者を普通の姿で、素顔で、現代劇を演らせるという贅沢さで満足感があるし、彼らを観るだけで楽しみというファンのためには楽しいだろうが、トランスジェンダーという視点から見ると、歌舞伎のようなおもしろさはなく、第一、「女形」の必然性がない。女優でも十分演じることができる。テレビのバラエティ番組にも顔を出す春猿のファンが実物の春猿を観たいという意味以上はあまりない。春猿という「男が女を演じている」という倒錯の刺激もほとんどない。春猿のキャラクターそのままという感じだからだ。春猿は女形の一門の跡取りとして生まれたわけでなく、子供のころからの女形志向でこの道に入ったのだから、ほぼ「自然」で、魅力的だ。対する右近があまりにも「男」型で、二人の芝居はあまりにも自然すぎてインパクトがない。

狂言回しに、ぴったりしたTシャツと綿パンの美男が出て来て、真っ黒に焼けた筋肉隆々の腕を見せびらかしながらナルシシズムをふりまいていたのには驚いた。休息時間に女性トイレで並んでいる人たちの話を聞いていたら、多くの人がそれについて、グロテスク、気味悪い、よほど筋トレの成果を見せたいのねえ、などと言っていた。ディーヴァという歌姫役も合間に熱唱するのだが、私は運悪くその前日にサントリーホールでカルミナ・ブラーナの公演を聞いたところだったので、マイクで増幅された声がわずらわしかった。観客が「右近」と「春猿」を見に来たのだったら、筋肉男と歌姫はあまり意味がなかったと思う。この中では段四郎が一番リアルな普通の男に見えた。お台場という環境がすでに人工的で独特なので、贅沢な夏祭りとしては楽しかったが、トランスジェンダー論としてはあまり書くことがない。

突飛な例えかと思われるかもしれないが、7月19日に行った紀伊國屋寄席の落語で五題のうち最後の二題に夫婦の掛け合いが出てきた時の方がいろいろ考えさせられた。『船徳』で船に乗る夫婦(鈴々舎馬桜)と、柳家三語楼(もうすぐ小さんを襲名するそうだ)の『青菜』の中で殿様夫婦と植木屋夫婦の二組が出てくる。口調はもちろん、船の中で座って揺れる所などは、マイムとしてもすばらしい。数年前慶応の三田キャンパスで観た京劇のマイムの実演の中で女優が船に乗るシーンをやったのに感心したことがあるが、それ以上だ。結局夫が妻をおぶって川を渡るシーンもおもしろい。

『青菜』は殿様夫婦のやりとりを植木屋夫婦が真似るというシチュエーションでさらに複雑で技巧的だが、ミニマムの動作で完璧に身分と男女を演じ分ける。朗読劇も動作はもちろんミニマムだが、噺家が座布団の上だけで、表情と口調とでまたたくまに男と女を使い分けるマジックの域には達していない。花形スター右近と春猿のやりとりを噺家の一人芝居と比べるな、次元が違うと言われそうだが、男が「芸」で女を表現するという点では示唆に富む。同じ寄席では七〇代の入船亭扇橋が花魁になって語っていた。扇橋は飄々として枯れた老人だから、これが歌舞伎の舞台で花魁役を演るとしたら、きっと白塗りも違和感があって、ストーリーになじめなかったかもしれない。しかし、高座で、化粧なしの扇橋がリアリティのある花魁にすんなり変身してしまう。

歌舞伎の女形が「朗読劇」で女性役をやるという趣向が趣向で終わらないためには、落語の女役の話芸を研究するとブレークスルーするのではないかと思った次第だ。

友人のパントマイマーであるヨネヤマママコさんも、マイムをする時は、同じ衣装のままで、男を演ったり女になったり老若まじえた群衆になったりする。動物にも変身する。あれも研究に研究を重ねた「芸」なのだけど、どこかにシャーマニックな要素があって、客は変身の瞬間に立ち会うことができる。

8月12日には宝塚宙組の公演に行った。前半の『炎に口づけを』というグランド・ロマンスには、ぶったまげた。「善玉」がほぼ全滅する。ヒーローは後半ずっと惨めな囚人服で、ラストも髪振り乱して火あぶりにされてしまう。たまげてその月の『歌劇』という雑誌を買ったら、作者が言いたかったのは「愛は平和をもたらさない」というメッセージだと書いてあった。作者は、ラブ・アンド・ピース式のジョン・レノン風メッセージが欺瞞だとずっと違和感を抱いてきた。実際は愛を貫こうとしたら死ぬしかない、愛は死よりも強しというが、愛は死以外のすべてに負けるのだ。

ううん、しかし、おいおい、宝塚だろ、と言いたくなる。しかしよくよく考えれば『ベルサイユの薔薇』だってハッピーエンドとは言えないし、「死」で味付けしないとロマンスは盛り上がらないのかなあ、それにしても、今回の演目は、味付けどころか、死の漬物桶に蓋をして地に埋めたって感じだから、ショックだ。

しかし第二部のレビューは相変わらず華やかで、ヒーローやヒロインがきれいな服を着て存分に愛を歌い踊る雰囲気なので、結局一部と二部をトータルとして見て相対化するのだなあと思えた。客は「男役トップの和央ようか」を見ているので、別にミュージカルのヒーロー吟遊詩人「マンリーコ」を見ているのではない。たとえマンリーコが火あぶりにされても、和央ようかがレビューでこれでもかこれでもかと特別扱いされて出てきて、フィナーレでダチョウの羽を振っていれば納得がいくわけだ。

しかし、悲劇的な第一部は、音楽的にはフランス音楽を意識したと言うだけあって転調が多く、語り物として劇的で優れていた。トランスジェンダーという視点では、やはり宝塚マジックがあり、別世界に入ってしまう。ある意味「男と女」が必ずカップルになって惚れたはれたをやるすごくヘテロな世界なのだが、レビューでは男役二人のデュエットもあり、男役だけがずらっと並んでタップダンスをやったりするのは、「宝塚マッチョ」を堪能させてくれる。宙組は男役トップがあまり濃い「宝塚顔」でなく少年っぽく可愛く、女役トップの花總まりもとにかく楚々として、華奢で、女の観客の嫉妬をかき立てない、観客も思わず守ってやりたくなるようなキャラクターなのでうれしい。

この後、テレビで『ドンキホーテ』のバレーを観たら、男役をすべて男性ダンサーが踊っているのに軽く抵抗を感じた。宝塚の男役たちのバレーは、ジェンダーだけあって性がないのだが、クラシック・バレーにも本来その方が合っているような気がする。クラシック・バレーの王子と王女のカップルでは結局「プリマドンナ」の女性がオーラを放つが、宝塚では男役がオーラを放つ。性が持つ含意の重力から解き放たれているからだろう。男が女役をする時は、その女という性を表現しがちだが、宝塚の女が男を演る時は、自分の性やジェンダーから自由になるだけで充分なのだ。

もっとも、戦前からの宝塚ファンによると、戦前でもトップのカップルはレズビアンだという噂があったそうだから、舞台のカップルの少なくとも「疑似恋愛」なくしてはオーラが発することはないのだろう。(2005.8.25)

NINAGAWA十二夜 論考

歌舞伎座に「NINAGAWA十二夜」の公演を観に行った。幕開けから舞台が鏡張りのようになっていて客席が映って不思議だった。しかも、チェンバロ(正確にはエピネットだが)が舞台上にあって少年合唱隊(といっても3人ほどだが)が「南蛮服」みたいなのを着て賛美歌みたいなのを歌っていて、「歌舞伎とバロック」という私のテーマの一つがあっさり融合しているのでたまげた。続く船の難破のシーンがまたバロック・オペラ風に豪快で、わくわくして見ていたのだけれど、あとは、蜷川劇だとか歌舞伎とかいうより、小田島シェイクスピアのイメージが強烈だった。

トランスジェンダーという観点から言うと、菊之助の琵琶姫こと獅子丸と左大臣のシーンとか、獅子丸と織笛姫のシーンのいくつかで、恋を語るバックにバロック風西洋音楽が流れてきて、そのたびに男装の菊之助が宝塚の男役に見えてくるのに驚いた。

歌舞伎や宝塚を見て40年になるが、二つがだぶったことはこれまで一度もない。むしろ両極端に位置すると思っていたのに、義太夫がロマンチックな音楽に変わっただけで、ジェンダー認識がバグを起こすとは驚いた。菊之助の発声や身のこなしまで「男役」そのものだ。女である琵琶姫が若衆のふりをしているのだから芸の力だといってしまえばそれまでだが、双子の兄の主膳之助役で出て来るときも、「男役」に見えてしまう。

ともあれ彼はすばらしい。前に彼を見たのは、昨年(2004年)10月の海老蔵襲名パリ公演で鳥辺山心中で海老蔵の相手役を演った時だった。その時は海老蔵の印象が強烈で、二人が若くてかわいくお似合いで美しいという以外に菊之助にここまで存在感があると思わなかった。ただお母様の「藤純子」さんが来ていて、一緒にいたトリオのメンバーに頼んで幕間にサインをいただいたのが嬉しかった。その前にもパリのパーティでお会いしたのだけれど声をかけられなかったのだ。

十二夜の二役は彼にぴったりだ。公演ポスターにトランプのクイーン札を模して男姿と女姿の菊之助がデザインされていて、それは、2幕目の冒頭で、彼が半身男、半身女の趣向で、刀を持った男舞と扇を持った女舞を一人で踊り分けるシーンに再現される形だ。四季の変化を三味線や浄瑠璃が歌い奏でるのに合わせて男になったり女になったりする。一人の俳優が半身で男女を使い分けて、客に半身ずつ見せて一人二役で演じるというのは一種のお座敷芸として東西変わらず存在するが、この菊之助のは男女の左右を両方客に見せながら、踊りぶりで使い分けるている上に、品がある。技巧に淫する感じがない。

菊之助が恋する左大臣役の中村信二郎も細面の二枚目系なので、髭をつけているのがやはり宝塚男役の「大人役の髭」に見える(これも、バックが西洋音楽になった時だけだが)。絶世の美女であるはずの織笛姫の時蔵は、菊之助からみると、ひと世代上の50がらみだが、芸の力というより、顔つき体つきの「若い女」っぽさで、リアリティをクリアしている。

その他、まったく宝塚風ではないが、この芝居で、女形として、役のキャラクターと役者のキャラクターと肉体的条件、若さの具合などが、ベスト・マッチでいかにも自然だったのは術策を弄する腰元役の亀治郎だ。

作家で舞踊家の松永尚三さんがウェブサイトで、女形が肉体の若さを失っていく時の哀愁というか恐怖というかについて触れていらっしゃったことを思い出す。舞台におけるジェンダーの問題を「外見」や「若さ」から切り離してエスプリとか芸の力とかで解決することは、少なくとも、観客としての私にはなかなか難しい。

この「NINAGAWA十二夜」では、もちろん、菊五郎も松緑も味のある役を演じていて、何しろシェイクスピアと歌舞伎とバロックとの融合だから、論点は限りなくある。しかしここでは、トランスジェンダー演劇論の延長という観点からのみとりあげたので、この辺でひとまず切り上げよう。8月はじめに右近と春猿らが演る朗読劇を観に行くので、またその後続きを書くつもりだ。(2005.7.19)

トランス・ジェンダー演劇論

思えば男女異装の物語は子供のころから身近にあった。ジャンヌ・ダルクもそうだが、『リボンの騎士』や『双子の騎士』、『とりかえばや物語』から『一二夜』までこの手の話が好きだった。演劇でも、男性しか演じない歌舞伎、女性しかいない宝塚歌劇の両方を子供の頃から観ていた。2003年秋に、私のバロック・トリオの日本演奏旅行が実現した時、15日間で4都市11公演というハードなスケジュールの合間をぬって、初めて日本に来るメンバー二人に、絶対見せてやろうと思ったのがこのふたつの演劇だった。レベルの高さは信頼がおけるし、舞台は豪華だし、日本にいるとなじみがあるが、ヨーロッパ的な感覚ではなにか「途方もないもの」がこの二つの演劇にはつまっているので彼等が絶対に喜ぶだろうと想像できたからだ。

日程に余裕がなかったのに、幸い関係者が望みの日のチケットを手配してくれた。歌舞伎座の方が雰囲気は観光にぴったりだが、私としてはバロック・オペラの日本版を見せたかったので、国立劇場でやっていた競伊勢物語(競=はでくらべ)を選んだ。けれん味もある通し狂言で猿之助一座を中心にした配役なのでダイナミックだろうし、義太夫狂言で音楽も充実だ。ラッキーだった。しかも、すでに男が女形をやっているのに、シチュエーションが非常に錯綜している。

弁天小僧で「お姫様」が一転開き直って啖呵をきる男になるシーンも楽しいが、競伊勢物語では性が二転三転するシーンがある。在原行平の館にある若衆がやってきて、不審に思った行平の妻が、色仕掛けで、彼が女だと見破る。若衆は行平を恋して死んだ海女の妹で、男装して姉の敵をうちに来たのだった。しかし、実は、さらに敵側の男だと分かり、最後には行平の味方だと分かるというように実に複雑な話だ。色若衆に化けた娘、実はくせ者の詐欺師、という性格や性別の違いをもともと男(市川笑也)がやるのだし、色若衆が女だと暴露するために色仕掛けをする妻ももちろん男だ。

もちろんこの作品には、亡霊がとりついた館崩しなど派手な場面もたくさんあるし、バロッキーでテンポも速くドラマティックな展開なのだが、男優が「女だとばれないように苦労するなよなよした色若衆を演じる実はマッチョな悪の男」を演ずるシーンの無意味さが気に入った。実際、ここでアイデンティティが二転三転するのはあまり話の本筋に関係なく、ただこういうヒネリのおもしろさを見せるサービスで挿入されたとしか思えないのだ。

この公演のチケットは、主役の一人である市川右近さんのおかあさまが手配して下さったということで、私達は公演の後で楽屋に右近さんを尋ねた。まだ隈取りをした怖い顔で、でもにこやかに応対して下さったが、右近さんは男っぽく、そのまま男っぽい役で分かりやすい。(三国志で猿之助と親子役をやった時にも本当に親子みたいだった。このしばらく後で猿之助さんが倒れ、右近さんは猿之助一座の支柱として頑張っている。)

私達の関西公演では神戸の女子修道院(このシチュエーションも気に入った)を足場にしたので宝塚の本場に行けた。私も大劇場が新しくなって以来行ったことがない。阪急の宝塚線は、宝塚に行く巡礼鉄道みたいな感じがする。すでに梅田の阪急デパートに大きく公演の広告があり雰囲気を盛り上げている。私の知らない新しい宙組の公演でトップスターは和央ようかという人で、私好みの少年顔だ。

昔は知り合いが入団して、デビューのラインダンスからベルバラのマリー=アントワネット役まで観に行ったことがある。自分の娘二人も、子供のときに宝塚を一度は見せておかないと私が母から継承した「日本文化」を分かち合えないので、5、6歳の夏休みに連れて行った。まだファミリーランドがある頃で、観劇の後は遊園地で遊び動物園を見て、花火の音を聞きながら駅までの道をたどったものだ。売店では5歳の娘が迷わずトップスターのブロマイドを選んだのに驚いた。普通は「お姫様」好きの娘で、あんなに華やかな女役のお姫様の写真が並んでいるのに、宝塚ではすべてのお姫様はトップの男役の引き立て役であるという魔法にちゃんとかかっているのだ。

ともかく、駅を降りた瞬間から宝塚ムードがいっぱいで、歌劇の内容は、なんと19世紀のパリが舞台だ。普通なら、国立劇場の歌舞伎の後でフランス人にこんなのを見せて猿芝居に思われないか、と心配するかもしれないが、歌と踊りのレベル、衣裳や舞台や道具立ての豪華さ、演出、何をとっても一流レベルであるので安心だ。第二部のレビューも、パリなどのレビューと一味違う凝った構成で、『インドシナ』というベトナムものの劇も組み込まれていて、連れていったフランス人の一人H(男性)は売店でそのテーマソングの「白い蓮の花」という曲の楽譜を買って喜んでいた。もう一人のM(女性)はビジュアルに夢中でアドレナリン全開だった。私を含めて三人とも、宝塚の「お約束」通り、出てきたときはすっかり「和央ようか」に恋している状態だ。HはゲイでMはレスビアンであるから恋する状態も倒錯している。

泊まっていた修道院では最初二人とも男性だと思われていたので、どうして宝塚へ連れて行くんだろうと不審がる人もいたらしい。二人とも175センチ60キロとサイズが同じなので、日本公演ではアンドロギュノス的な双子のイメージにしようと、ヘアスタイルも似せて、Hには毎日きれいに髭を剃るように言ってあった。そのかいあって、息子を二人連れてきたようだと言う人もいた。しかし、宝塚ではだれも二人とも男だと思わない。変な話だが、宝塚ではMは「すてきな男役」にしか見えないのだ。構内を歩いているだけで、女子高生のグループがMに手を振ったりする。Mも喜んで会釈していた。

宝塚の男役はアンドロギュノス的で、少年的で、ある年配以上の「大人の男」役をやる人は髭をつけることになる。髭は記号に過ぎないのだが、スターにはつけてもらいたくない。宝塚自体、雰囲気は、レスビアンというよりは、性が分化する前の未熟で両性的なセクシュアリティが濃く渦巻いている感じだから、「大人の男」というのはもちろん居場所がない。観客は女性がほとんどで、カップルで来ている人がちらほらだ。この世界から「マッチョ」という要素を濾過してしまったらこういう具合になるのだ。居心地がいい。ある宗教学者が日本人はほんとうは同性どうしでつるむのが好きだとか書いていたのを思い出す。

しかし、歌舞伎も、女性の観客が圧倒的に多い。女達が、男優を愛で、男役を愛でるのである。そこにはいつも少しの倒錯や少しの挑発があって、それを包む生暖かい共犯関係があって、でも技術や芸術のレベルは圧倒的に高いプロ集団がいる。歌舞伎役者のスターは基本的に世襲だから結婚して男の子を得ることが望まれ、宝塚のスターは中性的なオーラを維持するために、結婚する前に退団を余儀なくされるのも対照的だ。

概して宝塚の男役は、少女マンガのヒーローのイメージもある。男役に恋する女の子たちの大部分は、そんな「理想の男の子」に恋しているので、必ずしも「男装の麗人」自体にあこがれるわけではない。そういう記号性に合致するように容姿が選ばれるので粒がそろっている。一方、歌舞伎の女形はといえば、家柄で決まったりするものだから、老若さまざまの年や体型がある。ほっそりした青年などはそれこそアンドロギュノス的で女形に違和感がないが、年配で線の太い初老の男が白塗りして芸の力だけで若い姫君なんかを演ずる時は、見ているほうも苦しい。女形による女の舞踊の型というのがあって、女らしさの見本のように言う人もいるが、京都の井上流のように本物の女の舞は、むしろシンプルでスポーティで男性的で、そこに別の「男ぶり」というヴァリエーションが加わるのもおもしろい。

この夏(2005年)は、歌舞伎座でシェイクスピアの『一二夜』の翻案を演るらしいので、その倒錯ぶりが見ものだ。宝塚もまた「和央ようか」の宙組を観に行く予定だ。

さて、六月末の暑い夜、カルティエ・ラタンの有名なユシェット座に『王妃たちの夜』(ミッシェル・ハイム作)を観にいった。厳密には王妃と女王が混ざっている。フランス語では同じ「レーヌ」だ。3人のレーヌは、フランス国王アンリ3世の母カトリーヌ・ド・メディシスと、その娘で後にアンリ4世となるナバール王アンリの妃マルゴ、そして、未婚のまま年をとったイギリスのエリザベス一世だ。カトリーヌ・ド・メディシスは、息子のアンリ三世をエリザベス女王と結婚させようとたくらむ。これで息子はフランスだけでなくイギリスの王にもなれるというわけだ。アンリ三世の人物鑑定のために、イギリスからウィリアムとアンドルーという貴族がやってくる。アンドルーは、実はエリザベス女王の男装だ。

若いアンリ三世は、この結婚がいやで、ちょうど実家に帰っていた妹のマルゴに相談する。マルゴは色情狂で三人の兄たちすべてと近親相姦していたらしい。彼女は兄に、道化の服を着てホモのふりをして女王の使いに会うようにとアドヴァイスする。

アンリ三世はその異装と舌足らずな話し方によって異界の住人のように人々の前に現れるが、それを見たウィリアム(ホモ)は彼に一目ぼれしてしまう。マルゴはウィリアムに惚れる。絶望したカトリーヌ・ド・メディシスに、アンドルーは今夜12時に自分の部屋に来てくれたら女王にいい報告をしてやろうという。エリザベス女王はバイセクシャルであるらしい。一方ウィリアムにふられたマルゴは、若者より年配の男の方がいいと言って、アンドルーに夜12時に来てくれとカギを渡す。ウィリアムによって自分のホモセクシャリティに目覚めたアンリ三世は、真夜中に女装してウィリアムを探す。そのアンリ三世をカトリーヌ・ド・メディシスだと間違えたアンドルー(エリザベス女王)は彼を寝室に連れ込み・・・と、話は錯綜するので、分かりにくいが、このうちの、アンドルー(エリザベス女王)とカトリーヌ・ド・メディシスを男優が演じている。女優はマルゴ役だけで、この人が長身で美しく、それこそ宝塚の男役でもできそうだ。

コスチュームも豪華だが、最後に自分の姿を現したエリザベス女王は、今のエリザベス二世のように水色のスーツにハンドバックというスタイルで出て来て笑わせる。おかしいのは、エリザベス女王はアンドルーの時も、衣裳は別として、雰囲気は変わっていないことだ。女が男の振りをしている演技とか、弁天小僧のような爽やかな変身などない。ただ、服だけ。カトリーヌ・ド・メディシスも、このキャラクターにはこの役者しかないようなジャスト・キャストで、男が演じているから違和感があるということなどなく、「女装」という感じさえしない。ただ、カトリーヌ・ド・メディシスという強烈な個性があるだけだ。

もちろんセクシュアリティの曖昧さや境界性を題材にしている芝居とはいえ、女装の男優によって挑発しようという感じもなく、そこで特にお笑いをねらったわけでもなさそうだ。セリフは軽妙な韻文で才気あふれるし、セクシュアリティがテーマなのに、役者の性別はどうでもいいような雰囲気だ。ジャスト・キャストでありさえすれば性別は問わないといったところか。さらに、晩年のエリザベス女王とカトリーヌ・ド・メディシスという二人は、若さと反対の人生の黄昏におけるアンドロギュノス性を体現している。

もっとも、歴史に忠実であれば、この芝居は1574年の出来事で、マルゴ21歳、アンリ23歳、エリザベス41歳、カトリーヌ・ド・メディシス55歳ということになり、エリザベスはその後30年、カトリーヌは15年も生きるのだからとても黄昏とはいえない。しかし少なくとも舞台では、若いマルゴー、アンリ、ウィリアムの3人に、年とってずん胴のエリザベスとカトリーヌが対比されている感じだ。それが男優がそのまま演じてぴったりで、エリザベスが性別を変えても違和感がない、という風にできている。こういう、倒錯にならない倒錯のし方もあったのか、と思わず感心した。

この芝居は数年前アヴィニヨンの演劇フェスティバルでも演っていたが、ゲイの観客に人気がある。ドタバタなのか洗練されているのか、倒錯なのか自然なのか、下品なのかエレガントなのかよく分からない独特の味が受けるのだろう。逆にこの芝居を「ジェンダーもの」だと思って観る評論家などからは、感情移入できないという評価を下されたりする。実は、ジェンダーから自由でいてジェンダーと戯れる「トランス・ジェンダー」ものなのだ。今のフランスのゲイたちは、アメリカのゲイのコミュニティ主義やロビー活動の影響を受けて自分たちをアグレッシヴに差異化する傾向にあるが、実は、セクシュアリティなど人生のちょっとした味付け、と思えてしまうトランス・ジェンダーの軽みを心の底では求めてやまないのかもしれない。
(2005.6.29)


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