無神論—二千年の混沌と相克を超えて

無神論—二千年の混沌と相克を超えての表紙

本の紹介

無神論を語ることは神を語ることだ。古代ギリシャからポストモダンまで、世界史の原動力となった「負の思想」の系譜を辿りながら、その変容と対立を見つめ 直し、人間の存在や生き方について新たな可能性を模索した画期的な論考。 (あとがきより)

著者のコメント

日本で生まれ育った間、生活の場においてキリスト教的なものとほとんど縁のなかった私は、フランスに住むようになってから、キリスト教的なさまざまなフォークロアに出会って非常に興味をそそられた。日本にとって近代のお手本のようなヨーロッパには、前近代的で土俗的、いや、前キリスト教的な異教の香りさえ放つスポットやシステムがあちらこちらに残っていたからだ。

考えてみれば、日本の近代化は「和魂洋才」を掲げて、宗教との対立を避けてきたが、ヨーロッパにとっての近代化の道は、キリスト教を否定せざるを得ない身を切るような「無魂洋才」の葛藤だった。近代ヨーロッパ人たちはキリスト教普遍主義を世俗化していき、苦労して神なき「洋魂」を練り上げたものの、神殿から追われた神や神々たちは、姿を変えたり先祖返りしたりしながら、そこかしこに取り残されたままなのだ。近代は、自由な個人を神から解放するのには成功したが、神々を人間たちの思惑から解放することには手をつけなかった。

近代化を生きのびた神々の残滓も、進化してきたキリスト教の姿も、老舗宗教が提供する知恵や風景も、私には新鮮で、これまでに『パリのマリア』『聖女伝』『ローマ法王』『バロックの聖女』『知の教科書キリスト教』『聖母マリア』『弱い父ヨセフ』『聖女の条件』など、キリスト教に関するいろいろな本を書いてきた。そのいずれも、ごく普通の日本人読者を想定したもので、知的好奇心による反応はあっても、信仰の言葉による違和感を表明されたことはほとんどないし、信仰についての私のスタンスを問い詰められたこともない。ところが、フランスでは違った。私が聖人伝だの聖遺物だの奇跡譚だのを熱心に調べていることを知ったフランス人は、半分くらいはそれを面白がり蘊蓄を傾けてくれるが、後の半分はショックを受けて露骨に忌避反応を示すのだ。その典型的なタイプは、地方のイエズス会系の中等教育を受けたブルジョワ家庭のエリートで、バカロレアの後で哲学を専攻してリセの哲学教師になっているような人である。

そのような人にとっては、私の調べているテーマは忘れたい過去、捨てた蒙昧であり、ほぼタブーを形成しているのだった。彼らにとっては、知的な人間がそんなことに興味をもてるのはまさに不可能なことであるらしかった。日本でも有名なエリート校であるエコール・ノルマルは師範学校で、フランス革命以来の世俗共和国主義の牙城である公教育の理想を受け継ぐ。そしてそこには、革命以来の「インテリ=左翼=無神論者」という等式が存在していたのだ。その無神論とは、無関心ではなくイデオロギーに近いものですらある。多くのインテリ左翼にとっての無神論のこだわりは、見えない宗教といっていいほどで、時として原理主義的で闘争的だ。代々のカトリック家庭の人の多くがキリスト教を冠婚葬祭に関わる地域宗教としてのんびり生きているのとは対照的である。

いったんそのことに気づけば、ヨーロッパ近現代の思想や歴史の意味することや、そういう葛藤を経ずに神の国を建国したアメリカとの違いが別の光のもとに現れる。キリスト教自体も、キリスト教無神論という合わせ鏡を通してはじめてはっきりと立体的に見えてくることがたくさんあるのだ。

現代世界においては、経済の南北格差と宗教原理主義の問題や独裁国における信教の自由の問題が切実なものになっている。日本やフランスには、近代化の後遺症があって、それらの問題には必ずしもうまく対応できない。その後遺症とは、日本の場合は「宗教帰属心の風化」で、フランスの場合は「無神論者たちの長く熾烈な戦いの戦禍」と、まったく対照的な症状を呈するものだ。その状況を把握しない限り、フランスについてもキリスト教についても現代のグローバル世界の危機についても、日本人による認識から大切な部分が落ちることになるだろう。

この本は、これまでに紹介してきたキリスト教的心性を反対側から眺める合わせ鏡を提供するために企画された。無神論という視座から思想史を眺め返すことは刺激的で、奥に入り込むことが多く、作業はなかなか進まなかった。これはひとまず最初の問いかけである。

書誌情報

出版情報
単行本: 285ページ
出版社
出版社: 中央公論新社 (2010/05)
ISBN-10
ISBN-10: 4120041204

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