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ジャコメッティ展に行く(2008.2.13) Double je: Exposition des œuvres de Pierre et Gilles(2007.7.17) MONUMENTA 2007(2007.6.26) ポール・ヴァレリーの『L’idée Fixe 固定観念』(2007.1.27) モンテルラン その4 『スペインの枢機卿』(2006.12.3) モンテルラン その3『サンチアゴ騎士団長』(2006.11.26) モンテルラン その2『ポール・ロワイヤル』(2006.11.6) ピカソ美術館(2006.11.6) ケ・ブランリー美術館、キーファー展、ティティアーノ展、 モンテルラン その1(2006.10.31) ピサロとセザンヌ展(オルセー美術館)(2006.3.1) (2005.12.21)へ"> 二つの展覧会(グラン・パレ) (2005.12.21) (2005.12.21)へ"> ダルデンヌ兄弟の『L'enfant』(2005.11.11) 能舞台で観る勧進帳(2005.8.25) バレー論考(2005.6.24)) モノからコトへ パリで吉井秀文展を観る(2005.4.20) 美術室 2 へ ジャコメッティ展に行くポンピドーセンターのジャコメッティ展がうっかりしてるうちに終わりそうだったので、先週の水曜にあわてて足を運んだ。先日は国立図書館でデッサンやリトグラフを見たが、彫刻作品をこれだけの規模で見るのは同じポンピドーセンターで20年位前に見て以来だろう。ジャコメッティが私の興味を引くのは、彼について多くの人が書いているように、その製作のプロセスにある。自分の外にある対象を捉えてそれをどうやってアートとして再現するのかという問題は、具象美術家なら誰しも直面する大問題だ。それでも、ジャコメッティの解決の仕方と、その葛藤、模索、克服の仕方は、鑑賞する側に独特の感慨を引き起こす。それがどうしてなのか、今回は少し分かった気がする。 それは、ギリシャ知性主義の上に築かれた西洋キリスト教世界に独特な「真実在」の捉え方に関するこだわりである。分かりやすく言えば、たえず湧き上る無神論の誘惑と戦い、「神の存在証明」というテーマを立てずにはおれない精神構造である。 自然宗教の世界では、人間の生死を左右する自然はすべて神性を付与される。一神教の啓示宗教でも、「聖書」という神の言葉の存在そのものが神の存在証明になっている。「神の言葉を発した」というその神は本当に存在するのか、という問いは普通なされない。神の創造の結果としての人間や自然の存在そのものが神の存在を保証するのである。ユダヤ教やイスラムには固有の無神論の伝統は生まれていない。 しかし、西洋キリスト教は、もともと、呪術的世界観を抽象的な秩序の整合性で組み立てなおそうとしたギリシャのストア哲学が浸透していたローマ帝国に広まった。ストア哲学からの転向者が最初のキリスト教の護教者になったし、神学も、信仰世界内部の整合性を論証していくような形式のこだわりが残った。この主知的な世界の論証主義が、すこしずつ、いわゆる近代科学を生んだ。その過程で、神の存在の実証もするべきだとか、可能ではないかという考えが生まれた。 神が普通の意味で目に見えないものだとか、その認識は人間の能力を超えるというような考え方はもちろんあった。ところが、目に見えたり感覚で納得できる「素朴実在主義」を乗り越えるには、客観的で不可逆的な論証が必要だと近代科学は考えるようになった。世界が我々の日常的な実感とは違っている時、それに普遍的につじつまの合う説明ができれば「真実である」と納得させられる。地球が丸いとか、高速自転しているとかの「科学的真実」は、到底実感とかけ離れている。それなのに、科学はそれを納得させてくれる。 光線には色がなく、ものにも固有の色はない。どのような波長の光を放出、反射するかの固有の性質があるだけで、色は知覚器官と脳の共同作業の結果生まれるものに過ぎない。視覚の仕組みが解明される前は、人は、ものから常に実像のコピーが剥がれて発せられているせいだと思われていたのだ。といっても、光の振動の程度によって色や形が生じると分かった後でも、光は粒子であると同時に波であるということになり、実在や実態は図示できない。薔薇のトゲに「痛み」が内在しているのではない。そこに指を触れて刺されるときに痛みが生まれるのである。科学的実在性には関係性が深く関わっている。 人は素朴実在主義でとらえられない「神」の存在を論証しようとしてうまくいかなかった。しかしこのような要請は、「真実在」は、論証できるものであるはずだという無神論の立場なしにはそもそも生まれない。次に、人は「神」を関係性でとらえようとした。目と脳が介在して色を作るように、指が触れて薔薇のトゲに痛みを感じるように、人がどのように神体験をするかで、実在が探れるのだと思った。 そのような、キリスト教西洋の近代における「真−実在」に対する強迫観念とジャコメッティは対峙した。だから、ある種の人はジャコメッティのアートに哲学的な過剰反応を見せるのである。 ジャコメッティは、人の頭部を作り、それがどんなにモデルに似ていても、その脳に当たる部分は何も詰まっていないただの粘土であることが我慢できなかった。機能していないものは実在には見えなかったのである。彼は後頭部を削り、顔の凹凸も削り、終いには平べったい面に線描きのような顔を作る。残るのは器官としての目ですらなく、関係性としての視線だけだと思えてきたのだ。 彼のデッサンにおいて、自分の視線とモデルの視線とを何度もフィードバックして、ぐちゃぐちゃになってきたところで、はじめて、何か「実在」感のあるものが生まれてくるのは、多分そういうことだ。創造とは、関係性の中にしか実在性を持ち得ない、と彼は直感して、執拗な視線と製作の繰り返しによって、時間性まで獲得し、世界創造の文脈を一から組み立てていくのである。 だから、ジャコメッティの作品における実在性はおそろしい凝縮力を持って完結している。その作品と我々の視線が、どこでどんな風に出会うのかという文脈と関係性の偶然は想定されていない。 「部分」の強迫に憑かれたジャコメッティは、自分とモデルの関係性を力業で封じ込めることで、特殊な単一のクオリアが生まれるのを待った。それは対象を腐蝕し尽くす一種サディスティックなプロセスである。だから、彼の描く肖像画はすべて彼自身に似ている。関係性がフュージョンした混沌の中から、やっと現れる。それが唯一、部分ではなく「全体」を、真−実在を呈示する解決法だったのだ。 彼の呈示する全体は、部分であり続ける我々を実は、必要としない。だから、彫刻作品において、「檻」と称する枠組みに入っているものは、ちょっとほっとする。調和的だ。ジャコメッティの創出した強迫のクオリアが、その檻の中に閉じこもっているからだ。そこでは私たちは神のようなものを見るのでなく、神のように見ることができるからだ。 (2008.2.13) Double je: Exposition des œuvres de Pierre et GillesJeu de Paume でのexpo に行く。このゲイのカップルの作品のオリジナルを見るのはこれがはじめてだ。元が写真にペイントしたものだから、写真で見ても充分だと思っていたのだが、本物を見ると、これがキッチュなポップ・アートではなく本格的なハイ・カルチャー・アートだと分かり、アメリカ風、または無国籍風コンテンポラリーではなく、間違いなくフレンチ・エレガンスの系統のアートだと分かる。Expo自体がピエールとジルの世界へようこそ、みたいな、親密で個性的な空間なのもびっくりした。作品の一つ一つがオリジナルの額縁でと込みでオブジェになっているのは知っていたが、各展示室が、パステル・ピンクやパステル・ブルー、薄紫やアップル・グリーンの壁になっていて、あちこちに造花があしらわれている。途中で階段を延々と上がって行くのだが、その踊り場の白い壁に赤で代表作の線描きスケッチが塗られている。隅々までピエールとジルのファンタジーランドのカラーがいっぱいだ。 パステル調が多い中、真紅の部屋があって、そこに豪華な金色の額3つが並ぶ『アベルの死』シリーズは鮮烈だ。石の上に横たわるアベルを石の動物たちが取り囲んでいるのだが、その表情が生き生きしている。他に、殺されて埋められた若い男の死体が半分姿を顕して、それを鹿がつぶらな眼で覗き込んでいる構図のものもあり、動物はみな極端に可愛い。白い子猫も可愛かった。他のすべての構成要素と同様、この世のものとは思えないオーラを放っている。 明らかにゲイのカップルが連れだって来ているのは多少居心地が悪い。彼らの方がメイン招待客で、こちらは遠慮気味、という感じになるからだ。肉体へのフェティッシュなこだわりが、強烈に漂う。でも、明らかにゲイの感性で選ばれたテーマやモデルや構図の作品でも、それは、コミュニティを突き抜ける普遍に達している。 普通、彼らの作品を見ると、キッチュ、という言葉が出てくるだろう。写真の持つ奥行き感がペイントによって、消され、浅くなり非現実感が生まれる。あり得ない原色や多色の組み合わせが安手でアナクロニックな「天然色」を思わせる。紋切り型の構図のパロディは、食品の宣伝ポスターやら、サン・シュルピス派ののっぺりした聖画を思わせる。新庄剛志のサムライとかマドンナの牛若丸とか、こてこてのコスプレもある。ピンクのキティちゃんもある。 それなのに、そういうものにつき物の、挑発的なところや、くどさや、あくの強さが不思議にない。展示を見ていた年配の女性が、「Rafraichissant !」(さわやかで涼しげ)と感嘆したように口走った。実感がこもっていた。 それこそ、ピエールとジルが、アメリカン・キッチュでなく、正統的なフレンチ・エレガンスのアーティストであることを示している。 悪趣味や、即興的でインスピレーションに満ちた軽さは、実は周到に計算された脳内プロセスを経ている。才気や思いつきは決して垂れ流しにされない。構図や色使いやモティーフがどんなに大衆文化を基盤にしていようとも、その表現は、決してパトスを全開にしない緻密な人工楽園の韜晦を秘めているのだ。フランス・バロック音楽とまったく同じ、精妙なreconstitutionの世界である。そしてそのすべては、全力投球したり押し付けてきたりしないで、そこはかとないdouceur、上品な甘やかさと共に提供される。Spirituel といってもいいだろう。 彼らは気に入ったテーマにあうモデルを徹底的に探し回ったり、また、逆に、ある顔や体との出会いがテーマをインスパイアすることもあるらしい。レオナルド・ダ・ヴィンチのもでる選定のこだわりを思い出してしまう。この回顧展では、30年にわたるピエールとジルの自画像もさまざまにコスプレで展示されている。50代の今もいかにもジムで鍛えぬいてるようなこだわりの体に色とりどりの刺青があしらわれている。しかしそれを通して、彼らは、霊的なものに向かっている。作品の中で描かれる死は、生と同じくらい美しい。死にも、生にも、悪にも、美にも、「聖なるもの」のスティグマが刻印されている。 (作品の一部がこちらのサイトで見れます。) (2007.7.17) MONUMENTA 2007グランパレの鉄骨ガラス張りの丸屋根の下を毎年一人のアーチストに託して好きなように空間造形してもらうという趣旨の「モニュマンタ」の第1回が始まった。アーチストはAnselm Kiefer、もうこの人しかないと思われる人選だ。グランパレのこの広大な空間、心配はなかったですか、と問われて、言下にノン。フランスの田舎の廃工場を購入してアトリエとして敷地内を自転車で駆け回っているキーファーだから、当然だろう。タイトルがまたいい。Sternenfall ドイツ語の語感がぴったりだ。フランス語ではChute d’etoile。日本語にはなんて訳すべきか。直訳だと星々の墜落? 「星雲落下」とか「堕天」とか言ってみたい。グランパレで組み立てた石膏(?)と鉄骨の塔をそこで破壊して即席の廃墟を作った。ガラスと金属の巨大な「本」の固まりも壊されかけて、一面にガラス片が飛ぶ。六つのブロックがあって、朽ち倒れた巨大な椰子の木の向いにかけられた石膏で固められた椰子の葉をあしらった縦長のタブローが30枚びっしりひしめいていたり、有名なアンドロメダや、霧の風景が単独で展示されていたりする。この破壊は、実は生々しくて。廃墟というより、9・11などを連想させる。9・11のタワーが崩れるのを見てそれを美しいと形容してバッシングされたアーティストがいた。しかし、崩れる巨大なタワーに夢幻的なものを感じた人は少なくなかったはずだ。生は恒常性があるから、爆発的ではない、それが崩壊する時にはじめて生の本質が見えてくる。グレコ・ロマンの審美観には真・善・美がセットになっている。倫理と審美が近いところにあるから、多くの犠牲者を出したテロリストによる建物の倒壊に美を感じるなどいうのはタブー中のタブーだけれど、昔から、天罰で空から火が降ってきて町が炎上するような聖書や神話のシーンは人々を魅惑してきた。テロリストだとアウトだが、神罰なら、美を表明できる。パリ郊外の暴動で若者が火炎瓶で車に火をはなったらアウトだが、グランパレで、キーファーなら、我々は、その破壊の荒々しい断面に脈打って顕わになる生の漲りに感嘆できる。あるスケールの大きさによってはじめて実感できる美というものもある。 キーファーのすごさは、素材感だ。鉛、銅、ガラス、服、ベンチ、椅子、砂、灰、粘土、椰子、羊歯、髪の毛が、アクリル絵の具や油絵の具と混じり合う。重ねたり削ったり引っかいたり、結んだり、貼り付けたり、壊したり、膨大な細部が、強大な全体を立ち上げる。ここまで、スケールが大きいと、好き嫌いを超えて、説得力が出てくる。真・善・美をセットで考えたいのは、我々の中にある虚偽や悪を醜の中に疎外したいからかもしれない。 キーファーの強迫観念は「本」だ。彼は最初の本を9歳の時に手造りして、No42と書いた。幻の41冊が少年の頭の中にあったのだ。キーファーの本。鉛のページが波打ち星座が穿たれている巨大な本の固まり。彼の本は地で増殖する古代植物だったり、空から降ってくる隕石だったり、知性の夢や創作の熱を閉じ込めた化石だったりする。 このモニュマンタ、7月8日までです。パリにいる人は是非見てください。 (2007.6.26) ポール・ヴァレリーの『L’idée Fixe 固定観念』1月28日、エドゥアール七世劇場にヴァレリーの『固定観念』を観にいく。私の好きなヴァレリーの対話シリーズの戯曲化で、彼の生前には上演されなかったが、1963年にピエール・フランクが芝居にして、それを元に1990年にベルナール・ミュラがピエール・アルディティと二人で上演した。今回も同じ顔ぶれだが17年経っているので壮年だった彼らが初老の感じになっている。テキストは哲学的でエスプリに満ちているが、それが訳者の体を通すと人間的なポエジーが生まれる。背景も単純な海辺なのだが、映り行く光、かもめの鳴き声、セミの声などと相まって、とてもオーガニックなものになり、最後には、舞台中央に突き出た岩がはっきり難破船のように見えてくる。人生の航海の終わりには誰でも難破船を残していく、心はいつも難破船、という感じだ。でも、どこかやさしく慰めもある。それが名優ふたりの温かみでもあり、この作品を残酷にするには彼らはあまりにも人生を愛し過ぎているのだ。初老の男二人の体と存在感がポエジーを生み、かかえ、育てている。彼らの身振りやイントネーションによって、会話はくっきりして、難解さは微塵もない。昔、ヴァレリーは難しいと思っていたけれど、むしろ明晰で分かりやすく、こちらをちゃんと彼の世界に招待して扉を開けてくれる。根本的なところで共感できる想像力がありさえすれば、後は彼のペースに自然に乗れて楽しめるのだ。 フランスに住んで最初の数年は映画のせりふの聞き取りが難しかった。芝居せりふの聞取りにはさらに時間がかかった。子供向けの芝居だけはよく聞き取れたので、そして幸い子供向けの芝居も充実してるので、1980年から数年間、毎週水曜(学校が休みなので、子供向けの芝居がたくさんある)子供向けの芝居に通った。今でもミュージカルやオペラのせりふが聞き取れないことも多い。でも普通のフランス人もよく聞けていないので、ネイティヴとかいうことと関係ないらしい。フランス語は歌うと分かりにくくなることばだ。しかし、ちゃんと「語られる」ととても分かりやすい。ヴァレリーはその典型だ。ネット上に小話クリップのサイトがあって、私の若い友人たちは大いに笑っているのだが、私にはあまり笑えなくて、聞き取れないところも多い。別にもっとフランス語ができるようになれば聞き取れるとか思えるわけではなく、ちょっと下品系とか下ネタ系でエスプリのきいてないのは、波長が合わないので、耳が拒否してるのかも。ブラックユーモアなんかは好きなんだけれど。 昨日ヴァレリーの芝居を観に来ていた人たち、多分平均年齢60歳くらいの感じだったけど、彼らがあのネットのお笑いサイトを聞いたら、やっぱりあまり聞き取れないと思う。聞いても意味が分からないだろう。 しかし、自分が、お笑いサイトのアニメに反応できず、ヴァレリーの芝居には笑えるようになるとは、感慨深い。ヴァレリーの対話シリーズの掌編に、Colloque dans un être というのがあって、覚醒しきっていない精神的金縛りの中にいる自分が覚醒を促すもう一人の自分と対話するという話だが、これは私の気に入りで、毎朝(床の中でぐずぐずしてる暇のあるときは)、いつも思い浮かべてしまう。ひょっとしてフランスで年取ることって、ヴァレリーと親密になれることだったのだろうか。 ともあれ、テキストだけでも日増しに親近感を増しているヴァレリーが、ヒューマニティの詰まったピエール・アルディティとベルナール・ミュラの体によって生き生きとして、手で触れられそうなポエジーに肉付けられたのを見たのは幸せだった。 (2007.1.27) モンテルラン その4『スペインの枢機卿』(1960)私にとってのモンテルラン4部作の最後。この作品がコメディ・フランセーズで最初に上演された時、学生たちが暴れだして上演中止になったとかで、これを最後にモンテルランは戯曲を書くのをやめてしまった。モンテルランはベルナノスやクローデルのようないわゆるカトリック作家ではなく、むしろ快楽主義的な生活を送った。しかし彼の作品にはキリスト教のスピリチュアリティの問題が色濃い。あまりにも人間的であるので、善悪に関するスタンスははっきりしないのだが、そこがおもしろい。そういう光と影の二面性が一人の人物の中ではっきりと造形されたのがこの『スペインの枢機卿』だ。枢機卿は、五八歳で政界入りしてマキャベリックな手腕を四半世紀奮ってきた八二歳の男だが、本来は清貧のフランチェスコ会士でもある。灰色の修道服にフランチェスコ会士特有の結び目のある綱を帯代わりに腰に巻いていて、それを手でまさぐる。しかし緋色の枢機卿服をその上につけて現れる時は「権力」の権化になる。「権力」ではなく「権力の濫用」があるだけだ、という台詞も奥が深い。「二つのフレーズを口にだけでその一つは心に反していてもう一つは真実に反している輩」という表現もおもしろい。 枢機卿は世俗的にも宗教的にも権力の座をのぼりつめたような男で、その権力主義の性格は確かに胸が悪くなるようなものだ。「義務と信仰とがある時は理性なんてほとんど要らない」と豪語するし、多くの人から忌み嫌われていると知っていても、自分は侮蔑されるのが好きだ、と断言し、それは謙遜なのか傲慢なのかと周囲の人をあきれさせる。憎しみだけが継続し得るものであり、敵に対する忠実こそ真の忠実だと言ったり、本来ならキリスト教的である「赦し」についても、今まで誰をも赦したことがないのが自分の力の証しであり、人は恐れから赦すのであると言う。言っていることは本当に憎らしいのだが、どこか逆説的で、つまり、逆もまた真なりと言えるようなことが多い。憎しみのフレーズは愛とも言い換えられるし、赦すことが力の証しで、人は恐れから赦さなくなると言っても納得できる。 時は一六世紀、枢機卿はフランドルからやってくる一七歳のカルル五世の到着を待っている。カステリアではフェリペの母親で心を病むヨハンナが軟禁されていて、枢機卿は彼女の摂政として全権を握っているのだ。結局カルルは枢機卿に手紙をよこし、これまでの功績を讃え、それ功績に報いるのは神にしかできない、天でゆっくり静養してくれと言って体よく追放する。それを読んだ枢機卿は憤死する。権力だけが彼をこの世につなぎ止めていたのだ。 ヨハンナとのシーンも強烈だ。ヨハンナは神のみ旨でなく自分の意志が遂行されますようにと祈って、枢機卿から、破門する異端審問にかける、と脅される。恐れおののき赦しを懇願するが、最後は完全に理性を失って神と虚無と踊ろうといって枢機卿と無理やり踊りだす。ヨハンナは「神と虚無」や「存在と虚無」が並びたち踊るのを見ているのだ。 慈悲のかけらもない枢機卿なのだが、老いと孤独、権力と孤独、権力と生命力、憎しみと力の関係や、義務の観念とは何かということについて問題を突き付けてくる。モンテルランの今まで見た作品にも通じるが、強者の「過剰」が、なぜかいつも哀しみを喚起するのだ。ティティアーノの描いたカルル五世の肖像画を思い出す。年老いたパウロ三世の肖像画の顔がスペインの枢機卿と重なる。こういうところで、ティティアーノのすばらしさが理解できる。近代以前のカトリックの高位聖職者はみな世俗の権力者でもあり政治家でもあった。絶対政権の王たちはみな「神の代理人」でもあった。権力の希求の果てには、かならず世俗と宗教のふたつの冠を同時に戴く誘惑があるのだ。そして、世俗がスピリチュアリティを殺し、宗教が人間を殺し、手をたずさえて踊るのは、神と虚無ばかり・・・ (2006.12.3) モンテルラン その3『サンチアゴ騎士団長』(1947)ルネサンス期のスペイン・ポルトガルを舞台にした傑作の一つだ。モンテルランは闘牛を愛しスペインに長く暮らしたのでスペイン独特の「力と情熱と克己と犠牲」のアマルガムを表現するのがうまい。この作品は白上衣の心臓の場所に小さな赤い十字架を縫いとった騎士団の衣装の男たちが語り合うという視覚イメージでは『ポール・ロワイヤル』の男性版という舞台だ。でも騎士たちは修道者ではなく戦士なので、娘や息子もいる。騎士団長の娘アマリナは別の騎士の息子と恋をしているという設定だ。どういう話かというと、レコンキスタでグラナダをイスラム教徒から奪還したサンチアゴ騎士団は、今度はキューバに向けて出征を要請されているのだが、士気の高い騎士たちに対して、騎士団長でグラナダ戦の英雄ドン・アルヴァロ・ダーボは帝国主義的覇権に疑問を持っている。彼の中でもともとキリスト教の地であるグラナダの奪還とインディオの虐殺はまったく別物だ。彼は高潔の士で、勇敢な戦士ではあるが無益な殺戮は善しとしない。王たちの領土拡張の手先にはなりたくない。 こういうとアルヴァロは完全に「正義」の側だと見えるが、「世界に拡張する覇気に満ちたスペインの宗教的民族的高揚」という歴史文脈の中では、指導的地位にありながらこれまでの連帯から途中離脱する勝手な男であるとも言える。良心に従っての誠実さに見えるが、王を諌めるという行動に出る訳ではない。実際、アルヴァロにとっては、自分ひとりの魂の救済が関心事なのだ。彼が怒り、諌めるのは、自分が絶大な権力を持っている騎士団のメンバーや自分の娘に対してである。権力を持ち遂行してきた者が、「清らかさ」にこだわったり、禁欲や清貧や徳を積むことは独りよがりで「迷惑」なことなのだろうか。『子供が領主の町』に出てきたような「犠牲と寛大さ」のテーマも繰り返される。もう一つおもしろいのは、アルヴァロが、人は私を年とったから傲慢になったと言うかもしれないが人が傲慢だと見るのは私のdetachement(執着しないこと、超脱、解脱)なのだと言うところだ。『ポール・ロワイヤル』で、信念を曲げない修道女の清らかさは、傲慢と表裏をなしているという論議があった。「一途さ」や矜持は傲慢や頑迷につながると批判されている。しかし、アルヴァロは、それは傲慢でなく超脱なのだという。彼が自分の道を守るのは、何かへのこだわりではなく、何物にもこだわらないことの結果だと言うのだ。 分かりすやく言うとこんな感じだろうか。 「今までみたいに協力してくださいよ、金や地位は差し上げますから」 「いらない」 「ほんとは欲しいくせに」 「欲しくない」 「やれやれ、年よりは頑固だからなあ」 しかし彼は頑迷で理念にこだわったり殉じようとしたりしているのではなく、ただ、金にも地位にも興味を失っているだけなのだ。この世の価値に執着しないからこそ、自然に理念や原則に従うことになる。これは現代の宗教原理主義と共通する問題だ。時代の変遷にしたがって柔軟に適応していくべきか、時代から超脱して原理と生きるのか、原理を死守して他者にも押し付けるのか・・・永遠に代わらぬものが真実に近く清らかなのか、人間の真実とは時代とともに進化していくべきなのか、そこに善悪は存在するのだろうか・・・ アルヴァロの言い分は、帝国主義を断罪する後世の歴史観に照らすと明らかに正義であるが、その場では周りの人を不幸にしている。清らかなものは、いつも周囲の不純なものをよりいっそう汚れにまみれさせる。美学の問題というのもある。殉教の美学、神秘家の美学だ。美しいものが善であるとはかぎらない。これも衝撃の事実だ。「勧善懲悪」とか「善悪二元論」とか「歴史が裁く何とか」とかいう分かりやすいストーリーが懐かしい。単にものごとには黒白で分けられないグレーゾーンがあるとかいう問題ではない。何というか、善とか清らかとか信念とかそういう普遍的にポジティヴな概念にしたがってなされる行動とは、そのポジティヴ性のせいで逸脱しやすいということなのだろう。真善美は、真善美であるからこそ逸脱しやすい。コンキスタドールの善、騎士団の善も逸脱するし、それを諌めるアルヴァロの正義も逸脱する。真善美を背負っている人は逸脱に気をつけてどこかで「ぬるく」ならなくてはならない。真善美の持つ「うさん臭さ」とは、その逸脱の誘惑にあるのだろう。 モンテルラン全作品上演シリーズはこのパリ北西劇場にぴったりだ。舞台と客席が一体化していて、幕間もなく、いったん座席に座ると出口は役者の出入り口になるので早い話が観客は閉じ込められる。観客席から舞台を観るというより、舞台の囚われ人になってしまうのだ。比喩でなく作品世界の内側で登場人物の証人にされてしまう。一作観るごとに複雑な人間になってしまう。真理にはあっけらかんとした単純さがあると常日頃思っているのに、モンテルランは単純の軽やかな喜びを奪うのだ。来週はこのシリーズで私がセレクトした最後の作品『スペインの枢機卿』を観にいく。シャンゼリゼにあるマリニー劇場にイザベル・アジャーニ主演の『メアリ・スチュワート』を観にいこういこうと思いながら、モンテルランの磁力に引かれて下町の中庭の奥にある古い建物の地下にまた潜ることになるだろう。 (2006.11.26) モンテルラン その2『ポール・ロワイヤル』『ポール・ロワイヤル』はモンテルランの代表作だ。社会の激動期に修道会が弾圧されて、信仰に殉ずる修道女が出るという事件は、ジャンセニズムの異端宣告に続いて1664年に弾圧されたポール・ロワイヤルと、18世紀末フランス革命に続いて革命政府が聖職者に還俗を迫ったりローマ教皇庁と袂を別ち共和国政府に忠誠を誓わせようとした時にギロチン台にのぼったカルメル会が有名だ。後者はベルナノスが『カルメル会修道女の対話』として戯曲にして、映画やオペラにもなり、前者はそれに影響を受けたのかどうか知らないが、その数年後にモンテルランが戯曲にした。カルメル会は原作も読み映画も観てオペラも観たので熟知しているが、ポール・ロワイヤルは、今回初体験だ。舞台は床も天井も背景も黒、修道女たちは黒いヴェールに白い長衣、胸に大きな真っ赤な十字架の縫い取り、大司教は白い髭に全身緋色の衣装。赤と黒と白だけだ。ただ一つ、右手に大きな木製の十字架が立っている。 観ていて、テーマが全然古くなっていないことに愕然とする。 一つは、宗教における原理主義と、「時代にあわせて変化させる」派の対立だ。原理主義の人は、いったいに純粋、ピュアである。この戯曲でも、信念を曲げない修道女たちに、大司教が、「あんたたちは天使のようにピュアだが、悪魔のように傲慢だ」というセリフが出てくる。最初に信じた理念を貫き通して殉じる、というのは、純粋だが、「自分たちは正しい」という信念でもあるから、他者を誤っていると断罪することにも通じる。実際、天使と悪魔は白か黒かの二元論ではなくて、人間においては光と影、陰と陽のように必ずペアになって現れるということらしい。 ジャンセニズムの隆盛と弾圧はいまだにフランスのカトリックのトラウマになっていると言われる。ポール・ロワイヤルはその中心地であり、日本では、パスカルとセットになってよく知られている。何がもっとも弾圧の対象になったかというと、魂の救済は神の意志ひとつにかかっているのでそこに人間の努力とか自由意志は介在しないという理論だ。自由意志というのは、キリスト教的にはもともと神が人間に与えた属性のひとつになっている。アダムとイヴを創ったとき、自由意志のないイエスマンに創られていれば禁断の林檎に手を出して楽園を追放されることもなかったはずなのに、なぜか神は「堕落する自由」も残しておいた。この自由意志が、人間の悪の根源でもある。 それで、単純化していうと、そんな悪にまみれた人間が救われるためには、罪のないイエス・キリストの贖罪というのもあったが、即、全員救済というわけにはいかず、それなりの手続きが必要で、それを一手に管理してきたのが「教会」という組織や権力だった。自由意志があるからこそ、それを良い方向に導くという役割も生まれるのだ。贖罪の善行を積む生活指導である。ところが、その自由意志を否定すると、すべては神のみ心に任される絶対他力となり、仲介し管理する教会の存在価値がなくなる。神と罪人の直接の関係になってしまうのだ。つまり、逆説的に、人は、他の人間の管理から解放されて「自由」になる。それは、ヨーロッパ社会を管理し組織してきた教会にとって非常にデンジャラスな事態である。16世紀の宗教改革の時にすでに、カトリック教会は同様の危機を体験した。その後、新旧の宗教戦争を経て、17世紀半ばのフランスでは、ルイ14世の絶対政権が確立してカトリックは王権としっかり連携する権力と政治の道具になっていた。そんなところで「自由」でピュアになってもらっては困るのだ。「常に悪の誘惑にさらされる自由意志」は、王や政治家と結びついたイエズス会などにとって支配の口実でもあるからだ。 この芝居の中で、ピュアな修道女に比べて、大司教はいかにも俗物に描かれているのだが、彼が、真理について、「聖書には真理は人を自由にする(delivrer)すると書いてあるが、実際は真理は人の自由を奪う(emprisonner=禁固する)のだ」と言う場面もある。つまり、修道女たちは信仰における「絶対の真理」を信じているから、時代や世の中の変化について臨機応変になれず頑固で融通が利かないと言っているのだ。ではいったい彼女らは自由ではないのか? 教会や権威からは自由だが、自分たちの信念の虜になってしまう、自由のパラドクスだ。 修道女がピュアだと書いたが、莫大な持参金を積んでやってきた「権力者の娘」が多い(実際大司教の姪もいる)中で、「慈悲によって」修道院に入った一人のシスターは、この騒ぎに乗じて院長の座を奪おうと企んでいる。大司教の側に寝返って、「危険思想」のシスターたちのリストを作成して渡すのだ。もちろん彼女にとって目障りな上司ばかりである。ここでは、先ほどの「ピュアであることの傲慢さ」には高貴な出自がもたらす無邪気さも関わっていることが分かる。底辺からはい上がってきた者にはピュアだとか真理だとか自由はどうでもいい。生きる力は野心に裏打ちされているのだ。 神の前に忠義なのか、その時々の権威への忠義なのか、「今日の教会」なのか「伝統の教会」なのか、今日の正統が明日の異端になれば迷わず態度を変えるべきなのか? 妥協とは知恵なのか裏切りなのか? 悲劇の修道女たちに感情移入して大司教を権力者欲にまみれた偽善者だと憎むようにはこの芝居はできていない。大司教はカリカチュラルで精神性や誠実さがみられないのだが、登場人物の中でもっとも人間的でもある。自分の特権を保持するためには節操なく何でもやるし、「霊的に尊い」と見せる努力を放棄しているのは正直でありさえする。そして、最後の切り札は、転向しないともう聖餐にあずかれないぞ、という脅しだ。聖餐によって神と一体化できないことは修道女たちにとって耐え難いことであり、聖餐の司式はすべて男性聖職者の特権である。祝別もそうだ。修道女たちはひざまずいて大司教に祝福してくれと願う。彼は修道女の頭の上で十字を切るだけだ。そして指に赤く光る大きな司教の指輪に接吻させる。ピュアな人はシンボルを必要とする。 修道女たちの受難は、一種の殉教であり、彼女らはほかならぬキリストの受難の苦しみに自らの苦境を投影するのだが、大司教はそのことも傲慢であり、悪魔にもまた殉教者がいるのだ、と言う。つまり迫害に耐えて殉教するから必ず聖なるものとなるのではなく、魔女が火刑になるように、悪魔を崇拝した者もまたその信仰に忠実に「殉教」することがある。命をかけて信念を守ったからといってその信念の正しさが保証されるだけではない。 また、迫害が近づくのに恐れる修道女たちに、人には二種類ある、crainteをporterする人とtrainerする人だ、という台詞も印象的だった。「恐れを引き受ける人と引きずる人」というか、エティ・ヒレスムの日記を思い出す。まだ形にならない恐怖が人をつぶしてしまう、それが形になった時にその十字架を背負えばいいのだ、という表現だ。 今朝、ラジオで、「常に、より強い方が譲歩すべきである」とハンス・キュングが言っていた。ここ30年のシンプルな行動基準「より大きい方、より強い方が、より小さく弱い方に仕えたり守ったりするべきだ」と言うフレーズにすとんと加わった。大司教は修道女たちより明らかに強い立場にある。だからポール・ロワイヤル事件で譲歩して修道女たちの運命をアレンジすべきだったのは大司教なのだろう。妥協でなく譲歩、すっきりする。ポール・ロワイヤルの芝居を反芻していなかったらキュングの言葉は琴線に触れなかったと思う。生き方を少し変えてくれる芝居はやはり名作だ。 (2006.11.6) ピカソ美術館マレー地区のピカソ美術館に行く。久しぶり。ラジオで今やってるBerggruenコレクションの特別展がすばらしい、カタログも貴重なのでちゃんと買うように、とか言っていたので、何となく行く気になった。例によってプレイガイドで割増の予約券を購入したら、がらがらで損した気分。この前にピカソ美術館なるものに言ったのは2002年のバルセロナに溯る。まずその時のコメントをコピーしておこう。タクシーでピカソ美術館へ。ゴシック地区の旧市街はさすがに「ヨーロッパ的」だが、マドリードの建物のような濃さがなくて、なんだかすっきりタイプの町。ピカソ美術館は中世的な狭い路地にありながらえらく近代的でもある。ピカソの絵がうまいことはしっていた。父親が絵の先生だったし、小さいころから才能があったのだろう。デッサンも確かで初期の古典的な絵はすでに大家の風格すらある。しかしこの美術館で圧巻だったのはベラスケスの大作の模写というかヴァリエーションだ。白黒のものとか、キュービズム風だとか、一番先に浮かんだ言葉はアフォーダンスだ。ベラスケスのこの絵(プラド美術館で本物を見たことがある。中身がつまった宇宙的な絵だ)は目の前の光景を脳がインプットして分析して構築したものをもう一度アウトプットしたもので、脳とアーティストの業により二重に「説明」されている。ピカソはそのインプットされた後のまだ消化されないマチエールとしてのイマージュを知りたかったのだ。ものがどういうふうに見えるのか、それを我々の脳はどうやって意味を付与し、デザインしていくのか。ベラスケスの絵のさまざまな表現は、そんな知覚の錬金術の秘密を見ているような気にさせてくれる。我々はピカソの絵といえば福笑いのように目や口がばらばらについているなどというイメージがあるが、実は、我々の知覚がイメージを結ぶ前の生の状態であるピカソの絵をそのままインプットして、脳の中であるべき姿を構築しなくてはならない、たとえばベラスケスの描くポートレートを再現しなくてはならない。その再現は単なる形ではなくて、形の一歩手前の流動性を内包したままでいい。それを人間ではなくて鳥と風景で試したのが、鳩のシリーズだ。ベランダ、鳩と鳩小屋、遠景の海や空など同じような構成要素が少しずつずれて、色も形も変化しつつ、画家の内面とシンクロしながら「知覚の模索」ゾーンを引きずっている。「解釈」されきっていない、整理されていない生の力と言ってもいいかもしれない。(中略 ここでその後行ったガウディ関係の場所やルルドの話になる) ピカソが求めたものも、対象を空間や時間や関係性のもとにとらえて解釈し構成する画面が生成する以前の「あるがまま」の、生(なま)の何か、空間や時間の座標の中にはどこにも存在せず、しかし我々の「永遠の今」を想起させ刺激するような形で訴えかけてくる何かなのだ。それを心身の体験として感じさせてくれるのは、ひとつの生命の息吹のようなものの働きだ。ルルドで我々があるがままで愛されると感じるのは、突出した個の絶対肯定を感じるからだ。関係性の中で自分に否定的イメージを抱いているものほど、その肯定される感覚は強烈だ。ルルドで弱者が輝いて見えるのも、弱い部分の「今」に生命の息吹きがより強く流れこんでくるのが見えるからなのだ。この息吹こそ今を今たらしめている「愛」で、多分キリスト教的世界では聖霊とか神とか呼ばれ、ルルドでは聖母マリアに象徴される母なるもので、ピカソのアトリエにおいては創作のデモンであり天才の直観であったに違いない。 という感じだった。それで、その時の印象を保存したまま今度パリのピカソ美術館を訪れたのだが、やはり、どれをとっても技術的に「巧い」というのと、自分の欲望とか衝動とかをこんなふうに取り出して、対象にこんなふうに投影して、あるいは対象から自分の欲望とか衝動とかをこんなふうに抽出して、構成し直してしまうという力業がすごいと思った。感動的な砂絵もある。 ピカソは別に好きな画家というわけではないんだけれど、バルセロナで観たベラスケスのヴァリエーションのシリーズのおかげで、理解できるようになった。というと理解できるようになるくらい自分のレベルがアップしたように聞こえるかもしれないけれど、そうではなくて、「分からない」ことも含めて理解できるのだ。必然性みたいなのが納得できる。発想には自在な遊びの要素はたくさんあるのだけれど、だからといって偶然は一つもなく、現れてくるのはこれしかないというぎりぎりの色や形や線だ。静物画の色や形の重なり具合や点描の部分や軽重や強弱があまりにも完璧につりあっていて凝縮力があるのは、見事で気持ちいい。 ベラスケス・シリーズでは「問いかけ」をかんじたけれど、ここにあるのは「答え」ばかり。ひとつの肖像の中に正面と横顔がミックスしているというお約束のピカソ風表現があるけれど、これも同じだった。部分を描いていったら、いつか全体が生まれてくる鮮やかさ。そして全体がまた部分にフィードバックして、細部まで汎神論みたいに生き始める見事さ。こういう天才芸術家が、Berggruenなどを含めた炯眼のスポンサーにきっちり認められて、世界遺産みたいなステータスを得て、その作品が美術館で庶民にもアクセスできるというのは幸せだ。通常展示もついでにながめ、皿絵や立体も堪能する。 創作意欲が旺盛で長生きして多作なクリエーターはいろいろいるけれど、作曲家なら演奏を通さなければ鑑賞できないし、小説家なら読破も力業になる。画家の作品は美術館でけっこうまとまった量の本物と比較的短時間に出会えてラッキーだ。 (2006.11.6) ケ・ブランリー美術館、キーファー展、ティティアーノ展、モンテルランその1ケ・ブランリー美術館ここに集められたのは、ヨーロッパ以外の世界のいわゆる「原始美術」作品だ。民族博物館とか人類博物館を思わせるフォークロリックな感じだ。だが、たとえばアフリカ文化が近代以降のヨーロッパの美術界に前衛的な大きな影響を与えたことを考えると、妙に現代アートっぽくもあるシュールな雰囲気でもある。 折しもアフリカからの不法移民の強制送還などが話題になっているので、開館時に、マリ共和国の政治家が、これらのアートの多くは植民地政策の一環として正規の許可証なしに強奪されてフランスに来たのに返さないで取って置き、人間だけを押し返そうというのは矛盾である、と抗議していた。 オブジェの展示だけでなく、さまざまな儀式や舞踊や音楽なども定期的に実演紹介されている。最初はオーストラリアのアボリジニのものが派手に紹介され、その迫力の前に、やはり同時代的にこのように圧倒的な「原始」とか「未開」という修飾が頭をよぎる異文化、異世界があるのだと感心する。しかも、それがオーストラリアだと、フランスによる直接の植民地の歴史がないから、緊張緩和というか、ほら、強奪じゃなく友好だからというアリバイができてほっとするので、なかなかうまい選択だ。 フランスの大統領はみな任期中に美術館を残したがる。ポンピドーはポンピドーセンターを、ジスカール・デスタンはオルセー美術館を、ミッテランは大ルーブル(前に大蔵省だった部分をピラミッドと共に拡張)と国立図書館(テーマ展示館にもなっている)を残し、今年二期一二年の最後になるシラクは、原始美術を選択した。これは偶然ではなく、アジア文化を本気で愛し、アフリカや中東の「発達途上地域」を本気で支援していたシラクのこだわりが実を結んだと言える。2006年の1月30日に奴隷制の廃止記念日を世界で最初に祝ったシラクは、「インテリ=左翼」というイメージを嫌って自分をわざと馬鹿に見せる演出をしたという。ENAを16番で卒業(もちろん別の学年だがヴィルパンは25位、セゴレーヌ・ロワイヤルは95位)したのだから、馬鹿とは到底言えないのに。 セーヌの河畔によくまだこんなに広大な土地が残っていたものだと思われる場所で、思い切って周囲に「聖なる森(まだ苗木が多いが)」をイメージしたユニークな建物だ。美術館とはモノを展示するだけではなく、モノと人が出会う場所を演出するところだというコンセプトで、しかも、この美術館は、フランスものでもヨーロッパものでもなく、世界の他の部分全部、という「他者」との遭遇がテーマだから、舞台のセッティングが大きな意味を持つ。訪問者が自分でパネルを引き出して生地やアクセサリーを鑑賞するなどのパーソナルな喜びと、大きな不思議な空間をみんなで共有する集合的なわくわく感を組み合わせたものにしたかったらしい。 植民地云々の政治的な問題も避けて通っていない。何回かに分けて、その問題に関する公開ディスカッションが付属の「民衆大学」にプログラムされている。フランスがヨーロッパ以外の世界とどう関わってきたか、これからどう関わっていくのか、という過去・現在・未来のすべてを視野に入れなければこの美術館は「生きている場」として完成しないというわけだ。いかにもフランス的な自信に裏打ちされたものとはいえ、この誠実さは大したものだ。文化は政治であるというのがよく分かる。 夏に金沢の21世紀美術館に行って、その空間に意表をつかれて気に入った。それでブランリー美術館(アラブ世界研究所と同じ建築家による)にも期待していたのだが、何というか、まったく黒と白、陰と陽、朝と夜くらいに逆のコンセプトだ。21世紀美術館は明るく町のようで、透明感があって、内部と外部があちこち透けて見えて境界がはっきりせず、自由に歩き回れる。全体は低い円柱状で地面に張り付き、しかし、中に入るとそこかしこの展示室は丸や四角状で天井が高くなっている。美術館の通路が外光にあふれる街路で、展示室はそこに配置された建物の入り口みたいだ。建物状の狭い空間の方が空に近い感じがするので解放感がある。そんな美術館を上から俯瞰して見ると、円形の中にたくさんの丸や四角がでっぱって突き出している形になる。それがロゴマークにもなっているが、ひとつのオブジェのようだ。 ブランリー美術館はといえば、丸くなく横に長く、裏と表が全然違う。全体は高床式というかせりあがっていて、入り口から長いゆるやかな螺旋廊下を上りながらたどりつくようになっている。テーマパークの室内型アトラクションで長い列を作りながら期待に満ちて少しずつ進んで行くような感覚だ。タイムトラベル、異界への導入、一つの方向性を与えられた移民の群れ。たどり着くところはオセアニア部門だ。全体の天井は吹き抜けで高い。しかし暗い。セーヌ河の方はほとんど窓がなく、反対側の景色も金属板で遮られている。金属板は黒で、無数の穴が開いていて、その向こうにもまた別の穴のあいた金属板が重なっているので、歩くと光が波状効果でさざなみを作る。展示ケースのバックもほとんど黒だ。セーヌに面した方は、ところどころにやはり暗いブースが突き出していて、展示や映像を鑑賞できる。そしてこのブースの部分が、セーヌの方から美術館を見ると、壁一面に四角があちこちに突き出している形になる。21世紀美術館で垂直方向にでこぼこになっているデザインが、ブランリーでは水平方向にでこぼこになっているわけだ。垂直方向には、むしろ、吹き抜けの空間に、展示部分の天井が低くなっている。途中で階段があってテーマ別の展示コーナーが上にあるのだ。 セーヌと反対側の方は赤と黒の金属板が細かく重なっていて荒れた森に取り残された巨大な工場の廃墟みたいで重い。中には視覚障害者用の通路があって、両側がベージュのなめらかな革張りで展示とレリーフの説明がある。窓側の金属板と違って有機的だ。 展示物はと言えば、私にはオセアニア部門が突出しておもしろかった。木の幹をくりぬいた巨大な太鼓が印象的だ。全体にアフリカものよりも装飾的だ。日本からオーストラリアに旅行してアボリジニの文化を見た時はとてもエキゾティックに感じたが、パリのブランリーで見ると、アフリカやアメリカのコーナーと比べてオセアニアの方が親近感を持てる。地理的にいっても、やはりオセアニアからの南方系の先祖が日本に入っているせいだろうか。しかし、工芸ものとか儀式用のオブジェとか、装飾品を見ていると、この手の技術というのは、古今東西のヴァリエーションはあるにしても、いつでもどこでもそれぞれの最高の域に達している。これがいわゆる文明の利器だとか科学技術とか医療だとかなら、「先進地域」と「後進地域」で天と地の差があったり、同じ国でも古代と近代では雲泥の差があったりするので、「進歩史観」を信じたくなるのだが、「アート」系はそうではない。アボリジニの点描も、印象派の点描も、ウルトラバロックのぎっしり埋まった彫刻も、精巧な欄間彫刻も、あちこちの装飾品に見られる偏執狂的に細かい刺繍や細工も、伝統技術も天才の仕事も、すべて、「人間」の能力やこだわりや思いを完璧に反映し尽くした頂点に達している。そのさまを見ていると、ナショナリズムなんて笑えてくる。こんなすごいものを作り続けてきた人間の一員で良かった、と、みんな先祖、みんな世界遺産、と感謝したくなるのだ。異文化理解や視線がどうこうとか、比較がどうこうとか、ブランリーのコンセプトに語られているが、このようにせっかく地域別に分けて「世界の多様性」を見せてくれているのに、むしろ、コンテキストからの離脱を体験してしまう。 人体のコンセプトの比較のコーナーがあった。ヨーロッパとニューギニアと西アフリカとアマゾンの比較だ。キュレーターの解説に、人体のコンセプトは文化ごとに違うが、共通しているのは、身体とはモノでなく関係性であるということだとあった。身体はそこに住んでいるヒトに属するものではない。それは与えられたものだからだ。誰から?その両親だけから与えられたわけではない。先祖からの連鎖であり、要するに「世界の一部」なのだ。この身体のもつ「他者性」をどう捕らえるかにヴァリエーションがある。西アフリカでは身体は先祖のいる膨大な死者の国から支給される一種のリサイクル用品だ。ヨーロッパでは創造者である神の似姿のイメージ、近代以後は遺伝子型の即物的な目的論、ニューギニアでは男型と女型の関係性となり、アマゾンでは食うものか食われるものかという食物連鎖の関係性となる。 なるほど。文化の多様性はおもしろいが、身体をコンセプト化して文化に組み込むこと自体が人間の普遍的な特徴らしい。そしてそういう普遍性は自分の文化だけに埋没していたら見えてこない。いや自分の文化のコンセプトが普遍的であると思えてくるのだ。ヨーロッパのキリスト教的身体観は帝国主義的侵略者を通してグローバル化されようとした。その後、キリスト教よりも科学主義が優勢になって、今度は科学主義的身体観が文化を押し潰そうとしている。科学主義的身体観は特定の宗教や地域の伝統と切り離されているので一見「普遍的」に見えるが、無数にある「身体の他者性」のモデルの一つでしかないのだろう。 そう見てくると、ブランリー美術館そのものが、「ヨーロッパ以外の文化圏に住む人=新人類」を研究するために「人類学(それは新人類の学だったのだ)」を創始してポストモダンだの構造主義などの壮大な「相対主義」を生んだフランスのショールームに見えてくる。ここに展示されているモノはみなそのオリジナルの土地や気候や歴史的文化的コンテキストから切り離されている。その去勢されたモノたちをフランス風インテリジェンスの中に配置して、フランス風ユニヴァーサリズムの担保にしているのかもしれない。 どちらにしても、いまや「先進国」の人間の身体はパーツ別に疎外されて、美容産業、健康産業、ファッション産業から、児童買春、臓器売買まで、消費や金儲けの対象にされている。「文化」そのものも、コンテキストがどうこういう次元を超えてヴァーチャル化が進んでいる。そういう世界に暮らす人間にとって、ブランリーのいかにもフランスらしい人工空間で出会うモノの増幅されたパワーは新鮮だ。去勢されたモノたちは、フランス風の「脳内ユニヴァーサリズム」の空間で新しい力を獲得しているからだ。ちなみに21世紀美術館とブランリー美術館の共通点は植物の壁をデザインするパトリック・ブランの作品である。名古屋万博の緑の壁を思い出して、芸術へのエコロジーの侵犯とか馴れ合いを感じてしまうのは私だけなのだろうか。 アンセルム・キーファー展マレー地区の外れにあるギャラリーThaddaeus RopacにAnselm Kiefer 展を観に行く。この人の絵は写真一枚観ただけで脳の奥をつかむ。「贖罪とその不可能性」の普遍的で直感的な理解をつきつけるからだ。Paul Celanの詩に捧げる画だから、詩(の訳)が同時に展示しているのだと想像していたが、ドイツ語のみ。インスタレーションに近い構成と遠近法のおかげで三次元に近いイメージの大画面を見ると、雪の収容所、荒野の古戦場、そこにCelanの詩(多分)が刻まれていて、画面に突き刺さった無数の枯枝は、壊れた鉄条網の名残ではなく、アルファベットの一部に見えてくる。詩とは、こうして生まれてこうして朽ちていくのかという実感。画の下方に錆びたベンチや椅子が張り付けてあったり吊り下げてあったりしてその上にもまた枯れ枝の束が置かれていたり、木製の船の単純な模型が遭難したように置かれている。キーファーは1945年生まれの戦後世代だ。戦後に生まれて育ったドイツ人が、ホロコーストの歴史を発見する時のトラウマについて、我々はあまり想像しない。しかし、少なくともある種のドイツ人にとっては、戦後の長い時間は、そのまま長い「喪」の時間だった。あらかじめ失われた何か、人生は終わることのないセラピーでもある。「喪」には三段階ある。まずは「拒絶」、反抗の時期、そして、慨嘆、悲嘆、絶望を経て、最後に別れの受容、喪失の受容の時期が来る。 キーファーの絵は「記憶の劇場」と形容される。それはホロコーストによって破壊された何かだが、その原型はゲルマン神話に溯る。ドイツでは、アーティストのアトリエは、ゲルマンの森の進化形態であるそうだ。だから彼の描く荒野は、ひとつのものの終わりであると同時に次のものの始まりもはらんでいる。どんなに索漠としていても、ゲルマン的「自然」の生命力の循環が潜んでいる。Celanは1970年に自殺した。うまく訳せないがこういう詩句がある。 「閃光が滅したその場所に、「時」がたたずんでいた。偉大なる養いの母である「時」の上から、上に向かい、下に向かい、彼方へと、あるもの、あったもの、これからあるだろうものが、もうすでに育っていた。」 永遠に続く「喪」を通して、キーファーは「喪」を超えた永遠を垣間見せてくれる。 リュクサンブール美術館のティティアーノ展もともと古典的な肖像画系はあまり興味がなかった。それから豊満な裸婦がベッドに寝そべってほほ笑んでいて犬だの天使だの召使だのが配されている絵にも特に感動したことがない。ところがティティアーノと言えば、肖像画と横たわる裸婦の本家みたいな人だ。上院の建物とつながるリュクサンブール美術館での展覧会にもあまり食指が動かなかった。それなのに予約券を買ってまで行く気になったのは、広告にドラクロワの日記の一節が引かれていたからだ。「だれでも120歳になれば、かならずティティアーノが一番好きになる」というやつだ。ヴェネティア派の画家ティティアーノは19世紀のフランス美術界ですごい人気だった。ドラクロワの傾倒ぶりは有名だし、アングルも模写しているし、スタンダールも褒めたたえている。ボードレールもラファエロとティティアーノを並べたし、何よりもドラクロワを称賛することで間接的にティティアーノを称賛した。 私はドラクロワが好きだ。そのドラクロワが、「だれでも120歳になれば、かならずティティアーノが一番好きになる」と言う。そう書いた時のドラクロワは若かったと思うし、第一、120歳まで生きる人などほとんどゼロなのだから、誰もティティアーノを理解できないのではないか? 私はドラクロワの言葉を理解したかった。120歳の半分にも満たないとはいえ半世紀は生きてきたのだから、ティティアーノの良さが分かるかもしれない、そう期待して、ティティアーノを通してドラクロワと出会うためにリュクサンブール美術館に出かけたのだ。 ティティアーノ自身は120歳とはいかないが、88歳(1488−1576)まで生きて、最後まで現役だった。しかも、金と名声と自由を欲しいままにしていた。現代ならピカソなんかを彷彿とさせる。肖像画家として高名だったが、注文主にこびることなく、「肖像画が欲しいのですか? ではまず支払いを」という感じだったらしい。アーティストとして王侯貴族と尊厳をもって対等にわたりあった最初の人と言われていて、音楽ならモーツアルトが最初だとティティアーノと並べていた人がいたが、30代で失意と生活苦の中で死んで共同墓地に投げ込まれたモーツアルトとは大分違う。ティティアーノは死んだ時も教会に埋葬されている。貴族なみの扱いだった。というか、もともと公証人や判事を出す名家の出身で、画家としても王たちから特権をもらった。せっかく88歳まで長生きしたのに、死んだのはベネティアを席巻したペストのせいだった。葬送の行列の絵が残っているが、ペストで死んだ普通の人の死体が道端にごろごろしている荒廃した町で、ティティアーノだけが立派な葬列をしてもらっている。 生き方も禁欲的とはほど遠く、作品においても官能性を大切にした。晩年は筆よりも指に絵の具をつけて描いたという。自分の「気持ち良さ」を追求したのだろう。その結果、これならドラクロワに影響を与えたのがよく分かるというくらい、印象派的なタッチや色使いになっている。60代以降は、フェリペ2世から生活を保証されたので、ますます自由に芸術の喜びを追求できた。肖像画よりも神話や宗教ものをたくさん描いた。77歳の時のユディットの画は、今敵の首を掻き切ってきたばかりのグロテスクなシーンなのに、上半身だけ見ると、無邪気で官能的なベネティアの貴族の女という雰囲気だ。描いてるティティアーノの喜びが伝わってくるような画面だ。 イエスが茨の冠をつけられるシーンの画は、50代のものと80代のものが似た構図でふたつ残っているのだが、50代のものの古典的完成美が80代ではドラマティックでずっと造形的になっている。色をまずおいて、そこから筆や指で形を練り上げていく、表出させていくという感じだ。新しい。これを観ると、ティティアーノなしには近代の絵画はなかったろうと言われているのが納得できる。 でもドラクロワの日記をよく読むと、要するに若者は奇をてらったり、激しいものが好きだ、だからティティアーノのよさはあまり分からないと書いてある。120歳まで生きて、「元気になる」とか「刺激をもらえる」とか「つっぱる」とかと無縁になって関心をもたなくなっても最後に残るのがティティアーノの良さだということらしいが、それは別に地味でおとなしいとかいうことではないようだ。晩年のティティアーノの画は自由と気持ち良さが突出している感じだからだ。「挑戦」ではなくて「三昧」。 サルトルがベネティアとどうしても肌が合わなかったことについて、ベネティア大好きのフィリップ・ソレルスが、サルトルはピューリタン的出自だから快楽が芸術の基礎になるということが理解できなかった、または許せなかったのだみたいなことを書いている。フィリップ・ソレルスにはいわゆる「信者」のアイデンティティはないが、カトリック的な、あるいはカトリックのバロック的な官能性を受け入れたり愛したりすることを全然恐れていない。 先日、キーファーの展示をやっている画廊の帰りに、すぐ近くにピエトロポーリの個展をやっている画廊があったので寄ってみた。ピエトロポーリは少し前は端正で繊細な単色系の線描のイメージだったのに、今回は肖像画シリーズだった。しかも古典的な肖像画をベースにしてその下半分とか装飾品や髪から絵の具が流れているような画だったり、暗い町の風景の中に明るい肖像画がはめこまれているとかいう構図だった。古典的な肖像画の背景をパステルブルーに塗ったりして、一種、コンピューターによるグラフィック処理を連想させる。そこでは肖像画がひとつのエレメントであり素材なのだ。 ピエトロポーリを観た後であらためてティティアーノの肖像画を眺める。当時の権力者をそれほど夢中にしたのは何だったのだろう。友人であった文学者Aretinoの肖像画があり、それをみたモデルが「似てるのは認めるけれどこんなのやだ」みたいなことを言ったらしい。確かに顔は立派だが衣服のシワなどの処理がプリクラ写真にペンを入れたようなぞんざいさで、仕上がっていないと思われるのも無理はない。しかし、写真にペンを入れてイラスト風にするという今では普通のイメージをこんなに無造作に画にするとは斬新だ。ディティールの思いきった軽さと自在さがティティアーノの魅力の一つだ。 しかし、アレティノがあわてたのは、ひょっとしてそのためではなく、自分の表情に加えられた一種の「ただ事ではない感じ」のせいかもしれない。優れた肖像画というと、実物よりも存在の真実に肉薄しているとか、本質を描いているとか、リアリティがあるとか、モデルの人生や思想まで写し取っているとか、何にしろ、「どう見えるか」が問題となると思うが、ティティアーノの肖像画をみていると、彼がモデルをどう思っていたか、その絵をどんなふうに描いたのかという思いの投影を想像したくなる。 話はとぶが、この夏、京都の国立博物館で、超有名な『源頼朝像』と『平重盛像』を鑑賞した。アンドレ・マルローがこのふたつの前にくぎづけになって、じっくり観たうえで、「重盛像の方が名作」と確か言ったのではなかったか。気になって今調べたら、1960年に「白熱の凝視の結果『重盛像をもってタカノブ(藤原隆信)の代表作とする』と宣言し、従来の隆信観を一変せしめた」そうだ。「内的実在とは『気』ということだ」と竹本忠雄に説明してくれたそうだ。頼朝像の方が保存が良くて人物もメジャーだから代表作だったのだが、マルローはそんな歴史は知らないし、ヨーロッパ至上主義の反動で、古く遠い文化ほど人類文化の祖型だとか思いたかったので、剥げた方がありがたそうに見えたのかもしれない。 1922年に日本に来たアインシュタインも絵巻を観て、視点を分散する空間把握に感心したという。竹本忠雄によれば「『旧文明』ヨーロッパなればこその高次元の日本観」というわけだ。もっとも、すでに19世紀末のフランスにおけるジャポニズムの影響も大きかったのだが、それは、アフリカやオセアニアの仮面を見て感動したのと同じだ。ヨーロッパは、原始文化を高次元で評価して、ブランリー美術館の誕生・・・ 別に皮肉を言っているわけではない(まあ、何もフランスの文化相に隆信の代表作を決めていただかなくてもいいとは思うが)。そんなわけで、私もこの夏、京博で、隆信の二作を前に「白熱の凝視」をしてみたのだが、マルローになるかドラクロワになるか120歳になるかしないと、「重盛像の方が内的実在がつまってて名作!」との結論に至れそうもなかった。 それで、ティティアーノだが、彼の肖像画に内的実在を感じるというより、ティティアーノはモデルである権力者のオーラに興味をもっていたのだなあと思ってしまう。肖像画を描かせるほどの権力者たちは、常人とは違うそれなりのオーラがあったに違いない。ティティアーノは肖像画家というプロの職人だから、普通はまず顔を似せながら欠点を修正し、スタイリストのように小道具で演出し、なおかつ「威厳」とか「高貴さ」とかの表現を付け加えるというのが普通のやり方だったはずだ。しかし、ティティアーノは、きっと、根っから人間が好きで、人間観察が好きで、強烈な個性というものが好きなのだ。そしてそれをもとにした造形がとてつもなく好きなのだ。こういう純粋な人間大好きで仕事大好き、アート大好きなやつが、才能があり世渡りもうまく女にももてて、成功して元気で長生きするなんて、幸せすぎてやっかむ気にもなれない。彼の存在の根にあるその軽やかさ、誰でも、もし120歳まで生きたら、人生の重みが一回転してゼロになって共鳴できてしまうのだろう。日本ではその半分の60歳で生まれたときの暦に戻る還暦だ。今調べたら、ドラクロワが120歳云々を書いたのは1957年で59歳、没年は6年後である。彼にも、120歳とは言わないがティティアーノくらい長生きして、もっと多くの作品を残して欲しかった。 モンテルランの『子供が領主の町』テアトル・デュ・ノール=ウエストの秋のシリーズはモンテルランだ。有名な『ポール・ロワイヤル』をはじめ、観たいものがたくさんあるので楽しみにしていたのだが、体調を崩していたこともあって10月22日にようやく『子供が領主の町』に行く。読んだことがない。信仰を失った神父の話ということで、今研究中の『無神論の系譜』にインスピレーションを受けたかったのだ。舞台は、あるカトリックの寄宿学校の指導司祭プラツィの事務室に限られ、段差のないひと部屋であるこの劇場のつくりからして、観客は部屋の中の黒子、隠しカメラになったような気がする。神父の事務室に呼び出された少年スプリエは激しく叱責を受けるが、どうやら過去に二度も放校されそうになったところを神父に救ってもらったらしい。今回は何やら、寄宿生でない通いの最上級生スヴレと付き合うなと言われているようだ。スヴレは学校でなく実家の教区の教会に通っている、父親がいない、母親にだけ育てられた子供は要注意だ、悪い影響を与える、と神父は厳しい。少年の手は汚れている。教室に戻る前に手を洗うように言って、神父は自分のきれいなハンカチを渡してやる。 次にスヴレが入ってくる。スヴレは非常に優秀で早熟な16歳だ。長い手足をどうしていいか分からないかのようにたえずぶらぶらさせたり肩をいからせたり、非常に不器用に見える。彼は自分からスヴレと別れることを申し出たりして、結局神父の心を動かしてしまう。このシーンでスヴレが「ぼくは「pieux」ではないが「la foi」は持っていると言うのが印象的。信仰はあるが敬虔ではない、つまり、信心ぶりを外に現さないという意味もあるし、何か本質的な部分できっちり自己弁護をする強さがある。 それは、劇の終わりで、この神父が実は信仰を失っていることを認めるところに呼応する。神父は信仰を失っているのに敬虔な生活を続けているわけだ。スヴレは神父がスプリエに寄せる愛情も見抜いている。自分は最初にスプリエを見た時から友達になりたかったけれどずっと自重していたと語る。 この二人を一目ぼれさせるスプリエは金髪のウェーヴのかかった前髪を真ん中で分けてやや長髪で、わがままで、単純な子供の乱暴さを持っている。典型的な「いたずら天使」タイプだ。しかし自分に向けられる愛情については敏感で、愛されるものの強さと愛されることをたえず必要とする者の弱さとを合わせ持っている。 話は変わるが、10月26日、フランスの司祭が教区の少年を性的虐待したという罪で10年の懲役が決まった。この事件が注目されるのは、フランスの教会史上始めて、教会側が被害者側の原告団に与したことである。これまで神父の不祥事というと、必ず司教がもみ消すとか、教会の内輪でかばい合うというのが相場だと思われていた。今回は、多分、ごまかしのきかない事実関係があらわになっていたせいかもしれないが、司教が原告側についた。被告をかばわないまでも口をつぐんでいることだってできたろうが、敢えて、事件は「不祥事」でなく「犯罪」であり、それを糾弾する姿勢を見せたのは新鮮ではある。それで、この裁判で勝利して「これでようやく人生をリセットして始められる」と語る23歳(事件当時は13歳)のジュリアンくんという青年が、恋人(女性)と手をつなぎながらTVに映っていた。このジュリアンくんというのが、スプリエにそっくりなタイプなのだ。10年前彼が13歳だった頃は天使のスプリエで、神父の煩悩を全開に引き出したのだろうと想像しやすい。こういうタイプの少年では、その無知も乱暴も不服従もみんな「無垢」の輝きを帯びる。スプリエ役の若者は、ステレオタイプだが説得力に満ちているのだ。 二人の少年は結局、事務室で語り合うチャンスを与えられて、その時に「血の盟約」を交わす。それは愛とは言わず友情と言われるのだが、ナイフでそれぞれの手を傷つけて傷口を擦り合わせるなどの「儀式」が性的な匂いを持つのは当然だ。それを見ている観客にとってもなかなかインパクトがあるが、それは別にそれが「禁断の愛」だからではない。スヴレはスプリエに、この先、自分たちの関係(アソシアシオン)において僕は絶対に自分の利益(得になること=interet)を考えることはない、いつも君の利益だけを考えて行動することを誓う、と言う。それを受けたスプリエは、この先、自分たちの関係において、僕はきっと君に苦労(苦痛=peine)を与えることはあるだろう、でも決して君に失望(deception)を与えないと誓う、と答えるのだ。 この天国のような単純さはどうだろう。若者達は、神学や形而上学に悩む前に、愛の本質にやすやすと到達している。実際、この芝居を見て、私にはこれが「同性愛もの」だとは思えなかった。ただ、「愛」の話だと感じられたのだ。 最後には少年たちはふたりとも放校される。アベ・ド・プラツィ神父が事務室に戻って来た時に、スプリエが内側から鍵をかけたからだ。プラツィは、信頼を裏切ったと言ってスヴレをなじって放校する。校外でももう決してスプリエとあうなと約束させ、スヴレはそれを受け入れる。その後、校長である神父がスプリエをも放校したことを知ったプラツィは動揺する。校長はプラツィに二度とスプリエと会わぬという犠牲を捧げるようにと申し渡す。プラツィは、スヴレと違ってそれを受け入れられない。ここでプラツィは信仰を失っていることを告白するのだ。犠牲と「寛大さ」や「気前の良さ」を結び付けるキリスト教のレトリックが彼には我慢できない。それはこういうことだ。 キリスト教の根本教義には、イエス・キリストが罪なくして十字架にかけられたのは、罪人である全人類を救うためだというのがある。「受難」は残酷なもので、イエスはその前から恐れ、その間も血だらけになり、痛み、渇き、苦しんだ。しかしこの苦しみ、ただの苦しみではない。苦しければ苦しいほど、その大きい「犠牲」がそのまま、人々を救う「恵み」の大きさになる。だから、キリスト教の伝統には、利他のために苦しむという、 いわば「贈り物」としての犠牲の考え方がある。痛みや苦しみは、耐えるもの(ネガティヴなもの)でなく捧げるもの(ポジティヴなもの)になるのだ。 だから、校長はプラツィにスプリエと合わぬことを命令するという代わりに、「犠牲を捧げてくれ」と言ったのだ。神父から神父への教育的配慮だ。しかし、スプリエへの愛にとらわれているプラツィにはそのような思いやりは通じない。犠牲は犠牲だ。ただつらく苦しいだけ。犠牲を愛の行為というのはプラツィにとって偽善に過ぎない。彼は苦しく死にそうだ。校長は過去に自分も同じような体験をしたがそれをキリスト教的精神で乗り越えたと告白さえする。それなのに目の前のプラツィは壁のように拒否するだけだ。校長の無力感と絶望も深い。 この二人の年配の神父の苦悩に比べて、少年たちのかわした誓いはなんと清々しかったろう。校長が悩みの末に達したキリスト教的悟りの域にスヴレはもういる。悪ガキのスプリエでさえ「たとえ苦労させても失望はさせないから」とスヴレに答えたのだ。このやりとりは愛の告白の真実を示しているのだろう。滅私利他と信頼、これに到達すれば人はもう宗教など必要としないし、これを得られなければ、宗教など意味がない。神を信じるということと人を信頼するということの間には親和性があるのだろう。スヴレが「僕はpieuxでないけれどfoiを持っている」と言うのも多分そういうことかもしれない。「真実は人を自由にする」ということばが好きだが、「真実の愛」もきっと人を自由にするのだ。人を縛り煩悩と執着の地獄で焼くような愛は、真実の愛ではないのだろう。 1951年の作品だが、フランス語も台詞も古くなく、時代も背景も超越している。フランス演劇におけるdeclamationとリアリズムとの関係についてもおおいに考えさせられる。 モンテルランのフェスティヴァルのうちに、あと3作品を観る予定なのでまた報告します。 (2006.10.31) ピサロとセザンヌ展(オルセー美術館)気になっていたピサロとセザンヌ比較展に行く。この二人は仲良しで、1865年から1885年の20年間は特に、ピサロのいたポントワーズやオーヴェールにセザンヌが滞在して同じ風景を描いたりしている。それを2枚ずつ並べては比較しつつ展示するというのだから、興味深いと思っていた。イメージとしては、同じ風景を、点描画風のぼやーっとしたのと、ぐいぐいはっきりしたのが対照的に・・・とか想像していたのだが、行ってびっくり、スタイルの違いとかじゃなく(スタイルはむしろ似てるといってもいい)、変なたとえだがモーツアルトとサリエリの作品をいちいち並べているようなものだった。もちろんモーツアルトはセザンヌで、セザンヌは天才で、その天才を真に理解していたのがピサロだということだ。ピサロのおかげで、この展示会を見た人にはセザンヌの天才ぶりが啓示のように分かる。セザンヌは別に私の好きな画家ではない。学生時代、高階秀爾さんの講義で、メルロ・ポンティの『眼の隠喩』だったかのテキストを読んだ。そこのセザンヌ論に感心したのが強烈な記憶で、それ以来セザンヌは私の中で現象学の人質みたいな位置に閉じ込められていた。セザンヌのリンゴを見ても、メルロ・ポンティのリンゴばかりが見えていた。 それが、今回、同じようなモチーフのピサロとセザンヌが並んでいるのを見たら、両者の違いは画然としている。同じ風景を描いたとする。実際、ピサロの風景画を借りたセザンヌがそれを自分風に模写したものもあり、これによって、セザンヌは、テクニックに新規さがあれば、題材には奇を衒う必要はないと悟って、神話などのテーマをやめてしまったそうだ。では、同じ木々と道と空と家と親子がいるふたつの絵のどこが違うかというと、ピサロのそれは、見るものを絵の中の世界に誘うディテールがある。あの道をたどり、向こうの山の麓を歩き、鳥になってあの空を飛んだり、あの親子とすれ違ったり・・・ これに対して、セザンヌの絵からは、ディテールの集積じゃなくてたった一つのクオリアが発せられている。クオリアというのは脳科学者の茂木健一郎の唱えるあれだ。言語化できる情報の中身ではなくて、それが心にもよおす感じ、というところか。何を描いているかはほぼ問題じゃなく、どういう風に描いているかさえあまり問題ではない。モネのカテドラルだとか、スーラの点描画なんかは、好き嫌いとは別に「おおっ」と感嘆してしまう芸や技術があるし、ゴッホの筆遣いを目で追うと胸がつまってくるが、セザンヌの絵は、色があって、そのクオリアがどーんと呈示されている。彼の絵が、当時なかなか理解されなかったこと、しかし、結局ここからさまざまな現代絵画が生れたということがよく分かる。キュービズムや抽象画などの洗礼をすでに受けている我々だからこそ、あるクオリアを提供するだけのための絵というセザンヌの新規性がはっきり目に入るのだ。 そのクオリアは、マドレーヌを食べたら幼年時代を思い出すというような個人的な情感でなく、なんというか、セザンヌが提供したいと思ったクオリアだ。僕が、天才が、ここにいるよという存在感の発信でもあり、もっと言えば、全部、かぶっと食いつかれるのを待っているような、充実したリンゴの果肉なのである。風景も木の幹も、人物も、みな、リンゴ。リンゴのクオリア、つまり、セザンヌの「僕はここ、僕は生きている、それを証明することができる」という自負、絵の具の一刷毛で、果肉が詰まった、みずみずしい香りのリンゴの味のクオリアをぽんと突きつけられる技量、それはすごい。でも、当時の人にはそれが分からなかった。9歳年上のピサロにはそれが分かり、セザンヌを褒め称えた。セザンヌの方は、ピサロが自分の影響を受けていたまま描き続けていたらすごいものになったろうと言った。晩年のピサロが点描画の影響を受けて、場の喚起力をなくしたことが念頭にあったのだろうか。 この二人は、二人とも、裕福なブルジョワの出身で、どちらの父親も、息子が画家になるのを嫌った。母親は援助した。そういうブルジョワの余裕と自尊心がどちらにもあり、なかなか世に認められないセザンヌの自尊心は傷ついていた。当時の人に分からなかったセザンヌの天才ぶりが、どうして我々に分かるのかと言えば、前述したように、セザンヌ以降の現代美術の展開を知っているからだ。クオリアの提示がそのままでアートになり得ることを知っているからだ。ピサロはそれを知らぬ時代の画家だったのに、セザンヌの新しさを評価した。セザンヌを世に出したこの一点で、ピサロの価値もある。 ピサロも透明感とのびのび感があって、どこの家の客間にも誰もが一枚は欲しいなと思うような絵だ。心のクオリアとかを話題にせずにすむ。モネやシスレーが水の画家で、セザンヌやピサロは土の画家と言われているが、この2人が水を描いた絵も並べてあり、ピサロはなかなかの腕だ。セザンヌはリンゴだ。というか、水もリンゴも、中の詰まった、セザンヌ流クオリアの流出。 セザンヌは故郷のプロヴァンスに戻ったが、ピサロはなぜか一度もプロヴァンスを訪れなかった。プロヴァンスの強烈な光は風景をつぶすと言ったらしい。しかしそのピサロの故郷はもっと南のアンチーユ諸島だ。アンティーユの光にトラウマがあったのか、それとも、光を御することで絵の道を追求したからか。まあ、緯度が高くなると、太陽の高度の差が夏冬で大きく変わり、色も青っぽくなるドラマチックな感じがあるから、ピサロは多くの印象派の画家のように北の方が好きだったのだろう。 (2006.3.19) 二つの展覧会(グラン・パレ)新装なったグラン・パレに久しぶりに出向いた。昔と違って、入るのに行列ができることから、時間指定の予約券を購入することにしたので、一度に続けて二つの展覧会に赴くことにした。ウィーン1900年展とメランコリー展だ。宣伝されていた初めの頃は、この二つは同じものかと思っていた。クリムトやエゴン・シーレを見ていたら、何となく、頽廃=メランコリーが重なったのだ。実際は、メランコリーはギリシャから現代までのメランコリーのイメージの変遷とその美術的な展開という典型的なテーマ展で、しかし、1900年ウィーンの画家たちも、その光で照らしてみるといっそうよくわかるという面白い補完性を成している。実際、メランコリーの問題は、西洋哲学のキイ・コンセプトであって、東洋なら煩悩とか諸行無常とかが問題となるシーンで、西洋では欝というブラックホールが口をあけ、それをいかにしてポジティヴな境界領域として解釈しようかというのが永遠の西洋の課題となった。怠惰が七つの大罪のひとつとなり、「怠惰という誘惑」が擬人化されたのも面白い。また、ネオ・プラトニズムとの関係、それがラテン世界と、ゲルマン世界、ヴィクトリア朝の英国で、全く逆の展開をしたこと、アングロサクソンのプラグマティズムが16世紀にはもうはっきりとラテン世界と一線を画することも興味深い。 今の世界は、西洋化したせいか、鬱病が幅を利かせている。鬱病にまつわる、優越コンプレックスも面白い。最近、私がはまっている、レオナルド・ダ・ヴィンチとラモーの天才の比較論にも光を投げかけてくれた。 ここでは、展示の中で特に驚いたオブジェを3点挙げよう。ひとつは15世紀末のストラスブールの木彫の上半身で、頬杖をついたポーズは確かにメランコリーなのだが、とにかく、この時代の彫刻のイメージを覆すほど「新しい」。アニメを見ているような感じだ。 次は同じストラスブールの17世紀のミニチュアの棺で、メメント・モーリというか要するに生のはかなさを示すためのオブジェか、博物学的な好奇のマニアックなコレクション(さまざまなサイズの胎児の骨を構成した細工物もあった)なのか、よく分からないが、これ以上ないほどリアルに、腐りかけの屍体をミニチュアで再現している。そのスーパーリアリズムは、グロテスクとか猟奇を超えている。象牙でできた骨は全部露出しているのだが、いろいろなものが腐って溶けて流出しているのが立派な棺の内側の布に染み込んでいる。日本でも野ざらしの屍体がだんだん腐っていくのを写生した有名な絵があるけれど、あれの方が、まだ、エコロジーというか、土に返るとも思える。棺という環境と一緒に再現されたこのオブジェのもたらすショックは、こういう「死後の姿」の知識を抱えて生きる人間は、確かにメランコリーをオーガナイズせずには文化を築けなかったろうとおもわせる。 三つ目のオブジェは、オーストラリアのロン・ミュエックが2000年に製作した太った裸の男(座高が2メーターを越す大作)が部屋の隅に座っているやつで、こんなもの、全然見たくないのに、みんながそこに吸い寄せられていく迫力がある。病気で、多分広場恐怖症で、醜くて、意地悪で、自分が不幸だと思ってて、なんだか不潔で、アンティパティックで、肌のしわや、足の爪まで、どこもみんな気持ち悪い。しかしみながこんなものに惹かれるというのは、この手のものに対するレセプターが多くの人にあるということで、その驚きがこれをアートにしているらしい。 絵では、デューラーだのクラナッハだのゴッホだのムンクだのといった贅沢な作品は別として、やはり軽い衝撃を受けたのは、ポーランドのヤセク・マルツェンスキーの1894年の大作『メランコリー』で、当時のポーランドの政治的な絶望状況を描いたのだそうだが、ほんとにびっくりの構図だ。右端の窓に、黒いヴェールをつけた修道女のような女性が外から頬杖をついて寄りかかっていて、左端にキャンバスに向かう画家の後姿、あとは、その窓に向かって、内部から、怒涛のように人物群が押し寄せるのだが、学校の教室のようなところに、ぼーっと座ったままの老人もいれば、革命軍か暴徒のような者、パニックに陥った少年たちのようなのがわーっとせめぎあって、空中浮揚みたいになっているありさまだ。地味な自然主義風のタッチと全然マッチしていないアレゴリックというか、夢の中というか、突き抜けた構図の驚きの他に、こういう暴力的なパッションと絶望と、諦めと静謐さが一緒に詰め込まれている驚きが加わる。ポーランドって・・・と改めて思ってしまう。この画家に、100年後にポーランド人ローマ法王が生れることを教えてやりたい。 もうひとつの『ウィーン1900年』展も、意外に興味深かった。昔ポンピドー・センターで『パリ=ウィーン展』を観て以来、クリムトも久しぶりだが、今回は、肖像画と風景画が別に展示されていて、はっとさせられた。特にエゴン・シーレの天才ぶりに感心する。彼の人物デッサンはどんなにうまくても、あまりにも「rude」で「cruel」で、痛くて、とても自分の部屋に飾る気はしないのだが、風景画の素晴らしさ、まるで、内部は鼓動しているがじっとうずくまっている動物のような、オーガニックな静けさがあって、どきどきする。その遠近構成もはっとさせられ、今、ダ・ヴィンチについて書いているのだが、このような遠近法を彼に見せてやりたかったと思う。クリムトの金箔もだ。 ダ・ヴィンチはヴィザンチン風の宗教画から抜け出したがった。金箔を貼れと注文されても嫌がった。変な話だが、19世紀末のヨーロッパ美術が影響を受けた日本の浮世絵風の遠近感とか、金箔蒔絵や襖絵風の装飾とダ・ヴィンチが直接出会っていたとしても、彼にはその斬新さが分からなかったような気がする。しかし、クリムトの金や、シーレの遠近処理をタイムマシンでダ・ヴィンチに見せたら、きっとそれ以後の彼の全作品は変わっていただろう。(なぜかというと長くなるから、またいつか別にのところで書こう。) ダ・ヴィンチは絵画に純粋科学の夢を託し、ラモーは音楽に純粋科学の夢を託した。フランス・バロックがイタリア後期ルネサンスからネオ・プラトニズムを介してそのまま発展した(イタリア・バロックは別の展開をする)ことを思うと、この二人は兄弟みたいなところがある。 そんなわけで、年末のこの二つの展覧会は刺激的だった。最初の連想に戻ると、メランコリーは頽廃でなく怠惰と親和性があり、怠惰を頽廃にしないためには、抽象が必要で、その綱渡りをうまくこなすには、やっぱり土星のメンタリティが似合っていると思う(ルネサンスの時代では、メランコリーは土星の影響を受けていると思われていたのだ)。どこかに冷たさが必要とされる。グラン・パレを出たら、冷たい空気の中に、シャンゼリゼのクリスマス・デコレーションが輝いていて、プラトンがイデア理論を思いつくためにも、星が冷たい光を降らせるギリシャの冬が必要だったかななどと考えてしまった。(2005.12.21) ダルデンヌ兄弟の『L'enfant』「考えるタネ」の『暴動について』の論考を書いた後で、今年カンヌ映画祭のグランプリ作品ベルギーのダルデンヌ兄弟の『l’enfant』(子供)を観にいった。近頃フランスを襲った「暴動」について、子供の犯罪ということで、つらいと書いたが、昨日のTV番組で、サルコジ内相が、「暴動」のきっかけの一つになった自分の言葉を絶対引っ込めることなく、自分は若者=クズと言ったのではない。人の車にガソリンを撒いて火をつける者、これはクズではないかね、のような趣旨で押し通した。一見正論なので、誰も文句を言えない。あなたがバッグを持って歩いている。突然、子供がそれをひったくって、待機しているスクーターの後ろに乗って逃げる。その子は犯罪者、社会のクズ、公共の秩序と安全を侵す悪者で、外国人ならさっさと国へ帰ってもらおう、と言われると、誰でもほんとだと思う。パリもオペラの界隈では、特に現金を持っていると思われているる日本人が、バイクに乗った引ったくりによく襲われ、すぐに離さなかったので引きずられて大怪我をした女性も知っている。自分の子が不良に囲まれて恐喝されたら相手を殺してやりたいと思う親だっているだろう。 そして、この映画は、14歳の未成年を手先に使って、引ったくりや盗みをさせて、自分もろくなことをしない20歳の青年のことを描いている。同情の余地は全然なく、サルコジにクズ呼ばわりされてもしょうがない。現に、生まれたばかりの自分の子を売り飛ばして、恋人からもクズ呼ばわりされている。 それが、ル・モンド紙の映画評でいみじくも言われたように、「この主人公と、全く共通点のない観客が、あっという間に感情移入して涙する」のである。この手の映画は、シテ(暴動が起きる巣となった低家賃マンモス団地)の若者たちがどっと観にいくようなタイプの映画ではない。社会映画好きかインテリが行くような映画だ。つまり、まさにこの主人公と何の共通点もない人たちが見る。 そして、たった1時間半で、秩序を破壊する者、自分たちの潜在的加害者、クズが、また犠牲者であること、愛と恐れと葛藤との中に生き、唯一の野心は「普通に生きること」だったりするのを、理屈でなく、実感で知るのだ。ポピュリストが「良識ある正義の市民」の恐怖を煽ったり、法治国家の正論を掲げているだけでは永遠に分からないことを、アートが一瞬にして分からせてくれる。 この兄弟監督の『ロゼッタ』も、1999年のカンヌで主演女優賞を得た。あれもつらい映画だった。18歳の女の子がいて、好意を寄せる同僚がいるのに、ロマンス沙汰にならず、悲惨が勝つのだ。ロゼッタは、明らかに、『l'enfant』のブルノよりも強く、その分、もっと救いがない。まだブルノの方が、恋人にも観客にも一緒に泣いてもらえて、救われる。ロゼッタは感情移入も拒否し、その分が、観客の臓腑に切り返されることでアートが成立していた。 ダルデンヌ兄弟は私と同じ年生まれで、父権ということにこだわりがある。父とか家族の価値というメッセージを伝えたかったらしいが、この切り込み、このつらさと優しさと、あの乳母車のポエジーはただ事でない。 この映画を一緒に観たフランス人に、「ほら、問題は移民じゃなく、貧困でしょ、(主人公二人が)金髪で青い目で差別されなくても、人はいくらでも不幸になるんだから」と言ったら、「いや、あれは多分東欧系の移民の子だろ」と言われてしまった。そういえば娘の名は「ソニア」だし、男もスラブっぽい顔だ。「ほら、でも、イスラムとかの問題じゃないでしょ」としつこく言ってしまったが、なかなか微妙だ。ダルデンヌ兄弟が言う家庭の問題も大きい。 パリでは夫婦2組に1組が分かれると言われており、私の友人も、仲間も、生徒も、半数以上そういう事情を抱えている。だから必ず状況が悪くなるというわけではなく、まあ、離婚することは、状況が悪くなったことの解決の形なのだから好転するとも言えるのだけれど、貧困と、失業に、離婚が重なったら、まともな教育というのは、至難の業だ。 それはともかく、今回の若者の犯罪や、暴動などを取り締まる側にいる人に、この映画の観賞を義務づけたら何かが変わりそうな気がする。ボルローなんかもうとっくに観てぼろぼろ泣いていそうだ。「僕はシテが好きなんだ」とか顔をくしゃくしゃにして言ってたけど、えらく真実味があったから。と、この記事は、考えるタネの暴動の話と併せて読んでください。(2005.11.11) 能舞台で観る勧進帳8月17日、千駄ケ谷の国立能楽堂に火樹会主催の『能舞台で観る勧進帳』を観に行った。これまで数々の能も歌舞伎も観たし、この夏に限っても、新作とはいえ歌舞伎座で『一二夜』、同じ国立能楽堂で『原子雲』の二作を観ている。しかしこの『能舞台で観る勧進帳』は初めてで特別な、かつ強烈な体験だった。学生時代に能の『安宅』と歌舞伎の『勧進帳』のテープを聞き比べ、台本を比較するというゼミに出たことがある。『安宅』と『勧進帳』の関係からすると、「能舞台で勧進帳を」というのはちょっと洒落た思いつき、考えつきそうで考えつかないアイディアだとは思っていたが、実際演じてみると、「思いつき」どころではない、深刻な、能と歌舞伎の本質を揺さぶるような「異界」が出現する衝撃的な舞台だった。終演後、私は驚きの中にいたが、お誘いしたご夫婦は、二人とも泣いていた。ご主人は大粒の涙をこぼし、奥様はずっと目を押さえておられた。私は今まで歌舞伎で感動のあまり泣いた人を見たことがない。華やぐとか、わくわくするとか、興奮するとか、ため息をつくとかはあっても、祝祭的なエンタテインメントであることには変わらない。私が生で見た勧進帳で一番印象的だったのは先代の尾上松緑の弁慶で、豪快で楽しく力強かった。今回の弁慶は市川右近で、いかにもはまり役だが、まさかこういう展開になるとは思わなかった。前半にトークがあって、そこで、まったく歌舞伎のように大袈裟に演じると能舞台ではやり過ぎの感じになるので少し地味に演りますというようなことを語っていたが、右近が勧進帳で抑制すると、安宅になるのでなく、突然別世界がどんと降りてくるのだ。 右近はスーパー歌舞伎で観て、競(はでくらべ)伊勢物語で観て、そのカリスマ性は分かっている。8月7日にお台場の巨大なライブハウスで朗読劇も観たが、スーツ姿は違和感があった。右近が右近であるというオーラはあるものの、矮小化されている部分もないではない。能舞台でのトークは袴姿で、それだけで右近がずっと大きく見える。 歌舞伎では奥の額縁の中、一幅の絵のような舞台に役者が描き配されたような形になり、花道が客席の方に張り出している。能舞台では、張り出しているのが舞台で、橋懸かりは後方に張り付いている。その逆転が、こちらの感覚を狂わせる。役者が立体的に見えるので、額縁の中の別世界である舞台を「こちら側」から眺めているのではなく、境界線の感覚が怪しくなる。 舞台右手には歌舞伎の義太夫がいるが、松の手前には能の囃子方がいて、太鼓や鼓や笛の力や息をためる瞬間、間合い、うなりなどがよく伝わってきて、この一巻が、後ろの松に降りてくる神を喜ばせるための神事芸能だということが明白に分かる。そして、初めは神のために演じるはずが、次第に役者が依り代となって、役者に神が降りてくるのが分かる。舞台はシャーマニックな世界に変換されるのだ。右近はトークで、舞台が時空を超えた小宇宙になると何度も強調していたが、神の世界と人の世界が重なると言った方がぴったりする。その変身の瞬間、錬金術の鍋の中で最初の黄金が輝く瞬間に観客は立ち会えるのだ。 日本の祭りには、初めに神に捧げていた供物を降ろしてきて神といっしょに食事する直会(なおらい)というシーンがある。それは、神が氏子に招かれ、氏子の中に入り、共に食するので、いわば供物を食べる氏子は同時に神になっているのだ。神を喜ばせる供物としての芸能も、神の満足の究極の形として、神が演者に憑いて共に舞ったり語ったりするのかもしれない。 人と神の関係性がラディカルに変わり、距離がかき消える。能はそもそもそういうものだと言われるかもしれないが、演目が関係性を特定するのではなく、「能舞台」の作りと囃子方の係わり方そのものに、そういう「場」を現出させる潜在力があるとは思わなかった。能においては、シャーマニックな変身の記号が面や装束であり、面をとった狂言では、役者はまた役者に戻っている。こう考えると、『安宅』が面をつけない能であることは興味深い。安宅は神降ろしの能面を必要としない。舞台の人間関係のダイナミクスによって人が素顔のまま変身するようにできているのだ。 ただ一つ歌舞伎だなあ、と思ったのは、弁慶が「日月・・」を上に見上げるシーンで、これは中村富十郎さんが二階の桟敷の客を見るのだと言っていたが、二階のない能楽堂では右近の弁慶の目線の先に観客の「気」がないので、うつろな感じがしたことだ。 歌舞伎では役者と芝居と観客の三者の関係性がそのまま盛り上がるが、能舞台では、まず、役者が神に供物を捧げる司祭であり、同時に神の依り代となった役者を通して客がスピリチュアルな祝祭に参加できるかどうかが問題になる。 能舞台で観る歌舞伎、このシリーズのこれからが楽しみだ。(2005.8.25) バレー論考最近、「バロック音楽室」のコーナーに次のようなことを書いた。 「ナンシーのロレーヌ・バレー団の『Ligeti Essais』というのから始まって驚きました。ラモーに気をとられていて、現代ものが第一部にあることを忘れていたからです。15の短い曲をつなげて、ソロやデュオやトリオやいろんな組み合わせで、いろんな感情やシチュエーションを表現するというものですが、退屈で、寝てしまいそうでした。体の動きが面白いとかいっても、なぜか、私には、最近もう人間の体がきれいだとか、動きが面白いとか思えなくなっているのです。 オリンピックで体操競技を見たりすると、技の難しさとか、失敗のリスクとかにそれなりに興奮できますが、現代ものの舞踊で美しさに感動するというアンテナが壊れてしまいました。 」これが6月12日の話。ところが、その5日後、私のピアノの生徒が出るというので、地元のコンセルヴァトワールのバレーの発表会を急遽観にいくことになった。第2部で、小学校高学年以上のやつだ。別に期待して行ったわけではなかったが、なんと、非常に楽しめた。ナンシーのバレー団よりよかったのだ。 なぜかと考えると、まず、こういう地域のバレー教室によくありがちだが、男の子がいない、全部女の子で、しかも若い子ばかりだから、アンドロギュノスっぽい。性的なにおいがしないのだ。 Ligeti Essaiでは、男女ダンサーが全員、黒とグレーの、体操服のようなミニマムな装い、成熟して鍛え抜かれた男と女の筋肉の標本みたいで、何をどう動いても、性的なコノテーションがにじみ出るのだ。そして、Ligeti の音楽でいろいろな感情や情念を表現するという目的の中で、この男と女達の性的コノテーションが意味をなしていないと少なくとも私には思えたからだ。 現代舞踊にはこういう独りよがりのナルシシズムが多くて、まいってしまう。 2ヶ月ほど前、舞踏病(八ッチントン氏病)やジル・ド・トゥレット症候群(いずれも、自分の動きを制御できない)の患者の病棟で、リハビリを兼ねてダンスを教えるという試みをしているフランス人男女のダンサーの講演会に行った。彼らは、助成金を得て日本にも行き、暗黒舞踏のダンサーに協力をしてもらって日本の病院で患者たちとワーク・ショップをした記録を見せてくれた。パーキンソン病の人もいる。こういう患者が、たとえば、机の上にあるコップを手にするとき、必ずしも手の動きが最短距離をとらない。ダンサーは、そこにポエジーがあるのだとか言っていた。私は、なんだかグロテスクだと思って見ていた。 確かにそのダンサーと舞踏のダンサーが向かい合って男二人即興でぬらぬら踊る気味悪さを見ていたら、患者や家族も毒気を抜かれるというか、プラグマチックな動きというものを一瞬相対化できてしまう。私はこのフランス人ダンサーに、いわゆる治療効果があるのかとか、患者のリスペクトという観点で抵抗はないのかなど質問したが、あまり明快な答えは返らず、彼が分析的でなく直感で踊っているだけだとの感を深くした。この系統の舞踏というか体の使い方は、性的の反対で、去勢的で、何が悲しくてこんなのを見せられなきゃいけないのかと暗くなった。この男の唯一の切り札(?)は、自分自身ののお父さんが、そういう動作障害の患者だということで、そういわれると、アートもほんとにテキストとコンテキストがあって成り立っているんだなあと感心した。 それで、市の演劇ホールであったバレーの発表会なのだが、技術的にはもちろん「いかにも生徒」って人が多いのだが、そのテクニックの破綻は、「一生懸命」という真剣さに補われて、その隙間に観客のシンパシーが引き込まれる。振り付けも斬新で、一人の歌手をダンサーと一緒に舞台に上げて、キリエ・エレイソンとか歌わせて、動きと息使いが離れたりくっついたりする様子が楽しい。コンテンポラリーの振り付けでは、トウシューズにまじって、ローラースケートやスケートボードで舞台を横断する少女がいて、遊びの精神が弾ける。ラストは、一人の初老のヴァイオリニストが舞台に出てきて歩きながら演奏し、彼の周りをついたり離れたりしながら若い娘達が動く。その後のフィナーレも、このヴァイオリニストが、フォークロリックなリズムを奏でるのに合わせて、全員が次々と現れて、いわゆるお辞儀をするのでなく、各バレーのさわりの動きをもう一度披露するのだ。祝祭性にあふれている。すごく楽しかった。結局、私がバレーを見る時に求めているのは、この祝祭性なのだろうと判明する。いわゆるクラッシクのレパートリーだとまた違った観方をしてしまうし、シルヴィー・ギレムなどを見るときは、一気に頭脳的満足かスピリチュアルないい気分になれる。 そうでなければ、やっぱり、祝祭性、それと、私を知らない多くの人が、時間をかけて一生懸命、プレゼントを用意して招いてくれた、と思えるような小さなバレー・コンサートが楽しい。 それにしても、このような、地域のバレーでも、個性の光る振り付けや洗練があるのは、やはりバレーの本場だったフランスの懐の深さかもしれない。日本だとただ父兄たちがわが子をヴィデオに撮る内輪のおさらい会や、ただ、クラシックのレベルの低い猿真似に終わりそうなのが多いと思う。 このバレーを見た後、深夜に、スイスのベルンに出来たポール・クレー美術館を記念して、クレーの伝記ドキュメントやバウハウスとの関係のドキュメントなど3本まとめてTVでやっていた。クレーは、舞踏のダンサーや生徒達の正反対で、もう、直感とか情念とか感性とかナルシシズムとか、一生懸命などの対極にある。脳内美学のフランス・バロック的だ。バウハウスでの講義ノートを見ると、とにかくすべて計算しつくしている。そのために物理学までやっているのだ。たとえば真紅とピンクの差を重さに置き換え、真紅が重くて下に下がった分、ピンクの下に暗いボルドーの小片を付け加えるとか、ベクトル計算とかだ。仕掛けに偶然野思いつきはひとつもない、というのが好きだ。それで出来た作品は、その準備の複雑さを感じさせないで、まるで大自然の中から拾ってきたように脈動している。しかし、彼の目指したのは自然の模倣ではない。スーラの点描が光学的効果を実現させようとしたのに、クレーの「アド・パルナシウム」のモザイクは、脳内楽園なのだ。 昔、リシエの彫刻を観にいって、その酷薄なまでの凝縮力はどこから来ているのかと思ったら、彼女の制作ノートの写真があって、人体の比を徹底的に計算しているのを見て感動した、いかに実在の人に似ているのかというのでなく、本当に存在するのにはぎりぎり何が必要なのかを計算しているのだ。リシエの彫刻の前では、突っ立って見ている自分がいかに、はかなくしか存在していないかということが分かる。もっともリシエの彫刻のような仕方で存在するとしたら、私などその場でブラック・ホールに突入か、「なま」の力にねじ伏せられて、特撮みたいに融解するだろう。 そういうわけで、クレーもすごい。若い頃のデッサンはデューラーとかクラナッハ系の緻密でマニアックなもので、それがものクロの明暗に映り、ついに色を獲得していく所は感動的だ。奥さんがピアノ教師で、毎日、制作の前には、1時間、彼女の伴奏でヴァイオリン・ソナタを弾いていたという。フーガなどをモチーフにした絵は、なんとなくリズムやハーモニーが音楽っぽいのではなくて、これも徹底的に楽節を分析しているのだということがうかがえる。 モロッコへの旅が色彩に開眼させたというのも面白い。私の友人でアメリカ人画家のジョー・アンは夫がモロッコ人で、モロッコに行くたびにその色の明快さに感動しているからだ。ドイツやスイスにいたクレーにとってはなおさらだろう。 いつかクレーのように、フランス・バロックをモチーフにして絵を描いて私達のコンサートに使ってみたい。 (2005.6.24) モノからコトへ パリで吉井秀文展を観る吉井秀文の作品について、説明をしてもらってはいた。ボンドで描いた絵をはがして吊っているので半透明のレースのカーテン状になっている、絵をキャンバスから解放するという試みの究極の形である云々。展示場に合わせて作るインスタレーションというイメージ、もあった。ユニークだが、ある程度の想像はついたと思っていた。実際に会場へ足を運ぶと、意外だった。「表面へ、表面から」というタイトルだが、それは空間の体験だったからだ。立体的、というのではなく、作品が部屋のたたずまい全部を変容させてしまうような環境ファクターだったからだ。吉井氏は、何でもないキャンバスが、画家の最初のひと筆で芸術作品に変わってしまうマジックの瞬間をとらえたいという気持ちがこの手法に結晶したと語ってくれた。筆触、筆勢だけに注目して、こだわり、他の要素を消去することでその作品が生まれたのだ。私はそのこだわりの根について考えざるを得なかった。> それは芸術作品を生むという行為におけるモノとコトとの関係である。「画家の最初の一筆で画布が作品になる」という吉井氏の言葉にそのヒントがある。もちろん、最初のひと筆はおろか、「制作中」の絵はまだ作品ではなくて、いわば陶芸の器が釜に入っている状態、「マチエール以上作品未満」に過ぎないという考え方もあるだろう。それに対して、「最初のひと筆がすでに創造である」という感性は、美術よりも舞踊や音楽に近い。舞踊や音楽は、すべてが終わって拍手が起こったときにはじめて完成するのではなくて、ダンサーが舞台に立った瞬間、指揮棒の最初の一振り、ピアニストが腕と肩をあげ、歌手が息を溜めた時に生成する。最初のステップ、最初の一音、最初の息からそれは十全なるアートなのだ。そこでは、アートは、作成行為の過程、創造するという「コト」に属している。 それに比べると、絵は、画布に絵の具が塗られ、乾かされ、画家のアトリエを出て、壁に飾られた「モノ」としてのアートに属する。吉井氏は、「モノ」としてのアートである絵画を、筆が描くという過程の「コト」のアートにしたかったのだ。 彼の方法がただ「すばらしい発想」「思いつき」であったなら、23年も続くことはなかっただろう。彼の作品が20年を経ても古びないのは、まさに、それが「モノ」ではなくて「コト」であるからなのだ。 文芸批評の方法に、テクスト論というのがある。作品の意味を作者の意図を読み取ることに還元する方法ではなくて、作品を作者から独立した別人格とみなして、テクスト自体が発する情報を分析するやり方だ。文芸作品の制作という「コト」から離れて、「モノ」としての作品に接し、読むという「コト」を遂行していく。しかしそこには最初のクリエーションという「コト」の主体であった「ヒト(=作者)」はもういない。 画布にはりついた「モノ」としての絵画を拒否する吉井氏の作品には、「コト」とそれを成す「ヒト」とが現出し、臨在している。吉井氏は自分の作品について「解説」することを厭わない。それは、クリエイトする「コト」に、解説する「コト」を、アーティストというヒトを通して寄り添わせるからだろう。私たちは吉井氏の作品の前でアートの錬金術の釜の中をのぞきみる。絵を描く「コト」、絵が生まれる「コト」とはこういう「コト」だったのかと知る刺激的な体験ができるのだ。 吉井氏の作品は、「モノ」としても魅力的だ。こちらの世界とあちらの世界の境界面が物質化したような不思議な感触。アートが日常に突出して、それを包んだ羊膜がたぷたぷと揺れている手触り、からめとられたエクトプラズマ、手探りで進んだ深い霧や、夢の中に立ちこめた遠い日の記憶の厚い靄、歌われなかったバラード、踊られなかったサラバンド、語られなかった妖精物語、筆をふるった時の画家の思いやアクションや時間の流れの凝縮。こういう「モノ」と出会うとき、私たちは、私たちというモノを離れて私たちであるコトの世界にしばし遊ぶ貴重なときを生きるのだ。 |
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