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イスラエル建国60周年(2008.5.9) 1968年5月革命40周年(2008.5.9) イングリッド・ベタンクールとフランスのユニヴァーサリズム (2007.12.10) フランス大統領選についてその3(2007.4.29) フランス大統領選についてその2(2007.4.3) フランス大統領選についてその1(2007.3.23) 奴隷と移民について(2006.10.9) 『音楽サロン』『拳遊記』『アモールとプシケー』 (2006.10.7) 殉教の話(2006.3.20) 考えるタネ 2 へ イスラエル建国60周年68年5月革命40周年と同じように、今年は、イスラエル建国60周年に関する記事も多い。やはり21世紀に入っていること、そして9・11以来の世界情勢の不穏や、イスラエル=パレスチナ関係の悪化やイスラム原理主義の台頭が原因なんだろう。一昨日アルテ(独仏共同TV)の番組で、ヒトラー『わが闘争』の出版と流通をめぐる話、その後で、『シオンの長老の議定書』と言われる有名な偽書の流通の話を見て、今さらながら、言論の自由とタブーについて考えさせられた。 『わが闘争』の著作権はヒトラーの住民票があったババリア州が所有している。そしてすべての出版と流通を禁止している。 1945年までに何百万部と出回っていた本が古書として売買されるのはかまわない。しかし、当時のドイツ人家庭ではこの本は一家に一冊の聖書のようなものだったので、多くの家庭では、敗戦後廃棄するのをためらって、庭に埋めたり、屋根裏に隠したりしたのだそうだ。 その後のタブーがすごかったので、第二世代の中には、それを発見して興奮した人も少なくないようだ。1998年にはネオナチのグループが地下出 版している。しかも、ネット時代の第三世代となると、ネットで全文をダウンロードできるということで、広くネオナチのバイブルになっているようだ。 こうして結果的に野放しなのにかかわらず、北ドイツの大学の歴史教授は、この本の一部をコピーして教室で配布したら、ババリア州から注意を受けた。最近の話だ。 ババリアの担当者は、禁止の理由を取材され、ちょっと待ってくれと言ってブレーンと相談し、「犠牲者のリスペクトのため」と答えた。それを受けたユダヤ人歴史学者(ホロコーストの生き残り)は、「むしろ積極的に研究すべきである。現代人は簡単に影響されないほどには成熟している」と語った。 私が初めて知ったのは、戦前にすでにいろいろなヴァージョンがあったことだ。政治的に公正でないところをいろいろ削除したり改定したりしていた。 私がフランスに好感を持つのは、オリジナル版では、フランスがヒトラーから蛇蝎のように嫌われてるところだ。ひどい言辞を浴びせて、フランスを地図から抹殺してやる、と言ってる。 で、『わが闘争』が多くの言葉で翻訳されたにもかかわらず、ドイツはフランス語訳を嫌がった。しかし、原書を読んで危険を察知したカルチエラタンの書肆が、完訳して700頁の本にして、『すべてのフランス人の必読』と書き込んだ。1936年のことだ。ドイツはすぐに著作権裁判を起こし、勝って、 在庫を破棄させた。しかしその前に、Sorlot(訳者)は、5000部を、当時のフランスのオピニオンリーダーに送りつけた。 彼らはなんと言ったか。 その本は、ヒトラーが権力の座につく前に書いたものだから、状況が変わった今は脅威ではない、と言ったのだ。つまり、穏健になってるはずだと。実際、ヒトラーはこの件について、フランスからインタビューを受け、「あれは迫害されていた若者(彼はこれを獄中で書いた)の行き過ぎで、(それ以来)私は変わった」と答えた。要するに若気のいたりだったから、といった訳だ。 ヨーロッパ諸国はこの言葉を信じたかった。いや、『わが闘争』の思想を信じたくなかったのだろう。1938年にミュンヘン協定が交わされ、英仏 は「ヒトラーが変わった」ことを認めた形となり、今度は大手の出版社Fayardから、『わが闘争』の改定訳が出た。フランスへの憎悪は削除されていた。 1939年、オリジナル版の訳が再び登場、そこにも『全フランス人必読』というコピーも復活した。しかし、時すでに遅く、翌年フランスはドイツに宣戦布告、その後は占領されたり、国内ユダヤ人狩りに進んで協力したり、まあ、いろいろあったわけだ。 そういえば、サルコジ大統領も最近、バッシングを受けた後、「私は変わった」とか言ってたなあ。 アメリカが参戦したとき、プロパガンダに使われたのも、『わが闘争』の中の黒人に対する一節だった。当時、アメリカでも黒人はしっかり差別されていたんだが、そこは建前の自由平等があり、ピューリタンの偽善もあり、公けにはそういう言辞はタブーだったろうから、『わが闘争』の「ユダヤ人も黒人も劣等」という言葉にアメリカの黒人は義憤に駆られた。多くの黒人兵がヨーロッパの前線に送られて命を失ったわけだ。 当時ドイツと同盟国だった日本でのこの本の翻訳史はどうなっているのだろう。アーリア人種の優越は、削除されていたのか? 日本にいた頃の私のイメージでは、この本は、なんだかマキャベリの『君主論』と同じような感じだった。「小さい嘘は見破られるけれど、大きい嘘は見破られない」みたいなフレーズが、一代で財を成した立志伝の人物の処世訓みたいな感じで語られていて、「ヒトラー=悪の化身=歴史のタブー」みたいなイメージはなかった気がする。 日本と同盟を結ぶにあたり 「原日本人であるアイヌはコーカソイドの白人だった。だから日本人は白人の仲間」 という説をでっち上げたのもナチスだとアイヌ関係の研究書で読んだことがある。日本側もこんなことを暗黙に納得していたんだろうか。 で、今日的な問題は、ドイツでのネオナチの台頭ではなく、中近東における『わが闘争』の流通ぶりだそうだ。エジプトやパレスチナでは、反イスラエルの補強としてこの本がもうずっと前から広まっているらしい。ヨーロッパには目を光らせていたババリア州も、事実上お目こぼしの状況だったのが、2005年にはトルコで9万部のベストセラーになったということで、ついに干渉したそうだ。しかし、去年も10万部の売り上げということで、これって、なかなか怖い。反イスラエルのバイブルになってるわけだ。 これに拍車をかけるのが、『シオンの長老の議定書』という偽書だ。これは1863年のフランスでナポレオン3世に反対して書かれたモンテスキューとマキャベリの架空対話小説を下敷きに、マキャベリをユダヤ人に 置き換えて、ロシアでボルシェビキ革命の緊張緩和のために創られた偽書だと分かっている。(著者もゴロヴィンスキーという名が分かっている。1990年に 明らかになった。)7人のユダヤ人の長老の世界征服プランが、ロシアの内乱を招いたという読み方をねらっているわけだ。 ところがこの本も、その後、「世界の悪はすべてユダヤの陰謀」、「ここにすべてが書いてある」という、『ノストラダムスの大予言』みたいな万能本として流布した。ナチスにももちろん利用された。それがパレスチナ政府の憲章にも引用されているというから驚きだ。で、彼らは、それが偽書だと言われても、全然平気なのである。 ヒトラーが本音を書いても、信じようとしなかった人がたくさんいる。一方で、ある国である政治状況の対策として生まれた偽書だと分かっている本なのに、信じようとする人がたくさんいる。この本はまたロシア語に戻って、ロシア正教原理主義の聖職者に支持されてたりするのだ。でも一番、出回ってるのはアラビア語版だろう。怖い。 『わが闘争』を禁じるヨーロッパでは、この本も一般には禁じられているのだが、ギリシャでは流通しているらしく、アテネでネオナチのフェスティヴァルが開かれた2005年夏には、出回っていたようだ。ギリシャ正教の一部も反ユダヤ主義の温床になっているらしい。 人は、都合の悪いことが起こるとすべて誰かのせいにするのが好きだ。あるいは、「すべてはすでに定められている」と諦めるのも好きだ。それが「人生の知恵」につながるのか、悪の連鎖につながるのか、一概には言えないだろう。 しかし、普通の人にも「歴史を学ぶ」情報が与えられている時代だからこそ、自分の身の回りの不都合や不快感の解決や解消だけではなく、俯瞰的な視座に立って、やはり、少しでもましな世界を目指したいものだ。 その文脈の中では発禁本があっても当然だ。言論の自由と言うものも、大きな善(すべての人が生のサイクルを安全にまっとうできるようにする)を視野に入れて考えなくてはならない。 『わが闘争』を書いた人の病やルサンチマンも、『シオンの議定書』に助けを見出そうとする人の気持ちも、知らず知らずのうちに「ユダヤ人排斥」や「黒人差別」に慣れていった人の気持ちも、私には決して他人事には思えない。 「私は私の隣人よりも偉い」と思う気持ちと、「私の不幸は私の隣人のせいだ」と思う気持ちは、表裏をなして心の影にぴったりはりついているんだろう。 「汝の隣人を愛せよ」というシンプルな指示は、永遠の挑戦みたいなものである。 (2008.5.9) 1968年5月革命40周年今月は当時のフランスのメンタリティを変えた1968年5月革命の40周年ということで各種雑誌などが特集。私がフランスに来たのは、68年から10年も経っていない頃だったので、10周年、20周年、25周年、30周年、その度に特集や回顧記事を読み続けてきた。今年はちょっと特別な感じがする。21世紀に入っている。新しい時代の混迷。 フランスは68年にある意味でド・ゴールの時代に幕を引いたわけだが、第五共和国は今も続いている。ド・ゴール主義は根強く残っていた。でも、 昨年のサルコジ大統領は初めてド・ゴール主義や68年を批判して、親アメリカや親ネオリベを打ち出している。警察のボス出身であり、若者の「暴動」に対 して強権的なところも、時代の変化を感じさせる。 もう一つは、日本の団塊の世代と同じく68年世代が現役をひく季節がやってきて、「世代交代」の新風を若者が期待していることもある。 68年は、やっと本当に終わったのか、成就したのか、つぶれたのか、消滅したのか・・・功罪を問う言説が飛び交っている。 当時の「スター」たちがいろいろ回顧しながらも相変わらず元気のいいところを見せているが、日本人の目から見たら、我彼の差を感じさせられることも多い。当時の感じでは、世界中が呼応して、カリフォルニアのバークレーもパリ郊外のナンテールも、みな同志のような連帯感はあったけれど、ほんとはどうだったのか・・ たとえば、ナンテールで学生を放棄させたリーダーだったDaniel Cohn-Benditなんかは、今もヨーロッパレベルで活躍してるけれど、当時はドイツのパスポートを持ってナンテールにいた「留学生」だった。生まれはフランスなんだが、ナチスに追われてフランスに来たユダヤ系ドイツ人の 子弟である。それで、68年の闘争の時に一時帰国した時は再入国拒否の処置を受けたんだけれど、そこは地続きだから、舞い戻ってきた。日本で、70年安保闘争の時の学生リーダーが、留学生であり、不法に舞い戻ってきてなお活動を続けるなんて、なんだか想像できない。 他にも、カルティエ・ラタンを占拠した学生にはアメリカ人も含めた外国人が結構いた。「欧米近代」が一皮向けたというか、「若者の自由」という普遍的な希求が彼らをつなげていたのだろう。 でも68年の日本って、「留学生」のリーダーと共闘するって感じはなかったような気がする。すごくローカルな、エリートの卵が大学という安全地帯で騒いでいて、良識ある大人たちはそれを眉をひそめて見ていた、という感じだったのではないか。 日本では、学生たちが投石すると、町の人たちは店のシャッターをいっせいに降ろした。 フランスでは、町の人たちが店から通りに出てきて学生たちを応援したり、連帯ストをしたりした。 最近、日本では、団塊の世代の迷惑紛争のおかげで日本にはちゃんとした左翼運動が育たなかった、という批判が聞える。いや、大学闘争そのものではなく、その後の過激セクトの暴走が悪かったのだという声もある。 でも、私には、そもそも日本に「左翼運動」というのが盛り上がったのは、戦後の一時期だけであるように思われる。それは日本を軍部独裁から「解放」して「民主主義」を下さった占領軍の保護下のことだ。やがてそれも、47年の2・1ゼネスト禁止で潰された。冷戦の始まりと共産主義の恐怖の前には、「左翼運動」なんかなんのメリットもなくなったからだ。だから、日本の左翼運動が育たないのは、団塊の世代のせいではなくて、47年2月以来、ずーっと「経済復興」と引替えに日本が受け入れた路線の必然だったような気がする。 フランスでは、68年以来、学生やリセアン(高校生)のストやデモは、社会に容認される通過儀礼として定着した。68年の5月に大学やリセが麻痺したにかかわらず、その年のバカロレアは過去最高の合格率だったという。それからもその「ジンクス(?)」は続いて、2年前のCPE(初雇用契約)反対の大掛かりなストの後のバカロレアもなかなか結果がよかったそうだ。 今年は、リセの教師のポストの大幅削減という政策に反対してストやデモが繰り返されている。今リセの最終学年の生徒は、この政策の被害を直接には受けないのだが、下級生をリードする。 あるリセでは、それでも、バカロレアの前の授業をあまり妨害するのはよろしくない、ということで、リセアンは教室を封鎖せずに、体育館を封鎖して寝泊りすることになったそうだ。夕方になると、サンドイッチなどを持ち寄って、和気藹々といい雰囲気だそうだ。そして、彼らを支援する教師や親たちも、いっしょに体育館に泊り込むこともあるという。 このエピソードを聞いて、我彼の差にすごくショックだった。日本じゃ、団塊の世代のあとには、しらけ世代とかオタク世代とか、ローストジェネレーションとか、なんだか、連帯とはどんどん離れていくみたいだ。下手すると通過儀礼は「いじめ」だったりしかねない。 Cohn-Benditがヨーロッパレベルで活動してるように、この40年、ヨーロッパはEUという地域連合を着々と進めた。今のフランスで は、もう、ドイツ人学生を「入国禁止」にはできない。理想にはいろいろ遠くても、そういう、小さくても確かな「成就」はそこかしこにある。 私は自分で、日本の外で生きることを選んだ。特定のナショナリズムや共同体主義の枠から自由でいられる国際人を回りに育てた。夫にも、子供にも、友人たちにも、少なからず、影響を与えたと思う。 個人が自国の歴史やメンタリティを変えることはできないが、誰もが、今いる場所で、少しずつ、少しずつでも、「目標値」や「成果」や「ギヴ・アンド・テイク」にとらわれない無償の連帯に一歩を踏み出していけばいいのだが。 Le renoncement au meilleur du monde n’est pas le renoncement a un monde meilleur. 世界で一番になることを放棄することは、よりよい世界(を目指すこと)を放棄することではない。 (2008.5.9) イングリッド・ベタンクールとフランスのユニヴァーサリズムパリの市庁舎の正面に女性の顔を載せた大きな写真がかかっていて、「イングリッド・ベタンクール パリ名誉市民」とあったのを見たとき、違和感を覚えた。イングリッド・ベタンクールはコロンビアでテロリスト・グループに拉致されて監禁されてもうすぐ6年になる46歳の女性で、彼女の娘らが中心になって解放を求める運動が盛りあがっているので有名だ。この運動の最初から、私には違和感があった。もっとも、テロリストによって拉致監禁されている人を救うということ自体は「正しい」のだから、問題ない。でも、大きな声では言えないが、「日本人的な感覚」での違和感と、もうひとつの違和感がいつもあった。 日本人的な感覚の違和感というのは、彼女が二重国籍であることだ。 彼女はコロンビア生まれのコロンビア人だが、20歳でFabrice Delloye というフランス人の外交官と結婚してフランス国籍を得た。1男1女をもうけたが、離婚、コロンビアに戻った。29歳でコロンビアの経済省に入り、さらに上院議員になり、1998年には自分の政党Oxygeno Verdeという環境政策を掲げる緑の政党を立ち上げて、再婚したコロンビア人の夫とともに政治活動、2002年の大統領選に出馬していた。 コロンビアというのは40年も内戦が続き、ラテン・アメリカの中でも政府の汚職がひどく、コカイン売買のマフィアと癒着していて人権後進国でもある。ベタンクールは一貫してそれを告発して戦ってきた。 2002年の2月23日にテログロープFARCに捕らわれた。このテロリストは17000人の武装軍団で、900人も人質を監禁している。そのうち21人が政治家、士官が47人、アメリカ人も3人いるそうだ。人質の家族はいずれも開放を求めているが、その中で、ベタンクールだけが、非常にメディアティックになっている。特にフランスでの彼女の扱いは大きく、国家ぐるみでコロンビア政府にまで圧力をかけている。そこでの彼女の扱いは「フランス人」である。 私が日本的な違和感を感じたのは、もし、アジアのどこかの国の女性が日本人と結婚して離婚し、そので後国に帰って再婚して政治活動をしてテロリストに捕らわれたら、日本人や日本の政府が何かしてくれるだろうか、という疑問を抱いたからだ。まあ、日本は2重国籍そのものを認めていないし、外国人妻に永住権を与えたとしても、離婚して出身国に帰ってそこで政治家になってテロに巻き込まれた女性のことをここまで支援してくれるだろうか。 羨ましいとも思う。日本なんて、日本人がイラクでNPO活動して人質に取られても「自業自得」扱いするような国だし、世論も、救出は税金の無駄遣いとか、家族にまで風当たりが強かったりするみたいだ。北朝鮮に一方的に拉致された被害者の救出でさえも外交カードの一つのように扱われたりする。 で、私はそんな国の出身なものだから、フランス人旅行者がつかまったというのならまだしも、危険を承知で大統領選にまで出馬したコロンビア人女性を何でフランスがここまで大騒ぎしてヒロイン扱いするのかと違和感を持ったのである。 もう一つの違和感とは、彼女がエリートであることだ。これも庶民の僻みで見るせいか、彼女の父親(今は逝去)も元外交官(元教育相でもあった)で、ユネスコ大使としてパリに滞在しフランスの名士たちと親交があり、娘のイングリッドも、少女時代をパリで過ごし、後にパリの政治学院で学び、そのときの教師が後に首相になったドミニク・ド・ヴィルパンで親交を結んだこと、そこで知りあったフランス外交官と結婚するという経歴だ。 つまり、2重国籍であろうとなかろうと、彼女はもともと普通の人でなく、エリートの出身であり、エリートと付き合いがあり、コネがある人なのだ。その上、ミスコンテストのタイトルを持っているほどの美女でもあり、母の解放を求めてFARCに公開状を出した娘のメラニーは童顔で可愛い。絵になる母娘だ。メラニーはコロンビアにも住んだが政情不安のため、ニュージーランドに赴任していた父のところに行ったり、国際的であり、母の救援を呼びかける一連の活動を評価されて賞までとった。 で、イングリッドも、人権のために戦い本を出しているのだが、それはまずフランス語で書かれて、それから訳されてコロンビアで出版された。その本はヨーロッパでベストセラーになっている。ヨーロッパでは人権や平和や環境のために戦うヒロインのように人気があるが、コロンビアでの人気はそれほどでもなく、大統領選前のアンケートでは彼女に投票するといった人は2%を切っていたそうだ。 つまり、この人は、軸足をヨーロッパに置いていて、ヨーロッパ的優越感を持ってる人なんだろう。そんなハイソなお嬢さんがなまじ理想に燃えて政治なんかに首を突っ込むから「火中の栗を拾う」みたいなことになる。 そんな人にフランスのジャーナリズムや政治家がこぞって連帯し、パリの市庁舎に「名誉市民」ですか・・・。東京の大学の法学部を出た後で国に帰って国のテロリストに捕まった女性を東京都庁が「名誉都民」って写真を掲げるなんて想像もできない・・・。 と、まあ、私の中では、こういう違和感、というより卑しいわだかまりがもやもやとあったのだ。 ところが・・・ 最近、このイングリッド・ベタンクールが生存しているという情報が入り、彼女が家族にあてた手紙が届けられた。それを読んで、私は、虚をつかれたのである。それはこんな一節だ。 「夜の闇が最も深いとき、フランスは灯台でした。我々の自由を求めることがよく思われなかったとき、フランスは黙っていませんでした。もし私がフランスとフランスの民衆の歴史を知らなかったら、いつかここから出られるということを信じられなかったでしょう」 今のフランスは経済危機、政治危機、社会不安と、アイデンティティの危機にある。でも、この一節を読んで、私からわだかまりが消えた。フランスのアイデンティティはユニヴァーサリズムにしかない。アイデンティティがナショナリズムではなくユニヴァーサリズムである国って、すてきだ。だれかがどこかで、基本的人権を侵害されている時、頼りにしてもらえる国、フランスはそんな国であり続けなくてはいけない。 メディアティックなサルコジ大統領は、早速、FARKのリーダーに向けて、クリスマスまでに人質解放を求める公開メッセージをテレビを通じて行った。一国の大統領がテロ組織のリーダーに「語りかける」というのは異例のことである。 少し前なら、これを、サルコジのお得意のポピュリズムだと思ってますます違和感を持ったかもしれない。しかし、しかし、しかし、もう6年もコロンビアのジャングルの中で捕らわれている一人の女性が、フランスでのこのような解放運動の高まりの一部始終を知らされない状況にありながらも、このような信頼を寄せていることを考えると、いいじゃないか、解放アピールをもっとやれ、と言いたくなった。パリ市庁舎(パリ市長は社会党である)のどでかい写真とパリ名誉市民の称号も、いいじゃないか、保守も革新も、共和国のユニヴァーサリズムをしっかりと更新してくれ、と、今は心から思う。 そのベタンクールが同じ手紙の中で、希望が断たれたときにも残る信仰における期待のことに触れている。ちょうど、ローマ教皇が『Spe salvi』という教書を公布した。期待の中に救われる・・期待の本質とは信仰だというのだ。 期待というのは、今の世の中では、統計上の数値の期待とか、売上目標とか、費用対効果とか、点数や収入や平均寿命の増大の見込みとかなんかと結びついている。フランス語では期待と希望は、19世紀以来、はっきり分かれてきた。シャルル・ペギーのいうキリスト教的「期待」と、アンドレ・マルローのいう社会主義的革命という世俗の「希望」とだ。 ベタンクールやローマ教皇は、その差異に着目して、期待と信仰とをもう一度シンクロさせているのだ。 ベタンクールはコロンビアの自由と民主化に希望を抱いて政治活動していた。しかし、捕らわれて6年、すべての希望が失われて絶望状態にある。しかし彼女がいまだ自由を期待しているとしたら、それは、何かの根拠に基づいた「見込み」ではなく、神や、ユニヴァーサリスムへの信仰に拠っているのである。プラグマティズムだけが生きる指針であってはいけない。さしあたって成就の「見込み」がなくても、理念や理想を信じよう。 フランスの共和国理念、「自由、平等、博愛」は理想主義的な信仰告白かもしれない。そんなのすでにアナクロニックで破綻している、とも批判される。 そもそも、一国のアイデンティティがナショナリズムでなくユニヴァーサリズムであるとしたら、それ自体、欺瞞か逆説的ですらある。でも、だからこそ、なお、フランスには灯台の灯を消して欲しくない。 (2007/12/10) フランス大統領選についてその3 フランスのソシアルブッシュ・小泉・サルコジらのネオリベラル政策の特徴的なものに、教育、医療、社会保険などの民営化促進がある。移民を含む弱者を切り捨てを含むアングロサクソン型の経済市場主義だ。確かに、経常利益の数字がものを言うような「競争」の面だけから見たら、「先進国」は、多少なりともネオリベ政策を取り入れないと立ち遅れたり強国に喰われて破産したりしかねない。 しかし、そのようなネオリベのメンタリティというのは、アングロサクソン、特にピューリタン的アメリカの自助努力メンタリティに支えられてこそ居場所を見つけられるかもしれないが、フランスのようなカトリック的ソシアルや日本のような家族的ソシアルのメンタリティの国にそのまま接木しても無理があるのではないか。 私が30年以上見てきて、フランスは、まったく「ソシアル」が発達した国なのだが、フランスに生まれてずっといる人にはそれが原風景なのでよく分からないのではないかと思う時がある。先にあげた医療、教育、社会保険などは、驚くほど充実している。その充実の仕方は、北欧プロテスタント国とはちょっとニュアンスが違う。 どう違うかというと、フランスの近代以降のソシアルの原型はほぼすべてカトリック組織に根があって、歴代政府は、それを非宗教化、世俗化して奪還するためにずっと戦ってきたところだ。いってみれば、カトリックのユニヴァーサリズムと張り合って社会政策を進めてきた。一応共和国主義と政教分離がはっきりしているので、一見しただけでは分からないが、共和国政府とカトリック・ソシアルが目に見えないペアを組んでいるのだ。政教分離というのは、「共和国政府がソシアルをカトリックから奪還する」ということなので、イスラムだとか他の宗教との関係など、もともとは「想定外」だった。 フランスのカトリックが近代以降、ソシアルを独占したのは、まさに病院、学校、社会保険の分野だ。中世の頃からその要素はあった。洗礼は出生届けと同様の役割を果たし、そこで選ばれる代父や代母は、子供の両親が死亡した場合にその養育を受け持つステイタスを有していた。 教会にはステンドグラスのような絵柄だけでなく文字があり、読み書きはともかくアルファベットの教育はかなり一般的だった。孤児や未亡人の救済や、ハンセン氏病のような社会からの隔離を招く病者のケアも伝統的に発達していた。日本の安土桃山時代に宣教師たちが伝染病系の医療に積極的に取り組んだことを日本人が感心して記録した資料も残っている。 兄弟団といわれる信心会も盛んだった。それぞれの土地や職業の守護聖人への崇敬をもとに人々が集まり、一種の互助組合や同業者組合が形成された。メンバーが事故にあったり死亡した時に本人や遺族の生活の援助がなされ、そのための積み立てや寄付のシステムができた。貸付は基本的に無利子だった。これが社会保険の始まりだ。この信心会のネットワークと連帯意識はあらゆるところに発達していて、その中での富の分配や循環はかなりよく機能していたと思われる。 ところが、プロテスタントは、この信心会の核をなしていた守護聖人などの聖人信仰を基本的に廃止した。そのせいもあってプロテスタント的な世界では、勤勉による自助努力が基本になり、そして余剰の財だけが慈善として与えられる形が主流になった。互助ではなく、富める者から富まざる者への一方的な情けに近い。 フランスの活動修道会は、都市に工場労働者が生まれた頃から活発に活動をはじめた。未成年労働者を保護し、教育を与え。都市で孤立する病者や貧者を訪問看護したり、支援物資を配ったりして回った。特に、それまで修道院に閉じこもって祈りの生活を送るしかなかった女子修道会が、ソシアルの活動を始めた。フランスにおける、傷病兵の世話、炊き出し、刑務所訪問、教育士、社会福祉士、訪問看護士、青少年の指導員、保護司、などのもとは、ほとんどすべて17世紀から20世紀にかけて生まれた多く修道会の活動にある。 そういった優れたソシアルの機能を果たした修道会は、多くが、優れた指導者のインスピレーションから発したものだが、カトリックである以上、フランスの世俗の王や政府の監督下にあるのではなく、ヒエラルキー的には、ローマ教皇の権威に服している。フランスが近代化と共にライシテという非宗教的空間に国家の権威を移す時、必然的に激しい「反教権主義」が勃発した。国家がその対立に勝利するには、カトリック組織の社会福祉活動を「ソシアル」という非宗教的社会政策にすべて置き換え、取り込み、回収しなければならなかった。 共和国主義を優先することで和解と共存の道が一応ついた後でもカトリック組織は活動を続けているので、共和国政府は、ソシアルのレベルを下げるわけにはいかない。これが、フランス人もなかなか意識しない、フランス・ソシアルの隠れたモチーフなのだ。 そのせいで、フランスの教育、医療、社会保険は、優れて中央集権的である。教育は、自由教育としてカトリック学校があるが、ほとんどは教育省の管轄下にあり、教師は教育省から給与をもらっている。後はほぼすべて保育園から大学まで公立校。大学も少数のカトリック大学以外の私大はほとんどゼロ。私立であるビジネススクールには名門校もあるが教育省から認可されていないものは格外。名門校を受験するには、他の国公立グランゼコールと同様、国立のリセに付属している準備クラスを経なければならない。グランゼコールの準備クラスや大学入学資格となるバカロレアは全国一斉の社会的イニシエーションとなっている。日本の大学入試が小論文形式から撤退しているのに比べて、哲学のバカロレアは、昔も今も、4時間かけての論文作成だ。バカロレアの監督や採点にはリセの教師がすべて動員される。 医者になるのには国立大学以外の道はない。バカロレアを通れば医学部1年には席を置けるが、1年目の終わりに選抜試験があり、上位10%ほどしか先に進めない。その試験には2度しか挑戦できない。2度落ちたものは、生物学、薬学、保険学、心理学、看護学などの2年か3年に進路を変えざるを得ない。まったく別の学科の1年からやり直すものもいる。この医学部最初の1年のカリキュラムの1例を挙げよう。 月曜と火曜が朝8時から夜8時までの医学関係の講義、後は、別の大学に行って、生物学か心理学で単位を取る。週4コマくらい。1年目の前期と後期に選抜試験があり、それは日本の医師国家試験みたいな暗記中心のマークシート方式だ。これに1度落ちれば、2年目はやりなおしだが、生物学か心理学は2年目の単位を取れる。だから医学選抜に2回落ちても、次の年は他学部の3年度に進学できるわけだ。グランゼコールの準備クラスが2年で、入試に落ちても物理か数学などの3年度に横滑りできるのと同じシステムだ。 無事医学部の2年になれば、まず、大学付属病院で1ヶ月の看護助手研修、その後も、午前は病院で研修、午後は講義という実践型で、3年、4年には、患者の問診もする研修があり、3ヶ月ごとに各科をまわる。夜勤もあり、月2万円ほどの報酬ももらえる。5年、6年では、患者を受け持ち処方箋も出し、夜勤では緊急手当てもしなくてはならない。この時点で、給料も6万円ほどに増える。6年が終わる頃に、国家試験があるが、数日にわたるその問題は記述式で、たとえば何歳の男がこれこれの症状を訴えている。その診断と治療方針を書く、というようなもので、これも1題4時間という長さのもの。 この試験の順位によって、その後4年間の専門配属先が振り分けられる。その4年間はもちろん国立病院のインターンであり、1年目から夜勤を入れると20万から30万円はもらえるし、週1回は病院でなく講義がある。早くから公務員としてのステイタスをもらえ、最初の入学や授業料とかは限りなくタダに近い。英文学をやろうとも医学部でも同じ値段だ。選抜試験に通って、2年次に進学した学生に医学をやる理由を聞くと8割以上が「人道支援をやりたいから」と答える。国家試験に通った後は、金のない人には無料で医療行為をするというヒポクラテスの宣誓をしなくてはならない。 これだけ書くと、日本の医学部とだいぶイメージが違うのが分かるだろう。そして、この医療におけるソシアル・メンタリティは偽善でなく、ほんとうに続いているのだ。最近、マダガスカルで人道医療をやっている整形外科医が本を出したが、美容整形でも苦しんでやってくる患者を助けるのは同じ、フランスにいても、金はないが悩んでいる若者には料金を安くしたりすると言っていた。不法滞在の移民が病気になって、市役所に行ったら福祉士を紹介してくれて、すべてがただになる。警察に通報されることもない。不法滞在7年目のあるフィリッピン人の家政婦は有名国立病院の施療部でエコグラフィもタダ、歯の治療もタダで受け、境遇に同情した産科医から仕事の紹介、滞在許可証をもらう手続きまで考えてもらっている。 フランスの医学部6年を終わって国家資格を得た学生は、これだけ実践しているので、アメリカに行くと、ポストドクの資格で働ける。イギリス人だと医学部5年で、即ドクターのタイトルをもらえてポストドクをやっているからだ。フランスはインターン4年間は国家公務員であり同時に学生の身分も保証されているので、その間に博士論文を書く仕組みになっている。 もちろん、フランスの医学部がいいことばかりではない。アメリカへ行くとポストドクで働けて一人前の研究者として論文発表できるフランス人でも、フランスでは10年も学生扱いなので、インターンの間、研究職では大した責任を持たせてもらえない、みんな国家公務員で競争心や功名心がなく覇気にかけている。元気でやる気のある人はどんどんアメリカに渡る。若くてやる気がある人にはネオリベの競争社会の方が魅力的なのだ。また、フランスではいわゆるエリートは、技術系のグランゼコールに行く伝統がある。数学を基準にして学力ヒエラルキーがあるから、医学部を目指すのは、別にエリートというわけではない。 学生と名がつけば、住居手当もつく。外人でもOK。日本から来た裕福な家庭の留学生でも申請すれば月2万円とか3万円の住居手当をもらえる。外国人でも癌になったらすべて無料で最新治療が受けられるし、外国人の夫婦でも滞仏中に子供を生めば、すべて無料の上に各種手当てをもらえる。収入がないとか低ければ、その後の保育園や給食費も限りなく安くなる。前述したように、不法滞在の外国人ですら、病気になったら医療がタダの可能性があり、子供を公立学校に入れることもできるのだ。 日本は一応国民皆保険だが、アメリカには全国民をカバーする社会保険はない。それどころか、一部の州では、金のない患者を路上に放り出す病院まであったようだ。日本では自立支援という名目で、半年で改善しない患者のリハビリが打ちきられたりする傾向にある。フランス人は、このような他の先進国の現実をあまり認識していない。アフリカや中東に行って人道援助することの方に目が向いている。フランス人で援助される側の人も「お情け」ではなく連帯による分配だと思っているから、当然のことだと思っている。 社会党の大統領候補セゴレーヌ・ロワイヤルは、カトリック教育を受けて育った。第一書記のオランドとは事実婚であり、日本から見ると自由で進んでいるように見えるかもしれないが、4人の子はカトリックの洗礼を受けていて、国立リセの中に今もある学校付き司祭と交流して活動した。ちゃんと伝統的基盤があるのだ。ネオリベの先鋒ニコラ・サルコジはハンガリー移民の父とフランス人の母だが、ハンガリーといえば。ポーランドと並んで、東欧の中でカトリックの伝統の強いところだ。カトリック・メンタリティはあって当然だ。中道のフランソワ・バイルーにいたっては、地方の素朴なカトリック親父のイメージで、選挙の日曜にも教会のミサに出てたのをアピールした。こんな人たちは、ピューリタン的競争社会のアメリカでネオリベが推進されることと、フランスにおいて教育医療などを民営化することの本質的落差を本当には分かっていないのではないか、と、この30年、フランスのソシアルの根の深さにいつも驚倒させられる私は懸念しているのだ。 (2007.4.29) フランス大統領選についてその2第一回投票まで3週間を切った。最近がっかりしたのは、シモーヌ・ヴェイユがサルコジ支持を表明したことだ。 シモーヌ・ヴェイユといえば、アウシュビッツの生き残りで、1975年に妊娠中絶を合法化したことで有名な女性政治家で、この前亡くなったアベ・ピエールを除いて、フランスで最も人気のあるキャラクターの一人だ。彼女の支持者数からすると、もし今までに大統領選に立候補していたら、フランス史上初の女性大統領は間違いなかっただろう。彼女のほかには国境なき医師団を創立したベルナール・クシュネールが国民的人気の人で、この二人は大統領になろうとしなかったことで、その言動が更なるオーラを帯びている。二人とも厚生相だった。ヴェイユはバイルーと同じ中道だったはずなのに、今回は、バイルーの言ってるのは絵空事、自分だけの政治といって、厳しく批判して、サルコジを支持した。 これまでの大統領選と違って、今回はインタネットの世界の広がりを感じる。いろんな人が政治的コメントを貼付してくるので、ぎょっとする。私の周りには、大きく分けて2種類の人がいる。インテリ左翼とブルジョワ右派、ネオリベだ。インテリ左翼の友達は、サルコの顔写真のポスターに「ル・ペンに投票を」と書いてあるパロディのポスターを貼付してくる。ブルジョワ・ネオリベの人は、セゴレーヌ・ロワイヤルをクスクス・ロワイヤルとネーミングして脳が小さくて云々という駄洒落を送ってくる。そこまではよかったのだが、先日はアリとキリギリスの話を送ってきた。イギリス版では夏に遊んでいたキリギリスは冬に凍死しました、フランス版では、キリギリスは冬になったら生きる権利を主張して、アリが税金を払い、やっていけなくなって、外国へ移住しましたとさ、と比較されている。 これは、サルコジが、額に汗して働いた者は働かない者よりもいい暮らしをするのが当然と言ってる論理の言いかえなのだ。つまり、冬に凍えそうな人は、夏遊んでいるせいなのだ、自己責任の自業自得という論理である。疾病、失業、多子、老齢などさまざまな理由で夏の蓄えが不可能だった人々は眼中にない。「働かなかったやつが、働いたものから当然のように恵んでもらうのは不当だ」というすごく卑しい利己心に訴えているのである。 そういうのを送ってくる人とは、直接会ったとき、大統領選の話にならないように気をつける。とても相槌は打てないからだ。しかし、何の疑問も抱かずにそういうエピソードをうちに送ってくるとは・・・インテリ左翼の友人には話せない。一部の人からはうちはブルジョワだと見なされているわけだ。確かに、公約というものがもし守られるとしたら、サルコジの公約の方が我が家の家計のプラスになる。相続税をゼロにするとか、年金の最高額の頭打ち(40年積み立て)をやめて、それを過ぎても働ければ働くほど、上乗せしてくれるとか、「働き者」のアリを支持層に取り込もうとしてるからだ。でもうちはたとえ優遇されなくてもネオリベは広い意味で正しくないと信じてるので、ダメなのだが。 うちの娘のBFのうちはブルジョワで、お母さんはセゴレーヌという名を聞くだけで蕁麻疹が出るんだそうだ。それで娘はからかうつもりで、セゴレーヌの写真にハートマークをつけてBFのアパルトマンのベッドの脇に貼っといたんだそうだ。それをたまたま来たお母さんが見つけて悲鳴を上げたらしい。 しかし、社会党のDSKみたいにはっきりと、財政難の解消のために、外国で働いているフランス人にも課税するなんて言われたら、それこそ自己責任、自助努力で外国で働いている若い人たちのことを考えると賛成できない。インテリ左翼の友人からは私がフィガロ紙を読んでるだけで、驚き裏切られたようなりアクションをされたことがある。私が、何が書いてあるか分からなければどうやって批判するのかと聞き返したら黙ってしまった。まったく教条的なやつが多い。私がフィガロを読むようになったのは、フィガロは、グランゼコールの生徒たちにタダで提供されるからだ。上の子供がグランゼコールに行って以来、10年近くタダで読んでたのでなじみができた。将来のエリートをこうやって取り込むのか、と納得できる。 極左や極右は論外として正直言って、今度の大統領選の顔ぶれは、「どいつもこいつも・・・」と言いたくなる。セゴレーヌがマルセイエーズを盛んに歌うのを皮肉って、「こないだまではイム・ナショナル(国歌)じゃなくてインタナショナル(革命歌)を歌ってたじゃないか」とサルコが言ってたが、共産党の女性候補はイム・ナショナルとインタナショナルを両方歌った。ほとんど悲哀を覚える。インタナショナルがインタナショナルだった頃もあったんだなあ、そしてマルセイエーズもちょっと「イタい歌」に聞こえてくる。そういえば復活祭の病理学国際会議で、「火刑の薪の下から拾ってとっておかれた」という「ジャンヌダルクの肋骨」の真偽の鑑定結果が発表されるそうだ。これにもなんか政治的色がつきそうだ。 あともう一つ、このことを気にしてるのは私一人なのかどうか分からないが、そして政治とは関係ないのだが、私が今のとこゴーリスト路線で消極的に支持してるUDFのフランソワ・バイルーBayrouの発音だ。バイルーという人と、ベイルーという人と2種類いる。ラジオやTVのアナウンサーですら二つに分かれ、私はどちらか知りたくて悶々としてるのだが、誰も気にしてないのである。女優のナタリー・Bayeはバイで、ベイとは聞かない。バロックバレーのクリスティーヌ・Bayleはアングロサクソンぽく「ベイル」でOK。では、Bayrouはバイルーかベイルーかどっちかと思って周りのフランス人に聞いても、BAYだから、どっちでもありうるねとか平気で答えるのだ。私が、でも固有名詞なんだからそのどっちかに決まってる、どっちなんだ!と叫んでも、誰も気にしないで、好きなほうを使ってるのだ。バイルーのほうがやや優勢だが、今でもベイルートはっきりいうアナウンサーも一般人もいる。普通、日本人がフランス語を習う時、Y=i+i と習う。 だからcrayon=crai+ion でクレイオンとなる。その伝で行くとBayrou はバイルーなのだ。フランス語は一般的に重母音を嫌って、A+I=エ、 O+U= ウ、 E+I=エ、 A+U=オ と音便を起こす。だから、アイとかエイは、両方ともあまりフランス語的でないのだ。 そこで、多分、フランス人は、アイとエイの違いに敏感ではないのかもしれない。日本語でも重母音の音便がある。日本人は小学校以来あまり気にしないが、フランス人のための日本語学習にはちゃんと、E+I=長いE O+U=長いO と書いてある。 しかし私たちはほんとにそれを守っているだろうか? 確かに「恵子さん」は「けいこ」と書いて「けーこ」と発音される。しかし松田聖子を「せーこ」じゃなくせいこちゃんと発音することはあるように思う。 「大英帝国」は「だいえーてーこく」となるはずだが「だい」のA+I という2重母音につられて「だいえいていこく」と言ってしまうかもしれないし、「定刻に来てください」という時なんか「てーこく」というと間延びして定刻っていう感じがしないんで「ていこく」と言いそうな気もする。だとしたら、今私がバイルーかベイルーかで悩んでるのは、日本にいる外人が、「佐藤栄作」の発音は、「さとーえーさく」のはずなのに、アナウンサーによっては「さとーえいさく」と読んでいて、日本人は誰も悩んでないというのに似たものなんだろうか。田中角栄が「かくえー」と聞こえたり、「かくえい」と聞こえたりりして悩む外人がいるのかもしれない。 司馬遼太郎なんかも、「りょーたろー」のはずだが「りょうたろう」と言っても「りょうたろー」と言っても、自然に言えば、日本人同士ならひょっとしてなまってると思われても間違ってるとは指摘されない気がする。すごくつまらない話だが、この一点だけでも、もしバイルーが大統領になったら、ちょっとうっとうしいなあと思ってしまうこの頃だ。 (2007.4.3) 訂正と追加上の記事で、「その伝で行くとBayrou はバイルーなのだ。」は「ベイルーなのだ」の間違いでした。ややこしくて失礼。 それから、今朝(4月5日)のラジオで、例のジャンヌ・ダルクの肋骨の鑑定結果を聞きました。この骨がジャンヌのものとして歴史に登場したのは1867年だそうで、鑑定によると、紀元前7世紀から3世紀の骨で、エジプトの香料が染み込んでいるらしく、ひところヨーロッパではやったミイラの粉を薬にする「ミュミー」の交易で出回ったエジプト系「商品」らしい。鑑定したフィリップ・シャルリエは、昨日ラジオのEurope1で、結果は週末の国際会議まで明かせないと言っていたのだが、反響がすごくて、今日もう一度同ラジオで、発表してしまった、というわけです。(2007.4.5) フランス大統領選についてその1 ナショナル・アイデンティティサルコジが移民とナショナル・アイデンティティに関する新しい省庁を作ると公約してるので、ますますル・ペン支持者寄りになっている。相対的にフランソワ・バイルーが、左寄りに見えてるので、あわてたソシアリスト陣営は、「左翼の候補はセゴレーヌということを忘れないように」と、ソシアルを強調し始めた。バイルーの理想主義は夢物語とサルコもセゴもせせら笑うので、バイルーの支持率は早くも下がり始めた。そしたら昨日、マルセイユに行ったセゴが、自分もナショナル・アイデンティティにこだわると言い出して、ラ・マルセイエーズを歌いだした。彼女はル・ペンご用達のジャンヌ・ダルクもすでに持ち出してるし、立派に蝙蝠、サルコと似てきていい勝負?だ。ラ・マルセイエーズは暴力の歌じゃない、フランス革命のユニヴァーサルな理念のシンボルだと強調。昨日、フィギュア・スケートの世界選手権を見てたら、フランス人のブライアン・ジュベールが優勝したので、フランスの中継は大喜び。40何年かぶりだそうで、この子はポワチエ出身なので、ナレーターが、今日はポワチエが世界の首都、思えば、732年にシャルル・マルテルがサラセン人を(ポワティエから)追い出して以来の快挙って言ったのにちょっとびっくりした。2位の日本人の男の子はどこの出身か知らないが、日本でこんな風に言われてるのかしら? 日本では、地元のご町内の皆さんが集まって応援とかはよく中継されるけど・・歴史も?考えると、フランス人が、ことあるごとに、8世紀のポワチエから、フランス革命まで、持ち出すのは大したものだ。フランス革命の後の恐怖政治とか、帝政とか王政復古とかまた帝政とか、そういうのはスルーするのかと突っ込みを入れたくなるが、フランスの一番いい部分で、一番ユニヴァーサルな部分をアイデンティティだと言い張るのも、それはそれで結構なことだ。 戦後民主主義で育った私の日本史のイメージだと、日本史の中で「善」のイメージは、光明皇后、聖徳太子、平安時代の国風文化、元寇の神風の無血勝利、江戸の天下太平、無血革命の大政奉還、そして平和憲法・・・といっても明治維新はその前後にしっかり血が流れてるんだけど、一応、こういう、武力でない「平和」の部分でつながってる。でも理念や理想がつながってる感じはあまりない。 それに対してフランス革命の理念は、「自由・平等・友愛」で、「平和」や「非暴力」は入ってない。「自由・平等・友愛」が実現すれば平和も実現するはずだけど、「自由・平等・友愛」の実現のためには戦いもOKということだ。戦いなしに「自由・平等・友愛」が手に入るほど、人間は善良でもないし、偽善的ですらないのかもしれない。 (2006.3.23) 奴隷と移民について今年に入ってから奴隷制(古代の戦勝者による敗戦者の奴隷でなく、黒人奴隷の歴史と実態)について調べていた。フランスは奴隷制が人類に対する罪であると、21世紀になってからわざわざ判決を出した国で、今年からその記念日を設定した。調べて行くと、ヨーロッパ人がはじめは黒人を人間として見ていなかったこと、その後、黒人を人間とみなして奴隷制を廃止したその時から、「黒人=劣っているのではなく遅れている人間」を文明化しようと今度は一種の人類愛的使命感(それが独善的勘違いだったにせよ)をもってしまったことがよく分かる。はじめは「人間じゃない」から、売買して移動させた。「人間」だということになってから、彼らの住む「遅れた土地」を「助ける」ために、ヨーロッパ人の方が彼らの土地に出張っていくようになったのだ。アフリカにおける植民地主義は奴隷制廃止とセットになって生まれたと言っていい。ともかく植民地政策の最初の頃には、なんだかすごく善意の利他主義の人々が同じ流れに存在していたことに驚かされる。歴史的には批判することも簡単だし、結局差別感や優越感の裏返しだとか、自己満足とか、よけいなお世話だとか言うのは簡単だけれど、いつの時代にも悪い奴がいるように、たとえピント外れでも「善意の人」もいるのだという見本だ。ピント外れの善意など悪意よりもっと始末が悪いと言えばそれまでだが。正義の名の下に行使される悪ほどたちの悪いものはないのは歴史の示すところでもある。 といっても、奴隷制は、欧米人が寄ってたかってアフリカに出向いて黒人狩りをして無理やり「新大陸」に送り込んだというものではもちろんない。ユダヤ人もアラブ人も奴隷貿易に関わっていたし、それどころか、当の黒人の権力者だって同人種を奴隷として売っていたのだ。パリに最近できたケー・ブランリーの美術館にはブラック・アフリカの部族の王が着ていた16世紀の上衣が陳列されていて、そこにはベネティアン・ビーズがびっしり縫い付けられている。当時のアフリカの権力者たちがどうやってビーズを手に入れたかというと、やはり奴隷で支払ったのである。奴隷は通貨だった。権力を手に入れた人間が欲望を満足させるために他の人間を人間と見なさかったのだ。どちらにしても、前述の『音楽サロン』の本で見たように、こうして「移動する」人間は、女性や奴隷のように「財」であるか、ジプシーや非定住ユダヤ人や芸術家のように二級人間であったわけだ。 それにしても新大陸アメリカで、植民者がプランテーションの運営にわざわざ手間ひまかけてはるかアフリカから黒人奴隷を輸入したというのは驚きでもある。先住民の北米インディアンや中南米インディオたちは、たとえ全滅しても奴隷労働を拒否したのだろうか。インディオについては、彼らが「怠け者で使い物にならなかった」からだというのを読んだことがある。実際は、彼らを奴隷として商品化するシステムが発達しなかったからなのだろう。黒人奴隷は男は骨格と重さで、女は乳房の大きさで、子供は歯を基準にして値がついた。家族で買われたわけではなく別々の労働に従事させられた。女奴隷の居所はプランテーションの白人主人のハーレム化していて、そこに生まれた子供たちはただで再生産できた「奴隷」だった。 もともと労働力として屈強な者が選ばれた男たちは、それでも苛酷な船の旅で病気になったり死んだりする者も多く、プランテーションで生き抜いた黒人は、肉体的に優れた遺伝子を持った者だといえる。だから彼らが反乱を起こすことは当然あった。その危機管理は猛獣を相手にするように徹底した銃での対応であり、反乱者のみせしめのリンチだ。銃社会の根は深い。 労働力として肉体的に優れた奴隷の男たちに対する白人男の性的コンプレックスの神話も生まれた。我々はアメリカの黒人というとスポーツ選手のように身体能力の高い大男をイメージするが、それは別に「アメリカに住んでいるから」とか「黒人はみんな身体能力が高い」とかではなく、値をつけられて取引された最初から屈強であり、苛酷な生活の中で弱者の自然淘汰によって精鋭が生き残った結果が大きく影響しているのだ。 アメリカのペンシルヴァニア大学生のDNA鑑定では、黒人の両親から生まれた黒人の学生が、48パーセントがヨーロッパ人だと知って驚いたとある。逆に黒人の血を発見した白人学生も多い。遺伝子的に100パーセントの黒人や白人はかなり少ないと思われる。 トマス・ジェファーソン大統領は、南部のプランテーションで250人の奴隷の上に君臨していたが、やもめになってから、黒人(なき妻の父が女奴隷に生ませたハーフ)の養育係との間に6人の子をもうけ、その中には見た目はまったく白人の息子もいたが、一生父から「ニグロ」と呼ばれていた。内縁の妻と子供たちはジェファーソンの遺言によってようやく自由民になったに過ぎない。こうなると、「見た目」や「血」すら関係なく、差別とは政治的、権力的なシステムの問題だと分かる。 そこで、移民の問題だ。アメリカでさえ、今やマイノリティのトップは黒人でなくヒスパニックである。ブッシュはついに不法入国を防ぐためにメキシコ国境に壁を作ると、昔の東西ドイツや今のイスラエルみたいなことを言い出した。「うちに来るな」というやつだ。これはもう、人種の問題でもナショナリズムの問題でさえもなく、「貧富の差」の問題である。 現在、トルコからイギリスに向けて、大型トラックにすしづめにされて「発送」される男たちがいる。食料もなく、水すら不十分で、餓死圧死する者など続出だ。途中で発覚して荷台が開かれたニュース画面を見たが、ほんとうに天井まで隙間なく詰まっていて、裸に近い男たちがどかどかと落ちてくる。立ち上がる元気もない。しかもそのトラックに乗るために500ユーロ(75000円)という彼らにとっての大金を支払っている。そうやって無事イギリスに着いた男たちは、不法移民の不法労働につくわけだ。 スペインに近いカナリア諸島には、2006年の初頭から夏が終わるまでに、すでに二万五千人の不法移民が上陸している。出発は過去に奴隷貿易の起点だったセネガルだ。この船旅も凄い状況で、10日間あまりの航海の後で漂着した時、ほとんどが死んでいることもある。今年になってすでに五千人の死者が出たというから、六人に一人は死ぬわけだ。これも食料や水が数日分しかない。テレビで映像を見ると、ナチスによるユダヤ人の収容所送りの列車とか奴隷貿易船(彼らは少なくとも商品であり積み荷であったから生かしておくのが目的だった)よりもひどいのではないかと思うほどだ。この船が日に何艘も着く。監視員は胸が悪くなる。とにかくぼろぼろの黒人たちを保護して、世話して、不法滞在だが送還しない手続きを取り、僅かの金を与えてスペイン本土に送り込む。こうなるとしめた者で、すでに不法滞在しているつてを頼って身を寄せるわけだ。そして、葡萄の集荷など、スペイン人がやりたがらない季節労働に従事する。 この船に乗るのも、金を払っている。金を払い、死ぬ思いをして、それでも、国に残っていても飢えて死ぬだけだから、ヨーロッパへ不法入国することに賭けているのだ。 奴隷貿易はとっくに廃止された。植民地主義でさえ糾弾された。それなのに、セネガルから、トルコから、今日も金を払って不法労働者予備軍が「先進国」に押し寄せてくる。船を出す者、トラックを手配する者がいるからだ。金を払っているのは「財」の側だ。出稼ぎ不法労働をする必要のある方が高い金を払うのだ。「先進国」が取り締まるべきなのは、衰弱して上陸する不法移民ではなく、この運送産業を生む構造そのものだろう。 イギリスやスペインに向かうのはスペイン領カナリー諸島がもっともアフリカに近いヨーロッパであるからでもあるが、これらの国の移民政策が緩やかだからでもある。フランスも移民天国だったのが、サルコジ内相が締め付けを厳しくしつつある。パリの南郊外にあるカシャン市の古い寮を不法占拠していた一〇〇〇人もの移民を強制的に排除して、強制送還したり別の住居を与えたりしたが、そのうち二〇〇人ほどはばらばらになるのを拒否して体育館に寝泊まりしていた。6週間も「避難民」状態で、ハンストする人も何人かいて、社会党系の政治家たちや市民運動家たちが何度も慰問に訪れて連帯を示した。10月7日からついに、家族ごとの住居が与えられた。しかし「仕事場から遠くなる」という理由で移動を拒否する人もいる。ほぼ黒人ばかりで、体育館は、カラフルな民族衣装を身につけて荷物を器用に頭の上にのっけて歩く子連れ女性など、民俗色あふれる様子だった。その彼らが次々とこぎれいなアパルトマンを与えられていくのを見て、トラックや船から半死半生で吐き出される移民予備軍の姿を思い出す。 法に反している立場なのに、「仕事場が遠くなる」とはなんだ、手厚く遇されるのはおかしい、と思うかもしれない。実際ポピュリストはそういう感覚を上手に操る。人々の感情ほどいい加減なものはない。かくいう私も、黒人不法移民が雑魚寝しているのを見て、「怖い、汚い、図々しい」との印象を簡単に持つ。しかし一時の印象やら感情をおさめて問題の本質を探り解決を図るのが必要だ。(サルコジは司法批判で、私は世論の代弁者などと称しているが、世論など、時々のトピックの局面によって感情的に黒にも白にも振れるものである。極悪人が出ると死刑復活と言ったり、司法過誤で無実の人の誤審が明るみに出ると、刑務所に送るのも悪いと言う。感情や人情に倫理も論理もないのだ。) では、「うちで何してるの? 国に帰ったら?」という感情に流されないで移民を擁護している人達の論理とは何だろう。ボランティア団体や左翼政治家だけでなく、カトリック教会も彼らの味方だ。何年か前には不法移民の家族を大量に教会に匿って有名になった司祭もいる。 法治国家で法に違反している人を保護する根拠とは、「移動する権利」は人間の基本的人権だということである。これは意外に盲点だ。フランスのカトリック教会は、この地球上に「外国人」などいない、という立場をはっきり取っている。血縁地縁と関係ない普遍宗教おそるべし。 確かに、自然界でも、ある地域に食料がなくなると、動物が集団で大移動することはある。人間の先祖もきっとそうやって食料や生存に敵した環境を求めて世界中に散っていったのだろう。「よりよい生存条件を希求して移動する」のは、確かに動物の本能でもあり基本的権利といってもいい。 もちろん放っておけば、特に人間の場合、社会的経済的にいろいろなひずみが生じる。過去には日本国内にだって関所があったりして、通行権は管理されていた。今は誰がどこに動こうと自由だ。すると若者は仕事のない郷里を捨ててどんどん都会へ出ていく。過疎地と都会の人口格差が生じ、それに伴って不平等も生じる。基本的に、自由な通行権を保証する国は、それによって自然に生じる不平等を解消するサービスも保証することを前提にしなければならない。過疎地の交通機関、医療、通信などだ(今の日本は「民営化」によってそれがくずれてきた)。 これを拡大して考えると、アフリカ黒人の家族集団に「あんたたち、フランスでなにしてるの、フランス語も話せないし、フランスに何ももたらさない、金ばかりかかるのだから帰れば?」とサルコジ風に切ってすてるのは確かに一面的だ。アフリカから生死をかけた悪条件でやってくるのは、座しても死を待つばかりだからというケースが多い。「うち」さえよければ、外で他人が飢えていようと凍えていようといいのか? フランスは「危機状態にある人間を助けない」ことが刑法上の罪に指定されている国柄だ。信者の数で今もフランスでは一番多いと思われるカトリック教会が、遊牧民や移民を含めた移住者を保護する姿勢を率先して打ち出している。「受け入れの地フランス」という名のNPOも、カシャンの体育館避難民の引っ越し説得に力を発揮した。 それに、こうやって不法移民が後をたたないということは、事実、外国人労働者を必要とするマーケットがあるからなのだ。アメリカには一千万人以上の不法労働者がいて、実際に毎日日雇い仕事を任され、ポリスからもお目こぼしであるのはよく知られているし、先進国の内輪の年金制度はどこも破綻しかけているのは周知の事実だ。厳しい気候や生存条件の悪い土地を捨て、仕事を求めて移動するアフリカ人や中南米人が、高年齢化した先進国に仕事を求めてやってくる。彼らに仕事を与えて年金システムにも繰り込むかわりに、「うちの仕事はうちの子供でまかなうべきだ」と言って女達に子供を生ませようとプレッシャーをかけていて解決する問題だろうか。戦争、飢饉、疫病、貧困で、親のない子供たちが「よそ」ではどんどん死んでいるというのに? 南北格差が広がる限り、壁を作っても、港湾を警備しても、不法移民は必ずやってくる。奴隷商人や、銃で威嚇する主人や、あからさまな帝国主義的侵略者の姿は見えなくなったが、死を賭しても潜入してそれこそ奴隷状態の無保障危険労働に従事する人もいれば、どうどうと基本的人権を訴えてハンストを続ける体育館占拠者もいる。奴隷と移民の問題は、「尊厳」の問題でもある。基本的人権とは人に尊厳を保障する権利なのだろう。 去年の今頃、フランスでは「移民の子弟たち」の「暴動」が話題になり始めた。あの頃夜空を染めた炎は、まだどこかでくすぶっているに違いない。次世代の子供たちが自由に安全に移動、移住できる世界を作る責任は私たちにある。考えても、考えても、まだ、足りない。 (2006.10.9) 『音楽サロン』『拳遊記』『アモールとプシケー』を読んで最近いただいた本の感想。ヴェロニカ・ベーチ『音楽サロン』(音楽之友社) エリック・ノイマン『アモールとプシケー』(紀伊国屋書店) 松田隆智『拳遊記』(BABジャパン) それぞれ、編集者、翻訳者、関係者からいただいた。なんだかまったく傾向が違う本に見えるかもしれないが、いずれも最近の私の関心のツボにぴったりはまった。『拳遊記』の中に、『武術を学ぶ者は、それぞれ好みによって目的や課題が異なるため、たとえ拳師が特別な方法を見せてくれても、興味のない人はただ見過ごすだけであるが、常に課題を忘れずにいれば、一瞬の機会を逃がさないのであり、またたとえ機会を得ても、準備がてきていなければ(その段階に到達していなければ)そのチャンスをものにできない』とある。その通りで、私は歳と共に課題が増えているがその記憶力はあるので、さまざまなことが通底しながら、新しいインプットに反応しやすくなっているのはありがたい。 最初の2冊がドイツ人の著作であることは偶然だが大いに意味がある。『音楽サロン』は、音楽史に興味のある人はもちろんだが、ヨーロッパ文化史やヨーロッパ人の心性の違いに興味のある人にもぜひ読んでもらいたい本だ。私は最近アングロサクソン国とフランスノメンタリティの違いについて書く機会が多かったが、フランスとドイツの違いがこの本でよく分かる。カトリック的な世界のいい加減さとプロテスタントの良妻賢母の縛りの差もあるし、そういう分け方の中で、アーティストたちがどのようにヨーロッパを自由に移動していたかもよく分かる。女性が中心となるサロンが都市で発達したのは主として近代だが、それはロマン派の時代と、ナショナリズムの台頭の時代と軌を一にする。 フランスのサロンの特殊性は階級の融通性にあった。サロンの常連客に紹介されれば、貧乏学生でも職人でもアカデミーの教授でも受け入れられた。ツヴァイクは『パリは革命の遺産が今なお脈々と息づき、プロレタリアの労働者も、雇い主と同じように自由で完璧な市民だ。・・・勤勉で真面目で清潔な小市民の女性たちが、通りの娼婦たちを軽蔑したりはしない』と書いている。それに対してドイツでは身分や階級による束縛が大きく、女性は、シラーが『家庭は慎み深い主婦が切り盛りしている』と表現したように、謙虚で主婦であり母であり、神に対して畏敬の念を持ち、官能的な情熱とは無縁で受け身であることが理想とされた。 フランス的な思想家と思われがちだがスイスの厳格なプロテスタント家庭出身のルソーも、教育論で『女性は自分のしようとすることを命じられることによって』家庭を統治せよと書いてある。フランスの自由なサロン文化を味わった女性はドイツへ来てその難しさを経験する。このドイツ風女性観はそのままヒットラー政権下の女性の「教会、子供、台所」という三つのKへの縛り付けにつながった。 おもしろいのは、フランスのサロンで、音楽サロンはどちらかというと保守的で母性的な女性が多く、文学サロンの女性は男性的で無愛想な性格というのが多く、文学と音楽の混合サロンでは両性具有的なものが全面に押し出されていたということだ。ジュルジュ・サンドはその典型だ。男装が有名だが、おしゃれして誘惑的な女の魅力をふりまくこともあった。 あと、女性解放の「解放」という概念は、一八世紀末のユダヤ人市民階級の家族のあり方に源があるらしい。そのまた起源は、古代ローマのラテン語で、未成年の家族を父の権力から解放することを意味していた。「未成年」の中には女性や使用人や奴隷が含まれる。ユダヤ人家庭では、息子が成人して一家をなしても、誕生から死に至るまで家族のすべてのことは父親が決定した。こういう家父長制は一昔前の日本もそうだったろうし、今でもオリエントの多くの国はこういう感じだ。 次に、ヨーロッパのサロン主催者には、今風にいうと国際結婚が多い。もっとも、ヨーロッパ内では普通のことだった。フランスでも、ルイ一四世の母親はオーストリアのアンナだし妻はスペイン人だし、その孫ルイ一六世の妻もオーストリアのマリー=アントワネット。現代でも、先代のベルギー王はわざわざスペイン人と指定してお妃さがしをしたし、その辺は、国籍よりも「カトリック同士」が基準になっている。一見、国際的で自由な人の行き来、に見えるのだけれど、女性は人間でなく「財」だと考えると分かりやすい。政治や外交、経済上の流通財なのだ。奴隷が貨幣でもあり商品だったのと基本は同じだ。だから国際的というより、女性の国籍はカウントされていないという方が実態にあっている。そして、女性を含む「移動する人間」は、いつも差別の対象だった。ジプシー、奴隷、さすらいのユダヤ人、漂泊のアーティスト、現代の難民や移民や路上生活者にいたるまで、非定住人間は、定住者の目からは二級人間なのだ。そして二級とは「女性的」ということでもある。 音楽の評価においてすらそうで、ドイツではマーラーの音楽はユダヤ人である故に女性的であるとされ、ハンガリー出身でパリを中心に活躍したリストは、ドイツ音楽にとって異邦人である故に女性的だと言われ、ブラームスはドイツ的な素質があり男性的だと評された。「男性=英雄=愛国的=ドイツ的=好戦的」は類似概念だった。ナチスの母親礼讚は「男を供給する」からだった。 それにしてもこの本を読むと、ロマン主義とナショナリズムと女性差別が常にそこはかとなく結び付いていることにあらためて驚く。ナショナリズムとは、美しい「うち」を「そと」から守るために「うち」の成員(男=そとからうちを守る戦士)を増やす戦略を必要とし、そのために生産財としての女を囲い込む。これも現代にそのまま受け継がれている。世界中にどんなに貧困や戦争の犠牲者の孤児があふれていても、少子化の国は「うちの子」を欲しがり、「うちの年金システム」が破綻しそうになっても移民労働者に年金を負担させるシステムは作りたくない。将来「うちの子」が移民を養うのはよろしくないからだ。 私のように外国に住むことを選択し、ごくささやかながらアーティストを支援するサロンを組織し、音楽の演奏や教育に関わり、家族も国際的に飛び散っていている女性にとって、この事実は重い。私が日本でもアングロサクソン国やドイツでもなく、フランスにいることの必然性もよく分かる。 こういう目でドイツ人エリック・ノイマンの『アモールとプシケー』を読むとこれもなかなか感慨深い。家父長的社会における男の財としての女性の「一生」のシェーマの中で、どの段階で、女性が「財」でない「人間」としての自分に目覚めて、人間として恋愛したり人間として家庭を営むことになるか、それによって女性の幸福度が変わるという分析なのだ。それでこの本には『女性の自己実現』という副題がついているわけで、家父長的な社会の中で、女性が単に「人間=男」になろうと頑張るのでは不幸になる、女性特有の発展段階を経なくてはならないという話なのだ。 女性特有のというのは、まず母娘の葛藤から、処女、女、母という、まあ精神分析由来の心理学では避けて通れないお約束のパターンだ。 人は性的存在だけではない。社会的生理的宗教的などの理由で無性的に生きる人間も全き人間である。性染色体は二三対四六の染色体のうちの一対しかない。それによって決まる胎児の脳への男性ホルモンのシャワー量だって、グラデーションをなしているので、男と女は両極にきっぱり二分できるものではない。また人は一生のうちはもちろん、一日のうちであっても、性的存在としてのあり方に変化がある。食べて消化して排泄する存在としても変化するのと同様だ。 「女性特有の何々」という言葉はたえず権力的に編まれる。権力を守る男たちは、「財」であり、財の継承者としての「うちの子」を生産する者である女性を管理する必要があり、移動する(父から夫のもとへと軽々と国境を超える、あるいは神の子を生んだりする)他者である女性を恐れるからだ。だから、「女性の自己実現」にも、そこから牙を抜くキイワードが巧妙に用意される。それは「愛」、「愛による変容」、「愛の神秘」だ。女性は「財」としてではなく、自分の意志で人生を選択し生きる「人間的=男性的」発達をとげなくてはならないが、男が力で勝ち取るものを愛する魂で勝ち取る。何のことはない、愛によって自主的に「教会、子供、台所」に落ち着けば安泰なのである。そして、こうした「自己実現を果たした」女性、財にとどまらない女性のおかげで、それまで母親の持ち物として去勢されていた男も、真に解放されるわけだ。愛の力、万歳。これって、現実に家庭や社会のしがらみに縛られていたり差別されたりしている女性の悩みの対症療法として、「気の持ちよう(だって愛してるんだもの)」で楽になる、というには有効かもしれない。 「自己」は常に対象の開示によって関係性と文脈の中に現れる。その中でルールやツールが吟味されなくてはならない。女性と世界の対峙は、これからはユングよりヴィゴツキー第三世代モデルで考えてみよう。何よりも、まず、息子にしろ娘にしろ、子供を持つ母親たちは、ヴェヌスのようにならないように気をつけるべきだ。母親の自己中心主義の最初の被害者は子供たちだ。子供たちは自分のエゴの一部だと母親は思っているのだから始末が悪い。「愛の力」だから始末が悪い。 それでもこの本がおもしろいのは、愛する魂は神聖さを獲得し、それによって神との結婚が可能になる。プシケーがヘルメスによってオリンポスに上げられ、聖母マリアが天使たちに天に上げられたように、財として「移動する」女性は、差別の代価に、ある種の自由を獲得して、それが神性につながるところだ。それをきっかけに、女性の出身グループである「人間」がグレード・アップする。人間の聖化とヒューマニズムと相対的な神の失墜は連動しているのだ。無神論と汎神論と無神論とロマン主義の関係にも思いがめぐる。 さて、『拳遊記』の方は、男性ホルモン全開みたいな本だが、逆に淡々としてどことなく枯れている。中国風の拳法についての私の知識はジャッキー・チェンの若いころの一連の映画とか、『北斗の拳』全巻とか、後も単発のその手のフィクションだけなので、無知に等しいのだけれど、そこに流れる雰囲気を念頭において読むと、ふむふむと抵抗なく読めたのはおもしろい。武道もの、名人もの、剣豪ものとか嫌いじゃないし。 著者は真言宗の僧籍があるそうだけれど、30年も40年も、修行三昧の生活、いったいどうやって収入を得ていたのだろう。表紙の写真は坊主頭でなかなか強そうだが、修行時代の写真は髪がパンチパーマ風で多すぎ、眼鏡もかけてて、拳士のイメージとちょっとずれる。一緒に写真に写る台湾や中国の拳士たちはいかにも拳士風なのに。こういう武道をやっている人=健康にいいことをやっている=視力もよさそう、という憧れがあるのだけれど。(それをいうと、いかにも視力がよくなりそうなチベット高原出身のダライ・ラマが若いときから眼鏡をかけていることに何となく違和感を持つのは私だけだろうか。チベット密教=超能力=健康という短絡? そういえば、9月の末、ヴァンセンヌの森にある仏教パゴダの近くでやってたチベット祭りみたいなのに行ってきた。義妹がチベット人の活仏の講演通訳をしてたからだ。ここに集まるフランス人ってインテリ左翼だけど無宗教には走れない繊細な人で、異国趣味、エコロジー趣味、自然療法の健康おタクが多い。) 話を戻して、『拳遊記』で共感できたのは、武道における「自然体」という言葉の罠だ。武道でも、舞踊でも、楽器の演奏のためのエクササイズでも、「身体をゆるめる」とか「重心を沈める」という要領は共通している。そこには、何となく、「現代の文明生活の中で我々の身体は強ばったり、不自然になっている、それを自然に戻すのが正しい」という理解があるみたいだ。これはたとえば、化学肥料を使わないで有機農法で作った野菜を食べろとか、車に乗らずにウォーキングしろとか、ファストフードやコンビニの弁当を食べずに自分で栽培したハーブを使ってゆっくり作った料理を自分で制作して焼いた器に盛って食べろ、とかいうエコロジーやロハスの勧めにも通じる。いわば流行だ。ただの流行と違って、自然に帰るとか汚染されていなかった昔に戻るとかいう大義名分がある上に、「このまま行ったら地球は滅び、その前にあなたも生活習慣病で死にますよ」と不安をあおるので、全体主義的なおしつけ、カルト的独善性も持ちやすく、大きなマーケットにもなっている。 この本では、そのような一見「自然体」が、「特別なことではない」というのは嘘で、正しい知識を必要とする特別な方法と技術を必要とするものであると明言されている。武道の技法は、「長年の練習によって、すべてを体得した時に初めてそれが自然になるのであり、体得した者には特別な方法が自然になるのであ」る。武道や舞踊やスポーツや楽器演奏などの動きにおいて、徹底的な意識化がないと無意識に何かをなすことは決してできない。バロック音楽とバロック・バレーの身体性についてずっと考えてきた私にとってはとても納得のいく言葉だった。 後、最後の方に出てくる言葉。 『熟練すればすべての技は絶招となる』『自分が教えられた実践秘訣は「進進進」「打打打」である。』『硬打硬進すれば遮るもの無し』というのも、ある意味すごい。マンガでは、このように両手を振り回して猪突猛進してくるような大男を前にして、華奢な主人公がちょっと指で突いたりしたら男はもんどり打ってどっと倒れたりするものと相場が決まっているが、実際の戦いの場で「進進進、打打打」と来るのはさぞ迫力があるだろう。心はむしろ平らかで無心、明鏡止水の如く澄んでいそうだ。 これらは、長年修行三昧してシンプルな真理にたどり着くこと、しかしそれは決して単純なもの容易なものではないこと、というのをよく表していて気に入った。 (2006.10.7) 殉教の話『カトリック生活』3月号で「列福熱望」という特集を読んだ。ペトロ岐部神父と187殉教者を福者(聖人の前の段階)の列に加えてもらおうとヴァティカンの殉教者列福特別委員会に申請していたのが、かなえられそうだという話だ。一七世紀初め、江戸時代の「太平」の捨て石のように各地で行われたキリシタン狩りで最後まで転ばなかった老若男女の殉教者、その中には侍から幼い子供までがいて、穴吊りの刑とか火あぶりとか手足の筋を切られて額に十字架の焼き印とかさまざまな拷問の後で残酷に殺された人たちのことだ。日本で有名なキリシタン殉教者といえば長崎の26聖人がある。昨年の暮れに長崎に行った時、「殉教者の丘」にある資料館を訪ねた。船越保武さんによる26聖人のレリーフも見た。26聖人に捧げられた教会はこの丘の方を向いて建てられているというのに驚いた。どの教会も東に祭壇が来るように建てられているものだと思っていたからだ。26聖人は1597年の大弾圧で、イエズス会の司祭らも共に殉教していて、その様子をルイス・フロイス神父という歴史家が記録していたこともあり、幕末に欧米との通商が再開されてすぐ、待ち兼ねていたように1862年、文久2年に列聖された。隠れキリシタンの発見は1865年、キリシタンの禁令が解かれたのは1873年、明治6年だ。日本と最初に通商を結んだ米、英、蘭、ロシア、フランスのうち、いわゆるカトリック国はフランス一国だけだ。 帝国主義と不平等条約、各国にはいろいろな思惑があっただろうが、フランスは1863年に、パリ外国宣教会の宣教師を送って、前年列聖された26聖人の末裔ともいえる隠れキリシタンを密かに探し始めていた。日本は米英露と後に戦争することになり、オランダともインドネシアで衝突したが、フランスとは戦争しなかった。そのフランスは、26聖人の物語を通じて日本を愛し、日本のカトリックに熱烈な興味を寄せていたわけだ。明治以降の日本では、むしろ「理性的」で禁欲勤勉なプロテスタントが開国インテリの間に広まった観があるが、何世紀も前に「26聖人」の流した血によって、日本はカトリック国からも親和性があると(一方的にかもしれないが)見られていたのだ。安土桃山時代のバテレンも幕末の宣教師も、白人至上主義の帝国主義による世界征服の手先だとする歴史観が存在するが、事実にはいろんなニュアンスがあり、殉教者はきのどくだが、多国籍の26聖人が共に流した血のおかげで、日本にはカトリックによる反宗教改革以来、ヨーロッパ・カトリックと「血の連帯」ができていたわけだ。 ここで、カトリックが「日本はカトリックを惨殺した野蛮な国」という見方をしていないことに気づくだろうか。彼らにとっては、「殉教者」による信仰の証しの方が、「野蛮に殺された」ことより大事なのだ。たとえ999人の日本人がよってたかって一人の日本人キリシタンを殺したとして、999人が野蛮だから野蛮な国だとはならず、殺された一人がいるから神に祝福された国となる。この辺は、イスラム教のように聖戦で勢力を広げた宗教と違って、一度刑死したイエスを救世主とした上、歴史の初めに迫害されまくって殉教者を大量に出し続けた宗教の育てたポジティヴ思考なのだろう。 キリシタンの迫害は、資料を読んでいて気持ちの悪くなるほど残酷なものだ。よく、日本人(弥生人)は農耕民族で温和で争いを避け、それに引き換えヨーロッパなどの狩猟民族はアグレッシヴで残酷で、云々という比較論があるが、日本人も残虐さでは絶対に負けない。それをいうなら女は男より平和を好み云々というのも嘘だ。自分で手を下すかどうかは別で、また自己保身のために戦いを放棄するという計算はあっても、類としての人間は、時と場合によっては歯止めがないほど残酷だ。でも個々人を見てみると、ほんとうに温和な人というものもいる。国連事務総長のコフィ・アナンが「(人は)自分の中で一番よいものを育て、悪いものは押さえるべき」と最近言ったけれど、結局そういうことだ。「よいもの(自他を平和に生かせるもの)」を育みながら、自他への破壊衝動を矯めていくことを意識的に続けていくと、誰でも「温和な弥生人」になれる。しかし農耕をやっているからといって、女性だからといって、それだけで温和になるというわけはない。 話を戻そう。私は日本のキリシタンの殉教話にずっとひそかに一種の違和感を抱いていた。誤解をされると困るので先に言っておくと、今回列福話の持ち上がっている17世紀初期の187殉教者と彼らを殺した側では、殺した側が100パーセント悪い。何を信仰しているかという心の問題によって人を殺すというのは完全に間違っている。しかも、殉教者の中には幼い子供までいたのだから、政治的なお家断絶よりももっとひどい。そして、それでもこの187殉教者が、21世紀の人々の心に力や希望などを与えてくれるとしたら、殉教や列福には意味があるとも思う。その上で、どうして私が日本の殉教話に違和感を抱いていたかというと、私の頭の中には、列をつくって踏み絵の前に引き出され、踏み絵を踏んだら解放され、踏めなかったら殺されるという二者択一のイメージがあったからだ。もちろん実際はもっと複合的なのだが、ここではシンボルとしてこの「踏み絵」を採用し続けよう。 最後の晩餐の時、イエスは弟子の足を洗った。イエスなら、引き立てられてきたキリシタンの汚れ傷ついた足を、踏み絵を踏んだ後でもその前に膝をついて洗ってくれるだろう。本来「偶像崇拝禁止」の宗教だ。イエスの姿を描いた踏み絵を踏まなければ殺されるという状況で子供たちにまでそれをさせないというのは、共同体の縛り、家族の縛りが大きい。もし、今私が踏み絵の前に出されて「踏めば釈放、踏まねば殺される」という状況なら、「信仰」的には、全然気にならないでぴゃっと踏むだろう。誰に迷惑がかかるわけでもない。しかし、もし、私の前に、踏まずに引き立てられていった家族がいて私が合流するのを待っていたとしたら、あるいは私の後に、私に鼓舞され私に続いて殉教する気まんまんの友人たちが熱い目で見ていたら、もう、しょうがない、彼らへの連帯のためにあきらめて死を選ぶ可能性が大きい。 ローマ時代のキリスト教徒迫害は、ちょっと違った。時代によってニュアンスは変わるが、単純に言うと、ローマ帝国は多神教だったのでキリスト教が政治的でない限り禁止する理由はなかったが、現人神としての皇帝を拝むことをキリスト教徒が拒んだので迫害したのだ。だからその頃キリスト教徒は無神論者だといって非難された。殉教聖女の場合などは、神に身を捧げる誓願をした娘たちが、親の決めた結婚を拒絶したから殺されたというケースが多い。ローマの兵士で武器を捨ててしまったというのもある。こういうのは、すんなりと納得できる。絶対平和の宗教の教えに殉じて徴兵拒否をして処罰されるとか、皇居遥拝を拒否したり神社で頭を下げないとかで全体主義政権から拷問されるとかにも通ずる。だから、日本の近世のキリシタン狩りが「神社仏閣で礼拝するのを強要してそれを拒否したから殺された」というなら、まだなんとなく分かるのだが、本当は、日本の近世において、信仰の内容的には、キリシタンはローマ帝国でのような脅威ではなかったのではないだろうか。16世紀末にキリシタンがハンセン氏病の人の療養所を各地で作ったことをなかなか立派なことだと認めている藩の記録が残っているように、それこそ農耕民族の日本人は、異教即殲滅というイデオロギーはなかったという気がする。だからこそ、「神社仏閣強制礼拝」でなく、「踏み絵」だ。「心の中がどうあろうと、ちょっとここは官の顔を立てて一応踏んどいてくださいよ、それですべて丸くおさまるんだから」という本来は緩い政策があった。 それに、「踏めば殺されずにすむ」ということは、執行人に「人を殺す」という悪を一つ犯さないですませるようにすることだ。もちろん、ナチスの時代のように、ユダヤ人だからとか障害者だからとかいう自分ではどうしようもない理由で一方的に殺されるなら別だが、踏み絵を踏んだら殺されずにすむという選択肢があるなら、そういう残虐な行為をひとつでも減らすという小さな自由もあったわけだ。 第一、今も昔も死刑の命令を出す人は自分の手を汚さないものだ。実際にキリシタンの耳をそいだり、穴吊りにしたり、磔にしたする下級役人や非人などは、中にはサディストもいたかもしれないけれど、究極的には自分の保身のために命令に服していたのだ。一人を殺す度にその重みが鉛のように心の底に堆積した人もいただろう。 たとえば誰かが踏み絵を前にして銃をこめかみに突き付けられていると想像しよう。踏めばその人も解放されるし、銃を持つ男は人殺しをしないですむ。踏まなければその人は殺され、撃てと命令されていた人は保身のために殺生を余儀なくされる。他の状況(共同体や家族の縛りなど)は別として、踏み絵を踏むか踏まないかの二者択一で、自分だけではなく殺さざるを得ない側をも救えるとしたら、踏むという選択は自明ではないだろうか。これはすごく重いことで、法務大臣がサインしたら死刑を執行しなくてはならない執行人の苦悩を考えるだけで、死刑は廃止すべきだと思う人もいるだろう。自分と個人的な関係が一切ない人を権力の命令で一方的に死なせねばならないのは不条理だ。執行人には金一封が与えられたり、風呂に入れて酒が振る舞われる、それでもそのことを家族には絶対に言えないという記録を読んだことがあるが、「拷問や死刑の執行人の人権」はたいてい権力の暗部に閉じ込められているものだ。私には、すべての殉教者の陰にいる、彼らを殺さざるを得なかった役人や被差別者のかかえる暗闇をどうしても考えずにはおれない。殉教者が何世紀も経った後で列福列聖され天国に輝く栄光が与えられる時、彼らを縛り、痛めつけ、吊るし、刺した刑吏たちは永遠に地獄の劫火に焼かれているのだろうか。 日本人のキリシタン改宗はたいてい一族の長による選択だった。そして家長に殉ずるというのは日本的だから、教えを捨てないと殺すと言われても、家長が殉教を決意したら芋づる式にぞろぞろということも多かったに違いない。その時、彼らの頭に、少しでも、彼らを殺させられる側の人間の魂のことがよぎっただろうか。最近のフランスのカトリックの公教要理では「キリスト教的生活とは他人の生活をより快適にするために努力すること」と定義づけられていた。ベネディクト16世は「神は神の名において血を流すものを罰するであろう」と言い切っている。信念とか美学とかを越えて、「とにかく他人にできるだけ危害を加えない」という方針で、一人一人が心の庭に肥やしをやったり草むしりしなくてはならない。今も神や宗教の名で侵略戦争やテロや自爆テロが続き、死刑執行がなされ続ける。キリシタン迫害時代は終わったとかもう異端審問も十字軍もないとか言っていられない。 キリスト教徒の殉教を目撃した皇帝マルクス・アウレリウスは、気になることを言っている。彼は犠牲的精神というもの自体は評価しているのだが、次のくだりを見てほしい。 「死ぬため、あるいは拡散するため、あるいは(永遠に)生き延びるために必要ならば今すぐにでも肉体を離れる用意のある魂とは何という(偉大な)ものだろう。しかし(肉体から離れる)用意があるというのは、自主的な判断に基づくものでなくてはならない。キリスト教徒たちのような純粋な頑固さからであってはならない。(死ぬ用意があるという)判断を人に信じてもらい説得力をもたせたいなら、理性的で重厚であるべきであり、悲劇的な態度をとってはならない。」 皇帝マルクス・アウレリウスは頭がよく謙虚であり、自分の使命は利己を捨てて国と国民に尽くすことだと何度も繰り返している。神への畏敬の念もあり歴史感覚にも優れている人だ。指導者の器として信頼できるタイプだ。その彼がキリスト教徒についてこう書いているということは、殉教のキリスト教徒の多くが、自主的な選択でなくカルトに洗脳されてマゾヒスティックに死んでいくように彼には見えたということだ。 日本のキリシタン殉教の頃は、初期キリスト教時代と違い、カトリックの反宗教改革を経て理想に燃えた宣教師と接触したこともあって、最初の改宗者はかなり自立的で信念が強かったと思われる。信仰の自由の問題は、「まっ、描かれた絵ぐらい踏んじゃって宗旨変えしたふりをしてもいいか」というレベルではなく、一種、早すぎた近代的「個」に刻まれた切実なものだったのだろう。 長崎で、五島出身の人に、どうして長崎って殉教者をたくさん生んだんでしょうね、踏み絵をふんじゃって改宗しちゃうという発想はなかったんでしょうかと聞くと、それは葉隠とか、潔く死ぬための武士道の美学とかが浸透していたからじゃないですかね、と答えられた。でも葉隠って佐賀の鍋島藩とかじゃ?と問うと、いやー、佐賀の人も多いんですよ、長崎というのは漁村しかなかったところに六カ町を集めて四百数十年前に人工的に作られたところだから、いろんなのが流れ込んで、と言い、中華街やカトリック教会や神社や寺が並んで共存してるところを見せてくれる。関帝廟も神社と習合している風で、ここでは、他者とか他文化とか、もっというと「死」に対する感性が、独特に形成されているらしい。四〇〇年あまりしかない歴史の中で、キリシタンの大村純忠の娘婿ベルナルド長崎の名に由来してイエズス会の知行地もあり、26聖人の殉教の後もそれがトラウマになるどころかキリシタン文化は一時盛り返し、その後、島原の乱やら、出島貿易、原爆の被爆という歴史をを経てきたのだから、これはもう、普通の城下町やら東海道の宿場町のイメージの「日本」からはかけ離れるのも当然だ。 雑然としてきたのでこの辺でやめよう。これは「考えるタネ」だ。いい方向に育てていきたい。最初に書いたように、罪のない人を殺す側は100パーセント悪い。殉教者の列福に水をさそうというのではもちろんない。不快に思った人がいれば申し訳ない限りだ。 しかし、「普通の人」は、その人生において、「殉教者」側にまわるよりも、心ならずも、あるいは何も考えずに、あるいは利己と保身の本能にまっとうに導かれて、殉教者に槍を刺す側にまわる率が多いのではないだろうか。少なくとも私には、殉教者を褒めたたえるより(それは他の人がしてくれるだろう)、殉教者を苛む側にも心を寄せずにはいられない。 小さなつづらより大きいつづらを、銀の斧より金の斧を、狭き門より広き門を、茨の道よりフラワーロードを、善や極悪より偽善を選び心惹かれる自分の頼りない現実を見据えて、それでも、「他人の生活を少しでも快適にするよう努力する」ことを実践している多くの人々から力をもらい、「考えるタネ」と同様、自分もまだいい方向に育てていけるのは遅くないと信じたい。 (2006.3.20) |
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