自由人イエス—もう一つのキリスト論 (単行本)

自由人イエス—もう一つのキリスト論 (単行本)の表紙

本の紹介

本書は、イエスが同時代人たちからどう見なされていたのか、イエス自身は自分をどう見ていたのか、彼の断罪の意味は何だったのか、そして、どのようにイエ スは「赦し」によって憎悪を克服したのかを明かし、イエス・キリストにおける神の啓示まで、歴史学的に要約しつつ、段階を追って解き明かしていく。

ナザレ のイエスが、その生と死と復活によって今も私たちを自由に向かって導いてくれることを説得力をもって明示する、躍動的なキリスト論。

著者略歴

ク リスチャン デュコック

Christian Duquoc

ドミニコ会司祭。リヨン・カトリック大学の神学教授、カトリック雑誌『Lumi`ere et Vie』の編集長を務める。著書多数。1926‐2008年

竹下節子による解説より

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聖書におけるイエス・キリストについて語る時のアプローチの仕方はいろいろある。

書いてある字面を字義通りに解釈する直解主義は、蒙昧的な原理主義に陥ったり、逆に、その蒙昧ぶりを過度に忌避する宗教拒否や無神論をも生むので、ここでは問題外だ。

その他には、聖書の各種の訳、写本の比較、語彙や技法や様式などを分析して編集や伝承の実態を明らかにする文献の歴史学的解釈が存在する。それに対して、それは所詮精密科学を模した疑似科学に過ぎないとして、解釈者の文化的思想的文脈に基づいてテキストと主観的に対決する哲学的解釈もある。個人的な思索がやがて普遍へと結びつくという考えだ。

この本は、神学的迷路に迷い込むことなく、イエスの復活の意味、彼に冠されたさまざまな呼称の意味について、歴史学的に要約してたどってくれる。いろいろな解釈者の試行錯誤を丁寧に紹介した上で、主観的解釈ではない、キリスト教成立の根本にあった劇的転回に迫る。そこには哲学的解釈における解釈者の主体への沈潜という過程はなく、最初から、キリスト教に内在する解放のムーブメントを視野に入れ、その中でのみまっすぐに進んでいく。その様子はまさに、聖霊に吹かれながら私たちを巻き込んでいく爽快なものだ。

このようにして、文献の編集や様式にまつわる困難をひとつずつ丁寧に整理し、最後に残ったものこそ、人間イエスがキリストとなって神と人とを同時に解放した決定的な動因である「自由」なのである。

考えてみると、「自由」という言葉は、日本でも普通に使われているけれど、残念ながら、翻訳語の概念だ。やまと言葉的には、「自らに由る」のは、心のまま、思いのまま、気まま、わがまま、という概念につながることもある。

この本がイエスを「自由人」と形容する時、それが、他者の思惑を気にせず「自分ワールド」に住む勝手な人間を意味するのでないことはもちろんだ。確かに、史実のイエスは、当時のファリサイ人や祭司たちが律法のコメンテーターとしてふるまい語ったのに対して、クリエーターとして、権威をもってふるまったことで人々を惹きつけたと著者は指摘する。イエスの屈託のなさや、本音と建前の食い違いのない自然な言行一致、社会的偏見にとらわれないその自由人ぶりが周りの人にとって非常に魅力的だったわけだ。

しかし、人々はイエスの自由を、「抑圧された自分たち」を解放してくれるという期待に閉じ込めようとしてしまった。ところが、イエスの自由とは、すべての人と神とを同時に解放していくような自由だったのである。

その「自由」とは、冷戦後の新自由主義経済が、あらゆるレトリックを駆使して弱肉強食のバランスを保全するために掲げた「自由」でももちろんない。イエスが命をかけた「自由」とは、他者を無視したり、他者を抑圧するような、あらゆる種類の「見せかけの自由」の構造を揺るがす力動を生む最初の一押しである。人間の悪の連鎖が生む悲惨のただ中に身を置いて神に呼びかけることで解放の連鎖を生んでいく力動を、イエスはその生と死と復活をかけて始めたわけで、その力動の中でイエスは永遠に生きているし、その道においてのみ、私たちも生き続けることができると著者は言っているのだ。

キリスト教が切り開いた革命的な「歴史性」はここにある。個人がたとえ自らの死で購うことになっても、常に自分と他者の自由のために戦うことによって、自由をつなぎ、歴史を切り開いていく期待を、イエスの生と死と復活がもたらしたのである。

今の世界でも、悪と暴力の連鎖は次から次へと生まれ、すべてが死へと向かっている。そんな中で、私たちは、太古の日本だとか、自然宗教の悠久性とか、ストア派風のコスモスの完璧な秩序とか、永遠回帰の思想とか、解脱や悟りに見られる泰然自若、幽玄、エントロピーの増大した弥勒の無の世界のようなものに憧れ、キリスト教的な進歩主義の線的歴史観や自然管理を批判てしている場合だろうか。

抽象的な永遠とか絶対とかを持ち出して現状維持、秩序維持する文化には、必ず、その維持を支える犠牲のシステムもあり、秩序維持のために一部の人々の自由を奪う構造もある。祖霊を祀るとか、氏神を祀るとか、自然神を敬うとかいうレトリックの影には、共同体における権力システムの継承のために個人の死を封じ込めるという、死の取り込みがあったことを忘れてはならない。

「無宗教的」エコロジーブームやスピリチュアルブームの中でリラクゼーションして宗教間対話や異文化理解を怠っていると、結果的には、より大きい暴力装置の保全に加担することになるかもしれない。

私たちは他者を常に死から解放していくような形で自由を行使しなくてはならない。そうすれば、自分の死も、そのような自由の行使として、歴史を次につなげていく、生きたものとなることだろう。

著者のコメント

この本について、難しくて中途で挫折したという話も耳にしました。確かに最初は難しいのですが、最後まで来ると、おおおっというくらいに気分よく解放されます。ある意味、このくらい、明快で本質的なことをちゃんと言って、神学という業界で聞いてもらうには、それだけの緻密な論の立て方が必要とされることです。私はここで言われているメッセージを、キリスト教とかイエスとか聖書とかいう言葉を全く使わないでリライトするプランを温めています。タイトルは、「自由他在の思想」です。

書誌情報

著者・訳者等
ク リスチャン デュコック著、 竹 下 節子訳
出版情報
単行本: 237ページ
出版社
出版社: ドンボスコ社 (2009/12)
ISBN-10
ISBN-10: 4886264956

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