ユダ 烙印された負の符号の心性史

ユダ 烙印された負の符号の心性史の表紙

本の紹介

いつどこで、誰が誰のことをユダと呼ぶのか? 裏切りの象徴はいかに生まれ、いかに描かれたのか? 古今東西の伝承や文献からユダの伝説を多角的に比較分析、 両義性に着目しながら、「負の符号」に託し託された心性を解読する刺激的論考。

[目次]

第一章 ユダの神学とキリスト教の成立

第二章 ユダの両義性

第三章 ヨーロッパにおけるユダ像のヴァリエーション

第四章 プロテスタントとユダ

第五章 ロシアのユダ

第六章 反ユダヤ主義とユダ

コラム

ユダと性 / ユダと美醜 / 「さまよえるユダヤ人」とユダ / ユダと音楽 / ネルヴァルのユダ / アベ・エガーのユダ / 諜報活動とユダ / ユダのDNA

著者のコメント

ユダとはイエス・キリストを銀貨30枚で売ったと言われる「裏切り者」のあのユダのことだ。なんだかんだ言っても「欧米キリスト教文化」の「先進国」主導である現代の国際社会において「裏切り」とは何を指すのか、裏切りと弾劾された後で名誉回復することはあるのか、などの「本音」を探りたいという意図が初めにあった。

調べていくうちに、「神」だとか「教会」だとかいう「蒙昧」から人間を「解放」して「近代」を築いたように見えるキリスト教文化圏の国において、「ユダ」だけは活きがよく不滅のようであることが分かった。社会がどんなに宗教離れして世俗的になっても、キリスト教や福音書のルーツがまるで「ユダ」を通して透けて見えるかのようだった。

それは興味深いことだったが、それにしても、ユダの物語に時代や文化を超えた大きな求心力があることはさらに不思議だった。

人が憧れ畏敬し模範とする聖人や賢人や偉人の話よりも、二千年前のローマ帝国の辺境で生きたユダという「大悪人ですらない男の物語」がどうしてこうも、より執拗に語り継がれ、反芻されるのだろうか。

そう考えているうちに分かってきたことがある。

ユダと言えば救世主イエス・キリストを売り渡した極悪人のようなイメージだが、実際は、大して悪いことをしていない。イエスをとらえに来た兵士らに「本人鑑定」をして見せただけで、イエスを鞭打ったり茨の冠をかぶせたり、十字架を背負わせたり、手足を十字架に釘で打ちつけたりしたのは全部別の者たちだ。ピラトによって恩赦の機会を与えられたのに興奮してイエスを殺せと言いたてた民衆の仲間ですらない。

そう、ユダは大した悪人ではない。

まあ、ほんの出来心でエデンの園の林檎をかじっただけで楽園を追われ、「神の似姿」から死に行く人間に格下げされて全人類に「原罪」を負わせたアダムの例もあるから、罪と罰のバランス感覚など所詮我々には分からない。けれどもユダを罰したのは神ではない。ユダは自分で後悔の念に苛まれた。そのユダを永遠に責めつづけるのは大した善人でもない人間たちだ。

その罪と罰、行為と罪悪感のアンバランスという落ち着きの悪さのせいで、実際多くの人がユダを「弁護」する側にも回ってきた。

ユダの裏切りなど全くの言いがかりでそんな事実はなかったのだという「歴史否定論者」みたいなものから「実はユダはイエスに頼まれた役どころを果たしただけなんだ」という「ユダとイエスの共謀説」みたいなもの、「いや、人間だもの、大した罪じゃないさ」という慰めや寛容、そしてひたすらの憐憫までいろいろなケースがある。

この本ではそれをいろいろ紹介したわけだが、実は、書き終わってからゆっくり見えてきたことがひとつある。

それは、ユダのこの「罪」が大したものではないからこそ、私たちに何かをもたらしているということだ。いや、「大したものではないにかかわらず、みなが罪悪感の対象にして語り伝えてしまう」ことそのものが意味することだ。

「悪の陳腐さ」というと、エルサレムの法廷でアイヒマンを見たハンナ・アーレントを思い出す。平凡な小役人的人物も時代の波や環境によって民族大虐殺のようなことをやってしまうという驚きだ。

ホロコーストはそれまでの西洋近代を牽引してきたというヨーロッパ人の自負の念を砕き、人間そのものまで信じられなくしてしまうほどの大事件だった。それがたとえ「悪の陳腐さ」を内包していたとしても、アイヒマンと比べて、公平に見てユダはやはり大したことをしていない。

ちょっとした出来心や怠惰や臆病や卑怯が人を「誤らせる」ことがある。運が悪いとそれが「神殺し」とまで呼ばれてしまうわけだが、ユダの程度の「過ち」はどんな人でも多少は覚えがある。

裏切りとまでいかなくても小さな背信の覚えは誰にでもある。自分を助けてくれる人、守ってくれる人、愛してくれる人に対して、ちょっとしたエゴイズムや気の迷いやよからぬ誘惑などの理由で、いやちょっとした思い込みや困難を避ける気持ち、溜まった疲れやストレスから嫉妬や羨望までさまざまな要因で、つい信頼や期待を裏切るようなことをしてしまう。善意の親に口答えしたり、自分の力不足や失念や失敗を知られたくなくて保身のために嘘をついたりすることから、パートナーや子供を疑って日記や携帯履歴をのぞいたりするようなことまで、「よからぬこと」をした時に私たちはそれを「よからぬこと」と認識してやましい気持ちを経験する。

けれども、だからこそ同時に、それを「責められたくない」「ゆるしてほしい」という気持ちを知ることができる。過ちを隠しおおせたり、なかったことにしたりするだけでは罪の意識は消えないからだ。

「小さな過ち」の体験によって私たちは「ゆるしてもらいたい」という思いを知るのだ。

アメリカで同時多発テロがあった翌年の初め、当時のローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は、「平和には正義が必要で、正義にはゆるしが必要だ(正義なしの平和はなく、ゆるしなしの正義はない)」と言った。

平和を乱すテロ行為という絶対悪には正義の鉄槌を下さねばならない、とアメリカの大統領は息巻いていた。あの時点で「まずゆるしを」などと言える人はなかったろう。

けれどもアメリカが「悪者退治」を始めたそれからの世界がより公正なものになったわけでもより平和になったわけでもないことは誰でも知っている。

「ゆるし」の岩盤に打ち立てられた正義とそのまた上に打ち立てられた平和だけが本物なのだろうと納得できる所以だ。

怒りのうちに下した決断はすべて間違っている、とセネカは言った。なぜなら、怒っている時に人は自分が絶対に正しいと思っている。ところがだれかが「絶対に正しい」「完全に正しい」ということは不可能であるから、怒りのうちに下された裁きや決断は間違っている、と。

怒りの上に築かれた正義、その正義の上に築かれた平和は本当の平和ではないわけだ。もちろん反対勢力や弱者を排除したり抑圧したりすることで成り立つ「正義なしの平和」も見かけだけのものだ。 「ゆるしが正義や平和に先行する」ことに「納得」できるとしたら、それはまさに、誰でもが「ゆるしてもらいたい」という体験を共有しているからだろう。たいていの人は、自分を傷つけたり裏切ったりしたと思う相手を寛大に「ゆるす」ことはまれでも、「ゆるしてもらいたい」と思うこと自体は全身がむずむずするほど堆積していっているものだ。

「ゆるす」のがどんなに難しくても、「ゆるしてもらいたい」という心、あれやこれやの過ちを悔いる心を知っている限り、「ゆるす」側に立つことは決して不可能ではない。

ゆるすとは、自分と違う人を排除したり無視したり抹殺したりしないで「共に生きる」ということにつながる。意見が違う、外見が違う、文化が、伝統が、肌の色が、宗教が、国が、言語が違う人と共に生きることを拒否するところには、正義も平和も生まれない。

「自分と異なる者を排除する」というのはつまるところ、「私を誰よりも大切だと思ってくれない」他者を拒否することにつながる。裏切りや背信がゆるせない「悪」に見えるのは、「私の平和、私の幸福、私の安全」を脅かす他者を排除したいからだ。

でも、私たちはユダの葛藤、ユダの後悔、ユダの惨めさを見て、自分の中にも、あの人この人に「ゆるしてもらいたい」心があることを再認識する。

「ゆるし」が必要だというのは「ゆるされること」が必要だということと同義なのだ。

私たちの中のユダは、正義と平和の必要条件である「ゆるし」という難行をいつか可能にしてくれるかもしれない最も小さな芽のようなものだろうか。

人々が聖人伝を手離し、神や宗教から「卒業」した後も、なぜか「ユダ」の物語にこだわり嫌悪し続けてきたのは、ユダの持つ悪や背信や暗い部分に倒錯的に惹かれてきたからではない。

人が他者と共に生きるためには「ゆるし」が必要だ、とみなが直感的に知っていて、「ゆるし」の芽であるユダだけはどうしても捨てたくなかったのかもしれない。

神や偉人や聖人は、どうしても都合のいいようにいつしか「偶像化」されてしまう。

大悪人、極悪人も時として偶像化される。

私たちの中にもいる惨めな裏切り者のユダだけは、決して偶像化されることなく、良心とゆるしの感性を足元から灯す小さな光源であり続けるのだ。

書誌情報

出版情報
20cm 213頁 2700円
出版社
出版社: 中央公論新社
ISBN
978-4-12-004606-3(4-12-004606-0)

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