ナポレオンと神

本の紹介
世界は驚愕し、民衆は夢を抱いた。
夢を現実化する革命児か、はたまた新たな抑圧を企てる独裁者か。神たろうと世界史の中心舞台に躍り出た、ナポレオンの叡知と野心。権力・宗教間の苛烈な暗闘の淵から浮上する、ヨーロッパ精神の核心を活写する。思想史研究の新地平。
書誌情報
- 出版情報
- 256頁 2600円+税
- 出版社
- 出版社 : 青土社 (2016/11/11)
- ISBN
- ISBN : 978-4-7917-6949-0

世界は驚愕し、民衆は夢を抱いた。
夢を現実化する革命児か、はたまた新たな抑圧を企てる独裁者か。神たろうと世界史の中心舞台に躍り出た、ナポレオンの叡知と野心。権力・宗教間の苛烈な暗闘の淵から浮上する、ヨーロッパ精神の核心を活写する。思想史研究の新地平。
著者のコメント
百日天下の後で敗れたナポレオンの運命について不思議なことがいくつもある。
その一つを挙げよう。
彼がいったん逃げてから捕らえられて、イギリス軍の手に渡ったところはジャンヌ・ダルクの最後のことさえ思い出させるが、二人の大きな違いは、ナポレオンが一度も「法廷」に引き出されなかったことだ。ジャンヌ・ダルクが異端審問の記録によってラテン語訳とはいえ、詳細な「肉声」のディベートが伝えられているのに対して、ナポレオンはあっという間にイギリスの軍艦ノーサンバーランド号に乗せられてものものしい護衛艦もつけられて大西洋の孤島のセント・ヘレナに流されてしまった。
そのことについて歴史書はみな、それはイギリスがナポレオンをロンドンに連れてこられた場合に、「Habeas Corpus」を申し立てられて亡命を願い出る可能性を封印するためだったと書いている。
Habeas Corpusとは「Habeas Corpus ad subjiciendum」の最初の部分で、法廷に被告を引き出す時の決まり文句である。
ナポレオンはフランスで譲位の手続きをしたのだからそのままフランスに残っていたとしたら助命された確率はどのくらいあっただろう、船でアメリカに行くのではなく、地続きでイタリアに逃れることはできなかったのだろうか。 流刑なら暗殺されるよりも延命ができたのだろうか。 ローマ教皇ピウス七世による助命願いはどのくらいの効果があったのだろう。
疑問は尽きないが、この部分は結構タブーの領域になっている。なぜだろうと思っていたが、要するに、三権分立や法治国家の先駆だと自負していたイギリスやフランス共和国にとって、ナポレオンのように突然エルバ島から脱出して皇帝に返り咲いたような不都合な「例外」をどう扱っていいかわからず、 確たる法的手続きなしに「世界の果て」に追いやってしまった事実は、恥ずべき事であったと自覚していたからだろう。
それでも、この時代のヨーロッパ以外の地域でこのようなケースがあれば、ナポレオンのような失墜者はそれこそ即殺害されるか処刑されるかで闇に葬られるだろうから、イギリスの処置は、「文明国」にとってせいいっぱいのかっこうづけだったといえる。
もう一ついつも不思議なのは、「ナポレオン」という名前だ。
姓のボナパルトではなくて、ブルボン朝などに倣ってナポレオン王朝を創始したかったのは分かる。無理に「聖ナポレオン」を創作して自分の誕生日を聖ナポレオンの祝日に変えてしまったという話はよく知られていて、その経緯も分かっているのだけれど、ナポレオンという名は、カトリックのボナパルト家の次男の洗礼名なのだから、もともとゆかりの聖人がいたはずではないだろうか。
歴史的に有名なのは、1263年ローマ生まれで、ニコラウス三世の弟の息子であったナポレオン・オルシーニという人がいて、アヴィニョンでベネディクト12世側近の枢機卿として1342年に死んだと記録されている。ナポレオンの生まれたコルシカは長くイタリア領だったから、地元では十分あり得る聖人名だった可能性があるわけだ。けれども少なくともナポレオン・ボナパルト以降のフランスでは、新しい聖人が当てられた。
ナポレオンの兄弟の名前はジョゼフ、リュシアン、ルイ、ジェロームなどよくあるものだ。最初がイタリア風の綴りや読み方だったとしても簡単にフランス風に変えられただろう。
父方の祖父の弟らしい人にアジャクシオの政治家で1717年生まれで、1768年にフランス軍に殺されたというナポレオーネという人がいる。 ナポレオンはその翌年に生まれているから、その人の名をつけられたのかもしれない。それとも、ミラノにモンテナポレオーネ通りという高級ブチック街があるから、もとは土地の名なのだろうか。
なんにしても、コルシカがフランス領となり、海を渡ってフランスに留学した息子たちの中で彼だけがフランス人にとってなじみのない名を持っていたわけだ。
でも、もし彼の名がジョゼフとかジャンとかであったら、また革命で処刑されたルイ16世と同じルイなどであったとしたら、彼の世界観、覇権主義の視座が別のものになっていて、歴史は変わっていたかもしれない。
なんとなくジャンヌ・ド・シャンタルのことを思い出す。『聖女伝』で紹介した彼女は、フランソワ・ド・サル(サレジオ)と共に「聖母訪問会」を創設したジャンヌ・ド・シャンタルは死後に聖女となったけれど、ジャンヌという名(ジャンすなわちヨハネの女性形)はジャンヌ・ダルクをはじめとしてあまりにもたくさんあるので、聖ジャンヌとは呼べず、聖ジャンヌ・ド・シャンタルと呼ばれていたのがいつの間にかシャンタルが通称になり、聖女シャンタルとして苗字が洗礼名として使われるようになった。シャンタルという新鮮な女性名は一時期のフランスでとてもポピュラーなものになった。ブルジョワではマリー=シャンタルなどという合成名によく使われた。
ナポレオンという名の人には、会ったことがない。
この『ナポレオンと神』にはいくつかの思い出も重なる。
1978年に国際交流基金でパリ大学に特別講義に来た島田謹二先生のことだ。
東大の比較文学の創始者で当時77歳だったから、大学側もとても丁重に迎えて、東大の比較文学の博士課程に籍をおいていた私に特別に声がかかって、講義に出てくれと言われた。
島田謹二といえば私の中で英米文学者のイメージだったが、フランスの英文学者についても研究していて、フランス語も自由に読めて多くの詩を暗唱していた。けれどもフランスに来たのはそれが初めてで、フランス語の聞き取りや会話には通訳が必要だったのだ。
この島田先生がリールの英文学者の文献を探すのを手伝ってノール地方を案内することになった。いろいろお話しするうちに、彼がナポレオンの大ファンであることが分かり、フォンテーヌブローからワーテルローまでいろいろなところにご一緒した。その時の思い出を彼も後に『英語青年』という雑誌に書いて送ってくれた。
「ナポレオン巡礼者」の熱い思いを見るのは初めてで、しかもそれが日本人の英文学者であることに驚いた。
私がポーの詩のファンで『アナベル・リイ』が特に好きで人形にもその名前をつけていると言うと、『大鴉』の訳本を献呈してくださったのも懐かしい。
『ナポレオンと神』は『ジャンヌ・ダルク異聞』に続いて白水社の『ふらんす』に一年間連載したのだが、事情があって単行本化できなかった。どうするか迷っていた時に、『ユリイカ』の増刊号のエリック・サティ特集に記事を書いてくれと青土社から依頼が来た。青土社の『ユリイカ』はもう20年以上も前にクロソフスキー特集の記事を書いて以来で、『現代思想』や『イマーゴ』などいろいろ書かせてもらった。亡くなった編集者の津田新吾さんに日本でワープロを借りたりおうちで手料理をごちそうになったりしたこともある。
21世になって初めての青土社との再会となった『エリック・サティ』の後でお会いした編集者にナポレオンの話をしたらすぐに興味を持ってくださったのだった。
『ナポレオンと神』は、青土社から18年ぶりに出す単行本となる。インターネットの普及によって出版業界も大きく変わったが、古巣に帰ったような懐かしい気持ちで感慨深い仕事となった。