オカルト2.0

本の紹介
西洋エゾテリスム史と霊性の民主化
秘教の系譜が照らし出す、現代の不安と希望
中沢新一氏推薦「この国で長いことタブー語のような扱いを受けていたオカルトという言葉に本格的な解明の光を当て、文化としての正当な位置付けを回復しようとした勇気ある書物!」
メスメルとパラケルスス、エリファス・レヴィとルネ・ゲノンとユリウス・エヴォラ、「ヘルメス文書」とキリスト教、神智学とエニアグラム、エサレン研究所とシュタイナー……。
パリ在住の文明史家がエゾテリスムの歴史をたどり、欧米のオカルティズム最新事情を考察を交えて、レポートする。
書誌情報
- 出版情報
- 創元社 200頁 定価 2,420円(税込)
- 刊行日
- 刊行日: 2024/4/25
- ISBN
- ISBN: 978-4-422-70177-6
- 判型
- 判型:四六判 188mm × 128mm
- 造本
- 造本:並製
著者のコメント
目には見えない世界、五感でキャッチできない世界、AIにも検索されない世界、そういう世界がどんどん侵食されています。
音楽も、デジタル処理されたりプログラミングされたりしているものは、「ノイズ」のない世界です。
生の音楽演奏や踊りや語りの実践や鑑賞を通して受け取る無限のノイズこそは、より大きな「全体」を生きることを教えてくれるものです。
「祈り」や「瞑想」を通してそのディメンションに到達する人もいますが、それをコーチングしてビジネスにする人もまた出てきます。
オカルト、エゾテリスムの伝統は、あらゆる正統宗教と魔術や負の情動との尾根をずっとたどってきました。
2020年に人々を孤立させたコロナ禍は、オカルトに、宗教を介さない「救い」の脇道のひとつを開きました。
2020年から数年にわたるコロナ禍「対策」によって、民主主義国か全体主義国かを問わず、あらゆるタイプの「政府」が、人々を恐怖で統治し、情報を操作し、人々の識別知を封印できることが明らかになりました。
今こそ、全ての人が自由に真実の探求に向かうことが可能な新しい時代を目指すべきではないかという思いを語ったのがこの本です。
カオスの中で漂う人が増えている時代に
キリスト教文化圏は、彼らにとっての異文化であるアジア、アフリカへの進出や「新世界」の発見を通して未知の伝統や世界観を「発見」することになった。その過程で、エゾテリスムやオカルトは他文化・他文明の宇宙観を柔軟に吸収・混淆し、自らを豊かにすると共に、「人類共通」のスピリチュアリティを意識する普遍主義へと向かった。
表世界の既成システムである宗教・科学・政治の「権威」が自分たちの優越性・真実性を振りかざして異文化を「征服」していった功利主義や覇権主義とはまったく別の流れがあったわけだ。
その意味では、エゾテリスムやオカルトは、「多様性」を包含するグローバルな潮流を常に維持してきたといえるだろう。その一方、キリスト教文化圏における宗教・科学・政治の方は、「自分たちの普遍性」を帝国主義的に広げた。
そこに産業革命による生産力の著しい増大とそれに伴う経済活動の拡大が加わって世界の「西洋化」が加速する。特に、カトリック的な価値観、つまり霊的な努力によって救われるという「伝統」と決別したプロテスタント文化圏では、生産性の拡大と富の蓄積自体が偶像的な指標となっていき、他の地域を席巻した。
その過程で、共産主義イデオロギーによる別の形の絶対主義(労働者が支配することで理想世界が出現するが、その過程では党独裁が必要とする主義)も登場したが、二〇世紀末に「冷戦」が終わってからは、政治的なカオスが始まる。「成長」を基準にする経済指標だけが「主流」となって、その影では、宗教も科学も政治もカオス化してしまったのだ。言い換えると、宗教も科学も政治も「経済」と結びつくことで、経済至上主義となり、それまで「優越性」を体現していたはずのシステムが崩壊していったのだ。
裏打ちすべき表側のコスモスが崩壊したことで、エゾテリズムやオカルトと宗教、科学、政治の境界が曖昧になった。
「先進国」といわれていた地域でも「科学」を名乗る新宗教、疑似科学、代替医療が跋扈している。見渡せば、宗教原理主義を打ち出す政治体制が次々と登場し、民主主義の看板を上げ続けながら実態は一部の富裕層の利益を優先する国、宗教をナショナリズムに利用したり、核兵器を伴う軍事力や経済力で新たな実質的な植民地政策を展開したりする国もある。
そのカオスの中での閉塞感や生きづらさが、オカルトやエゾテリズムのマーケットを増大させることになった。デジタル・ツールの進歩で情報収集の選択肢が増えたわけではない。むしろ、端末の前で分断しながら特定の思想への帰属感を増大させるマインドコントロールというリスクが高まっているのが実情だ。
カオスと多様性は似て非なるものなのに、今は「多様性」の名のもとに、カオスの中で孤絶して漂う人が増えている。そんな時代に、長い間、恣意的で支配的な体制としての「コスモス」の裏側で「多様性」を柔軟に担保してきたオカルト世界の知恵を有意に復活させる道はあるだろうか。
実存的な不安や恐怖から「自由」になることを目指す
オカルト2・0は、人類がいつの時代のどこの文化でも、個人の心身を超えたスピリチュアリティを求めてきた長い歴史の膨大な蓄積に「自分の部屋」からアクセスが可能になった時代に、生まれる。
これまで見てきたように、「実践」にまつわるサービスの提供や方法論の提供の中には、明らかにビジネスだとわかるものがある。マーケティングの手法として、まず終末論的な言説で不安を誘い、怖がらせたり絶望させたりするものはわかりやすい。それらに取り込まれないためには、個人の生死に関わるような運命は誰にも見通せないし、変えることもできないことをまず認める必要がある。
スピリチュアリティとは「個別」のものではなく、個人の心身にも、大自然の営みにも、宇宙の動きにも内包されていながら、それを超えたところにある。真のスピリチュアリティへのアクセスとは「分かち合い」を前提としている。「私」の得たものを分ち合うというのではなく、「すべてをそのまま分かち合う」ことでしか触れることができない何かのようだ。
それは「多様性」のもとに、閉塞したり、逆に競合したり、権力関係を生むようなものではない。どんなに多様なものでも、時と空間を超えてさえ、つながっている。
オカルト2・0 は「隠れたやり方」で何かを実現したり、他人に影響を与えたりするためのものではなく、まず、一人ひとりが実存的な不安や恐怖から「自由」になることを目指すきっかけとして活用できる。本当の「自由」というのは何も制限がなく好き放題にできるという状態ではなく、原初の不安や恐怖を克服して得られるものだ。
そして本当の自由は、他者の不在の中や他者を無視したり他者に優越したり他者を管理したりすることで発揮できるものではない。同じように自由な他者とのつながりの中で現れる。
初期キリスト教会でパウロは、そのことをすべての人が霊(スピリット)によってキリストの「体」を構成していると形容した。その箇所を引用してみよう(コリントの信徒への手紙一 12,7-27)
〈一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、みな一つの霊を飲ませてもらったからです。
実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょう。しかし実際は、多くの部分があっても、体は一つなのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好のよい姿をしているのです。しかし、格好のよい部分はそうする必要はありません。神は劣って部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。
それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です〉
実際に、すべての細胞は多様な臓器を作っているし、有機的な動的平衡の状態にある。量子レベルでは不思議な動きをしているし体が死んでも消滅することはない。
仏教的な表現では、大乗仏教の『涅槃経』にある「一切衆生【いっさいしゅじょう】悉有仏性【しつうぶっしょう】(一切衆生 悉【ことごと】く仏性有り)」という有名な言葉が想起されるかもしれない。
禅の言葉には「遍界不曾蔵(遍界、曾【かつ】て蔵【かく】さず)」というものがある。「全宇宙には何物をも包み隠すことはない。真実はいたるところにありのままの姿で堂々と顕現している。一切万象がそのまま本来の面目の現れである」という意味だ。すなわち、「神秘」や「霊」は、オカルトのように隠れていたリ隠されていたりするわけではない。超自然とは「見えていない(あるいは見ようとしていない)自然」であるだけで、仏教的にはいわゆる「超越」も存在しない。
普遍宗教の教えは、「私たちには本来、すべてが与えられている。そして私たちはすべてとつながっている」と示唆する。顕教も密教も、エゾテリスムもオカルトも、占星術も天文学も、マクロの世界もミクロの世界も、科学も哲学も、生も死も、病も癒しも、争いも慈悲も、すべてを与えてくれる「真実」の方向にひと押しされさえすれば、その先に見えてくるのは、ニーチェの語った「大いなる健康」なのかもしれない(詳しくは『喜ばしき知恵』一八八二年を参照)。