ローマ法王 本の紹介国際政治・外交・平和のキーパーソンであるローマ法王。その歴史と現在。 著者のコメントこの本の出版経緯については「あとがき」にこう書いている。(抜粋)二〇世紀末にこの本をちくま新書から出した時は、世紀末の終末論的な言説が横行していた。二度の世界大戦をくぐり抜けた後の冷戦時代には核戦争による人類絶滅の恐怖が高まり、冷戦が終わると歯止めのない競争社会が価値やモラルを相対化しはじめた。そんな不穏な世紀末に、欧米の近現代の激動を生き延びたカトリック教会が新しい形で「希望」を説いていることに救いを感じて、時間の流れが違うヴァティカンや、東欧出身のヨハネ=パウロ二世の活躍を紹介することができた。けれども、新世紀が始まるとすぐにアメリカで同時多発テロが起き、経済格差の広がる世界で暴力がはびこり戦争が次々に起こった。そんな時に、突如としてドイツ人法王を登場させたカトリック教会の新機軸にまた感心して、ベネディクト一六世に至る新章を加えたのが、中公文庫版だった。そのベネディクト一六世がまさかの生前退位を表明して、アルゼンチンのベルゴリオ枢機卿がフランシスコ法王となり、その率直さと謙虚な人柄と親しみやすさでまたたく間に世界中の人気者になった。それだけではない、環境破壊における先進国の責任を指摘することを恐れず、ぶれない正論を堂々と発し続けたのだ。(…)今回の角川ソフィア文庫版では、そんなフランシスコの足跡をたどる新章を付け加えることで、もう一度希望のメッセージを届けたいという思いがかなった。というわけで、ブログでは継続して書いてきた今世紀のローマ法王についてアップデートしたのだけれど、今回の角川版は最初から、2019年11月のフランシスコ教皇訪日に合わせて提案していただいたものだ。おかげで、オンラインニュースにいくつも取り上げてもらうなど、今までにない展開があった。https://president.jp/articles/-/30840https://gendai.ismedia.jp/articles/-/6853https://bunshun.jp/articles/-/15745アクシデントもあった。教皇訪日直前に、外務省がこれまでの「ローマ法王」という呼称を「ローマ教皇」に変更したというのだ。「教皇」というのは1981年のヨハネ=パウロ二世の訪日以来日本のカトリック会は正式に使ってきた言葉だけれど、外務省には外交樹立以来の「ローマ法王庁」という名が残っていて、一般メディアでは「法王」が使われていた。私は個人的には、「教皇」を使っていたけれど、本のタイトルなどは「ローマ法王」に合わせていたので、「ローマ」の後に続くときは「ローマ法王」、単独なら「教皇」、フランシスコ教皇、などと使い分けていた。でも、出版物では基本的に出版社の判断に任せていた。語感としては「ローマ法王」の方が「ローマ教皇」よりも、発音した時に口を閉じる回数が少なくて好みだった。もともと漢字としては「王」より「皇」が格上で、だから日本古代の「大王」は中国の「皇帝」に対抗して「天皇」と称するようになった。で、今でも、外国語訳としては、イギリスやベルギーだのの「王」はキングと呼ばれ、日本の天皇はエンペラーと呼ばれている。エンペラーは帝国主義を連想するから微妙なのだけれど。で、出家した「上皇」は「法皇」となるし、それ以外の仏教の長老は「法王」となるなどの使い分けがあった。それを応用した「ローマ法王」という訳を、「王」よりは「教え」を、と日本のカトリック教会が「教皇」に変えたわけだけれど、漢字的には、「王」が「皇」に「格上げ」されたとも言える。そうなると皮肉だ。実際ローマ・カトリック内の正式の呼称にはヨーロッパの王侯貴族と同じ尊称がきっちり決められていて、パレスティナで処刑されたイエス・キリストが聞いたらびっくり、という恭しさが中世以来続いている(今回の日本でも「台下」などと書かれていた)。でも、その他に、より「キリストの教え」に近い「奉仕者」「仕える人」という表現もあって、ヒエラルキーのトップには必ずそれを適用する修道会などもある。まあ、呼び名などは関係なく、「仕える姿勢」が問題なのだけれど、世間には肩書や呼ばれ方で自分が「偉い」と錯覚して他者を見下したり蹂躙したりしてしまう人も少なくないから、指導者にこそ「謙虚さ」は絶対に必要だ。日本のカトリック信徒は「パパさま」と呼んでいるのが普通のようだ。「教皇様」というよりは親しみがあるけれど、「パパ」も「さま」も、いろんな意味でこの場合の日本語になじまないなあと思うので、私にはとても発語できない。司祭だって「神父」と「神」がついているし。それにたいていは神父「さま」と呼ばれている。フランス語ではフランシスコ教皇は「フランソワ」と呼ばれるし、教皇は「Papeパップ」で、普通の言葉でないし、神父は「Pèreペール=父」、(家庭内での父親の呼称はパパが一般的)。(ついでに言えば、フランス語では、報道などでフルネームを言えば、敬称はなくてもいい。 たとえば、エマニュエル・マクロン、と言えば、大統領とかムッシューとかをつけなくてもいいのだ。)日本語では、この敬称の使い方でその後の話の枠が決まってしまうので、聖職者たちとはフランス語の方がずっと話しやすい。でも日本のシスターたちとは、特に「シスター…」と言わなくても普通に「・・・さん」と呼べるので話しやすい。と、まあ、このコメントは「ローマ法王」(法王でも間違いではない、と外務省は言っている)というタイトルをめぐっての雑談となりました。教皇訪日をフランスから中継やビデオ視聴して思ったことは私のブログ(2019年11/24-25)に書いたのでどうぞ。書誌情報出版情報文庫判 272頁 定価 本体800円+税出版社出版社: 角川ソフィア文庫ISBNISBN : 9784044005207
著者のコメント
この本の出版経緯については「あとがき」にこう書いている。(抜粋)
二〇世紀末にこの本をちくま新書から出した時は、世紀末の終末論的な言説が横行していた。二度の世界大戦をくぐり抜けた後の冷戦時代には核戦争による人類絶滅の恐怖が高まり、冷戦が終わると歯止めのない競争社会が価値やモラルを相対化しはじめた。そんな不穏な世紀末に、欧米の近現代の激動を生き延びたカトリック教会が新しい形で「希望」を説いていることに救いを感じて、時間の流れが違うヴァティカンや、東欧出身のヨハネ=パウロ二世の活躍を紹介することができた。
けれども、新世紀が始まるとすぐにアメリカで同時多発テロが起き、経済格差の広がる世界で暴力がはびこり戦争が次々に起こった。そんな時に、突如としてドイツ人法王を登場させたカトリック教会の新機軸にまた感心して、ベネディクト一六世に至る新章を加えたのが、中公文庫版だった。そのベネディクト一六世がまさかの生前退位を表明して、アルゼンチンのベルゴリオ枢機卿がフランシスコ法王となり、その率直さと謙虚な人柄と親しみやすさでまたたく間に世界中の人気者になった。それだけではない、環境破壊における先進国の責任を指摘することを恐れず、ぶれない正論を堂々と発し続けたのだ。(…)今回の角川ソフィア文庫版では、そんなフランシスコの足跡をたどる新章を付け加えることで、もう一度希望のメッセージを届けたいという思いがかなった。
というわけで、ブログでは継続して書いてきた今世紀のローマ法王についてアップデートしたのだけれど、今回の角川版は最初から、2019年11月のフランシスコ教皇訪日に合わせて提案していただいたものだ。おかげで、オンラインニュースにいくつも取り上げてもらうなど、今までにない展開があった。
https://president.jp/articles/-/30840
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/6853
https://bunshun.jp/articles/-/15745
アクシデントもあった。
教皇訪日直前に、外務省がこれまでの「ローマ法王」という呼称を「ローマ教皇」に変更したというのだ。
「教皇」というのは1981年のヨハネ=パウロ二世の訪日以来日本のカトリック会は正式に使ってきた言葉だけれど、外務省には外交樹立以来の「ローマ法王庁」という名が残っていて、一般メディアでは「法王」が使われていた。私は個人的には、「教皇」を使っていたけれど、本のタイトルなどは「ローマ法王」に合わせていたので、「ローマ」の後に続くときは「ローマ法王」、単独なら「教皇」、フランシスコ教皇、などと使い分けていた。でも、出版物では基本的に出版社の判断に任せていた。
語感としては「ローマ法王」の方が「ローマ教皇」よりも、発音した時に口を閉じる回数が少なくて好みだった。
もともと漢字としては「王」より「皇」が格上で、だから日本古代の「大王」は中国の「皇帝」に対抗して「天皇」と称するようになった。で、今でも、外国語訳としては、イギリスやベルギーだのの「王」はキングと呼ばれ、日本の天皇はエンペラーと呼ばれている。エンペラーは帝国主義を連想するから微妙なのだけれど。で、出家した「上皇」は「法皇」となるし、それ以外の仏教の長老は「法王」となるなどの使い分けがあった。
それを応用した「ローマ法王」という訳を、「王」よりは「教え」を、と日本のカトリック教会が「教皇」に変えたわけだけれど、漢字的には、「王」が「皇」に「格上げ」されたとも言える。そうなると皮肉だ。
実際ローマ・カトリック内の正式の呼称にはヨーロッパの王侯貴族と同じ尊称がきっちり決められていて、パレスティナで処刑されたイエス・キリストが聞いたらびっくり、という恭しさが中世以来続いている(今回の日本でも「台下」などと書かれていた)。でも、その他に、より「キリストの教え」に近い「奉仕者」「仕える人」という表現もあって、ヒエラルキーのトップには必ずそれを適用する修道会などもある。まあ、呼び名などは関係なく、「仕える姿勢」が問題なのだけれど、世間には肩書や呼ばれ方で自分が「偉い」と錯覚して他者を見下したり蹂躙したりしてしまう人も少なくないから、指導者にこそ「謙虚さ」は絶対に必要だ。
日本のカトリック信徒は「パパさま」と呼んでいるのが普通のようだ。
「教皇様」というよりは親しみがあるけれど、「パパ」も「さま」も、いろんな意味でこの場合の日本語になじまないなあと思うので、私にはとても発語できない。司祭だって「神父」と「神」がついているし。それにたいていは神父「さま」と呼ばれている。フランス語ではフランシスコ教皇は「フランソワ」と呼ばれるし、教皇は「Papeパップ」で、普通の言葉でないし、神父は「Pèreペール=父」、(家庭内での父親の呼称はパパが一般的)。(ついでに言えば、フランス語では、報道などでフルネームを言えば、敬称はなくてもいい。 たとえば、エマニュエル・マクロン、と言えば、大統領とかムッシューとかをつけなくてもいいのだ。)
日本語では、この敬称の使い方でその後の話の枠が決まってしまうので、聖職者たちとはフランス語の方がずっと話しやすい。でも日本のシスターたちとは、特に「シスター…」と言わなくても普通に「・・・さん」と呼べるので話しやすい。
と、まあ、このコメントは「ローマ法王」(法王でも間違いではない、と外務省は言っている)というタイトルをめぐっての雑談となりました。教皇訪日をフランスから中継やビデオ視聴して思ったことは私のブログ(2019年11/24-25)に書いたのでどうぞ。