2009年の投稿

フランスにおける外国人参政権

迷える大羊 · 2009-12-30 11:10:03 UTC+9 · 投稿 #354

なぜか、新聞・TVではあまり報道されませんが、国会などで話題になっている事項に外国人地方参政権の問題があります。つまり、日本にある一定年数以上居住しているとか、永住権のある外国人には地方に限定して選挙権を与える、というもの。
外国人、といっても実質的には韓国・台湾など旧植民地出身者対策ですね。今のところ、進歩系メディア、社民、共産、民主党上層部などが推進派、保守系メディア、自民の一部、民主の一部、国民新党などが反対、といった感じで賛否両論入り乱れている状況です。

ところで、フランスといえば、かつて、あるいは現代も、アフリカ、ベトナムに植民地を抱え、こういった問題に関しては日本よりはるかに「先輩」と思われますが、永住外国人に対する参政権についてはどうなっているのでしょうか?

具体的には、フランス国籍を取得せずにアルジェリアなりベトナムなりの国籍のまま、フランスの地方議会に対する選挙権を行使することは可能ですか?また、仮に可能として、その際の条件、たとえば、フランスでの居住年数とか、国籍(旧植民地出身者とかEU圏内の出身者に限るなどの)に関する規定にはどのようなものがあるのでしょうか?
また、このような問題に関する世論の動向はどのようなものでしょうか?

日本のマスメディアとか有識者っていうのは、左右問わず、何かというと「欧米では」と言いたがるのですが、実際のところ、自分の論調に都合のよい事実だけをつまみ食い的に取り上げる傾向が強いので、実際に(欧米諸国に)居住されている方に、実態を聞いてみたい、と思った次第です。

マリーアントワネットも

迷える大羊 · 2009-12-20 19:03:30 UTC+9 · 投稿 #353

そうですか。別にバロックだからマジメ、ロココだから軽薄とは単純にいえないわけですか。そういう西洋文化方面にはとんと疎いもので。ところで、まったくどうでもいい話ですけど、ヨーロッパの歴史・文化風俗に詳しい日本人って女性が多いのはなぜでしょうね?SEKKO先生はじめ「ローマ人の物語」の塩野七生氏とか「ベルばら」の池田理代子氏とか・・。

あと、あの動画をみて思いましたけど、主人公は18世紀のフランスに生まれたかったようですが、逆にかのマリー・アントワネットも18世紀のフランスじゃなくて21世紀の日本に生れておれば、ちょっと不思議ちゃんだけど可愛い人、おしゃれな人ですみ、意外と幸せな人生が歩めたんじゃないかなぁと思ったりして・・。
マリー・アントワネットさんってちょっと空気が読めないところはあるにせよ、そんなに悪い人とは思えないもので・・。私

おもしろいですね

Sekko · 2009-12-16 03:29:50 UTC+9 · 投稿 #352

動画、面白かったので、もう少しで続きを見るところでした。今暇がないのでまた今度にします。
真面目なバロックに対して軽薄なロココ、というのは始めて聞きました。バロックの方が歪んだ真珠というくらいで悪趣味だと思われている場合があるからです。基本的に、フランスでは17,18世紀くらいにクラシックと呼ばれる形式が流行し、建築ではシンメトリー、安定、など静の面、音楽や舞踊では当然動きの面が協調されました。ロココは同じメンタリティの中の、装飾品やインテリアや宮廷絵画に花開いた表現ですね。ふりふりで装飾過多というイメージがもたれているみたいですが、フランスのバロックとロココに共通するのは「演出」性です。人工性、舞台装置的な感じ。すべて計算されつくした表現で、生き方も演劇性があったと思います。バロック音楽は一部のポリフォニー教会音楽や「古楽」という呼称のせいで、「まじめ」という誤解をする人がフランスでもいるんですけど、人口的な脳内楽園みたいな感じは、音楽でも際立っています。ロココは宮廷文化で軟弱で頽廃的ってところはあるんですが、音楽や舞踊や演劇や全体を通して見ると、なかなか興味深いですよ。

今時の若い女の子のロリータ風というかロココ趣味って、確かに一部のフランス人の女の子にも見られますが、変にセクシーなファッションなんかよりましだと思います。バービー人形よりお姫様人形の方が、自然な好みかなあと思って。

今フランスで大人気はキティちゃんで、大人(と言っても30代くらいまでですが)の女性でも夢中な人けっこういるので、プレゼントとかしやすくて楽です。

フランス語帝国主義って言っても、フランス語訳とかフランス語化してればそれでフランスものだということになっちゃうんです。コミックの訳もはじめは左開きで左右反対のプリントだったりしたのが、今では、まったく日本版と同じで右開きでコマ割が進むのも多いです。フランスのBDと呼ばれるハードカバーのコミックも、アートとして成立していてなかなか別の味わいがありますけど。

ロココとは?

迷える大羊 · 2009-12-14 00:45:55 UTC+9 · 投稿 #351

先スレで話題に出しました、ゴシック・ロリータに絡んで・・。日本におけるゴスロリファッションの定着に貢献した映画に「下妻物語」(主人公のファッションはゴスロリ、というよりはロリータですが)という映画があり、主人公は18世紀フランスのロココ風文化にあこがれている、という設定になってます。映画の冒頭に、18世紀フランスのロココ文化についての説明がありまして、それによれば、超マジメなバロックに対し、派手で軽薄、淫らであまりのバカバカしさに評論家からこきおろされることも多く・・などといういわれてましたが、そうなんですか?

ちなみに映画「下妻物語」の説明はこれです(ウィキペディア)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%A6%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E

あと、その「下妻物語」の劇中にてロココ調の説明が出てくる部分です。

http://www.youtube.com/watch?v=P5iRzB4fCQE&feature=related

あと、この映画、ウィキペディアによれば海外でも上映されたらしいです。(タイトルは「KAMIKAZE Girls」ベタですねぇ)。フランスで、実写の邦画としては百館で上映と過去最高の上映数だった、とありますが本当ですか?
日本人でないと笑えないギャグが多いのに、大丈夫かな、と思ってしまいます。ただ、この映画、ウィキペディアにもありますが、主人公の性格とか、話の進み方がどことなく、フランス映画の「アメリ」に似たところがあって、意外とフランス人と日本人って、笑いとか感動とかの面で感覚が似ている部分もあるのかな?と思ったりもしますが。

日本のサブカルチャー

迷える大羊 · 2009-12-10 23:33:21 UTC+9 · 投稿 #350

最近、海外における日本のサブカルチャーに興味がわいていますが、私がいろいろ調べたり、知る限りでは東アジア圏を除いた、非アジア圏でもっとも日本製サブカルチャーを受け入れている国ってフランスなんじゃないのか?という気がすごくするのです。

私が子供だった1970年代、今から30年以上前ですが、親に連れられてパリを旅したことがありますが、すでに永井豪氏原作の日本アニメ「UFOロボ グレンダイザー」がテレビ放映されていて、子供心に「あれぇ~、ここフランスだよね?なんでこんなもんが??」とびっくりしたことがありますし、ジャパンエキスポの繁盛ぶりはヨーロッパ一ですし、日本式マンガを世界でもっとも早く受け入れた国でもあるようですし・・・。

それにしても、どうしてアメリカでもドイツでもなく、フランスなんだろ?って疑問がどうしても湧いてきます。フランスって国のイメージそのものはすこぶる良いのですが、一方で日本とはかなりメンタリティが違いそうな、日本文化とは相性が悪そうなイメージもあったし、いつぞやSEKKO先生がおっしゃっておりましたように、フランス語帝国主義の国でしょ?そんなところでよくもまあ、という気がどうしてもします。

ところで、日本製サブカルチャーというとアニメ・マンガばかりが取りざたされますが、最近では日本のガールズファッションも意外とウケているらしく、最近のジャパン・エキスポなど日本式サブカルチャー関係のイベント動員数アップに貢献しているらしいです。ただ、その日本式ガールズファッションの代表格っていうのがゴスロリ(ゴシック&ロリータ)というもので、大多数の日本人の主流から外れたものであるのがなんですが・・・。

ちなみにゴスロリに関する説明はこれ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%AA

ところで、ヨーロッパでもっとも日本製サブカルが好きな国はフランス、というのは過去の話となりつつあるらしく、こんな映像も・・。

http://www.youtube.com/watch?v=FwSFiclB0e0&feature=player_embedded#

まるっきり原宿のあの娘たちとやってることが同じ・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=HSYR34g9yGM&feature=player_embedded#

道行くオジサン、オバサン、大人の怪訝な表情は日本もあちらも同じ・・。

まあ、ウケてます、といっても所詮は「サブ」カルチャーですから、全体からすればごく一部なんでしょうけど、日本のサブカルチャーの力って意外と侮れないものがあるなぁって思いました。

日本語も

Sekko · 2009-12-09 19:28:24 UTC+9 · 投稿 #349

フランス人に日本語を教える時は、atemporel の現在か(これは先に書いたようにフランス人には分りやすいのです)、あるいは「・・・でしょう」という)「推測、予測」形だと教えます。「明日は晴れるでしょう」というのがいつも例文でした。確かに未来のことは「過去から見た未来」という時間軸でない限り、意志や予測でしかないんですから、後は、一神教的な「神の視点」でも持ち出さない限り「未来形」って言うのは変ですね。ギリシャ語ラテン語と違って、ゲルマン語系の方が「未来」形が未来形としてわりと機械的に安定している感じがしますね。こういう言語の「癖」によって時間論とか存在論も変わってきそうですね。

古典語の時間に

あがるま · 2009-12-06 16:37:52 UTC+9 · 投稿 #348

印欧語には本来の未来形といふものはなく意志を表現する接続法や希求法から来ると聞きました(或いは逆?)。
未来形が出て来たら現代語では意志を表はす翻訳表現にした方がエレガントださうです。

さっきの補足

Sekko · 2009-12-01 07:49:45 UTC+9 · 投稿 #347

この前の返事に、フランス語でEに右上がりアクサンを打ったものが全部消えてました。ssの後とか、sアポストロフィの後とか。適当に入れてください。
後から考えたのですが、ここは、「Ca se passe vite」と語りの現在形と言われるものでも同じ意味です。
フランスで日本語を教える時、日本語には現在形と未来形はなく、過去の他にatemporel という無時制があるという言い方がされます。
フランス語の語りの現在形もこれに似てます。
たとえば、ちょっと中座する時に「すぐ戻ります」と日本語で言うように、フランス語でも「Je reviens」と言えます。英語で未来形や現在進行形を使って、I’ll return とかI’m commingなんていう時、フランス人は現在形で訳すので、英語人は理解に苦しむのだと言ったフランス語の先生がいました。こういうところは、日本人は英語の文法にあてはめないで、日本語の語感を応用する方が、フランス語が理解しやすいかも、です。私はいつも日本語とフランス語は日本語と英語よりずっと相性がいいなあと感じてました。

話し言葉

Sekko · 2009-11-30 20:34:51 UTC+9 · 投稿 #346

確かに、文法的には「Ca sera vite passé 」とか、「 Ca serait vite passé」
となるべきところですが、話し言葉って、まあこんな感じですよ。

私も、仏文法を習った者として、間接話法の時制とかがいつも頭にあり、私が不正確に話したら「文法を知らないから」だと思われるんじゃないか、って気になることがありますが、まあ、親しい人同士では、まず、問題にされないです。接続法反過去なんてどこの国のこと?って感じ。ただし、フランス人も、学校では習ってるので、言われると理解するし、もちろん少し正式な場所とか書き言葉とか古典なんかでは普通に出て来るのですが。

近頃の口語で、私が分っていてもなかなか口に出ないのは、今までなら「Ne t'inquiète pas!」(心配しないで)というのを「T'inquiète! 」と肯定形で言う表現。こういうのは 「s'étonner」なんかも同じで、「びっくりしないよ」を「びっくりするよ」と言ったり、分っていても、私には抵抗があります。
でも日本語でも「とんでもないこと」と「とんだこと」が同じ意味だったり、考え出すと分りませんよね。虚辞の「ne」というのがありますが、分析的論理的な意味でなく、全体の印象に引きずられる言葉ってひょっとしていろいろあるのかも。話し言葉だけでなくネット上のたとえばブログやこういう掲示板の言葉もそうで、私の日本語ブログをフランス語の自動翻訳機能で翻訳したという友人は、全く分らなかったと言ってました。略語、当て字何か普通ですからね。

私は、外国人は、口語は、誤解しないくらいにある程度分ればいい、話す必要はないと思います。ちゃんとした言葉を話してないと、「イザという時」に教養の程度を誤解されたりするので。映画などの会話を理解するのは難しいでしょうが、ちゃんとした言葉で書かれた文をたくさん読んだ方が得るところは多いと思いますよ。言いたいことをきっちり話せれば、ちゃんとした人なら向こうがリスペクトして対応してくれるはずです。

C'est vite pass

Who? Me? · 2009-11-30 16:02:23 UTC+9 · 投稿 #345

すごく、レベルの高い議論が続く中を、お許し下さい。
NHKラジオ「まいにちフランス語」の応用編にチャレンジし始めました。毎回、予習が大変ですが、今のところ頑張ってます。少しわからないことがございまして、ご回答いただければ、幸いです。お忙しいところをよろしく お願い申し上げます。
11月26日(木)放送分の本文の最後に、C'est vite passé! があり、和訳が、「すぐに過ぎるよね。」となっております。ここの文は、内容的には未来のはずなのに、なぜ複合過去(だと思いましたが)で表現してあるのでしょうか。全文を載せます。
Clara : Tu prepares ton depart au Japon?
Raphael: Oui. J'ai une foule de choses a faire. Et il faut aussi que je prenne quelquew cours de japonais.

ラファエルの話は続きます。

Je suis prêt à tous les sacrifices pour que mon rêve se réalise. L'unique problème, c'est que ma copine veut que je l'emmène avec moi. Elle ne veut pas rester sans moi. Mais il n'est pas question qu'on y aille ensemble, au Japon, car so séjour n'est pas pris en charge. D'un autre côté, j'ai peur qu'elle rencontre quelqu'un d'autre en mon absence. Oui, je sais, ça ne sert à rien de se soucier de ce qui pourrait arriver. Bon, et puis trois mois, c'est vite passé!

更にこじつけ

あがるま · 2009-11-01 00:27:05 UTC+9 · 投稿 #344

ポアンカレの弟子のエピステモロジストでウィーンの論理実証主義団やハイエクなどのモンペラン協会の会員でもあつたLouis Rougier(1989-1982)はペタン政府の有力者だつたために戦後追放されWikiの英語版には彼の哲学的業績が書いてあるのに仏語版には専ら政治的なことしか書かれてありません。
古代からの反キリスト教の聖書とも言へる、ケルススの『アレーテス・ロゴス』の仏訳をした彼も有力な無神論者に属しますね。
ルジエが法王レオ13世のencyclical Aeterna Patris (1879)に反対する800頁以上の大論文 - アリストテレス・トミズムはキリスト教信仰と両立しない - を1924年に発表し、それについてユリウス・エヴォラ1898-1974(R.シュタイナーやR.ゲノンに並ぶエソテリズムの大物ですが)が1924年に書いて居るのを知りました。
http://thompkins_cariou.tripod.com/id3.html
その結論部分でEvolaが書いて居ることはクリマと似て居ないでせうか?
God is this final self-manifestation : the act of the individual (or essence), and, in him, of all things, so that the individual can consider himself to be God in potentia. Not by a jump between two co-existents (Catholic dualism), but by continuity and progression of construction, one passes from one term to the other. Then, it can be said, like Meister Eckhart : all the creatures want their supreme perfection, all of them want the essential life, all of them move into my reason to become reason. I - the Unique - raise all the creatures from their consciousness to mine because they become unity in it. The individual must comprehend, according to the principle of cosmic responsibility, what it is that he does.

こじつけ

あがるま · 2009-11-01 00:22:50 UTC+9 · 投稿 #343

ego ludensをego cogitansから区別するのは、遊戯と云ふ現象が意味も目的もない(志向も志向対象も持たない)自由な働きだといふことでせう。
『非特異的な無』が意識のことであり、『自由』とは意志(の自由)のことなら、その意識は思考のやうな明確な対象を持つ運動ではなく、痛み(メルロ・ポンティの幻影肢)や嘔吐(サルトル)や性的オルガスムのやうな共感覚synesthesia(coine aisthesis)であり遊戯とは中動相的な様相を類比的に表現する言葉なのでせう。

ludensは現在分詞ですから

あがるま · 2009-10-28 15:10:22 UTC+9 · 投稿 #342

遊戯者といふ名詞より、遊んで居る状態(例へばシャッターボタンの遊び)を表すのでせう - 主体、対象、働きが三位一体である志向性のやうなもの?
それが現象世界(或いは世界といふ現象)の実態で同時に認識主体とその対象の外部にある(思考の)可能性の全体だと云ふのなら、トマス(E.ジルソン)的な存在論的差異、存在(物)と存在させる力(神の働き)actus purusの区別を指して居るのかも知れません。
でもこれはキリスト教的といふより古代的ギリシア的分別(節度)だと思ひます。
遊戯の存在論ならE.フィンクやK.アクセロスが思ひ出されますが。

Sekkoさんの考へる『自由』が
<一般的な意味での自我的な「存在」と、非特異的な無との2極に拡散される間の微小な地点に「具体的特異的な私の存在」がある。>であるならば
非特異的な無とは具体的特異的な有(個体・実体)であり、両者を統合しながら対象を取込むのが自己意識であり、その基体Substance/Traeger/porteurは自我的な存在で、その媒介活動の微分的現在が自由だと言ふのと何処が違ふのか?

彼の思想はego cogitansから出発するドイツ観念論の変種であり、カント、ショペンハウアー或いはニーチェとどう変りがあるのか分かりません。少し現代的になつて居るとは思ひますが。28.10.09

分りにくいですね。

Sekko · 2009-10-28 01:52:15 UTC+9 · 投稿 #341

クリマを読んでくださる方がいるのはそれだけで嬉しいです。
しかし・・・こうして抜粋して下さったところを見ても・・・何か分りづらいですね。

新訳(まだ出版されていない)では、

Quoi donc ? Le sol s’est dérobé. Il n’y a d’autre conclusion que celle-ci : le tertium, c’est
n’importe quoi, quodlibet, Tout et Rien ; quelque chose avec quoi je peux faire ce que je
veux, ― un simple plasma, ― une bagatelle, ― un jouet. ― Le complément du Jouet,
c’est le Joueur ; la somme des deux donne le Jeu. La pensée sive tout est Jeu sive
Commandement souverain. Le Jeu sive Mon Jeu seul existe. Or, cette thèse(28), vue du
dedans, tout droit, dans sa réalité réelle, devient : Je suis Ludensk absolu, c’est-à-dire Je
suis Absolu.――

(これを読んでる他の方々、これを日本語に訳せとかおっしゃらないでくださいね。)

となっています。註28は下記です。

28. Cette thèse ― dit d’abord le dernier état du brouillon ― est une victoire sur le scepticisme, sur
l’Abîme, sur l’Archinuit gangrenée qu’engendre l’esclavage ―


>EgoSolisme とかEgoDeismeと彼の云ふものが、何故『無神論』や『神秘主義』ではなく『哲学的自由論』なのか分かりませんが、SekkoさんやErikaさんは(例へばWikiに)彼の(数個しかなささうな)根本命題とその帰結を明晰に叙述出来るでせう

カントの自由についての講義録を読んでいてちょっと連想したのです。やはりすごくキリスト教的だなあと思いますね。エリカはともかく私にはとてもクリマの根本命題を明晰に叙述というのは無理で、まあ、自分の関心に近い部分を嗅ぎ分けて試行のツールとして使えれば嬉しいです。エリカによれば、彼は話す相手の政治的やその他の体制的カテゴリー、あるいは自分の財政状態によって、かなり迎合的なことも書いているそうで、真の姿を捉まえるのは困難なのかもしれません。でもどきりとさせられます。あがるまさんの関心の中心や研究対象がどこにあるか分れば、クリマの何が役に立つかエリカに聞きますよ。

Je

あがるま · 2009-10-24 14:28:32 UTC+9 · 投稿 #340

遊戯概念の説明を抜かしました。(164頁)
Quelque chose avec quoi je peux faire CE QUE JE VEUX, une simple PLASMA, une matiere plastique mise a ma disposition, un JOUET. …..,La pensee SIVE tout est JEU SIVE Conmandement souverain. LE JEU SIVE MON JEU SEUL EXISTE. このテーゼを内部から眺め、その原初的な実在性から出現する命題がJe suis LUDENS absolu,c’est-a-dire JE SUIS ABSOLU.

philosophia perennis

あがるま · 2009-10-22 20:40:16 UTC+9 · 投稿 #339

L.クリマ『瞬間と永遠性 - 哲学的間奏曲』E.アブラム訳を手に入れました。
哲学論文集ではなく、プラハの定期刊行物に掲載された文章です。
<『我は絶対である。即ち神的状態の中にある。これは思考の論理の帰結』。(162頁『哲学素描』)>(この命題Sが根本です。しかし彼によると論理と非論理は同じものなのでこれも真偽は分からない)
<私が実際に存在することが確実だ(といふ意識の事実)と同様、私は確実に不死(な神)である - 私は存在し、そして存在するであらう。何故なら永遠性は限界のない現在の他の何物でもない(141頁『不死』)>
<思考は真と偽の外側にある第三のもの。それが齎すのは、可能性の全体(物自体、カントのX)といふ些細なものである。『私は絶対遊戯者、つまり私は絶対である』(164頁『哲学素描』)>
EgoSolisme とかEgoDeismeと彼の云ふものが、何故『無神論』や『神秘主義』ではなく『哲学的自由論』なのか分かりませんが、SekkoさんやErikaさんは(例へばWikiに)彼の(数個しかなささうな)根本命題とその帰結を明晰に叙述出来るでせう。22.10.09

南北朝時代から

あがるま · 2009-09-07 11:50:54 UTC+9 · 投稿 #338

宗教情勢が変はつて来たやうです。
Sekkoさんで納得出来ないのは『超越(或いは聖)』と云ふ言葉の(恣意的な)使ひ方です。(中沢新一や網野善彦も同様ですが)
何か場所的topologicなオーラのことのやうですが、本来は対象(実体)は、最も普遍的なものは経験や言葉を超越するので、概念では把握出来ないし、勿論感覚的にもその対象に達することは出来ない(それが超越とか超越論的と云ふ意味ですから)、或いはモノは常にコトバを超越すると云ふものだと理解します。
R.アイスラーの《哲学辞典》http://www.textlog.de/woerterbuecher.htmlによれば
Die Transcendenz ist schließlich nur ein inadäquater Ausdruck für die Incongruenz zwischen dem tatsächlichen Inhalt und dem Ideal der Erkenntnis. (E.Koenig,Üb. d. letzt. Frag. d. Erk., Zeitschr. f. Philos. 103. Bd. S. 59.).
Nach RIEHL ist transcendental 《die Form der Einheit des Bewußtseins in Abstraction von ihrem Inhalte gedacht, sofern diese Form als die allgemeine, nicht bloß für mich geltende Bedingung erkannt wird, unter welcher die Vorstellung jedes Objects... stehen muß》 (Philos. Krit. II 2, 163)

地下鉄サリン事件で「もっと多く死んでいれば霊的磁場が変わっていたはず」
と中沢新一は言つたさうですが、Sekkoさんの『超越』もそれに近づく危険を持つて居るのではないか?
《聖なるもの》と云う本を書いたR.オットオは.ハウアーJakob Wilhelm Hauer (* 1881 † 1962 ) と云ふナチ時代の宗教運動と関係があつたさうですし
超越を整合的に理解しようとすれば(両者と関係のあつた)R.シュタイナーのやうに超感覚的な能力を前提しなくてはならないでせう - 人間の表象は(分散的な)概念と(統合的な)感覚しかないのですから

あがるまさん

Sekko · 2009-09-05 07:54:06 UTC+9 · 投稿 #337

いろいろ情報をありがとうございます。
まあ、無神論について、百科時点にしても意味がないし、できないんで、今回はまず、情報を最低限入れて、編集の仕方でオピニオンを伝えるつもりです。
これは多分今度の本で触れる暇はないですが、たとえば、日本の共産党が、昭和初期とかに一度も、天皇制について無神論的言辞を使っていないのは、「西洋の共産主義=無神論的言辞を弄した擬似宗教」として出発したのとは大分違うなあと感慨深いです。「神仏を信じなくなった」という人は、平安時代にもちゃんと記録があるのですが、神の存在証明がなんとかという発想はやはり、一神教とギリシャ・ローマ世界が出会ったところに生まれた独特の信仰の変種だなあと思います。今のヨーロッパのインテリ世界のデフォルトはアグノスチックであり、無神論は、アメリカでもなければもう意味をなさない感じなんですけど。
日本の「神」は、アニミズム的な自然神が仏教などの影響で図像化されたものと、祖霊信仰が結びついたもので、そこに儒教も関わったので、神としての天皇制も、太陽神や豊穣神と連動した祖霊信仰の一種なので、「存在論」は問題にならないんでしょうか。既成権力の転覆や革命に神がいるとかいないとかいうのって、日本人的には、考えたらすごく不思議ですよね。でも、日本の近代の知識人は、近代西洋思想とセットになった無神論を輸入してるので、そこのところをあまり誰も追及してないみたいなんです。私の考えたいことは、多分、人間精神にとって「自由とは何か」ということです。

あすから留守にしますので、ちょっとお休みします。

シャルル・ド・ヴォルネイではなく

あがるま · 2009-09-03 13:51:16 UTC+9 · 投稿 #336

Constantin-François Chassebœuf de La Giraudais, comte Volney, dit Volney, né le 3 février 1757[1] à Craon en Anjou et mort le 25 avril 1820 à Paris, est un philosophe et orientaliste français. Il est considéré comme le précurseur des ethnologues, anthropologues et sociologues du XXe siècle[réf. nécessaire].
ださうです。

蛇足

あがるま · 2009-09-02 13:50:06 UTC+9 · 投稿 #335

YouTubeで『譜めくりの女』を12回で見ることが出来ますが、主人公の女の子がスタージュに行く先はオンフレイと云ふ苗字の家でした。
去年一箇月くらい滞在したロワール河沿ひの町のB&Bの60歳ほどの(カメラマンだつたといふ)女主人はM.オンフレイの10枚ほどもある哲学史講義CDを持つて居て、毛沢東に憧れて居たさうです - どうやらかつての実存主義者の名残らしい。
ジョルジュ・パラントと云ふ名前を何処か聞いたことがあつても、何者か知らなかつたが日本語のサイトもあるさうですね。(ゴダールの映画に出て来たブリス・パランと混同してました)
無神論者ならCharles de Volnayなどもさうかも知れないし、ウィーンのF.マウトナーには『無神論の歴史』と云ふ3巻の大著もありました。

早速のお返事、ありがとうございました

すずき · 2009-09-01 20:35:21 UTC+9 · 投稿 #334

『無神論の系譜』という御著書が出版されるとのことで、早速のお返事を頂き、ありがとうございました。良いタイミングだったとのことで、とても嬉しく思います。出版を楽しみにしております。私は、拙いながらも、「日本文学」の研究をしている者です。竹下さんが、戦後のフランスの「無神論」は、一神教からの解放を目指す知識人の「信仰告白」であったと述べられ、それに対し、戦後の日本の「無信仰」は、ポストモダンのモラル不在の状況とも関わるような、無知や無関心と同義であることが多いとのご指摘をされていたのを知り、関心を持ちました。日本の文化状況を鑑みながら、時折こちらのページを拝見させて頂きたいと思います。ありがとうございました。

すずきさんへ

Sekko · 2009-09-01 01:53:16 UTC+9 · 投稿 #333

このご質問、何だか、私にとって、グッド・タイミングでした。多分もう15年くらい前の論考だと思うのですが、今これを拝見して、雑誌は見当たらなかったのですが、当時のフロッピーが出てきたので読んでみて驚きました。もちろん多少は覚えていましたが、今書いている無神論の系譜の本の一部とぴったり重なるからで、何だか私はずっと同じテーマを追いかけていたのだなあと思うと感慨深いです。で、この論考はユリイカ以外どこにも収録されていませんが、一部加筆修正して来年2月頃出る予定の『無神論の系譜』(中央公論新社)に再録します。そこには当然これに関連する話もたくさん出てきます。神秘主義と無神論の実はすごく近い関係についてももっと掘り下げたいですが。
私は怠け者のくせに修行とか禁欲のハウツーものが好きで、この手の話は大好きなんです。本が出る頃になればまたブログでお知らせします。

途中で失礼

あがるま · 2009-09-01 00:54:04 UTC+9 · 投稿 #332

http://www.dailymotion.com/video/x9t0f6_demain-des-laube-bandeannonce_shortfilms
に『早朝に』の予告編がありLaTurneuseも続いて出て来ました。
カトリーヌ・ブレイヤの映画論も見ることが出来ます。

信仰のエクリチュールの御論考

すずき · 2009-08-31 23:29:37 UTC+9 · 投稿 #331

お恥ずかしい限りで、こちらでお聞きして良いものかと思ったのですが、以前『ユリイカ』にお書きになられた「神、バルト、ロヨラ―信仰のエクリチュールをめぐって」という御論考は、既に御著書の中に、収録されているのでしょうか? もし、収録されていらっしゃるのであれば、その本の題名を教えて頂きたいのですが…。その御論とそれに関連する文章も読ませて頂きたいので、このような場所で失礼とは思うのですが、教えて頂けないでしょうか。

譜めくりの女

あがるま · 2009-08-23 12:43:19 UTC+9 · 投稿 #330

は飛行機の中で見たことがあります。
あるピアニスト志望の女の子が、試験官の女性教師が携帯電話に気を取られて居たために入学試験に落第し、その後で彼女の家庭教師や譜めくりとして彼女の家庭にとつてなくてはならない人間になつたことまでは覚えて居ますが。最後はどうなつたのか、とにかく印象的でした。
楽譜めくりが演奏家にとつてそれほど重要だとは知らなかつたが、監督のデルクールは音楽家だつたのですね。
映画監督としてはO.シュレンドルフやC.ブレイヤくらいしか知らないのですが彼らはもう過去の人かも知れません。