2016年の投稿

お礼

水蓮 · 2016-09-03 18:33:17 UTC+9 · 投稿 #873

竹下先生

お返事と記事のご紹介に感謝いたします。なるほど。ワハビィズムなど、なんとなくどこかで聞いてボンヤリと知っているつもりでしたが。

それと、Libérationにこんな記事が載っていたことがちょっと驚きでした。Libérationもいわゆる islamo-gauchistesのメディアだと思っていたので…。

追記:我が家の小動物も猫です。

水蓮さま

sekko · 2016-09-03 02:56:41 UTC+9 · 投稿 #872

ありがとうございます。

ほんとはこの問題についてガンガン書きたいんですけどね。

水蓮様はフランス語読みだと思うのでこの記事読んでください。

http://www.liberation.fr/debats/2016/08/17/ne-soyons-pas-naifs-sur-le-symbole-de-cette-etoffe-par-aalam-wassef_1472951

こういうことです。

そんなに歴史が古くないサウジアラビアのワハビィズムが、ここ数十年で、「普通の」ムスリム世界にあっという間に広まりました。セラフィズムという名のもとに。

どうしてかと言うと、サウジアラビアに石油マネーがあったからです。

すべては「金」の力なんですね。

だから、それにまつわるムスリム女性へのビジネスが展開するのも不思議ではありません。

フランスにはアンチ・イスラモフォビ―の団体もありますし、よく

「火に油を注ぐようなことをするな」

と、言われます。

ブルキニでいうと、わざわざ条例を作って浜辺で脱衣させようなどというのは確かに「油を注ぐ行為」だと思います。

でも、ブルキニは「火」なのです。

ほおっておいたら鎮火するような火ではなく、女性の権利を焦がしながら、金権市場主義という燃料で燃え広がります。

油を注ぐのはだめだけれど、水をかけて消火すべきだと思います。

水と油を識別しなくてはなりません。

今日のブログ記事

水蓮 · 2016-09-03 01:56:09 UTC+9 · 投稿 #871

竹下先生

『…ドレス・コードを、長年かけて苦労して、やっと打ち破ってきた女性たちが好きなかっこうをしている浜辺に、それが進出してきたのだ。/ブルキニの問題はイスラムの問題ではなく、政教分離の問題でもなく、フェミニズムの問題である。』

その通り!と思わずPCの前で拍手しそうでした。学校でのスカーフ問題でフランス中がもめにもめた頃、討論番組でのバダンテールの名演説にテレビの前で拍手したことを思い出しました。

私はブルキニを禁止するのはやりすぎとは思うものの、あんな格好をした女性がぞろぞろとフランスの海岸に登場、普通の水着の女性の方が居辛くなる(?)ような未来がおとずれたりしたら、「これは私が永住することを決めたフランスじゃない!」と叫びたくなるかもしれません。ムスリマたちの方で、自分たちのしていること、それが全女性に与えかねない影響をもっと考えてもらえたらと思うのですが…。

メディアでも女性の自由という観点からブルキニ問題を分析しているのはあまりない気がします。先日、複数のカップルと会食した際、この話題になったのですが、男性の方が「政治的に正しい」ことを言う一方、女性の方は「ムスリムに気を使ってアレコレ譲歩しているうちに、すべての女性の自由が無意識に制限されないか心配」という意見(私のかねてからの懸念です)が優勢で、男女カップル内でもかなり意見が対立していて、印象的でした。

ところで、考案者は何を考えてたんでしょうか?ブルキニなんてネーミングにせず、「シャイな女性向け水着」で売り出して、こっそりムスリマ向けマーケティングをしてはダメだったんでしょうか?あるいは、日本の女性には極端な日焼け嫌いが多いときくので、「全身サンスクリーン水着」として売り出したら、日本でヒット商品になっていたかも・・・?

愚者さま

sekko · 2016-08-24 07:06:29 UTC+9 · 投稿 #870

アベマリア.... おやじギャグにしても脱力です。

アスリートにこの役をやってもらったならそれなりのアイディアだったのかもしれませんが…

前に多摩西部読売会の「よみうりサンタマリア」という情報誌に私の本を紹介していただいたことがあるのですが、三多摩だからサンタマリア、sun+TAMA+Area つまり、太陽+多摩+エリア といろんなものをかけて、全体が聖母マリアなのですから、フランスだったら無神論者から抗議がきそうなネーミングでびっくりしました。

まあ、軍備よりもオリンピックに情熱を燃やしてくれた方がましですが。

私はブログのユーロ杯のところでも書きましたが、シモーヌ・ヴェイユの言葉を肝に銘じるようにしているので、強さとか勝者を称える、とかいう心の動きには警戒しています。

(シモーヌ・ヴェイユの言葉について。http://spinou.exblog.jp/14771403/

今日の夕方、フランスのメダリストへのインタビュー番組がニュースの中であったのですが、その中で、フェンシングの選手が試合中に携帯電話を落としたシーンが流されました。どうして携帯を持って試合していたのかと聞かれて「ポケモン」と答えていました。驚きました。南仏の小さな町では市長が公共の場所でのポケモンGOを「禁止」したと言っていました。アディクションが起こるから、と。

それにしても、オリンピックの試合中に携帯電話を持ったままというのは、日本選手だったら絶対考えられないだろうなと思いました。男子フェンシングの団体エペで金メダルを取った選手です。

国民性よりも個人差の方が大きいとはいつも思っているのですが、スポーツとスポーツ周辺を観察するとやはり国民性ってあるなあ、と感じます。

アベマリア

愚者 · 2016-08-24 02:52:08 UTC+9 · 投稿 #869

平和旬間の行事の森司教の憲法の講話を聴きました。
講演会などで司教様はたいていエティ・ヒレスムの日記から神の無能というテーマの文章を引用されます。
今回のレジュメでは「キリスト者の覚悟と責任の決断の一例」という項目にエティの日記から13行ほど引用されています。
私はsekko様の著書かブログかでエティ・ヒレスムを知りました。残念なことに著書『神とエロスと収容所』はこちらでは絶版です。
司教様は、厳しいこと実も蓋もないことを淡々と語られます。「司教団メッセージをひとりひとりが深めなくてはならない」という締め括りでしたが、どうやればいいのか凡人にはわかりません。言葉はもういいから実行しなさい、でもあなたはガンジーのやったことができますか?、と言われたような気がしました。

相模原の殺傷事件は、ナチスドイツの優性思想を連想させます。普遍的な悪が働いていることがわかるのではないでしょうか。(さいたま市に住む車椅子で暮らす女性と知人の2人のユニットが「19の軌跡」という歌をYoutubeに公開しています。)

某掲示板で、(アベ←アベマリア)+(マリオ←リオ)= アベマリオ という話を読んだので、動画をリンクしておきます。
私はオリンピックの閉会式をテレビで見なかったので、Youtubeが公開されていたのはよかったのですが、この演出のセンスには言葉がありません。
アベマリオは被爆地の式典で「核なき世界を実現しよう」と述べた舌の根も乾かぬ数日後に核先制攻撃の不使用に反対。

https://www.youtube.com/watch?v=QxJk-uZRFPQ
安倍首相 リオ五輪閉会式にマリオの着ぐるみでサプライズ登場 アニメ大国日本 東京オリンピックに繋ぐ アベマリオ 【びっくり芸能】

http://mnsatlas.com/?p=9276
「安部マリオ」影の仕掛け人?森元首相ボキャブラリー能力は凄かった!?

無関心こそが罪

ファウスティーノ · 2016-07-30 19:33:48 UTC+9 · 投稿 #868

今回の日本の相模原での事件にしろ、フランス、ドイツでのテロにしろ。その残虐さは、決して、赦されるものではありません。そして、その残虐さと同時に私たち一人一人が存在をかけて気づき続ける必要があるのが、無関心という人類の病です。特に日本ではキリスト者的普遍的価値観が共有されていない為、無関心と言う罪の雑草が経済至上主義の中にあり、はびこっている様に思えます。ハンナ?アーレントが、アドルフ?オットー?アイヒマンの公開裁判を傍聴し、本当の罪は無関心であると言った映画の場面を思い浮かべていました。キリエ エレイソン、クリステ エレイソン アーメン

アウシュビッツの教皇

sekko · 2016-07-30 18:48:11 UTC+9 · 投稿 #867

確かに。

教皇のメッセージはここで見ることができます。
http://tokyo.catholic.jp/info/diocese/31502/

29日、ポーランド滞在中の教皇はアウシュビッツで長い間祈っていました。
その後、若者たちのところに戻って、アウシュビッツの残酷さは過去のものではない、と言いました。私には彼の脳裡に相模原事件のことがあったという気がします。

「公益のため」というという口実で弱者を抹殺する思想は今でも形を変えて受け継がれているからこそ、今回のような事件に口実を与えるのでしょう。
今回の殺人者(容疑者という形容には違和感があるので)が、政府関係者の支持を得られると妄想の中で信じていたということは、政治家たちの「失言」のそこかしこに出てくるその妄想の種を殺人者がキャッチしていたからかもしれません。

多くの人が彼と同じようにその「種」を直視して芽を摘むようにしないと、いろんな意味で犠牲者は増えるばかりだと危惧します。

sekko様

愚者 · 2016-07-30 12:03:16 UTC+9 · 投稿 #866

リンクしてくださった澤藤弁護士のブログは必読ですね。ありがとうございます。sekko様のコメントのとおりで、自称リベラルの朝日や毎日が問題にしないのが大問題です。

ブログの最新記事、面白く読みました。このようなコラムが日本の普通のメディアにあればいいですけれど、書き手かいるかどうか。
日本は頑固で排他的で野蛮な一神教じゃないからテロリストに狙われない、と自画自賛しているうちに、経済成長教という一神教カルトに乗っ取られてしまいました。

報道を読む限り、相模原の事件は典型的な反キリスト・ヘイト(差別)犯罪です。
フランシスコ教皇もオバマ大統領もただちに、犠牲者に対する弔意を公に表したのに、日本政府のだれひとりとして特別なメッセージを発していないそうです。この犯罪がナチスドイツのホロコーストと同根だとは思っていないのか、それでもかまわないのかどちらかです。

数年前の石原慎太郎都知事の暴言「重度の障害者には人権があるのかね?安楽死も検討の余地があるんじゃないか。」「ババア(出産の年齢を過ぎた容貌の衰えた女性という意味だと思われます)は邪魔なだけ」、麻生太郎や曽野綾子の「年寄りは長生きしなくていい」のような発言が醸しだす空気が世の中を覆っているのかもしれません。
そういえば、本田哲郎神父が数年前の講演会で、「カトリックの政治家やセレブは本当にろくでもないやつばっかりだ。麻生太郎だとか曽野綾子とかは最低だ。」と開口一番に批判して聴衆から拍手が湧き起こったのを思い出します。

で、緊急なのは都知事選です。野党連合の統一候補は鳥越俊太郎氏です。
鳥越都知事が誕生する可能性は高いと思いますが、当確とまではいえないようです。原因は、東京都として非核都市宣言をする、という政策に連合が反対しているからだと、中野晃一氏(政治学者)が説明しています。
連合は労働組合の皮をかぶったエリートクラブといわれることがありますが、原発維持、核武装オプション維持の本音を政官財界エリートと共有しているのは事実だと思われます。

さらに、いくつかの自治体で発覚した開票・集計時の不正もありますので予断をゆるしません。

異様なのは連合や政界財界のリーダー、マスメディアであって、澤藤氏を始めとする日弁連、知識人、文化人、作家などの圧倒的多数は正気だと思います。その発言がマスメディアに載らないだけです。

改憲案の「緊急事態条項」を「正気の人が書いたとは思えない条文」と濱田元最高裁判事が批判したのも、全国紙とテレビの利用者の多くは、はたぶん知りません。

参院選直後から、被っていた猫の皮を政権はかなぐり捨てて、沖縄県警、警視庁、他県の県警が高江村を包囲して、抵抗する人々を実力で排除するなど無法状態になっているのも、知らない人の方が多いようです。米軍の側に立って沖縄の住民を蹴散らしているのが日本の地方警察です。都民が警視庁を恐れなくてはならないような都知事だけは選ばないでください。

長々と失礼しました。

愚者さま

sekko · 2016-07-29 18:42:30 UTC+9 · 投稿 #865

私は国外にいるので日本の情報はネットを通してのものが多く、日本で普通にテレビを見ている多くの人に見えない情報がたくさんあるというのは分かります。

私が毎日チェックしているものの中にリテラがあります。また前も書きましたが、一番ぶれないと尊敬しているのは「澤藤統一郎の憲法日記」です。

澤藤さんの戦いの中で、一番私にピント来ないのは日の丸君が代の話でしたが、

最近のhttp://article9.jp/wordpress/?p=7237で障碍児教育への国家国旗強制に関する弁論を読んでいてショックを受けました。

こんなことをしたいままにさせているから、今回の相模原の事件などに口実を与えてしまうのかもしれません。

此の記事の訴訟原告の陳述、みなさまぜひお読みください。

カルト

愚者 · 2016-07-29 18:18:03 UTC+9 · 投稿 #864

31日の都知事選挙は国政選挙並みの重要なイベントといわれていますので、思い切って投稿します。
ここに集う方々は、なにを今更わかりきったことを、と思われるかもしれませんが、都知事選挙でどの候補に投票するべきか、するべきでないか、迷っていらっしゃる方にお伝えします。

小池候補と増田候補は原発推進論者です。311以降も変わりません。
小池氏の、核武装、国防軍肯定、生活保護切り下げなどの政策の情報がマスメディアには見当たらないので、リテラ、日刊ゲンダイ、しんぶん赤旗などのニュースサイトを見ない多くの都民がこれほど重要なことを知らずに投票してしまいます。
この候補者の最も重要な特質は、ヘイト(差別)団体、カルト団体との密接な関係ですが上記のメディアやSNS以外では目にしたことがありません。
一昨日は、東京五輪の開催費用の不足分に個人資産の「協力」をお願いする、と公に述べたそうです。
これをマスメディアが全く問題にしないのはおかしい、なんとなく不吉だと思うのは私だけなのでしょうか。SNSにはそうした発言がちらほら出てきますが、大多数の都民はもしかしたら知らないのではないでしょうか。

増田氏が原発推進官僚で東電重役、岩手県知事時代に赤字を倍増させた手腕も、全国紙などのマスメディアには書かれていないようです。

リテラ、ゲンダイ、赤旗および知識人のアカウントに裏づける情報があります。

原発推進論者かどうかが、なせ重要なのかというと、口には出せないけれど核武装の可能性を捨てたくない人が、原発維持は譲れないとい主張するからです。

非暴力抵抗が可能な今のうちに、言うべきことは言っておかなくては後悔しますので、ステキなおしゃべりルームにお邪魔しました。悪しからずおゆるしください。

水蓮さま

sekko · 2016-07-15 01:16:11 UTC+9 · 投稿 #863

>>>>猫=のんびり昼寝=南仏とかスペイン、イタリアの雰囲気=カトリック

犬=盲導犬、救助犬などの働き者、そこまでいかなくても新聞をくわえて飼い主にもってくる賢い犬=ピューリタン的勤労倫理=プロテスタント<<<<

おお、なるほど。

っていうより、人間が犬に期待しちゃうのが、成果主義、優勢主義、とか自助努力とか、「役割」遂行なんですよね。

だから結果的に「勤勉なプロテスタント」、ってなっちゃう感じは分かりますね。
でも、犬でも近頃はただただ愛玩されるばかりでしつけゼロで、そうなったら猫より始末の悪いようなケースも見ます。「自分が一番偉い」と勘違いしちゃうんですね。

私のサイトのネコ・カフェというところ

http://setukotakeshita.com/page14.html#d

に、「猫のソシアル」とか「犬と猫」というタイトルで記事を書いています。

今何となく読み返したら、もうマヤもサリーもいなくなって、15歳のスピノザくんともうすぐ3歳のイズーだけになってしまいました。

頭が悪い方が性格がいい、という観察のもとに、イズーははじめて性別指定して譲ってもらったオス猫ですが、この頃はまた、メスが欲しいなあ、と思い始めています。

いつかまた犬も飼いたいなあという気持ちも消えていません。
でも犬は向こうからかけられる愛が重いので、責任の重圧が苦しいかなあ、とも思います。

フランス人が統計的にも猫派が多いのは事実で、それは何となく彼らのメンタリティと一致するよなあとは思いますよね。

私はプログラムのイラストなどみな猫の絵を描いているので喜ばれてます。

では水蓮さまの猫ちゃんか犬ちゃんかは存じませんが、よろしくお伝えください(何を?)。

犬と猫(2)

水蓮 · 2016-07-14 22:58:37 UTC+9 · 投稿 #862

竹下先生、お返事ありがとうございます。

必ずしも、すべての人が猫=カトリック、犬=プロテスタントと思わないことがわかっただけでも、自分の先入観に気づくことができ、書き込みをしたかいがありました。また先生の分析も「なるほど、なるほど」と読ませていただきました。

私はというと、先生の「猫の節操のないところがカトリック的なのかなあ、なんて」というお言葉で、自分の直感の源泉に気づいたとでも言いましょうか…。かなり単純な発想なんですが

猫=のんびり昼寝=南仏とかスペイン、イタリアの雰囲気=カトリック

犬=盲導犬、救助犬などの働き者、そこまでいかなくても新聞をくわえて飼い主にもってくる賢い犬=ピューリタン的勤労倫理=プロテスタント

…のようなイメージが頭にあったのかもしれません。
いずれにせよ、小動物と一緒に生活することで得られることは無限で、本当に感謝、感謝の日々です。

水蓮さま

sekko · 2016-07-14 00:57:46 UTC+9 · 投稿 #861

水蓮様

犬猫ネタで時々いろいろ考えますが、さすがの私もそんなこと思いもつきませんでした。

昔、文春新書の『アメリカにNOと言える国』で、

犬は「帝国、連邦、クラシック音楽、共同体主義、アメリカ」と親和性があり、

猫は「共和国、連合、バロック音楽、普遍主義、フランス」と親和性がある、

などと分けたことがありますが、カトリックとプロテスタントなんて…。

水蓮様がそうおっしゃるから、ああ、猫の節操がないところがカトリック的なのかなあ、なんて一瞬思ってしまいました。

一見カトリックの方が位階制、ヒエラルキーに服しているように見えるけれど、キリスト教の本質として神の前に平等でみな賜物が違う、ということは、キリスト教そのものが猫的かなあ、とも思いました。

でも、犬と猫、でなくて、犬派と猫派で言えば、プロテスタントと言ってもいろいろありますが、その出発点においてカトリックに対し抗議、批判したという意志的な感じが、犬派の矜持に通じるかなあ、カトリックは猫派のようにグダグダでもOKかも(なんていうとカトリックからも猫派からも怒られそうですが)などと思ったり。

視点を変えると、犬は飼い主に対して絶対に批判しないで服従するので、偶像崇拝だよなあ、とも思いますが、飼い主に冷たくされても、先に愛してくれる、決して裏切らない、なんて部分は神さまみたい、かもしれません。

それでいうと猫は不可知論者みたいだし、簡単に愛してくれない上に平気で裏切る感じも、こっちの勝手な思い込みのせいでそう思うだけで、「神のみ旨は人間の都合では説明できない」という神秘を感じさせてくれるかもしれません。

関係性においては、子供とか心身が弱っている人とかにとっては、犬の寄せてくれる絶対の信頼はかけがえないものだと思いますし、私のように基本傲慢で甘やかされて育った人間には、ひたすら尽くす喜びを教えてもらって猫には感謝です。

どちらにしても、ペットとの関係が内向きになるのではなく、人とのやさしい関係に生かされるといいですね。

実際はなかなかそうはいかず、猫には尽くしても、人間の子供にはイライラさせられたりする心の狭い私ですが‥。反省。

犬と猫

水蓮 · 2016-07-13 23:39:53 UTC+9 · 投稿 #860

竹下先生も私と同じ犬派⇒渡仏後猫派だということが判明したので、今日は軽い話題で。
犬と猫、どちらがカトリック的でどちらがプロテスタント的?ときかれたら、当然、カトリックは猫、プロテスタントは犬、となると思うのですが(違いますか?)、これって直感的すぎて説明ができません。竹下先生なら、どのようにご説明なさいますか?(…って、勝手にご同意いただけると決めているのですが…)

統合失調と禅とカトリック

前田 達男 · 2016-06-26 13:15:56 UTC+9 · 投稿 #859

ありがとうございます。みなさまのコメント興味深く読ませていただいております。
中井久夫先生は統合失調の方たちをたいへん深く理解なさった方でしたね。名古屋市立大学当時の中井先生から学んだ精神科医からその思い出話を聞くことがあります。医師と患者という立場を越えてひとりの人間として向き合おうとする徹底したヒューマンな姿勢を彼は今も熱く語ります。
神秘体験と統合失調の非日常体験 際どく紙一重 人間の存在構造の実は表と裏なのではないかと感じています。主客の合一体験はまた主客の解体混沌体験にその対局において通じているのではないか、と思っています。つまりは禅的体験が成立しうるからこそ妄想幻覚的変容体験も成立しうるのではないかと。その逆もまた。神秘体験であれ、合一体験であれあちらにイキっぱなしになってしまうとそれは振り子があちらに振れてもどらずちょっとやばいのでしょう。まさに節子さんの御指摘のとおりですね。確かにグラデーション ですね。大切なのは。

ありがとうございました。

ヨガとカトリック

sekko · 2016-06-09 21:16:46 UTC+9 · 投稿 #858

フランスのカトリックの間では、近頃、黙想にヨガを取り入れるというのがトレンドです。

司祭とヨガの教師を招いての研修などがあります。

こちらでの「禅」はちょっとカルト化しているグループもあるので、より宗教臭が少なく「東洋の知恵の健康法」寄りに見なされているヨガが無難で人気なのでしょう。

フランス人の仏教グループにもヨガが人気で、それに対抗してカトリックでもできますよ、ということかもしれません。

統合失調親和性が宗教と深い関係があるのはよく言われていたことです。

最近の研究で、成人になってから発症する「頭の中で声が聞こえる」という統合失調の症状は、子供時代の被虐待体験などのトラウマに関係しているというものが出てきました。

子供時代にトラウマから身を守るために、いやな声、いやな情報を認知せず記憶もしないという防衛機構ができた人が、かなり年配になってから「声を聴く」という現象におそわれることが多いそうなのですが、これまではそこまで遡っての調査がなく、またまさにその記憶が抑圧されているので分からなかったそうです。

私は幽体離脱の真似事とか危機的状況においてぼーっと現実から乖離することが得意な方なのですが、いつも可逆的だとは限らない、というリスク意識が働いて、火遊びはしないことにしています。
パラノイアックよりもましかなあと思います。

まあ何ごともグラデーションなので、うろうろしながら「求める」のがいいのかもしれませんね。

禅とカトリック

、marie · 2016-06-09 09:59:06 UTC+9 · 投稿 #857

ヨコレスをあつさりと認めていただき、ありがとうございました。私は禅をやっていますが、中井久夫先生の著書に面白いことがかいてありました。箇所はわすれましたが。「統合失調症の方はどうも禅かカトリックにちかずく」と。たしかにプロテスタントの方にはゆかないようです。中井先生は統合失調系の感覚の持ち主のようでして、統合失調の方は初めの発病時に実在を見るようだ、それをまた体験したくて、治ってからも
また最初の思いに帰りたいという熱望があるようだ、とかいておられました。私が何故、禅をやるのか、それはご縁みたいなもので、とにかく座るのが好き、考えないで瞑想らしきものをするのが好きというだけですが、いつのまにやら、アキラメが上手になったり、少々の苦労は何とか耐えたりできるようになりました。禅は教義をもたずに、またお経もなし、で己事究明なので、カトリックと相容れないということはまつたくないのがいいところかとおもっています。

同感です

ファウスティーノ · 2016-06-08 22:22:42 UTC+9 · 投稿 #856

仏道は哲学・深層心理は得意とするところでしょう。啓示がないので無神論のように私には感じられます。
既に帰天された神父様は仏道の坊さん以上に禅に精通されていた様です。かつ、深い信仰をお持ちでした。
カトリック禅なるものもありますし、外道禅と呼ばれたりしていrますが、祈りが入りますから、深いと思います。
私は、瞑想・観想が好き出す。どちらかと言うとトラピスト・観想的なベネディクト修道院が好きです。
いつか、ベルギーのシェブトーニュ修道院を訪れたいと願っております。

ファウスティーノさま

sekko · 2016-06-08 21:45:54 UTC+9 · 投稿 #855

カトリックの方と「禅」や仏教的瞑想は相性がいいですね。

フランスに関して言うと、一般に仏教は、宗教ではない、哲学だ、人生のマニュアルだと認識されていることが多く、「無神論」だともみなされているので、「神」がバッティングしないこともあって人気なのかもしれません。

私も父が禅宗好きだったので、禅宗の老師が名付け親だったり、禅語録や注釈を子供のころから読んでいました。

瞑想は苦手ですが、その代わりに音楽をやってるのかもしれません。

ありがとうございます。

sekko · 2016-06-08 21:40:36 UTC+9 · 投稿 #854

いえいえ、ここはおしゃべりの場所ですから、順不同でも全く問題ありません。

貴重なご報告をありがとうございました。

こういうこの世の地位とは関係のない無名性がカトリック教会のいいところでもありますね。ひとりひとりが神に呼ばれているという立ち位置は同じだということなんでしょう。

福音宣教をしても「勧誘」を目的としないのがはっきりしているのは安心です。

いわゆる有名人の信者を「広告塔」にするような「宗教」やカルトとの違いですね。でも、ブログの「秋田の聖母」でもちらりと書きましたが、その「宣伝を避けてひっそりと」というメンタリティが不思議な方向に行ってしまう場合もあるかもしれません。難しいですね。

ヨコレスのお詫び

、marie · 2016-06-08 20:50:50 UTC+9 · 投稿 #853

中井先生の洗礼式に関して、竹下先生と前田さまに入れるつもりで書いていました。ところがヨコレスになっていることに気ずきました。お詫びもうしあげます。

中井久夫先生の洗礼式

、marie · 2016-06-08 09:50:13 UTC+9 · 投稿 #852

前田達男さま
竹下先生とは随分長く親しくさせていただいている82歳の老婆です。今回中井先生の洗礼式に参列しましたので、先生のご様子をお知らせいたします。中井先生は今、神戸の垂水教会の近くの施設に奥様と入居されています。昨年中頃、高橋神父さま(垂水教会主任)に「カトリックの勉強をしたい」と申しでられました。それから神父様は週1回、施設に行かれ、カテキズムをお教えになりました。その時すでに受洗の意思は決まっていたと思います。今年4月3日志願式がありました。その時、洗礼式には先生と親しくされていたある精神科医の先生が行かれることになり、信者さんがそれを報告されますと、深くうなずかれました。そして、その後、洗礼式までの間に、かなり苦しいことが家庭内にあり(初孫さんが出産1日でなくなられました)、体調が不良となられ、洗礼式が危ぶまれることになりましたが、」
15日にはハツキリ、洗礼式に出ますと意思表示され、29日に洗礼式が荘厳に行われました。信仰宣言にはキチンと「信じます」「はい」とひとつひとつづつはつきりとお答えになりました。ただ、ミサの全部に出られるお元気はなく、洗礼式とその後の聖体拝領が信者さんたちが皆おわる頃まで、車椅子で聖堂に、あとは控え室におられました。式のまえに精神化医の先生と少しきちんとした会話をされていまして、土居健郎先生の影響があることは事実としてみとめられ、「ずつと求めていた」と表現されました。ミサ後「おめでとうございます」と精神科医の先生がいわれますと「有難うございます」とお返事がありました。ただ、もう発語が難しいらしく、そのあとは無言でしたが、精神科医の先生に付き添ってまいりました見知らぬ私が先生の手にそっと、手をそえますと、みずから両手をだされて、私の手をながく包んでくださいました。赤ちゃんのような柔らかい、手でした。力がはいらないようで、包むかたちになったのだとおもいます。表情はだれにたいしてもでてはきませんでしたが、お帰りのときは車椅子から少し手を振られ、なごりおしそうにされていました。お嬢様お二人が付き添われていました。霊名は「パウロ」です。垂水教会のすごいところは中井先生を普通の方として扱っておられることです。「中井久夫さん」と呼ばれていて、特別視していないことです。これは中井先生のお望みらしく、お祝い会も
ありませんでした。これからも聖体奉仕者の方がかかわってゆかれます。先生のご本には」カトリックに関するものは殆どみあたりませんが、私の勘ではパウロはあの有名なポール・ヴァレリの翻訳を16歳からはじめておられ、思い入れが
あることから、パウロにされたのでは・・とおもったりしています。長くなりますので、また報告いたします。

聖なる泉は枯れていない

ファウスティーノ · 2016-06-07 21:54:21 UTC+9 · 投稿 #851

名前を出せませんが。カトリックであり、・禅・仏道・東方霊性等に・・・深い神父様達は、日本にもおられます。
無名性を大切にされています。私が今日あるのも、カトリックの洗礼をいただいたのも、その方々のおかげです。
ヨーロッパとは交流されています。ヨーロッパにもそう言う司祭の方々は、いらしゃると思います。

ありがとうございます

前田 達男 · 2016-06-07 21:34:33 UTC+9 · 投稿 #850

ありがとうございます。 丁寧にお答えいただき感謝です。
中井久夫さんが洗礼を受けられたとは驚きでした。 実は加藤周一 さんも渥美清さんも洗礼を受けられたのでしたね。亡くなる前に。カトリック教会はそれを表に出しませんね。中井久夫さん に関しては 随分昔目にした ある著作エッセイの中に「来世のようなものは信じられない、それでも死んだら薄明の中にあることを願う・・」 正確には覚えておりませんが 薄明 ・・そのフレーズだけは強く印象を受けて覚えていました。 あれだけ深く鋭い人間洞察とまた実践をなさっている方がなぜ そこに留まっておられるのかな、とそのときはいぶかしくく思ったものでしたが。実は重症心身障害児と言われる方たちと触れ合う経験をさせていただいた時期があり、その彼らの持つ問いかけの深さの前には超越との関係性においてしか、私自身は支えられない とその時つくづく感じたものでした。禅が好きで在家で修行のマネごとをさせていただいていた時期もありましたが。自分はなんにもやらないけれどカトリックの方たちには神父様を先頭に大いに頑張って欲しいな、と身勝手にエールを送ってしまうのです。だからスポットライトはびっくりでした。そんな神父様を見つけたらさっさとやめさせて,でも再就職の道だけはつけてあげればそれで済みだったのにと思うわけです。なぜ 組織を優先しちゃったのだろうか?しかしそれが2000年の教会史だったわけですね。過ちを過ちと認め謝罪できる組織である限りサマリアの井戸水は未だ尽きることなく教会に湧き出しているのでしょうね。
今私にとってカトリック生活のカトリックサプリを読ませていただくことがこの方面に関してはほとんど唯一の楽しみです。まさにサマリアの井戸水のひとしずく・・・。 あの 神々と男たち もサプリによって導かれ感動させていただきました。
感動が実践に結びつかないのがなんとも情けないのですが。
とにかくありがとうございました。


?

前田達男さま

sekko · 2016-06-06 03:44:25 UTC+9 · 投稿 #849

私に答えられるかどうかは分かりませんが、個人的な印象では、カトリックの未来に関してまったく悲観していません。

パリでは今月の25日に10人の新司祭の叙階がノートルダムで行われ、30歳の知人もその一人なのですが、彼らへのインタビューをネットで視聴し、一番大切な部分がちゃんと機能しているなあと思いました。カトリックの未来というより、この世界の未来のために頼もしいです。

日本の事情はよく分かりませんが、5月29日に神戸の垂水教会で私の大好きな精神科医で文学者の中井久夫先生が82歳で洗礼を受けられました。

彼の師に土居健郎さん(『甘えの構造』)もカトリックでしたが、中井先生が求めていたものを最終的にカトリックの中に見つけられたというのは、力づけられる話です。

カトリックに構造的欠陥があるというのは、人間の組織である限り避けられない部分は別として、自浄能力は発揮してきたと思います。

アメリカや西ヨーロッパには根強い「アンチ・ローマ・コンプレックス」というのがあって聖職者も信徒も到底一枚岩ではありません。ハンス・ウルスフォン・バルタザールの著書を読んでこのことをいろいろ考察できました。この人の取り上げるテーマはすべて私の関心と重なっています。

そのコンプレックスのひとつに「カトリックは民主主義の敵」というのがあります。これは東欧圏などではむしろカトリックは自由のシンボルであったことを考えると、政治的歴史的なバイアスの違いですね。

で、カトリック教会の組織の「悪」にジャーナリズムがメスを入れると、それは大きくメディアに取り上げられて、経済効果もあります。『スポットライト』もその一つです。

私は個人的には、権威や権力や腕力によって子供や弱者の尊厳を踏みにじる人はすべて嫌悪、忌避します。

ところが、未成年者への性虐待の嗜好を持つ人というのは、少なくとも潜在的には古今東西必ず一定の数存在するようです。古代ギリシャの少年奴隷や日本の稚児など、社会的に容認されているような時代や場所ではハードルは低いのかもしれません。

今の「先進国」でも、そのような傾向を持った人が養護施設、少年刑務所、学校、学校の課外活動、合宿、寄宿舎、などにおいて権力的な立場に置かれた場合、それを利用して子供を尊厳を踏みにじり、子供が泣き寝入りするということは稀ではないでしょう。

多くは闇に葬られるので正確な統計は出ないわけですが、今のフランスの場合、表に出た未成年性虐待の80%以上が「家庭内」で起こったものです。

父や義父や年上のきょうだいなどが加害者です。

カトリックでこういう問題があるとすぐ司祭の独身制などが問題にされますが、そんなことと関係がないのは家庭内が一番の現場となっていることでも明らかです。

要するに、小児性愛など倒錯的な欲望を潜在的に抱く人が、未成年が夜を過ごす場所に居合わせる場合にリスクが最大になるわけです。未成年者に対して「権威や権力を行使できるような関係性」にあり、二人きりにもなり得る、というシチュエーションでは誘惑に負けてしまうということなのでしょう。ほとんどの加害者が他に性的パートナーを持っていることが明らかになっています。

でも、家庭内の事件は背景がばらばらなので一括して糾弾されないし、公の施設での事件も表に出にくいし出しにくいでしょう。

で、「アンチ・ローマ・コンプレックス」がある社会ではカトリックの聖職者による不祥事というのが最も大きく取り上げられるようになったわけです。

しかし、飛行機事故でよく言われる比喩ですが、毎日世界中の空を膨大な数の飛行機が飛び交っていることはあたり前でニュースにはならず、そのうちの一機が落ちたら大々的に取り上げられて耳目をひくというのがあります。

世界中で多くの聖職者が弱者を支援し貧困や社会の不正と勇敢に犠牲的に戦っているのに、どこかで性虐待が表沙汰になれば全部の聖職者がいかがわしいかのように言われたり、全組織のあり方が槍玉に挙げられたりするわけです。

といっても、私はここで、聖職者の不祥事も相対的にみると少数なので大したことではないなどと言っているのではありません。

神に仕え愛を持って人を奉仕することを誓ってその道に入った人にとってこのようなことがより重大な罪となるのは当然で、この種の事件が表に出てくるようになって以来、前教皇も現教皇も謝罪していますし、組織としては絶対に許してはならないと対策が立てられています。
この6月3日にパリの大司教は被害者が訴えることができる専用のメールアドレスをつくり、専任の司祭を2人任命すると発表しました。

しかし、私が一番危惧しているのは、そんなことではなくて、まさに、一番目立って一番叩きやすいカトリック教会にばかり「スポットライト」をあてることで、もっとずっと対策が立てにくく光の当たらない、家庭内性虐待や他の未成年施設における性虐待にどう向かうかという問題が後回しにされたり看過されたりしてしまうのではないかということです。

もう一つ思うことがあります。

それは、カトリック教会が組織のあり方や独身制などを取り上げられて糾弾されているのが気の毒だとか、大したことがないとか、がんばって対応しているのを評価しようとかいうことではありません。

たとえ政治的、商業的思惑で増幅されたのだとしても、権威、権力、腕力のある大人が未成年の尊厳を踏みにじるという「悪」を白日の下に引き出して社会の悲憤を促すという情況の一部をカトリック教会が担うことには、むしろ意味があるのではないかと思うのです。

今のカトリック教会は十字軍やら異端審問やらの過去にまで遡って、数々の人間的な大罪を神と犠牲者に謝罪するという姿勢をとっています。

カトリック教会が矢面に立たされた場合、時には身の保全を図ってごまかしたり、知らないふりをしたりしたことで窮地に陥るとしたら、それこそが、「人は自分の弱さと絶えず戦っていかなくてはいけない」ということを教えてくれるという気がします。

そうでなければ、「未成年の性虐待」などは一部の悪魔が行うことであって、多くの「正しい人たち」がそれを糾弾しているのだという二元論的構図になるでしょう。

ある種の条件がそろいさえすれば人はどんな恐ろしいことでも良心の呵責なくしてしまう、というのは歴史も社会学も心理学も語っていることです。

このスキャンダルを乗り越えて自浄することで、他の密室で虐待されている多くの子供たちを救い出す光を差し出すことが、カトリック教会に課せられた使命なのかもしれません。